「高知ファンクラブ」投稿者別パート2

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根木勢介 さんの記事・・・「牧野富太郎伝 草木の人」演劇のお知らせ

2012-12-30 | 根木勢介 さんの記事
根木勢介 さんの記事・・・「牧野富太郎伝 草木の人」演劇のお知らせ
 
 
「県庁おもてなし課」の映画化や「吉田茂さん」のドラマなど高知県にとっては、
観光面でもうれしいニュースが続いていますね。
土佐観光ガイドボランテイア協会では、さっそく吉田茂コース(城西館経由コース)
を設定して観光面に一役買おうとしていますね。
そういえば、高知龍馬空港の吉田茂銅像の移転は、進んでいるのでしょうか。
 
 
 さて、牧野富太郎の演劇が、いよいよ今月29日にあります。
(添付のチラシをご覧ください。)
今年は、”龍馬脱藩150年”の年でもありますが、牧野富太郎博士の生誕
150年の記念すべき年でもあります。
何年か前に、高知県で初めて「牧野富太郎」の演劇に取り組んだ劇団the・
創(そう)、その皆様による牧野富太郎については、2回目の公演です。
脚本・演出の西森良子さんが、「牧野富太郎」をどのように描くのか、興味津々
です。
皆様もぜひ、ご覧になってください。
ふるさと佐川を愛し、土佐を愛し、植物を愛し、また人間を愛した人でもある
牧野富太郎。牧野博士から、学ぶことがたくさんあります。
 
 
 
 ジョン・万次郎を映画化する運動が、起こっているようですが、「牧野富太郎の
映像化」も進めたい、と思っています。
これまでに牧野富太郎の映画やドラマ化はありません。
辰巳柳太郎時代の「新国劇」で一度公演があって、それ以降は、今回の
「劇団 the創」さんによる演劇があるのみです。
 
 
 
根木勢介(牧野富太郎を映像化する会)
  携帯:090-2825-2069
 
  
  
  

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根木勢介 さんの記事・・・吉田茂:その②娘和子の証言・相続財産1

2012-12-30 | 根木勢介 さんの記事
根木勢介 さんの記事・・・吉田茂:その②娘和子の証言・相続財産1
 
 
吉田茂のテレビドラマがもうすぐ始まるそうですね。
以前、吉田茂の義父の出身藩・福井藩のことを紹介しました。
 
 茂の義父・吉田健三は、明治22年・40歳で亡くなり、莫大な遺産(50万円)
を残したが、茂が全部使った、と言われている。
莫大な遺産を現在の円に換算すると@8,000円/一円として40億円?!
 
<莫大なその遺産は、いつまで残っていたのか?>
 
「父吉田茂」:麻生和子著 光文社知恵の森文庫 55pより
 
 ●麻生和子:1915年、5月13日吉田茂・雪子夫人の三女として中国・
  安東に生まれる。聖心女学院、ローマの聖心女学院を経て、ロンドン大学で
  学ぶ。1938年、麻生太賀吉と結婚、三男三女をもうける。
  長男は、衆議院議員・麻生太郎、三女は寛仁親王妃信子殿下。
  1996年逝去。(以上は、文庫本の筆者紹介による)
 
