「高知ファンクラブ」投稿者別パート2

「高知ファンクラブ」への投稿者ごとに集計した・・・パート2

根木勢介 さんの記事

2013-02-23 | 根木勢介 さんの記事

根木勢介 さんの記事

 

土佐の戦国七守護その1:若宮八幡宮

 

龍馬その①:長岡謙吉特集

龍馬その3:長岡謙吉特集3回目

龍馬その3:長岡謙吉・顕彰碑&祝賀会

龍馬その4:長岡謙吉特集第4回目・「維新、大政奉還」の由来

龍馬その5:長岡謙吉特集第5回目八策は、「十一策」だった?

 

広井勇(いさみ):牧野富太郎と同年、同じ佐川生まれ

お正月:江戸の龍馬は、どのようなお正月?!

「牧野富太郎伝 草木の人」演劇のお知らせ

イーハートーブ農学校の賢治先生

土佐藩って、言ってたの?!

坂本家の領地高・ランクは?

保井算哲に土佐の弟子がいた

観光ガイド:人間の魅力、その伝え方 2-1

 

いごっそう:土佐弁番付⑥-1

 

吉田茂:その②娘和子の証言・相続財産1

吉田茂:その③娘和子の証言・茂実父

吉田茂:その④娘和子の証言・大久保利通

吉田茂:その⑤娘和子の証言・高知県選挙区2-1

吉田茂:その⑤娘和子の証言・高知県選挙区2-2

吉田茂:その⑥娘和子の証言・お金はどこから2-1

吉田茂:その⑥娘和子の証言・お金はどこから2-2

吉田茂:その⑦娘和子の証言・金庫番2-2

吉田茂:その⑧番外編 寄り道しました

吉田茂:その⑨こりん(小りん)さん

吉田茂:その⑨高知県人による吉田茂・評

 

海の道・①塩と金毘羅講の道

 家紋:その①土佐の家紋

 

高知城・多聞櫓の「多聞」とは?

高知城その2: 「婉という女」

高知城その3: 兼山、婉 のプロフィール

高知城その4: 兼山は、土佐に仇たぬ人?!

高知城その5: 兼山の肖像画

高知城その6:二大政治家・末路の悲惨 兼山、東洋

高知城その6:大名・小名?!

高知城その7:合姫(一豊の妹・兼山祖母)、一族

高知城その7:高知城の(再建)天守

高知城その8:(漏らさんといてね)高知城天守の弱点

 

桜②:散りそめてこそ風雅なり

 

いごっそう:いごっそう論①

いごっそう:いごっそう論・分析②

いごっそう:いごっそう論・分析③

いごっそう:儀七・いごっそうと酒④

いごっそう:はちきんの番付⑤-1

いごっそう:はちきんの番付⑤-2

いごっそう:はちきんの番付⑤-3

いごっそう:はちきんの番付⑤-4

 

天文①:夜空を仰いで 数える星も・・・

天文②「天地明察」の映画・算木

天文③「天地明察」の映画パンフより2-1

 

長崎事情:その①長崎の有名人

長崎事情:その②大村純忠

長崎事情:その③アルメイダ2-1

長崎事情:その④アルメイダ2-2

長崎事情:その⑤ 南蛮流外科

長崎事情:その⑥ビスケット2-1

長崎事情:その⑥ビスケット2-2

 

大阪で見つけた土佐人:その1・弥太郎

大阪で見つけた土佐人:その2・兆民親子

大阪で見つけた土佐人:幸徳秋水2-1

 

こんぴら信仰:①金比羅さんに龍馬もお参り?!

 

根木勢介 さんの記事・・・変なおんちゃん:良平①

 

根木さんの「鏡川ML」 その6 鏡川<変なオンちゃんの定義>

根木さんの「鏡川ML」 その5 鏡川・年収は、300万円と三人扶持切米五石

根木さんの「鏡川ML」 その4 鏡川:高知県って、どんなところ?

根木さんの「鏡川ML」 その3 <土佐人顔><鏡川河川工事>

根木さんの「鏡川ML」 その2 鏡川 変なおんちゃんの話

根木さんの「鏡川ML」 その1 変なおんちゃん、が奇妙になつかしい。

坊さんが、かんざしを買ったお店、のこと

大人の・竹とんぼ教室(全3回)開催のお知らせ 
堂々めぐり、から、銅像めぐり

「クスノキと龍馬・・・明治維新を支えた木」・・・その1 はじめに

 

 

根木勢介さんの「龍馬十景」「龍馬の日常風景」 シリーズ
龍馬の日常風景・・・(一)軍鶏のいる風景


近江屋対談:龍馬&弥太郎  を開催します。

根木勢介さんの「龍馬十景」 ⑩ いのち・・・龍馬の手紙から 

根木勢介さんの「龍馬十景」 ⑨ 長崎・・・頭の中の地図と樟脳
根木勢介さんの「龍馬十景」 ⑧ 京都・・・龍馬の五つの顔
根木勢介さんの「龍馬十景」 ⑦ 江戸・・・選択?洗濯の龍馬
根木勢介さんの「龍馬十景」 ⑥ 脱藩・・・龍馬の魅力
根木勢介さんの「龍馬十景」 ⑤ 鏡川・・・龍馬の原風景
根木勢介さんの「龍馬十景」 ④ 春夏秋冬・・・晋作と龍馬
根木勢介さんの「龍馬十景」 ③
根木勢介さんの「龍馬十景」 ②
根木勢介さんの「龍馬十景」 ①
根木勢介さんの「龍馬十景」 シリーズ

 

連載記事集1

投稿者別の記事1

投稿者別の記事2

情報てんこもり  サイトマップ   「高知ファンクラブ1」(新設) 「高知ファンクラブ


根木勢介 さんの記事・・・龍馬その5:長岡謙吉特集第5回目八策は、「十一策」だった?

2013-02-23 | 根木勢介 さんの記事

根木勢介 さんの記事・・・龍馬その5:長岡謙吉特集第5回目八策は、「十一策」だった?

