凡凡「趣味の玉手箱」

キーワードは中国です。中国以外のテーマは”趣味の玉手箱にようこそ”で扱っております。

禅譲放伐

2007-06-02 05:01:47 | 中国のことわざ
中国のことわざ-287 禅譲放伐(ぜんじょうほうばつ)

中国には、禅譲放伐という語があるそうです。
「禅譲」と「放伐」とは相容れない概念の語と捉えられますね。

広辞苑で「禅譲」をひくと、“①中国で、帝王がその位を世襲せずに有徳者に譲ること。堯が舜に、舜が禹に帝位を譲った類②天子が皇位を譲ること”と載っています。
一方、「放伐」は“中国の革命観において、徳を失った君主を討伐して放逐すること”とあります。

堯や舜は中国で伝説上の聖帝として崇拝されてきた帝王です。
政(まつりごと)においては人民を慈(いつく)しみ、農をおこし土器を焼くことを教え、人心をして倦(う)まざらしめていました。
広辞苑にあるとおり、堯が舜を、舜が禹(治水の帝王、夏王朝の始祖とされています)をそれぞれ、野の遺賢を求めて譲位しました。つまり、世襲ではなかったのです。これを禅譲といいました。
禅譲の思想的な根拠は、帝位というものは天帝の意志によって定められるものであり、勝手に世襲してもてあそんではなりませんということなのです。そして政治は天帝の意に則(のつと)って行わなければいけません。すなわち帝王は天帝の意志の代行者ということだったのです。それ故に禅譲こそが理想の帝位継承のあり方であり、それを実行したことも、堯、舜が聖帝として崇拝されたゆえんの一つでありました。

そして、禅譲は平和的に行われることが必須の条件でした。たとえ、夏の桀王や殷の紂王のような暴虐な帝王といえども、臣下が暴力によって倒してはならないのです。
だから「放伐」は「禅譲」とは相容れない概念であり行為であり、あるいは天帝の意志に反し無視したことになるのです。

さて、殷の前代の夏王朝の最後の王は桀でした。桀は妹喜(ばっき)という妻妾に溺れ、その歓心をかうために奢侈淫楽(しゃしいんらく)にふけり、そのために殷の湯王に滅ぼされてしまったのです。
暴君たる桀を武力で倒して殷王朝を創始したことを、湯王は「これで良かったのだろうか?」と大いに悩みました。禅譲ではなかったからです。これに対して家臣の“仲(ちゅう)ち”は桀王は人民を「塗炭の苦しみ」におとしていた、だから天帝の意に背いた政治をしていたのであり、これを「放伐」したことは間違いではなかったと言ったのです。それは舜から禅譲を受けて夏王朝を創始した聖帝禹の「旧服」つまりほんらいのじせきにたちかえることであり、むろん良いことであるとも言っています。
こうして、湯王はようやくもやもやした気持ちを整理したのでした。

出典:田川純三著、中国名言・故事(歴史篇)、日本放送出版協会、1990年6月20日発行
http://blogs.yahoo.co.jp/moguma1338/8281019.html
http://blogs.yahoo.co.jp/moguma1338/8281721.html


蛾眉

2007-06-02 04:59:32 | 中国のことわざ
中国のことわざ-286 蛾眉(がび)

これも美人を形容するコトバです。なお、蛾眉は娥眉とも書きます。

蛾(が)の眉(まゆ)がなんで美人の表現なのなんて、それこそ柳眉を(りゅうび)を逆立てる女性もいるかも知れませんね。
蛾の太い眉であれば、気持ちが悪いですよね。
でも中国では蛾は蝶の意味であったようです。
蝶の眉を持った女性ならば納得です。

このコトバは、古くから使われているそうです。
「詩経」に次のような詩句があります。
「しん首蛾眉」
しん首はせみの額。蝉の額といえば、ミンミンゼミでもアブラゼミでも蝉の額は広く引き立っていますね。この「しん首蛾眉」もやはり美人の表現であったそうです。ただしん首の方は後世あまり流行らなかったそうですが、蛾眉は大いにもてはやされ、漢詩にもしばしば使われたそうです。