 ・・・。
 もともと外国へのあこがれや興味があったかどうか、そんな話もとくに
 聞いていませんが、父(茂)が育った吉田の家が海のむこうの国を向いた
 商売をしていたために、子供のころから外国の話を聞きながら大きくなったの
 だろうということはありそうです。
 父の父、吉田健三は福井の藩士の家に生まれています。十いくつかのときに
 長崎に出て英語を学び、幕末のころには英国の軍艦に乗せてもらって、上海から
 シンガポール、ヨーロッパ、アメリカと見聞を広め、日本に帰り着いたのは
 明治になってからでした。
  日本にもどった吉田健三は横浜のジャーディン・マジソン商会に入り、海外
 からの商品の買い付け、また日本の物産の輸出というような、いわゆる商品
 取引の仕事に抜群の商才をあらわしたのだそうです。扱った商品は軍艦から
 生糸までというのですから、いまでいえば商社マンでしょうか。
 ジャーデイン・マジソン商会から独立した吉田健三は、いくつもの事業をおこし
 、そのことごとくが成功して、40歳の若さで病死するまでに一財産を築き
 あげています。
  吉田健三が亡くなったときに、父はまだ十歳くらいだったといいます。それで
 その年端もいかない少年が、吉田健三が一代で築いた財産をそっくり相続したと
 いうのですからたいへんなお話です。
 さて、このとき父が相続した財産は、一説によると当時のお金で50万円、いまの
 貨幣価値に直すと数十億円に相当するといわれています。
 父がお金持ちだったという話はよく聞いていましたが、私自身は金持ちの家の
 娘という気分は全然味わったことはないのです。
  むしろ、海外に出るたびに父は借金をして、日本にいるあいだにそれを返し
 、また出るとまた借金をするというくりかえしでした。そのまえにあったはずの
 財産がどこにいってしまったのか、ほんとうにふしぎで、一度聞いてみようと
 思っていてとうとうきかずじまいでした。消えてしまった吉田家の財産の
 行方については、これから先もずっと謎のまま、ということになるのでしょう。
 そうはいっても、あったはずの吉田の財産をきれいさっぱり使いはたしてしまった
 のはまぎれもなく父だったでしょうが、その父はじつは吉田家の養子でした。
 
 ◎このあと、実父竹内綱の話になりますが、続きは次回にでも。
 
 
 
 
 
 
 この前の「全国龍馬ファン集い」に参加された方、お疲れ様でした。
 いよいよ、滋賀・福井行きも迫ってまいりました。
 それでなくても、11月は行事の多い月ですね、体調に気をつけましょう。
 
  今日の「龍馬の手紙を読む会」で越前藩にお金を借りるはなしが、出ました。
 それに関係する話を以下と次回に展開します。
 
◆幕末福井藩の財政状況のこと:由利公正や岡倉天心実父の活躍
<シリーズ藩物語 福井藩 舟澤 茂樹著>p163~より
 
【富国の方針】
 まず深刻な藩財政の窮乏の実態を明らかにしておきたい。
藩主春嶽は就任6年後の弘化元年(1844)頃から藩政改革に着手するが
当時の財政史料(松平文庫)によると、累積した借財総額は95万8454両に達して
いた。それでは当時の福井藩の歳入額はどれくらいであったのであろうか。
時代は少し下るが、「安政元年御本立凡積(ごほんだておよそづみ)」によると
歳出が8万7946両で、2万2470両の赤字とあるから、歳入はおよそ6万
5000両ということになる。藩財政は歳入の15倍ばかりの借財を抱えた深刻な
状況にあったのである。
 
 藩政改革の重点は、まさにこの財政窮乏を克服することにあったといえる。
その方法として、従来の専売制への依存から脱却する、産業振興策の模索が始まった。
安政3,4年(1856,7)ころ、橋本左内が掲げた積極的貿易策はその方向を
示すものといえよう。左内は、蘭学を学び海外事情にも精通していたが、その頃下田で
始まった米国総領事ハリスとの交渉から、開国に向かう幕政の気運をも察知していた。
左内は藩に対する建議などによって海外交易の利を唱導していた。この交易論に共鳴
したのが由利公正(当時三岡八郎)で、通商条約調印後を目指して準備にかかっていた。
ところが、その条約発効直後の安政6年10月、左内は後述する将軍継嗣問題に
かかわったことで、幕府によって処刑されてしまった。由利は理論的指導者を失って
その出鼻をくじかれるが、やがて左内に代わり指導することに
なるのが、横井小楠であった。
 