 

 日曜日に魚梁瀬森林鉄道や馬路村の地域振興に尽力中の若者(34歳)のはなし

を聞く機会がありました。

NHK総合テレビの番組で「嵐の桜井翔」が馬路村を訪れて間伐体験などを

体験する番組が放送されました。いい番組だったと記憶しております。

この番組の放映後、馬路村への来村者が、増加しているそうです。

その彼は、テレビの影響・効果は、大きいと話していました。

 

 さて、「長岡謙吉」特集を今回も続けたいと思います。

なお、赤字部分は、根木によるものです。

■坂本龍馬 五つの新常識:文藝春秋スペシャル2012季刊夏号・48pより

 

「船中八策」は十一策あった(菊地明・幕末維新研究家執筆)

 

 慶応三年(1867)五月十二日、京都で薩摩藩の島津久光、宇和島藩の伊達

 宗城(むねなり)、福井藩の松平春嶽、それに土佐藩の山内容堂が合同し、政局

 を議する「四侯会議」が開かれました。容堂は親幕派ですが、久光は反幕、宗城

 と春嶽は幕府体制の維持には消極的な立場にありました。

 当然、容堂は孤立してしまい、その後の会議をボイコットして、二十七日には

 病気を理由に帰国の途についてしまいます。

 しかしこのままでは土佐藩の存在意義がなくなってしまいます。そこで容堂は

 帰国に先立って、長崎滞在中の後藤象二郎に事態を打開するため、上京を命じて

 いました。

 後藤象二郎が長崎から船で大坂に向かったのは、六月九日のことです。これには

 後藤の依頼によって、やはり長崎にいた龍馬が同行していました。

 この航海中に龍馬が提示したとされるのが、大政奉還と議会制を柱とした、

 いわゆる「船中八策」です。同行していた海援隊の長岡謙吉が起草したと

 いいます。

 

  ところが、この「船中八策」も「亀山社中」同様、昭和になってからの名称

 なのです。

 しかも、当初は「八策」ではなく、「十一策」だったとされていました。

 明治二十九年の『阪(坂)本龍馬』は、「長岡謙吉」をして建議案十一箇条を

 草せしめたり」、大正元年の『維新土佐勤王史』は「世にいわゆる坂本の八策なる

 もの」「第九、第十、第十一」の文字は、世に伝わらず」とあります。

 これが「八策」とされるのは大正三年の『坂本龍馬』からで、そこには「長岡を

 して左の八策を草せしむ」とあり、昭和元年の『雋(しゅんけつ)傑坂本龍馬』

 では「世にいわゆる龍馬の八策」とあります。

 ※雋(しゅん、すぐれているの意)

 

  そして昭和四年刊行の平尾道雄の『坂本龍馬海援隊始末』によて、初めて「時勢

 救済策として八箇条を議定した。いわゆる船中八策と称されるもので・・・・」と

 「船中八策」という名称が使用されたのです。

 後藤象二郎が山内容堂に上京を命じられてから、長崎を出立するまで、ある程度の

 日数があります。

 このとき後藤と龍馬は盟友関係にあり、上京命令を受けた後藤は、龍馬の意見を

 求めたはずです。後藤に対応能力がないということではなく、自分とは異なった

 経験を重ねている龍馬による、別角度からの打開策の有無を探ったに

 違いありません。

 その結果に有効性があると考えれば取り入れ、なければ却下すればいいのです。

 とにかく、反幕的方向に進んでいた政局において、親幕派の土佐藩が存在感を

 示すことは非常に困難な状況にありました。

 それなのに後藤は、乗船するまで龍馬に相談しなかったというのでしょうか。

 龍馬は相談を受けていたとしても、船に乗るまでは何も語らなかったというので

 しょうか。

 そう考えるのであれば、それは「船中」という言葉に引きずられた結果に過ぎず、

 そのようなことがあったはずはないのです。

 

  後藤と話し合った龍馬は、一つの答えを見いだします。それが、一見すると

 親幕的でないものの反幕的雄藩の政治参加を認めるというものでした。

 つまり、幕府が政権を朝廷に返還し、徳川家が一つの藩として新政権に加わると

 いう大政奉還です。

 もちろん、龍馬のオリジナルではありません。前述したように、海舟・松平春嶽・

 横井小楠らはそうした構想を抱いており、龍馬はそれに興味を持って彼らと接触し、

 海舟の門下生となったのです。

 長崎出立前の五月二十八日、龍馬はお龍に手紙を書きました。現存する唯一のお龍

 宛てのものです。

 そこに龍馬は「このたびの上京は誠にたのしみにて候」と書いています。

 このことは、龍馬が乗船後に大政奉還策を提示したものでないことを、如実に物語

 っています。

 龍馬が「たのしみ」にしていたのは、京都見物でも知人との再会でもなく、大政

 奉還という政策に京阪の親幕派の土佐藩士や反幕派の諸藩士がどのように反応

 するか、そこに興味があったのです。

 

  結果的に、土佐藩は大政奉還を藩論とし、幕府に建白することとなり、反幕派の

 薩摩藩もそれを認めました。

 そして、時の将軍・徳川慶喜は建白を受け入れ、徳川幕府は消滅することと

 なるのです。

 

 

根木勢介  携帯:090-2825-2069

 

連載記事集1

投稿者別の記事1

投稿者別の記事2

情報てんこもり  サイトマップ   「高知ファンクラブ1」(新設) 「高知ファンクラブ


根木勢介 さんの記事・・・土佐の戦国七守護その1:若宮八幡宮

2013-02-22 | 根木勢介 さんの記事

根木勢介 さんの記事・・・土佐の戦国七守護その1:若宮八幡宮 

 

 我が妻は、牧野富太郎に厳しい見方をする。富太郎の奥さんの最後が「哀れ」だと

言う。『うどんが、ごちそう』の苦しい時期を支えたのは、奥さんであり、

そして、彼の家族だった。植物研究のための本の購入をすこし控えれば、うどんが

ごちそう、だというようなすさまじい生活をしなくてよかったのだから。

牧野植物園のSさんによると、『奥さんは、牧野富太郎の「同志」であった』から

最後までついて行けた』という。

 

