根木勢介 さんの記事・・・高知城その7:高知城の(再建)天守
今日は、高知城の「天守」の観光ガイド当番でした。
午前中の時間帯、天守最上階は、「立錐の余地」がないほど混み合いました。
連休中なのと日曜(市)と重なったので多数の方が高知城に訪れたのだと思います。
天気がよかったし、午後から少し風が出ましたが、比較的風も弱く、天守からの
眺めは最高、お客さんは風景を楽しんでくれていました。
さて、今回は高知城の「天守」のおはなしです。
「赤字」は、根木によるものです。
■戦国の堅城Ⅱ ㈱学研 158pより
検証 天守の防御力
眼下の敵を迎え撃つ最強建造物の実力:文・高田徹
・・・。
(途中略)
・高知城の天守
高知城(高知市)天守は現存天守の一つであり、重要文化財に指定されている。
その構造は四層六階の望楼型であり、最上階には勾欄(こうらん)を巡らし、
四方への眺望が利く。その外観は、一見古風な感を伝えるが、現在の天守は寛延
二年(1749)の再建である。
それ以前の天守は慶長六年(1601)以降に山内一豊によって築かれたが、
享保十二年(1727)に焼失した。
寛延二年の再建にあたっては、創建時の天守の姿に極力近くなるよう設計がなされ
建築にあたっても、旧来の形態に近づけるよう意図されたと考えられる。
ただ、実際の問題として内部・外部とも、旧来の形態そのままに復元しなければ
ならない、復元する必要がある、といった規制・目標があったとは考えられない。
天守であるとはいえ、作事である点には違いはなく、そこに石垣・土塁といった
普請に対するほど、幕府による統制は及んでいなかったと考えられる。
むしろ、江戸期の天守改修・復元事例はもう少しアバウトな範囲で行われたと
見るのが正しいだろう。
ところで、近世初頭の高知城の姿を描いた「正保(しょうほう)城絵図」(国立
公文書館蔵)では、天守を北東方向から見た姿を描いている。
その一階部分を詳細にみると、壁面が三面あるように描いている。
仮にこの描写を信じるのならば天守の平面は正方形でなく、いびつな五角形で
あったことになる。
平面が五角形だったとすれば、後述する天守と石垣塁線との間に広がる余地の
問題について、異なる観点から説明も可能となろう。
このように考えると、高知城天守は本来不整五角形を呈していたが、火災による
復元の際に平面形態をいくぶん改修した可能性も想定できる。
もっともこれにも問題はある。「正保城絵図」に描かれた天守は三層三階であり、
現状と大きく異なる。
現状は六階に勾欄を伴うが、「正保城絵図」では勾欄を描いていない。火災前の
天守が勾欄を伴っていたのは明らかであり、この点「正保城絵図」の描写は
誤りである。
絵図ならではのデフォルメという見方も成り立つ一方、不整五角形の描写も実態
通りで あったとは即断できない。
高知城の他にも江戸期に改修・復元された天守はあるが、大枠ではともあれ、
初期の天守構造をそのまま伝えているわけではない。
現存の天守はいずれも近代以降の解体修理を受けている。
近・現代における解体修理の場合は極力創建当初の姿に戻すよう、企図される。
修理・改変の痕跡が小規模ならば、当初の姿も類推できるが、その規模が
大きければそうはいかない。一部が可能となっても、全体の姿を創建当初の姿に
忠実に戻すことは不可能に近い。
つまりそこには複数の時代の改修・復元・復興が折り重なっている。
我々が、今日見られる現在天守は少なくともそのような存在であることを認識
すべきである。
■高知市史(上巻):294pより 一部抜粋
・二 高知山築城
・・・。
(途中 省略)
慶長の築城の設計については詳記された記録がない。元禄十一年(1698)九月九日
には、大火があって、城麓の邸は焼失したが城内は無事だった。
享保十二年(1727)二月の大火ではわずかに追手門そのほか二、三の建築を残して
城内天守閣はじめ二の丸、三の丸は全く烏有(うゆう※)に帰した。
その後幕府の許可を受けて、享保十四年(1729)九月十九日に再建に着手、
延享二年(1745)八月三日には、二の丸、寛延二年(1749)八月十二日には、
本丸、宝暦三年(1753)十一月二十六日には、三の丸が竣工した。
元和元年(1615)閏(うるう)六月一国一城の令が布かれて、城地の広狭はほとんど
一定し濫(みだ)りに拡張を許されなかったし、規模の変更にも厳しい統制があったので
後世の姿から推して慶長の城もおよそ想像することができるだろう。
・・・。
(後は、省略)
注)烏有(うゆう):どうして、それがあろうか(いずくんぞあらんや)と言う意。
まったくないこと。皆無。例「烏有に帰す」
■高知観光ガイドブック 1(土佐観光ガイドボランテイア協会作)58p、59pより
・天守
天守は本丸の中央東の角に位置し、北側は高い石垣に沿って建っており、石垣に接する
部分に石落としや忍び返しをつけている。
天守は山内一豊創建の後、享保12年(1727)の火災で焼失、延享4年(1747)
再建の棟木銘があり、以後約260年を経過しているが、その構造形式は創建当時の
ものとほとんど変わりがないことが、昭和26年(1951)から10年をかけて
行われた解体大修理の結果、磁石の据口の調査などから判明している。
再建後、安永8年(1779)と弘化3年(1846)に比較的大規模の修理が行われ
ついで上記の昭和の大修理となるのである。
・・・。
<コラム 再建の天守>
江戸時代、幕府は各藩の城郭工事について規制を行い、修復の場合も櫓の階数を
減らすとか、もとの姿よりは防備を弱める形で許可をした。
二代藩主忠義のときには、高知城普請の噂が出て、忠義自ら申し開きをしたことが
記されている。こうした状況で、元通り再建した天守について、幕府の使者が検査に
来たらどうするかというはなしが出て大騒ぎになった。
このとき、城中に知恵者がいて「それはお天守が焼けそうになったので、城中の若侍
が天守をかついでよせてあった、それを又据え直したと答えるとよいのではないか」
という言い抜けの話ができていたという。
★根木のコメント:
・いくつかの疑問が出てきました。
①天守再建の時、幕府に「再建許可願い」を出さなかったのか?
②天守完成前後、上記手続きに合わせて、設計図の提出は、されなかったのか?
③ガイドブックで心配している(再建)作事にまで規制・統制があったのか?
根木勢介 携帯:090-2825-2069
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