 横井小楠は、安政5年4月、教育顧問として福井藩に招かれていた。
やがて彼は藩首脳と藩政の基本政策について協議し万延元年(1860)に
「国是三論」をまとめている。その富国論の骨子は次の通りである。
交易によって民を豊かにすることが「富国」の大前提で、領民が富むことこそが、
藩(国)が富むことになる。そのためには、領民が生産物を商人に買い叩かれない
ように、藩営貿易がなされるべきである。藩がその利益を貪らなければ、生産者で
ある領民に冨が蓄積される。さらに民を豊かにするためには彼らが増産に励むことが
必要だが、その元手となる生産資金は藩が無利子で融資しなければならない。
その資金の調達方法として藩札(紙幣)を発行する。仮に一万両の藩札を
領民に貸し付け生糸を生産したとする。その生産物を開港場で売却すると
正金一万一千両が得られる。かくして藩札(紙幣)が正金に変わった上に、
さらに1000両の利益が得られる。藩は、その正金を生産販売に充当すれば
必ずや藩財政は安定する―というのが横井の富国策の骨子であり、我が国が
初めて国際貿易を始めるという状況下にあって、産業資金の融通で商品を生産し
、海外交易によりその成果を確実に収めることができる具体的な方法を
明示したのであった。
 
 小楠の理論を現実の施策として実践したのが、経済担当の由利公正らである。
安政6年には産業資金として藩札5万両の発行を決定、藩営貿易の拠点として
”物産総会所”を開設した。当会所は、福井城下九十九橋北詰めの藩札元締め
駒屋方に設けられた。
物産総会所に集荷された産物は、横浜・長崎の藩営商社を通じて海外に輸出された。
福井藩の横浜商館石川屋には、岡倉天心の父に当たる岡倉覚右衛門が送り込まれた。
岡倉は、”制産方下代”という下級武士であったが、算盤の才能を見込まれ藩命に
よって商人となり、越前屋金右衛門と名乗る。福井藩をバックに越前の生糸・
紬(つむぎ)・紙・茶などを海外に輸出した。横浜に次いで長崎にも福井屋を
出店した。福井城下商人の三波波静が、藩の支援のもとに生糸の輸出を
行ったのである。
 
 福井藩の商品生産は活気づき、生糸・布・木綿・茶・麻等が盛んに産出された。
由利の伝記によると、文久元年(1861)に長崎から輸出された生糸だけでも
25万ドル(100万両)の販売実績を上げたという。
かくして春嶽の代において着手された経済再建策は、茂昭の代に軌道に
のったのであった。
 
 ※岡倉天心:文久二年(1862)福井藩の横浜商館の経営に当たっていた
       覚右衛門の長男として、横浜商館にて生まれる。明治期美術界の
       指導者。本名は、覚三、天心とする。大正二年(1913)没。
 
 
 
幕末の福井藩が、生糸でめざましい業績を上げたように維新後、生糸などで
横浜有数の実業家となったのが、福井藩士の吉田健三(茂の養子先の養父)。
◆吉田茂と福井藩の関係:以下を参照ください。
 
 
次回は、その②「坂本龍馬の福井訪問:お金を借りた話は、本当?!」
 
根木勢介  携帯:090-2825-2069
  
  
  

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根木勢介 さんの記事・・・吉田茂:その③娘和子の証言・茂実父