 牧野富太郎の「植物画」は、有名である。画家を志しておれば、おそらく独特な

「絵画」の境地に到達していただろう。画家としても、一流の画家になったに

違いない。

彼が、好んで使用していたという「ネズミの毛の筆」のことが、出ていたので紹介

します。おそらく当時も「ネズミの筆」は高価だったでしょう。

赤字は、根木によるものです。

●文藝春秋・三月特別号(2013・3)

 

・輪島塗の下支え 文:神津カンナ、写真:高田浩行

 ・・・。

 線描用の驚くほど細い根朱筆(ねじふで)。左手の親指に縄でくくりつけた、

 絵画で言えばパレットのような爪盤(つめばん)、作品をしまっておく湿風呂

 (しめふろ)と言われる棚。どれもめずらしく、思わず見入ってしまう。

 「伝統工芸を支えるのは伝統工芸なんです。蒔絵師が存在しても、筆を作る

 人、紙を漉く人、炭を作る人がいなくなるとなりたたない。」

  ネズミの背骨の横にすっと出ている立ち毛で作る根朱筆(ねじふで)。

 一本作るのに最低でもネズミの皮は五枚必要だという。しかもどんなネズミでも

 いいわけではなく、今はなかなか手に入らず、この筆も一本数万円以上はする。

 ローテーションで何本かを使い回しし、消耗しないようにしているが持つのは

 三ヶ月程度。塗物を平らにするための作業工程は炭研ぎといわれるが、・・・。 

 

 今日は、五月連休のシャトルバスについての研修がありました。

その研修の中で、若宮八幡宮について「疑問点」が出されました。

以下の記述がよくわからない、との疑問です。赤字は、根木によるもの。

■高知観光ガイドブック3 108pより

 

・若宮八幡宮

 八幡宮は武家の守護神として昔から崇拝された。鎌倉時代の文治元年(1185)

 、源頼朝が吾川郡を吾川荘として京都の六条若宮八幡宮に寄進したとき、その

 八幡宮をあらためてこの地に勧請(かんじょう)したものと伝える。

 祭神は応神天皇(おうじんてんのう)、神功皇后(じんぐうこうごう)などの

 五柱である。

 長宗我部元親は、永禄3年・・・。 

 

帰りに図書館で調べてわかったことを皆さんに紹介します。参考になれば幸いです。

赤字・青字は、根木によるものです。

■長宗我部地検帳の神々(廣江 清執筆) 14pより 

 ・・・。

吾川郡長浜村(高知市)の若宮八幡宮は、 

 「京都六条若宮八幡宮の勧請したるものと見たり。六条若宮を今左牡牛八幡と云。

 往昔頼朝公の時六条為義の宅地を追福の為且国家安鎮に八幡宮を鎮め祭られ若宮

 八幡といふ。土佐国吾川郡を一円に寄附せられし由東鑑に見たり」

 (『詒謀記事(だいぼうきじ?!』) 

 『東鑑』には、 

  「文治元年十二月卅(三十・そう)日己卯以土佐国吾川郡令寄附六条若宮」 

 とある。

 六条若宮の社領に分祀された八幡であるから別宮であるが、本社が若宮であるから

 若宮八幡と称えたものであろう。

 『地検帳』には単に若宮とあるが、 

 若宮ノ御宮床

  一ゝ卅(三十)代 本社三間四間板つき(フきカ)   若宮宮床

 カヤフキ

 舞殿二間五間

 横殿二間八間ノ跡横殿ハナシ

 

 なかなかりっぱな社殿で、社領も一町二反二十六代一歩ある。

 長宗我部元親が出陣の時に祈願をこめたと言い伝えられているだけのことはある。

 祭神は応神天皇・神功皇后・市杵島姫神・田心姫神・㟨(たん)津姫神の五柱

 (『神社明細帳・吾一』)と記されているが、

 『土陽淵岳志』は、 

 「吾川郡長浜村若宮八幡宮ハ里人云伝ヘテ、悪源太義平ヲ祭ルト云。俗説信ス

 ヘカラス」 

 『南路志』は何によったかわからないが、 

  「或云昔長楽院罹₂火災₁失₂旧記₁、其詳不ㇾ可₂得而知₁矣(い・※註)。

  云言悪源太義平之祠或云吉良冠者希義之祠(下略)」

 

 と記している。これは「若宮」からきた連想であろう。

 若宮には四種ある。(『一三)若宮の項参照)が、その一つに非業の死を遂げた人

 の霊をまつった社がある。

 この若宮八幡に義平や希義がまつられているという伝説が生まれたのは、両人とも

 悲運に倒れている上、何れも源家にゆかりがあるからであろう。

 (このあとに、「一覧表」があるが、省略)

 

 ※矣(い)=置き字といわれる。普通は、読まない。

       きっぱりと言い切る語気をあらわす。

  祠=原文では、「ネ+司」の漢字。打ち出せないので「祠」を当てた。 

 

根木勢介  携帯:090-2825-2069

 

連載記事集1

投稿者別の記事1

投稿者別の記事2

情報てんこもり  サイトマップ   「高知ファンクラブ1」(新設) 「高知ファンクラブ


根木勢介 さんの記事・・・高知城その8:(漏らさんといてね)高知城天守の弱点

2013-02-22 | 根木勢介 さんの記事

根木勢介 さんの記事・・・高知城その8:(漏らさんといてね)高知城天守の弱点 

 

 孫のなまえのことを先日、冒頭で書きました。さっそく返信いただいた皆さん、

ありがとうございました。超音波の画像を娘が送って来ましたが、今2センチの

大きさ、だそうです。ちっちゃいのですね。それでも人間のような頭や体のカタチも

していました。

その画像は、自分の孫とかの範疇を超えて、生命のふしぎさ・神秘そのものです。

 

先日の龍馬の生まれたまち記念館で名刺交換をしたお客さんは、「古風」な名前

でした。名前では、森林太郎(森鴎外)に決して「ヒケ」をとらない、山・やま関連。

「高山林太郎」さんと言う方で、高知には「方言のアクセント話法の調査」に来高。

日本でもっとも有名な大学の大学院生。博士課程在学中で「言語学研究室」に

所属されています。県立大学の橋尾先生を紹介した縁で、私も調査に協力することに

なりました。

最初に簡単な(父方・母方)祖父母の出身地などの問答があったのですが、女房に

このことを話すと

『あなたは、生粋の「安芸人」よ』。

いま、高知県安芸市の「代表選手」として、彼の調査に協力中です。

余談ですが、私の曾祖父の名前は、「根木林太郎」です。

  