出典:田川純三著、中国名言・故事(歴史篇)、日本放送出版協会、1990年6月20日発行


解語の花

2007-06-01 21:23:47 | 中国のことわざ
中国のことわざ-285 解語の花(かいごのはな)

美人を形容するコトバです。「語を理解する花」という意味で初め、楊貴妃を玄宗皇帝が指して言った言葉です(唐に続く五代の王仁裕の撰による「明元天宝遺事」という玄宗にまつわるエピソードをまとめたものから取った話)

唐の長安の主宮殿である大明宮の境内に,人工の太掖池(たいえきち)があり、四季それぞれ美しい花を咲かせていました。
ある秋の一日、玄宗は楊貴妃と共に身内の一族を連れて、今を盛りの白蓮(びゃくれん)を鑑賞していました。
一同、口々に白蓮の美しさをたたえていると、玄宗が楊貴妃を指して言いました。
争か我が解語の花に如かん(いかでか わがかいごの はなにしかん)
白蓮の花も美しいけれども、自分が愛するこの「解語の花」には勝てないだろうという意味です。

田川さんは一度でも良いからこんなせりふを明眸皓歯の女性に言ってみたいものだと書かれていますがまったく同感です。

出典:田川純三著、中国名言・故事(歴史篇)、日本放送出版協会、1990年6月20日発行

明眸皓歯

2007-06-01 21:21:32 | 中国のことわざ
中国のことわざ-284 明眸皓歯(めいぼうこうし)


難しい四字熟語ですが、ワープロで打てば一発で出るのですね。


広辞苑では「澄んだ瞳と白い歯。美人の形容に言う」とあります。
杜甫が楊貴妃を形容した詩句から出てきたものです。
杜甫は中国を代表する詩人ですが、科挙に合格できなくて、そのために高位高官に登ることができませんでした。しかしそれが幸いしたのでしょう、安禄山の乱で捕らえられたときも、小物だと言うことですぐに釈放されました。詩聖といわれた人ですから、相当の能力はあったのでしょう。もしも杜甫が科挙に合格していれば、“国破れて山河あり”で始まる「春望」などの名句は生まれなかったかも知れません。


杜甫は玄宗の離宮があった曲江に足を向けました。そこで読んだのが七言古詩「哀江頭」です。まずは冒頭四句。

少陵の野老 声を呑んで哭す
春日潜行す 曲江の曲
江頭の宮殿 千門を鎖し
細柳新蒲 誰が為に緑なる

春の一日、玄宗の栄華をしのぶために曲江を訪れたが、そのあまりの変わり様に涙が出た。賊中にあっては、その目や耳がはばかられるので、身をひそめてゆき、泣くにも声を呑まなければならない。今はなんと離宮の宮殿のあまたの門も閉ざされている。春たけなわ、柳も蒲も新緑をつけているが、もうそれを愛でるべき人もいない、

少陵の野老とは杜甫のことで、誰が為は玄宗と楊貴妃です。


第13句から4句は詠います。
明眸皓歯 今何にか在る
血汚の游魂 帰るを得ず
清渭東流して剣閣深し
去住彼此 消息無し

あの明眸皓歯の楊貴妃は今どこにいるというのか。
血に汚された御魂はあてもなくさまようて、ここに帰ることもできないのだ。
渭水は相変わらず長安の北を流れているが、玄宗皇帝は、けわしい剣閣のかなた遠い蜀の国におられる。
二人は今や互いに遠く離れ消息もつかないでいるのだ。