2012-12-30 | 根木勢介 さんの記事
根木勢介 さんの記事・・・吉田茂:その③娘和子の証言・茂実父
 
 
 最近、「男と女の違い」について、なかば納得させられたことがあります。
ある団体のボランテイア仲間のNさんに言われたのですが、
 
『プラモデルなどに夢中になるのが、男。女は、プラモデル完成品には、興味を
示しても、プラモデルそのものには、関心を持たない』
 
そうだ。
家のカミサンに聞くとその通りだそうです。最近、ボランテイアで組み立て品を
考案して「悦」にいっている自分としては、悔しい・残念な気分です。
 
 さて、吉田茂の写真を見ていて以前から不思議に思っていたことがあります。
「メガネ」なのですが、吉田茂は”鼻眼鏡”をかけているそうですね。
 
<父吉田茂:麻生和子著・光文社知恵の森文庫>p251、57pより
 
●おしゃれ、鼻眼鏡
・・・。
 鼻眼鏡はローマ時代(イタリア大使)からだったと思います。
洗濯ばさみみたいになっていて、鼻筋にはさんで留めるようになっています。
使い慣れれば、つるがない分うるさくないのでしょう。
父の白足袋もずいぶん有名になりました。貴族趣味だといわれたりも
していたようですが、私どもではみんな白足袋を履いていましたからとくに意識
したことはありませんでした。
むしろ紺足袋のほうが、洗っているうちに色が落ちてしまって洗濯がききません。
白足袋ならいくら洗濯してもだいじょうぶですから、かえって経済的です。
父の足の大きさは、九文半でした。男の人としてはかなり小さいほうでしょう。
一度にあつらえた足袋をたくさん持っていましたが、亡くなったときに
このサイズでは他に合う人がいなくて始末に困りました。
 靴のほうも、イギリスにいるあいだは注文して作らせていました。旅行先で
靴屋に入るといつも子供靴の売り場に行けといわれるので、これには父も
憤慨していました。
・・・。
 
●実父と育ての母
・・・。
 父(吉田茂)の実父は竹内綱(たけのうちつな)といって、高知県宿毛(すくも)
の出身の自由党の志士でした。この竹内綱という人もたいへんおもしろい人物
だったらしく、幕末から明治へかけての混乱期に、土佐、高知を舞台に大活躍を
したのだそうです。
父は竹内綱の五男でした。ちょうど父が生まれようとするころ、父親の竹内綱は
西郷隆盛の鹿児島挙兵に際して、頼まれてドイツ製の小銃を横浜のジャーデイン・
マジソン商会に発注したという嫌疑をかけられ政治犯として新潟の監獄に
ほうりこまれていました。
大久保利通が暗殺された直後でもあり、薩長を主流とした時の政府にとって、
高知出身の竹内綱のような存在は、東京から遠ざけておくにかぎるということ
だったのでしょう。
 竹内綱と横浜の吉田健三は親友の間柄で、吉田に子供が一人もなかったため
かねてより、
「今度生まれる赤ん坊が男の子だったら、キミに養子にあげよう」
「よし、もらおう」
という約束ができていたのだといいます。
そんな相談をしているときに竹内綱は牢屋に入れられてしまい、吉田健三は
残された竹内の家族、もうすぐ生まれる竹内の妻を親身に世話しました。
「そのとき、生まれてきたのが玉のような男の子で」
と、これは父が自分でいっていたのですが、その玉のような赤ん坊は約束通り
吉田にもらわれ、大事に育てられたのだといいます。
父を育てたのは吉田健三の妻、養母になるわけですが、この人は佐藤一斎(さとう
いっさい)という幕末の有名な儒学者の孫娘で士(こと)といいました。
たいへん聡明な人だったようで、父はこの養母にずいぶんかわいがられて育った
ようです。
「あんなにきゃしゃなばあさんが、しょっちゅうおれをおんぶして学校から帰った。
よくおぶって帰ってきたなあ」
と、父は懐かしがっていましたから、祖母は父のことをずいぶん甘やかして
育てたのだと思います。
吉田の祖父が早くに亡くなったのち、祖母のほうが長く生き、父は祖母を
お芝居に連れていったり、訪ねていくといつもなんだかとても親しそうに
話していました。
 父自身、自分が養子であることを十七になるまで全然知らなかったと
いうのですから、まずまず幸福な子供時代だったのでしょう。
・・・。
 