さて、高知城のガイドでは、高知城の「弱点」について触れることはほとんどないと

思います。

専門家が見た「弱点」を記します。赤・青字は、根木によるものです。

■戦国の堅城Ⅱ ㈱学研発行・高田徹執筆 163pより

 

・高知城天守の弱点 

 これまで言い漏らしたが、実は高知城天守には弱点というべき点がある。

 一番目は天守台を持っていない点である。

 そのため本丸の現存建物を全て解体してしまえば、天守があった位置を特定

 しづらくなる。仮に天守台が築かれたなら、本丸内部での天守自体の独立性が強く

 なり、下層部分に石落・狭間・忍び返しを全方位に設けることも可能になった

 はずである。何故天守台が築かれなかったか、真相は明らかでない。

 ただ、天守と御殿は近接した位置にあり、現在の拝観ルートも御殿に入ってから

 天守へ進むようになっている。

 このような位置関係から考えると、本来天守と御殿は連続性が強く、両者を

 区分する意識は弱かったと思われる。このため、あえて天守台を築かなかったとも

 思われる。

 二番目は、先に述べたように後世の改変である可能性もあるが、天守コーナー

 よりも天守が載る石垣コーナーの方が鈍角となり、広がる点である。

 つまり、天守は北面石垣上にそそり立っているが、もう一面の東側石垣上には

 直接かからない。そこには余地が生じ、石垣と天守は離れてしまっている。

 高知城を築いた段階の石垣構築技術、あるいは先行地形の影響により、直角に近い

 高石垣を築くのが困難であったのだろうか。

 

 ※根木の注)この文章には、東側から見た天守の写真が添えられています。

       確かに石垣のラインと天守壁面は揃っていません。

       (東側・石垣に沿って塀があるため天守一階には狭間がない。

       天守の防御火力は、北面に集中する構造になっている。)

 

・防御における最重要建造物 

  以上、高知城天守を例としたが、その軍事的な機能が強かった点は理解されたと

 思う。念のために申し添えるなら、何も高知城天守のみが特別な天守なのではない。

 石落・狭間をどの程度設けるか、天守をどの位置に設け、縄張り上どの程度の役割

 を担わせるか、多少の差は存在したが、本来、天守のほとんどは高知城に近い機能

 を備えていたと考えるべきである。

 例えば、津山城(岡山県津山市)天守は層塔型であり、最上階が張り出す以外は

 シンプルな構造である。しかし、縄張り上は天守曲輪を形成しており、天守自体

 には実に九九か所もの鉄砲狭間を設けていた(さらに弓狭間は五六か所を備える)。

 入母屋(いりもや)・切妻(きりづま)・千鳥破風(はふ)等を交互に配した櫓・

 天守の外観は見栄えがする。しかし、このような天守に狭間を設けると屋根の

 位置によって影響を受ける。この点、津山城のような層塔型の、しかも破風を

 伴わない天守・櫓では直列的に狭間を設けられる。外観上のシンプルさが必ずしも

 その軍事的な機能の低さを示すわけではない。

 同様に、江戸期に入って築かれた独立式天守と称される徳川氏の大坂城(大阪市)・

 江戸城(東京都千代田区)などは本丸の中にポツンと築かれており、一見戦闘を

 放棄したような感を受ける。

 ただ、これらは今に残る天守台にさえ銃眼を備え、極めて複雑な枡形虎口を備えて

 いる(小天守台と呼ばれる部分である)。このような本丸内部での天守単独の

 要塞化こそ、大坂・江戸城に代表される徳川系城郭の指向したものでなかったか。

 なお、天守は、城郭にとって必要不可欠な存在だったわけではなく、天守が

 築かれない城郭も多かった。

 また、江戸期において天守が築かれなかったり何らかの理由により天守が滅失した

 際、同じ城内に存在する多層の櫓が天守の代替となったといった評価を耳に

 することがある。

 その例に挙げられるものとして、明石城(兵庫県明石市)の巽(たつみ)・坤(

 ひつじさる)櫓、江戸城の富士見櫓等がある。

 しかし、明石城の巽・坤(ひつじさる)櫓は本丸の防御上、重要な位置を占めて

 いるが、より重要な位置を占めているのは天守が築かれなかった天守台に

 他ならない。

 また、江戸城の富士見櫓は、城外側から見ると複数の窓や唐破風を設け、優美な

 姿を見せている。しかし、内側の本丸側から見ると、窓も少なく、装飾性は

 ほとんどない。

 内側からみれば、他の櫓の外観・機能と特に変わりはない。

 単なる外観的な近似性をもって天守であるか、その代替的存在であるか等を

 軽々しく判断するのは避けるべきであろう。

 実際、途中から天守を失いながらも、複数の三重櫓を持った大坂城(大阪市)、

 津城(津市)では、一体どの櫓が天守の替りになったと言えるのか。

 このような問いも、答えも、寡聞にして筆者自身はこれまで聞いたことが

 ないのである。

  

根木勢介  携帯:090-2825-2069

 

連載記事集1

投稿者別の記事1

投稿者別の記事2

情報てんこもり  サイトマップ   「高知ファンクラブ1」(新設) 「高知ファンクラブ


根木勢介 さんの記事・・・龍馬その①:長岡謙吉特集

2013-02-19 | 根木勢介 さんの記事

根木勢介 さんの記事・・・龍馬その①:長岡謙吉特集

 

 

 今日は、龍馬研究会会報の新年号原稿、提出期限日でした。
会報原稿を送信したあとの”ほっとした気分”の中でメールを書いています。
 
◎お知らせ、です。
<Tさんから、次の情報をいただきました。>ぜひ、皆さんご覧ください。
 
●古木被害についての特集番組は、「四国羅針盤」の中で放映されることに
 なりました。
 
  ・放送日:25年1月25日(金)
       NHK総合テレビ
  ・時間: 19時30分~(30分程度)
  ・内容など:「御神木が狙われる」
        四国各地の被害その裏側を取材・・・
 