時に757年、楊貴妃は既に、一命を果てていました。
全編、憂愁に閉ざされた詩ですね。
それだけに明眸皓歯がひときわ輝いていると田川さんは書かれています。


出典:広辞苑、田川純三著、中国名言・故事(歴史篇)、日本放送出版協会、1990年6月20日発行



風声鶴唳

2007-06-01 21:19:07 | 中国のことわざ
中国のことわざ-283 風声鶴唳(ふうせいかくれい)


広辞苑によれば「“ひ水の戦い(“ひ”はさんずいに肥と書く)で敗れた前秦軍の壊走ぶりから“、風の音や鶴の鳴き声をも敵かと思って驚き恐怖心をつのらせること。怖じ気づいた人が、ちょっとしたことにも驚き怖れること」とあります


泰治元年(265年)司馬炎は三国鼎立の中から天下を統一して晋を建てましたが、それから40年後には、再び天下騒乱の時代に入ります。様々な民族があちこちに国を建ててはめまぐるしく交代を繰り返した五湖十六国の時代です。晋も長安の都を洛陽に移して、以後を東晋といいました。


長安から晋を追い出したのは符堅の前秦王朝でした。符堅はさらに東に攻め込み、“ひ水”を挟んで東晋軍と対峙しました。383年のことです。
両軍の軍勢を見ると符堅の軍は百万、東晋の軍は僅かに8万これでは勝負になりません。そこで東晋の将である謝玄は一計を案じて使者を符堅のもとに送って伝えさせました。
「東晋軍は速戦をのぞみたいが、このままでは多勢に無勢で川も渡れない。どうか少しばかり引いてほしい。その間は大軍というものがどのように引いてゆくのか見物させてほしい。そちらが引いた後に我が軍は川を渡るから、そこで決戦をいたそう」
符堅の幕僚達はこぞってその手に乗るなと反対しました。しかし符堅は同転んでも勝利間違いなしと有頂天になっていたか、あるいは謝玄の申し出を「飛んで火にいる夏の虫」とうけ取ったのかも知れません。
「我が軍を引き、敵に“ひ水”を渡らせるその間に数十万の鉄騎をくりだして敵をつぶそうと言って」謝玄の申し出を受け入れた。


前秦側は突然の思いがけない引き上げ命令で混乱が起きたのは自然の成り行きでありました。謝玄はそれを狙いすましたように、八千の精鋭を選んで川を渡り攻め込みました。不意をつかれた前秦軍は算を乱して敗走しました。
その様子を「晋書」謝玄伝は次のように記しています。


「風声鶴唳を聞き、皆な以て王師の己に(すでに)至ると為す。草に行き露に宿り、重なるに飢凍を以てし、死者中に七八」
風の音、鶴の鳴き声を聞いても、それが東晋が攻め込んできたと思いこんだ。そして荒れた草原に追い込まれ、夜霧にぬれ、折り重なるように倒れて飢えと寒さで十中七、八人が死んでいったというのです。


符堅はこの戦いで負傷して長安に逃げ帰りましたが、前秦王朝はたちまち斜陽を迎え、其の翌年の684年後秦の姚萇に滅ぼされました。
田川さんは富士川の合戦で「風声鶴唳」があったのではないかと記しておられます。源頼朝軍と平維盛軍が富士川を挟んで対峙したときのある夜のこと、水鳥がいっせいに飛び立ちました。平維盛軍はそれを源頼朝軍と思いこみ算を乱して逃げ、一敗地に塗(まみ)れたのでした。


出典:広辞苑、田川純三著、中国名言・故事(歴史篇)、日本放送出版協会、1990年6月20日発行
http://blogs.yahoo.co.jp/moguma1338/37251868.html

蟷螂捕蝉

2007-05-25 04:40:49 | 中国のことわざ
中国のことわざ-282 蟷螂捕蝉(とうろうほぜん) 蟷螂、蝉を捕う(とうろう、せみをとらう) 