◎麻生和子さんのもう一人の祖父は、牧野伸顕。曾祖父は、大久保利通です。
 吉田一家では、大久保利通はどのような人だったのでしょうか。
 続きは、次回にでも。
 
根木勢介  携帯:090-2825-2069
 
  
  

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根木勢介 さんの記事・・・イーハートーブ農学校の賢治先生

2012-12-30 | 根木勢介 さんの記事
根木勢介 さんの記事・・・イーハートーブ農学校の賢治先生
 
 
 
 最近、いい本・欲しかった本、を何冊か見つけることができて、たいへんうれしい
気分です。
 
その中のひとつ、宮沢賢治が好きな兼松さんにぜひ読んでほしい本を紹介します。
●「イーハートーブ農学校の賢治先生」(作:魚戸おさむ、小学館発行・2010年
9月発行・原案監修:佐藤成)です。
 
 大正10年(1921年)25歳 
   12月3日岩手県稗貫農学校(後の県立花巻農学校)教諭に就任
 
 大正11年(1922年)26歳 
   2月 「精神歌」を作る
   9月 生徒5~6人と岩手山登山
   11月27日 妹トシ死去
 
 大正12年(1923年)27歳 
   1月 上京、原稿を弟・清六に託して出版社に持ち込ませるが
      出版を断られる
   7~8月 樺太旅行
 
 大正13年(1924年)28歳 
   4月 心象スケッチ「春と修羅」を自費出版
   5月 生徒と北海道修学旅行
   8月 「飢餓陣営」、「植物医師」、「ボランの広場」、「種山ヶ原の夜」
      を生徒たちと上演、一般公開
   12月 「注文の多い料理店」刊行
 
 大正14年(1925年)29歳 
   4月 同僚の白藤慈秀と「松並木討論会」を行う
      (この年、賢治の発案により花巻農学校に楽団誕生)
 
 大正15年、昭和元年(1926年)30歳 
   花巻農学校を依頼退職
 
 宮沢賢治37年の人生の中で、上記年表・稗貫農学校の4年4カ月(25才~
30才)を描いた作品です。
農学校の教師として心血を注いだ・また充実した時期で彼の作品の約7割が
この時期に書かれているそうです。
才能豊かな人だったでしょうが、「宮沢賢治像」が、「理想的」に描かれすぎて
いるキライはありますが、いい本だと思います。
『多面多才の人・宮沢賢治』として捉えられ、①詩人であり童話作家、②熱心な
法華経信者、③勉強家、④ユーモリスト、⑤ボランテイア、⑥ナチュラリスト、
⑦鉱物が好き、⑧農作業を積極的に実践、⑨草花を愛した(花壇も設計)、⑩
音楽愛好家、⑪生徒思い、⑫ハイカラ、⑬教育者、⑭農学校の舎監、⑮演劇を
奨めた、など枚挙にいとまがありません。
 なにはともあれ、生徒たちに信頼され・尊敬された先生であったことは、
想像できます。
生徒のために・人のために何ができるか、それを常に考えた人なのでしょう。
 
 
 兼松さん、たからちゃんネットの皆さん、ご一読ください。
 
 
<根木のため息:『牧野富太郎にもこのような本が欲しいなあ!』>
 
根木勢介  携帯:090-2825-2069
 
  

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根木勢介 さんの記事・・・吉田茂:その④娘和子の証言・大久保利通

2012-12-30 | 根木勢介 さんの記事
根木勢介 さんの記事・・・吉田茂:その④娘和子の証言・大久保利通
 
 
最近、いい本をブック・オフで見つけました。
マンガ本ですが、宮沢賢治のことがよく理解できます。
牧野富太郎にもこのような本が、出て欲しいものです。
(南方熊楠には、水木しげるが書いた本があります。)
   
 ◆イーハトーブ農学校の賢治先生:作 魚戸おさむ・原案監修 佐藤成(小学館)
 