※根木のコメント:御神木を狙うやからに言いたい・『たたりがあるぞ』
 自然界のらゆるものに「霊」があると信じて来た日本の歴史(「塩」は、例外)。
 自然に対する敬虔な気持ちは、失いたくないものです。
 
 さて、先日Sさんから「長岡謙吉」についての質問をいただきました。
長岡謙吉を通して「龍馬」について考えることにもなるので”長岡謙吉特集”を
試みます。
 
■長岡懐山 土佐偉人傳・寺石正路著 昭和15年5月発行 24pより
 
長岡懐山(かいざん)名恂字(ひさし)子行(しこう)諱敦美(あつよし)通称は
謙吉 初今井純正(いまいしゅんせい)と称す 高知城下浦戸町の人 父孝順
(こうじゅん)家世医家たり 
 
天才奇頴(きえい)にして嘉永元年十五歳、大坂に遊び医を学び
更に東遊し鱸松塘(すずきしょうとう)、森春濤(もりしゅんとう)に詩を学ぶ 
後帰国し医業を開く 安政六年二十六歳蘭医シーボルトにつき洋書と医を学ぶ 
シーボルト其才を愛し子アレキサンルに邦語を教えしむ 
 
文久元年外教崇信の誣告(ふこく)を受け罪を獲て帰国し布師田川以東に
追放せられ鹿児村(かこむら)に閉居す 
山に檜木多し依て檜山(かいざん)と号し後修して懐山(かいざん)という
巳にして冤(えん)解く
 
 
慶応中坂本直柔が海援隊を組織するや其同盟に加わり文司となる 
当時海援隊の往復文書大抵其手に成らざるなし 
彼の有名なる坂本直柔が後藤象次郎に付興せし大政維新の八策又大政奉還建白書は実に
明治復古の根本なるものなるが皆恂(ひさし)の起草する所にして慶応三年徳川氏
大政奉還の事愈(じゆ)行わるるや後藤象次郎に書を寄せ曰く
 
微賤の私儀閑文字を以て天機未発(てんきみはつ)前より此事に関係致候儀撫身
 感悦仕罷在候云々
 
其得意想うべし 
 
 
同年長崎浦上地方天主教再燃の兆しあるや同教の人心を蠱毒(こどく)
するを慨し閑愁録(かんしゅうろく)を著し海援隊より之を出版し世に頒(わか)つ
 
明治戊辰高松征討の時藤澤南岳(ふじさわなんがく)に面し順逆をとき藩主之を納れ
事穏やかに収まる 
尋て小豆島を鎮撫し又東征に従い功あり 五年工部省に仕う 同年六月十一日没す 
享年三十九歳芝増上寺安養院に葬る
其崎陽(長崎のこと)竹枝の一左の如し 大正十三年正五位を贈らる
 
又見春風吹₂柳絲(いと)₁、眠醒劂(けつ?)帳引₂相思₁、阿郎手澤唐山扇、
一首楓橋夜泊詩、
 ※劂(けつ?)⇒眠りから突然醒める意味か?
 
※根木のコメント:
 ・名前などは原文のまま転記、「難字」は、現代漢字に一部修正しました。
 ・次回は、他の人が「長岡謙吉」をどのように評価しているか、見たく思います。
 
根木勢介  携帯:090-2825-2069 

 

連載記事集1

投稿者別の記事1

投稿者別の記事2

情報てんこもり  サイトマップ   「高知ファンクラブ1」(新設) 「高知ファンクラブ


根木勢介 さんの記事・・・龍馬その4:長岡謙吉特集第4回目・「維新、大政奉還」の由来

2013-02-16 | 根木勢介 さんの記事

根木勢介 さんの記事・・・龍馬その4:長岡謙吉特集第4回目・「維新、大政奉還」の由来

 

 

 添付の画像は、横浜に「脱藩中」の龍馬を見かけたと二男が送ってくれました。

偶然、横浜の赤レンガ倉庫のところで見かけたそうです。

 

 

 先日は、少し風邪気味なので家に閉じこもっていました。

読もうと思っていた文藝春秋・三月特別号:「司馬さんが見たアジア」が読めました。

 今日は、その文藝春秋の中から・・・。赤字は、根木によるものです。

■日本、中国、韓国 歴史の風景:司馬遼太郎・昭和46年より

 ・・・。(途中略。)

 

・現金競争に敗けた幕府

 