カマキリに関する成句をもう一つ紹介しましょう。
「蟷螂捕蝉」は目前の利益だけに目が向いて,大局を見ないことのたとえです。


時は春秋時代、呉王が楚を討とうとしました。
まわりのものたちは皆、不利と考えていましたが、「妨げんとするものは死罪とす」という呉王のコトバに恐れをなして口を皆閉ざしておりました。
そのような中で、呉王に仕えていた若者が次のようなパフォーマンスを行いました。


呉王はある朝、庭園を見て驚きました。
一人の若者が弓を持って朝露にまみれて歩いているのです。
呉王はいぶかって、「何をしているのか」と若者に聞きました。
すると若者はこう答えました。
「今、朝露の中を蝉が気持ちよさそうに鳴いています。満足げな蝉だがカマキリにねらわれています。かまきりはもうすぐご馳走にありつけると満足げです。だが、カマキリは雀にねらわれています。雀ももうご馳走は目の前だと満足しています。けれども、私がその雀を矢で射殺そうとしているのです」
聡明な呉王は若者の意図するところをさっと掴みました。楚をねらう自分はこの蝉のもののような存在だと反省したという次第です。
このたとえ話は、中国ではよほどお気に入りと見えて「荘子」や漢の劉向が撰した「説苑」にもあるそうです。


出典:田川純三著、中国名言・故事(歴史篇)、日本放送出版協会、1990年6月20日発行

蟷螂の斧

2007-05-24 05:59:29 | 中国のことわざ
中国のことわざ-281 蟷螂の斧(とうろうのおの) 


蟷螂はカマキリの漢名です。
広辞苑によれば、「自分の微弱な力量を顧みずに強敵に反抗すること。はかない抵抗のたとえ」とあります。


この「蟷螂の斧」は古く「荘子(そうじ)」の中にあらわれています。
紀元前6世紀、春秋時代の魯の国に顔闔(がんこう)という賢人がおりました。彼の人物を見込んだ衛の霊公に、太子の守り役として招かれました。しかし太子は子供ながらに酷薄な性格の持ち主で、顔闔は受けるのがよいか迷って、やはり衛の賢人として知られた“きょ伯玉”に相談しました。
その時のコトバは次のとおりです。
「汝、夫(そ)の蟷螂を知らずや。其のひじを怒らせて車轍にあたる。其の任に勝(た)えざるを知らざるなり」
君はカマキリを知っているだろう。腕を振り上げ斧をかまえて車に立ち向かい、ゆくてをとめようとしたりするではないか。それは、普段弱い虫を残酷に殺しているので、身の程知らずになっているからだ。そして、そういう人物(霊公の太子のような人物)に対しては、いっぺんに改めさせようと正面から向かうのではなく、相手にあわせるようにしながら、だんだんと欠点を改め教えさとすべきだ、と伯玉は言っているのです。


時代は下って、三国時代の詩文家陳琳が劉備に袁紹の側につくようにすすめた檄文の中にもこのコトバが出てきます。陳琳は万里の長城の守りを固める兵士の労苦をうたった五言古詩「飲馬長城窟行」の哀切きわまりない名詩を作ったことで知られています。
「蟷螂の斧を以て、隆車(りゅうしゃ)の隧(すい)を禦(ふせ)がんと欲す」
春秋時代の“きょ伯玉”が言った言葉と同じ意味です。
カマキリの斧で、行きよい良く走る車(隆車)の行くて(隧)をさまたげ、ふせごうとするということで、弱者が身の程知らずに自分より強いものに立ち向かうことのたとえです。無謀な行動のたとえでもあります。
自分が世の中で一番強いと思いこんでいる、いわゆる「夜郎自大」に対する戒めもこめられた成句です。


