根木勢介 さんの記事・・・長崎事情:その⑥ビスケット2-2
昨日、知人が、作ったお米をいただいた。
高知市土佐山産、無農薬で天日干し、とのこと。
汗と労力のたまもののお米。
さっそくいただいた。炊きあがったご飯は、透き通るようなきれいないろ
ツヤをしており、おいしそう。
食べると、本当においしかった。
お米を作ったその人は、「う米う米(うまいうまい)」とブランド名をつけたいと
言ってたが、ネーミングもうまいと思うが、お米も「う米う米」。
ありがとうございました。
さて、ビスケットのはなし。
■長崎県の歴史:県史42・山川出版 155pより
・ビスコイトbiscoito:
ポルトガル人が日本にもたらしたものの一つにビスコイト、すなわち
ビスケットbisketがある。
フロイスの「日本史」によると1573年に胃の悪かったコエヨリ神父は
煮炊きしたものが食べられず、ビスケットを食していた。
宣教師たちがビスケットの製法を日本人に伝えたのかも知れない。
ポルトガル船もスペイン船もビスケット、パン、小麦を平戸と長崎で調達した。
平戸イギリス商館長コックスの日記には、ビスケットについての記事が多い。
軽焼きのビスケットは長崎から平戸を訪れたものが贈答に用いている。
円形のビスケット菓子と甘味入りのパンは平戸でつくられた。
このことは、領主松浦隆信が(たかのぶ)が材木商やビスケット製造人
らに冥加金(みょうがきん)を課していることから知られる。
しかし、航海用のビスケットは大量であったために長崎で調達された。
その買付には同地駐在の商館員、スペイン人、平戸の商人および長崎の
火薬製造人らがあたった。贈答用は多くは壷入りで、白色のビスケットは
バンタムに送られた。すぐに食用される航海者への贈物のビスケットは袋詰め
である。糧食用は巻きビスケットであり、1621年8月の英蘭共同防衛船隊
のための注文品は500ピコルで、300ピコルを依頼された買い付け人は
3か月以内の納入を指示された。1ピコルは100カティー(斤)である。
これほどの大量な注文に応じるにはかなり大きな工場か、あるいは何軒かの
ビスケット屋が必要であったと推測される。
長崎の勝山町の馬町寄りの一街区は旧ボウラ(ボウラヤ)町といわれていた。
ボウラとは、ポルトガル語bolaであり、パン・菓子の意味である。
パン(菓子)屋やビスコイト屋が集まっていたのであろうか。
※当時のビスケットは、どのようなものだったろうか。
長崎へ行ったらわかるかな? 楽しみです。
★ジョン万次郎とビスケットの関係も調べれたら面白いかも。
捕鯨船でも「ビスケット」は、食べられていたのだろうか。
◎そのジョン万の「少年像」(浜田浩造制作)を見に行きます。
(添付フアイルをご覧ください。)
「波」を作られた方も同行され、波の制作話も聞けるそうです。
ぜひ、皆さんどうぞ。
根木勢介 携帯:090―2825-2069
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