 それで徳川期いっぱいが続いて、明治維新になって農業国家がだいそれたことに

 軍艦も製鉄所も持つ。

 ところが外国に売るべきものは生糸しかない。いま考えてもぞっとするほどによく

 やったものだと思います。

 考えてみますと、明治維新成立の段階での日本というのは東アジアどの国の農村

 よりも豊かですね。むろん豊かさといっても相対的なものですけれども。

 ところで儒教的中国体制の中国の農村からは物事は起こらない、韓国の農村からは

 絶対に物事は起こらないですけれども、日本の農村は五十軒に三軒は富農です。

 それはさっきからいっている競争の原理によって、田圃(たんぼ)がふえていく。

 江戸時代の百姓でもお寺の過去帳などを見ますと、五代前は貧乏だったのが五代後

 には富農になっていたりします。

 また冨が持続するわけではなくて、極道者が出れば没落するし働き者が出れば家が

 興る。猛烈に働いて荒地を開墾していくわけだからそのたびにお米がとれる場所が

 ふえていくわけです。

 幕末でも、長州や島津のように殖産興業とか干拓をやった所は、米はもういい、

 こんどは現金がほしくなったというわけで、現金をうるには殖産興業がいい。

 それは割に古くからやっています。幕府だけはやっていなかった。

 幕府だけにかわいそうなことに一種の儒教的ムードがあったためです。

 これは儒教体制ということではありません。この儒教的ムードのために、農民を

 大事にしろとか、農というものを基本にせよということが、儒教以外の別の事情

 からきていますけれども、江戸時代の初期からあって、幕府直轄領では最後まで

 殖産興業をしなかった、だから現金収入がない。

 現金収入はかろうじて天領の博多、堺とか横浜という新旧の港から吸い上げる金

 くらいです。だから競争に敗けるわけですね。

 長州と徳川家とは競争していたんだということが、結果論からいってもいえる

 わけです。現金を蓄める競争を。で、長州はそれに勝った、むろん薩摩も勝って

 いるわけです。

 だからこんな狭い、といってもヨーロッパの国から普通だけれども、アジア的な

 規模でいえば狭い国で一つの天下が千数年成立しており、今も日本人は天下だと

 思っている。

 それが外に押し出すときには倭寇になり、豊臣秀吉の朝鮮出兵になったり日中事変

 になったり、やぶれかぶれになると太平洋戦争になるわけです。

 ・・・。

 ヨーロッパの帝国主義には帝国主義なりの歴史と成熟とエネルギーが出来上がって

 ゆきますけれど、日本のはそんなものとはまったく関係なしで、国内の競争原理

 そのままで行くわけですから倭寇の形ですよ。だから日中戦争までは倭寇です。

 ・・・。

 

●この同じ雑誌より:儒教への厳しい目・宮城谷昌光より

 ・・・。(途中略。)

・中国人の姿は未来の日本人か

 ・・・。

 もちろん司馬さんだけではなく、日本人全体が、中国の言葉を借りて思想に転化

 してきました。いま使われている「維新」も『詩経』にある。

 

  周雖舊邦(周は旧邦といえども)

  其命維新(その命はこれ新し)

 

 「周という国は、以前からある古い国ではあるが、いまこうして殷(いん)の

 王朝を倒したゆえに、新しい国になりましたよ」という意味で、明治という国の

 新しさを世の中に伝えるとき、明治の日本人は、殷と周の革命を引き合いに

 出して説いたわけです。

 

  また、「大政奉還」という言葉も古代中国の故事からきた言葉です。周王朝の

 建国者、武王が亡くなってしまったため、弟の周公旦が政治をとりしきったが、

 革命期の混乱を乗り越えた後は成年になった武王の子、成王に政治権力を還した

 、というものです。

 政治であれ思想であれ、中国の歴史にない事例はないし、それを日本はお手本に

 してきました。いま日本人が批判する中国人の言動は、数百年後、数千年後の

 日本人の姿かもしれない。

 とはいえ、これまでの日本人は、中国から採り入れるもの、入れないものを

 分けています。

 たとえば、科挙や宦官(かんがん)といった制度は採用しなかったし、仏教は

 入れても、道教は定着していません。儒教は入れたけれど、中国人や朝鮮の人

 たちのように、生活の中まで入りこむことはなく、あくまで学問の世界に

 とどまった。

 そうした理由を考えることは、まさに司馬さんが生涯をかけて挑んだテーマです。

 司馬さんがいらっしゃらない現在、こんどは私たちが司馬さんの目をかりて

 、中国、そして日本を眺めることが必要なのかもしれません。

 

 

根木勢介  携帯:090-2825-2069

 

 

連載記事集1

投稿者別の記事1

投稿者別の記事2

情報てんこもり  サイトマップ   「高知ファンクラブ1」(新設) 「高知ファンクラブ


根木勢介 さんの記事・・・高知城その7:高知城の(再建)天守

2013-02-12 | 根木勢介 さんの記事

根木勢介 さんの記事・・・高知城その7:高知城の(再建)天守

 

 今日は、高知城の「天守」の観光ガイド当番でした。

午前中の時間帯、天守最上階は、「立錐の余地」がないほど混み合いました。

連休中なのと日曜(市)と重なったので多数の方が高知城に訪れたのだと思います。

天気がよかったし、午後から少し風が出ましたが、比較的風も弱く、天守からの

眺めは最高、お客さんは風景を楽しんでくれていました。

 

 

 さて、今回は高知城の「天守」のおはなしです。

「赤字」は、根木によるものです。

■戦国の堅城Ⅱ ㈱学研 158pより

検証 天守の防御力

 眼下の敵を迎え撃つ最強建造物の実力:文・高田徹

  ・・・。

  (途中略)

 

・高知城の天守

 高知城(高知市)天守は現存天守の一つであり、重要文化財に指定されている。

 その構造は四層六階の望楼型であり、最上階には勾欄(こうらん)を巡らし、

 四方への眺望が利く。その外観は、一見古風な感を伝えるが、現在の天守は寛延

 二年(1749)の再建である。

 それ以前の天守は慶長六年(1601)以降に山内一豊によって築かれたが、

 享保十二年(1727)に焼失した。

 寛延二年の再建にあたっては、創建時の天守の姿に極力近くなるよう設計がなされ

 建築にあたっても、旧来の形態に近づけるよう意図されたと考えられる。

 ただ、実際の問題として内部・外部とも、旧来の形態そのままに復元しなければ

 ならない、復元する必要がある、といった規制・目標があったとは考えられない。

 天守であるとはいえ、作事である点には違いはなく、そこに石垣・土塁といった

 普請に対するほど、幕府による統制は及んでいなかったと考えられる。

 むしろ、江戸期の天守改修・復元事例はもう少しアバウトな範囲で行われたと

 見るのが正しいだろう。

 

 ところで、近世初頭の高知城の姿を描いた「正保(しょうほう)城絵図」(国立

 公文書館蔵)では、天守を北東方向から見た姿を描いている。

 その一階部分を詳細にみると、壁面が三面あるように描いている。

 仮にこの描写を信じるのならば天守の平面は正方形でなく、いびつな五角形で

 あったことになる。

 平面が五角形だったとすれば、後述する天守と石垣塁線との間に広がる余地の

 問題について、異なる観点から説明も可能となろう。

 

 このように考えると、高知城天守は本来不整五角形を呈していたが、火災による

 復元の際に平面形態をいくぶん改修した可能性も想定できる。

 もっともこれにも問題はある。「正保城絵図」に描かれた天守は三層三階であり、

 現状と大きく異なる。

 現状は六階に勾欄を伴うが、「正保城絵図」では勾欄を描いていない。火災前の

 天守が勾欄を伴っていたのは明らかであり、この点「正保城絵図」の描写は

 誤りである。

 絵図ならではのデフォルメという見方も成り立つ一方、不整五角形の描写も実態

 通りで あったとは即断できない。

 