 皆さんは、スイカはどのようにたべますか? 
上記の本の中に、宮沢賢治の「スイカの食べ方」が出て来ます。
 
 
    宮沢賢治のスイカの食べ方は、一風変わっていた。
   笹竹のストローをスイカに突き刺し、中身を吸い取るのだ。
   農学校のスイカも毎年、百個のうち三十個ぐらいは、中身を
   吸い取られ、がらんどうだった。
   すべて賢治の仕業だった。
   『スイカは こうやって食うのが、いちばんうめ!!』
 
 
 実は、この賢治と同じ方法でスイカを食べていた人がいます。
宮沢賢治に倣ったのでしょうか。それとも、偶然?!
 
 
    子供時代といえば、あるとき、
   「スイカを割らずに食べる方法を知っているかい」
   と父が私に聞きます。
   「知らない」
   というと、
   「ムギワラを突っ込んで吸い出すと、甘い中味だけ吸い出せる」
   と父は得意そうな顔をしています。
   (父吉田茂:麻生和子著・光文社知恵の森文庫59pより)
 
   ※上記の父は、吉田茂さんです。
     麻生和子さんは、吉田茂の三女。麻生太郎元首相のお母さんです。
 
●さて、吉田家では「大久保利通」をどのように思っていたのでしょうか。
 
<父吉田茂:麻生和子著・光文社知恵の森文庫 161pより>
 
・行ったり来たり
 
  戦争が終わってまだまもないころ、祖父牧野伸顕が、
 「せっかくわれわれが苦労してここまでつくりあげた国を、こんなにしてしまって」
 とポツリとつぶやいたのを聞いたことがあります。
 
 祖父にしてみれば、父親の大久保利通をはじめとする幾多の人々が、文字どおり
 命をかけて築き上げた近代日本が目の前で焦土と化したわけですから、さぞかし
 悔しく残念だったことでしょう。
 その大久保利通は私には曾祖父にあたりますが、じつはこれだけ有名な人物でも
 私の代になるともう歴史の本に書かれている以外のことはなにも知らないのです。
 あるとき、本の中に出てくるこの人物が、ひじょうに理知的であってもなんとなく
 冷たい人のように感じられて祖父にそのことをいってみたことがあります。すると祖父は、
 「いや、そんなことはない。たいへんに情け深い人だった」
 といいました。
 大久保利通の人となりが実際にどうであったのか私にはよくわかりませんが、偉い人で
 あったことはたしかなのだろうと思います。明治という時代は、本当に偉い人たちが、
 たくさん集まっていたという気がします。
 父にとって牧野の祖父は、明治という時代をつくりあげてきた大先輩のひとりでしたから
 、岳父である以上に崇拝していたと思います。
 
 一方祖父の方はというと、父という人間を好きでしたし認めてはいましたが、それほど
 偉い人だと思っていなかったのではないかという気がします。
 父が総理大臣になったときに、祖父はとても心配して、
 「だいじょうぶかね」
 と首をかしげていました。
 私としてもまったく同感でしたので、思わず、
 「私もそう思うわ」
 といって祖父と顔を見合わせたものです。
 ・・・。
 
 
◎吉田茂は、高知県を「選挙区」としたわけですが、それについての
 エピソードを次回にでも。
 
根木勢介  携帯:090-2825-2069
 
 
  

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根木勢介 さんの記事・・・吉田茂:その⑤娘和子の証言・高知県選挙区2-2