前漢末期の乱世に立った曹操にとって、最初の敵は袁紹でした。建安五年(200年)の官渡の戦いで曹操が袁紹を破る前、一時、袁紹の方が優勢でした。そこで陳琳は袁紹に加担しました。そして、曹操に対抗しようとしていた劉備に、袁紹の側につくよう檄文を送ったのです。
曹操を「蟷螂の斧」にたとえ、曹操はもうダメだ、すぐにでも「隆車」の袁紹に踏みつぶされるだろうから、袁紹側にお付きなさいと劉備にすすめたのです。
なお、袁紹が官渡の戦いで敗れると、陳琳はこんどは曹操の側についてしまったと言うことです。まあ節操がないものと思いますが、戦国の時代の智恵だったのかも知れません。


出典:広辞苑、田川純三著、中国名言・故事(歴史篇)、日本放送出版協会、1990年6月20日発行

無用というコトバ

2007-05-23 07:51:56 | 中国のことわざ
中国のことわざ-280 無用というコトバ 


久しぶりに興膳宏さんの漢字コトバ散策から取り上げました。
無用を広辞苑で引きますと、三つの意味があって、①役に立たないこと。必要でないこと②してはならないこと。天地無用。口外無用③用事がないこと。無用の者入るべからずとあります。今回は①に関してです。


この「無用」というコトバは、老荘思想に特有の考えで、世間的な常識に対する逆説を含んでいます。現代においては、少しでも無駄なものを削って、短い期間の間に成果を上げようとする風潮が強いですね。しかし、ムダは人や社会にとって本当に無用なのかもう少し突き詰めて考える必要があるのではないかと、冒頭に興膳さんは書かれています。


荘子の逍遙遊篇には、曲がりくねり、節くれ立った無用の大木を巡る議論が見えます。
荘子はそれを木材に使うなどという考えを捨てなさい。そもそも見渡す限りなにもない荒野に立つ木の下で、ゆったりと歩き回ったり寝そべることができるのは、この木の役立たずのおかげで木が大きく成長してくれた恩恵によるものだと認識すべきであると言っているのです。


荘子によれば、「無用」なるものをムダとして片っ端から切り捨ててしまえば、結局は人間の存在自体が危機に瀕すると指摘しています。


興膳さんは独立行政法人化された国立大学を例に取られています。六年間の中期計画期間中に、何らかの目のつく成果を出して自己の存在をPRしようとするあまり、企業との共同研究や委託研究ばかりが重要視されて、本来大学が行わなければならない「無用」の学問の有用性が忘れられてしまうことを強く懸念されています。


企業経営でも同じことが言えるのでしょう。目先の利潤に目が行き、ともすれば研究開発がおろそかになる傾向があるようです。こうして企業は将来の飯の種を失って、次第にじり貧状態に陥いります。そのようなリスクが垣間見えるようです。


出典:広辞苑、日本経済新聞8月27日漢字コトバ散策から
詳しくは新聞をご覧ください。

傾城傾国

2007-05-22 19:24:14 | 中国のことわざ
中国のことわざ-279 城を傾け国を傾ける 傾城傾国(けいせいけいこく) 


「城」は中国語では、「城市」つまり都市の意味である。傾城傾国は一つの都市,一つの国を投げうち傾けさせるほどに、男にとって魅力に満ちた妖艶な美人の意味である。美人にうつつをぬかして入れあげ、「病膏肓(やまいこうこう:物事に熱中してどうしようもない状態になる)」となれば、ついには「傾城傾国」となるのである。


この語は「漢書」外威伝に出てくる。
漢の武帝の時、いわば宮中歌舞団のリーダーに李延年という男がいた。ある日、武帝の前でこんな歌を歌った。

北方有佳人      北方に佳人あり
絶世而独立      絶世にして独り立つ
一顧傾人城      一顧すれば人の城を傾け
再顧傾人国      再顧すれば人の国を傾く
寧不知傾城与傾国   寧んぞ知らず傾城と傾国と
佳人難再得      佳人は再びは得難し

「北方に絶世の美人が群を抜いて独り立っている。一度見れば城を傾けさせ、二度見れば国を傾けさせるほど、忘れがたい魅力がある。傾城傾国したとてかまわぬではないか。こんな美人は二度と手に入らない」というのである。