 高知城の他にも江戸期に改修・復元された天守はあるが、大枠ではともあれ、

 初期の天守構造をそのまま伝えているわけではない。

 現存の天守はいずれも近代以降の解体修理を受けている。

 近・現代における解体修理の場合は極力創建当初の姿に戻すよう、企図される。

 修理・改変の痕跡が小規模ならば、当初の姿も類推できるが、その規模が

 大きければそうはいかない。一部が可能となっても、全体の姿を創建当初の姿に

 忠実に戻すことは不可能に近い。

 つまりそこには複数の時代の改修・復元・復興が折り重なっている。

 我々が、今日見られる現在天守は少なくともそのような存在であることを認識

 すべきである。

 

■高知市史(上巻):294pより 一部抜粋

・二 高知山築城

 ・・・。

 (途中 省略)

 慶長の築城の設計については詳記された記録がない。元禄十一年(1698)九月九日

 には、大火があって、城麓の邸は焼失したが城内は無事だった。

 享保十二年(1727)二月の大火ではわずかに追手門そのほか二、三の建築を残して

 城内天守閣はじめ二の丸、三の丸は全く烏有(うゆう※)に帰した。

 その後幕府の許可を受けて、享保十四年(1729)九月十九日に再建に着手、

 延享二年(1745)八月三日には、二の丸、寛延二年(1749)八月十二日には、

 本丸、宝暦三年(1753)十一月二十六日には、三の丸が竣工した。

 元和元年(1615)閏(うるう)六月一国一城の令が布かれて、城地の広狭はほとんど

 一定し濫(みだ)りに拡張を許されなかったし、規模の変更にも厳しい統制があったので

 後世の姿から推して慶長の城もおよそ想像することができるだろう。

 ・・・。

 (後は、省略)

 

 注)烏有(うゆう):どうして、それがあろうか(いずくんぞあらんや)と言う意。

   まったくないこと。皆無。例「烏有に帰す」

 

■高知観光ガイドブック 1(土佐観光ガイドボランテイア協会作)58p、59pより

・天守

 天守は本丸の中央東の角に位置し、北側は高い石垣に沿って建っており、石垣に接する

 部分に石落としや忍び返しをつけている。

 天守は山内一豊創建の後、享保12年(1727)の火災で焼失、延享4年(1747)

 再建の棟木銘があり、以後約260年を経過しているが、その構造形式は創建当時の

 ものとほとんど変わりがないことが、昭和26年(1951)から10年をかけて

 行われた解体大修理の結果、磁石の据口の調査などから判明している。

 再建後、安永8年(1779)と弘化3年(1846)に比較的大規模の修理が行われ

 ついで上記の昭和の大修理となるのである。

 ・・・。 

 

<コラム 再建の天守>

 江戸時代、幕府は各藩の城郭工事について規制を行い、修復の場合も櫓の階数を

 減らすとか、もとの姿よりは防備を弱める形で許可をした。

  二代藩主忠義のときには、高知城普請の噂が出て、忠義自ら申し開きをしたことが

 記されている。こうした状況で、元通り再建した天守について、幕府の使者が検査に

 来たらどうするかというはなしが出て大騒ぎになった。

 このとき、城中に知恵者がいて「それはお天守が焼けそうになったので、城中の若侍

 が天守をかついでよせてあった、それを又据え直したと答えるとよいのではないか」

 という言い抜けの話ができていたという。

 

★根木のコメント:

 ・いくつかの疑問が出てきました。

  ①天守再建の時、幕府に「再建許可願い」を出さなかったのか?

  ②天守完成前後、上記手続きに合わせて、設計図の提出は、されなかったのか?

  ③ガイドブックで心配している(再建)作事にまで規制・統制があったのか?

 

 

根木勢介  携帯:090-2825-2069

 

連載記事集1

投稿者別の記事1

投稿者別の記事2

情報てんこもり  サイトマップ   「高知ファンクラブ1」(新設) 「高知ファンクラブ


根木勢介 さんの記事・・・龍馬その3:長岡謙吉特集3回目

2013-02-09 | 根木勢介 さんの記事

根木勢介 さんの記事・・・龍馬その3:長岡謙吉特集3回目 

 

 今日の高知市は、朝から気温が低く、たいへん寒いですが、「春の訪れ」の

ニュースを83(はちみつ・蜂さん)プロジェクトのNさんから、お聞きしました。

Nさんの知人が、香南市吉川(旧吉川村)に置いてある「みつばち群」から、先月末

に「分蜂」があった、そうです。

分蜂とは、「新」女王蜂の誕生により「旧」女王蜂の元からその一群が「巣立つ」

ことをいいますが、普通は、温かくなった春から夏の時期に分蜂します。

この寒い時期に分蜂があったのは、いくつかの好条件が重なったからでしょう。

もともとこの巣箱(蜂群)は、気温の低い・山間部の「土佐町」から、温かい海辺の

町・香南市吉川に「疎開」させたものだそうです。

移動先の(旧)吉川村が、海辺に近く温かい・巣箱の場所も温かった、からでしょう。

温かいところでは、菜の花などももう咲いており、「蜜源」植物が、冬でも豊富です。

余談ですが、一般的教科書・参考書では、分蜂する場合、「旧女王蜂群(の巣箱)」

から「新女王蜂群」が、”巣立つ”ようです。

ところが、本日の83プロジェクトの「蜂さん談議」では、逆もある、との話が会員

から出されました。

自然界のふしぎさ・奥深さ、を感じました。 

 

さて、高知県歴史辞典では、「船中八策」の長岡謙吉の関わる箇所がどうなっているか、

転記してみました。(赤字は、根木によるもの)

■高知県歴史辞典:410pより 

・船中八策(の事項) 

