中国のことわざ-287 禅譲放伐(ぜんじょうほうばつ)
中国には、禅譲放伐という語があるそうです。
「禅譲」と「放伐」とは相容れない概念の語と捉えられますね。
広辞苑で「禅譲」をひくと、“①中国で、帝王がその位を世襲せずに有徳者に譲ること。堯が舜に、舜が禹に帝位を譲った類②天子が皇位を譲ること”と載っています。
一方、「放伐」は“中国の革命観において、徳を失った君主を討伐して放逐すること”とあります。
堯や舜は中国で伝説上の聖帝として崇拝されてきた帝王です。
政(まつりごと)においては人民を慈(いつく)しみ、農をおこし土器を焼くことを教え、人心をして倦(う)まざらしめていました。
広辞苑にあるとおり、堯が舜を、舜が禹(治水の帝王、夏王朝の始祖とされています)をそれぞれ、野の遺賢を求めて譲位しました。つまり、世襲ではなかったのです。これを禅譲といいました。
禅譲の思想的な根拠は、帝位というものは天帝の意志によって定められるものであり、勝手に世襲してもてあそんではなりませんということなのです。そして政治は天帝の意に則(のつと)って行わなければいけません。すなわち帝王は天帝の意志の代行者ということだったのです。それ故に禅譲こそが理想の帝位継承のあり方であり、それを実行したことも、堯、舜が聖帝として崇拝されたゆえんの一つでありました。
そして、禅譲は平和的に行われることが必須の条件でした。たとえ、夏の桀王や殷の紂王のような暴虐な帝王といえども、臣下が暴力によって倒してはならないのです。
だから「放伐」は「禅譲」とは相容れない概念であり行為であり、あるいは天帝の意志に反し無視したことになるのです。
さて、殷の前代の夏王朝の最後の王は桀でした。桀は妹喜(ばっき)という妻妾に溺れ、その歓心をかうために奢侈淫楽(しゃしいんらく)にふけり、そのために殷の湯王に滅ぼされてしまったのです。
暴君たる桀を武力で倒して殷王朝を創始したことを、湯王は「これで良かったのだろうか?」と大いに悩みました。禅譲ではなかったからです。これに対して家臣の“仲(ちゅう)ち”は桀王は人民を「塗炭の苦しみ」におとしていた、だから天帝の意に背いた政治をしていたのであり、これを「放伐」したことは間違いではなかったと言ったのです。それは舜から禅譲を受けて夏王朝を創始した聖帝禹の「旧服」つまりほんらいのじせきにたちかえることであり、むろん良いことであるとも言っています。
こうして、湯王はようやくもやもやした気持ちを整理したのでした。
出典:田川純三著、中国名言・故事(歴史篇)、日本放送出版協会、1990年6月20日発行
http://blogs.yahoo.co.jp/moguma1338/8281019.html
http://blogs.yahoo.co.jp/moguma1338/8281721.html
中国には、禅譲放伐という語があるそうです。
「禅譲」と「放伐」とは相容れない概念の語と捉えられますね。
広辞苑で「禅譲」をひくと、“①中国で、帝王がその位を世襲せずに有徳者に譲ること。堯が舜に、舜が禹に帝位を譲った類②天子が皇位を譲ること”と載っています。
一方、「放伐」は“中国の革命観において、徳を失った君主を討伐して放逐すること”とあります。
堯や舜は中国で伝説上の聖帝として崇拝されてきた帝王です。
政(まつりごと)においては人民を慈(いつく)しみ、農をおこし土器を焼くことを教え、人心をして倦(う)まざらしめていました。
広辞苑にあるとおり、堯が舜を、舜が禹(治水の帝王、夏王朝の始祖とされています)をそれぞれ、野の遺賢を求めて譲位しました。つまり、世襲ではなかったのです。これを禅譲といいました。
禅譲の思想的な根拠は、帝位というものは天帝の意志によって定められるものであり、勝手に世襲してもてあそんではなりませんということなのです。そして政治は天帝の意に則(のつと)って行わなければいけません。すなわち帝王は天帝の意志の代行者ということだったのです。それ故に禅譲こそが理想の帝位継承のあり方であり、それを実行したことも、堯、舜が聖帝として崇拝されたゆえんの一つでありました。
そして、禅譲は平和的に行われることが必須の条件でした。たとえ、夏の桀王や殷の紂王のような暴虐な帝王といえども、臣下が暴力によって倒してはならないのです。
だから「放伐」は「禅譲」とは相容れない概念であり行為であり、あるいは天帝の意志に反し無視したことになるのです。
さて、殷の前代の夏王朝の最後の王は桀でした。桀は妹喜(ばっき)という妻妾に溺れ、その歓心をかうために奢侈淫楽(しゃしいんらく)にふけり、そのために殷の湯王に滅ぼされてしまったのです。
暴君たる桀を武力で倒して殷王朝を創始したことを、湯王は「これで良かったのだろうか?」と大いに悩みました。禅譲ではなかったからです。これに対して家臣の“仲(ちゅう)ち”は桀王は人民を「塗炭の苦しみ」におとしていた、だから天帝の意に背いた政治をしていたのであり、これを「放伐」したことは間違いではなかったと言ったのです。それは舜から禅譲を受けて夏王朝を創始した聖帝禹の「旧服」つまりほんらいのじせきにたちかえることであり、むろん良いことであるとも言っています。
こうして、湯王はようやくもやもやした気持ちを整理したのでした。
出典:田川純三著、中国名言・故事(歴史篇)、日本放送出版協会、1990年6月20日発行
http://blogs.yahoo.co.jp/moguma1338/8281019.html
http://blogs.yahoo.co.jp/moguma1338/8281721.html