こうして李延年が武帝にすすめそそのかした美人は、ほかならぬ自分の妹であった。
自分の妹を武帝に売り込むためのPRソングだったのである。
英雄色を好むのたとえ通り、心動かされた武帝が召しだしてみれば、まさに絶世の美女であった。武帝はただちに皇宮に入れ、妾妻の一人にした。
李夫人への武帝の寵愛は深いものがあったが、美人薄命のたとえで李夫人は若くして亡くなってしまった。武帝の悲嘆は深く、予め自らの墓として造営しておいた陵墓たる茂陵(もりょう)の傍らに葬った。現在の西安西郊にある茂陵の傍らに寄り添うように営まれている李夫人の墓を見ることができるという。それは武帝の数ある女性の中で李夫人ただ一人受けた待遇であった。


中国史には数多くの美女が登場するが、その中から傾国の美女とされる女性を次に挙げておきましょう。
1 呉王夫差は越王句践から西施を授かり、彼女の色香に惑い、越に滅ぼされる
2 最後まで虞美人をそばから離さなかった項羽は垓下で劉邦軍に敗れ覇権へののぞみを絶たれる
3 唐の玄宗皇帝は妖艶な楊貴妃と戯れ、政治に興味を失って安禄山の乱が起き唐王朝が衰運に向かった。

美女はこのほかにもたくさんいますね。例えば、夏と殷の滅亡の原因となった妻妾の末喜(ばつき)と妲己(だつき)がいます。彼女らは傾国の美女とはいわれていません。どのように中国でいわれているのかというと可哀想にも「毒婦」です。「毒婦」はなまめかしく美しいが男を惑わす腹黒い女です。
虞美人や楊貴妃は悲しい最期を遂げたましたが、せめてもの慰めは毒婦と呼ばれなかったことでしょうね。


出典:田川純三。中国名言・故事人生篇、日本放送出版協会、1990年6月20日

河海は細流を択ばず

2006-08-26 07:15:27 | 中国のことわざ
中国のことわざ-278 河海は細流を択ばず(えらばず) 


中国でただ河といえば、黄河を指す。黄河のような大河、そして黄河が注ぐ大海はどんな小さな流れをもえらばずに併せ呑むという意味で「戦国策」ではこのあとに「故に能く(よく)其の深きを就す(なす)」と続いている。
すべての細流を呑み込むから、あれだけの深さと大きさが出来上がるということで、人間も度量と包容力を大きくすれば、大人物になれるという意である。


これは秦の始皇帝の時代に宰相になった李斯(りし)のコトバである。
始皇帝がまだ天下統一をはかる前に彼は他の戦国諸国への対策を献じて大臣に登用された。李斯はもともと楚の人であり、他国のもとで大臣に登用されたものは客卿(かくけい)と称された。
始皇帝の親族や秦出身の大臣はよそ者がのさばるのは面白くない。
そこで、客卿を追放しようという「逐客(ちくかく)の令」が献策された。


すると李斯は始皇帝に上書して意見を具申した。
そんなことをすれば敵国の利になるだけで、大国秦を損なうというのだ。
要旨はこうだ。「土地広ければ穀物多く産し、領土広ければ人多く集まる。今、賓客を逐えば(おえば)他国の諸侯に仕え、秦に立ち向かわん。それ敵に武器を送り、盗人に食を与えんとする策なり」
この説得の中核に使った言葉が「太山(泰山)土壌を譲らざるを以て故に能く其の大を成す。河海は細流を択ばず、故に以て能く其の深きを就す」というのである。


詳しくは下記をご参照ください
http://blogs.yahoo.co.jp/moguma1338/10039725.html
http://blogs.yahoo.co.jp/moguma1338/10039652.html


出典:田川純三。中国名言・故事人生篇、日本放送出版協会、1990年6月20日