  坂本龍馬が、慶応三年(1867)六月九日藩船夕顔丸で長崎港を出て兵庫に

 向かう船中で、同船の後藤象二郎に示したものといわれ、筆記者は海援隊文司

 長岡謙吉、その趣旨は龍馬の懐抱した王政復古案である、八ヵ条から成り、第一条で

 政権を朝廷に奉還、政令は朝廷から出ることをまず示し、第二条で万機公議で

 決するために上下議政局を設けること、第三条で人材登用と冗官(※)の整理を、

 第四条で外国との新しい国交樹立を、第五条で新法典の編纂を、第六条で海軍拡張を、

 第七条で帝都守衛の新軍隊編成を、第八条で世界共通の貨幣、物価の制度樹立を

 述べたうえ、これを総括して、この他には日本の危機を打開する道はないと

 言い切っている。 

  第一条は直接に土佐藩の進めた大政奉還への道であり、第二条は「五箇絛の御誓文」

 からやがて起る民権運動を展望させるものであり、さらに、第三条以下は明治政府の

 推進した開国和親と富国強兵策である。

 近代日本は龍馬の胸に描かれた八策の示すように歩んだということができよう。

 (この項は、横川末吉さん執筆) 

 ※冗官(じょうかん)=むだな役人 また、不必要な官職 

 

 また、別の本では、どうなっているでしょうか。(赤字は、根木によるもの)

■日本の近代1:開国・維新(1853~1871)松本健一著 266pより 

・「船中八策」を後藤象二郎へ

 ・・・。

 (途中略)

 龍馬はこの長崎から上京する船のなかで、新しい国家のグランド・デザインを語った。

 それが、「船中八策」だった。これを筆録したのは、龍馬が後藤(=土佐藩)の援助の

 もとに新しく発足させた海援隊の書記役、長岡謙吉である。

  この「船中八策」には、横井小楠の『国是三論』の思想を引き継ぎつつも、それを

 大政奉還によって維新国家へと完成させてゆく具体的綱領がすべて述べられていた。

 ・・・。 

※本日紹介の二つの本は、いずれも「筆記者」、「筆録」となっており、長岡謙吉の

 「関与度合い」が、低い表現となっている。

 次回も、もう少し、他の本を紹介したい。

 

根木勢介  携帯:090-2825-2069

 

連載記事集1

投稿者別の記事1

投稿者別の記事2

情報てんこもり  サイトマップ   「高知ファンクラブ1」(新設) 「高知ファンクラブ


根木勢介 さんの記事・・・龍馬その3:長岡謙吉・顕彰碑&祝賀会

2013-02-01 | 根木勢介 さんの記事

根木勢介 さんの記事・・・龍馬その3:長岡謙吉・顕彰碑&祝賀会

 

 長女からおめでたの連絡があって、女房と孫の名前の話になりました。

最近は、男なら「蓮、颯太、大翔」(24年度ランキング)の順に多いそうです。

私の名前・勢「介」のように後ろに「介(又は輔)」をつけるのは、最近はごく少ないようです。

逆に、それなら「進之助、庫之助」のような名前の方が、インパクトがあっていいのでは、

なんて孫のことをまったく無視した無責任なことを話していました。

 

 最近、「砲術」のことが、すごく気になっています。

大砲の歴史(和砲・西洋砲)やその威力(飛距離・命中度)、西洋砲が日本の歴史に

与えた影響。

土佐の砲術の歴史を探ってゆけば、日本の砲術の歴史が見えてくるだろう、と勉強を

始めました。土佐では、徳弘董斎の資料が多いようですね。

大坂の緒方洪庵・適塾に土佐から14人が入塾していますが、そのひとりが、「徳弘数之助」です。

土佐の砲術家・徳弘董斎の長男ですが、惜しまれるのは、33歳で病没したことです。

 

ほぼ、「龍馬」と同年代の人です。

 

◎以下(添付)は、「適塾記念センター」より送って頂いた資料です。

 一部、父・董斎と子・数之助との「混同箇所」がありますのでご注意ください。

 なお、香南市野市町出身の「萩原三圭」のことも記載されていますのでご参考までに。

 

 

-----Original Message-----

From: Waka Hirokawa

Sent: Wednesday, January 30, 2013 4:32 PM

To: negi-600@me.pikara.ne.jp

Subject: 門下生・徳弘数之助お問い合わせの件

 

根木勢介様

 

大阪大学適塾記念センターの廣川と申します。

 

遅くなりましたが、当センター内 適塾記念会宛にお問い合わせいただいた、適

塾門下生・徳弘数之助についてお返事申し上げます。

 

当該人物に関しましては、適塾記念会会誌『適塾』31号(1998年)へ芝哲夫氏

「適塾門下生に関する調査報告(18)」が、また、40号(2007年)へ村田忠一氏

「土佐の適塾生徳弘数之助」が掲載されております。

姓名・経歴等に関しましては、両氏の論文で詳しく検証されておりますので、添

付の該論文をご参照いただければ幸いです。

 

なお、適塾記念会は当センター内に置かれており、封書をお送りいただいた住所

には現在「大阪大学事務局」その他の組織はございませんので御承知置きください。

--

廣川 和花(Waka HIROKAWA, PhD)

560-0043 大阪府豊中市待兼山町1-13

大阪大学適塾記念センター

06-6850-5016(代表)

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 さて、次のご案内を高知りょうまライオンズクラブさんよりいただきました。

私は、この日「観光ガイド」の当番があって、参加できません。

 

参加申し込みハガキを持っています。参加希望の方がおいでたら根木まで連絡ください。

 

申し込みは、2月15日が期限です。

祝賀会は、高知ではほんとうにめずらしい「アルコール抜き」の会です。

 

◆長岡謙吉顕彰碑・除幕式&祝賀会のお知らせ:

 

・除幕式:25年2月28日(木) 午前10時~11時

 

・除幕式場所:高知市はりまや町2丁目「幡多倉公園北東角」

 

・祝賀会:「得月楼本店(大広間)」同日午前11時30分から12時30分まで「小宴会」

      (ただし、アルコール抜き)参加費 一人3,500円

 

・主催:高知りょうまライオンズクラブ

     〒780-0862 高知市鷹匠町2-4-9 山内神社内

     電話:088ー0820-5206

 

根木勢介  携帯:090-2825-2069

 

連載記事集1

投稿者別の記事1

投稿者別の記事2

情報てんこもり  サイトマップ   「高知ファンクラブ1」(新設) 「高知ファンクラブ