2012-12-30 | 根木勢介 さんの記事
根木勢介 さんの記事・・・吉田茂:その⑤娘和子の証言・高知県選挙区2-2
 
 
 いよいよ今日から吉田茂のテレビドラマが始まりますね。
NHK総合 午後9時から~10時15分。「負けて、勝つ」渡辺謙が吉田茂、
さて、和子さんは、誰でしょうか。
 
 最近、私の長男のことが家族で話題になりました。
長男が、
「仕事や勤めている会社での”愚痴”を話しているのを聞いたことがないネ」
と、言う話です。
私や他のこどもはいわゆる”愚痴”をよくこぼす性質(たち)なのです。
愚痴自体は、決して悪くない、と思っています。
愚痴をこぼす、ことによって、自分の感情をコントロールできし、愚痴は、
一種の「感情のはけ口」だと思います。
この長男について親として、少し心配するのは、愚痴をこぼさないことが感情を
押さえて(抑えて)いて、それがいつか「爆発」するようなことにならないかが、
気懸かりです。
実は、吉田茂さんは、私の長男のような性質(たち)だったようです。
 
 <退陣>
 
  政治の世界の裏の面というのしょうか、闇の部分でずいぶん苦労もしたと
 思うのですが、父のいいところは、あとで悔んだり恨んだり、愚痴をいったりと
 いうことがまるでなかったことです。
  あいつはいやなやつでこんなことをしたとか、あんなことをしたとかと
 いうことを父は決していわない人でした。
 
 ですから、誰かにだまされたというようなことがあっても、一度終わったことは
 終わったこと、もうあれは忘れちゃったなどといって、さっぱりしたものでした。
 自分のまちがいにたいしても、しまったと思えばやり直せばいいといって
 いましたし、なにか問題が起きたときにも、おまえがそのことをいわなかった
 からだとか、こういうふうにすればよかったのだとかは、みごとなほどひとことも
 いいませんでした。すんだことをぐずぐずいうのは潔くないと思っていたので
 しょうし、もともとすっきりした性格でもあったのでしょう。
 
 子供のころ、
 「女はいつまでもくよくよしているからいやだ」
 と父にいわれて、男に生まれればよかったと思ったのをおぼえています。
 ・・・。
 (父吉田茂:麻生和子著・光文社知恵の森文庫231pより)
 
 
<父吉田茂:麻生和子著・光文社知恵の森文庫 170pより>
 
・選挙
 (24年9月6日の続き)
  ・・・。
  さて、選挙のためにいよいよ高知に出向く段になって、父が私にいっしょに
 来ないかといいます。
 ・・・。
  選挙運動といえば立候補者の演説と決まっていますが、あいにく父は演説が
 苦手でしたし、実際に父の演説を聞いてあまり上手だと思ったことはないのです。
 自分の話をするのをいやがりますし、天下国家を論ずるだけで、説得力というのも
 あんまりなかったような気がします。
 本人自身が大向こうを相手に演説をして、自分のいっていることで聴衆をひきつけよう
 というようなことをほとんど考えたことがなかったのではないかと思います。
 ・・・。
  父の演説の内容で記憶に残っているのは、
 「日本は早く一本立ちになって、外国と肩を並べて話ができるようにならなければ
  だめだ。そのためには、とにかく早く立ち直らなければならない」
 というようなことでした。
 父が演説が苦手でしたので、林さん(林譲治)たちは、その日の行程であらかじめ
 三カ所くらい、どことどこでご挨拶願いますということを決めていました。
 けれどそのときの様子で、途中に人が大勢集まっている場所があれば、当然
 そこで「ちょっとなにか挨拶をしてください」ということになります。
 ところが父はそれがいやなのですから困ったものです。
 不承不承出ていって、
 「吉田茂です」
 といっておしまいです。
 よろしくでもなければ、お願いしますのでもないのです。
 予定の場所で一応いうことを決めて演説に臨んでも、なんとなく雰囲気が気に入らない
 とやっぱり、「吉田茂です」のひとことで終わってしまいます。
 
  父にしてみれば、立候補するにあたってぺこぺこ頭をさげてまわる必要などさらさら
 ないと思っていたのでしょう。たしかに選挙は、立候補者がなにを考えているのかを
 ひとりひとりの選挙民が自分で判断して一票を投じればいいものですから、たのんで
 まわる必要はないという父の考え方もひとつの見識かもしれません。
 これが自分の父親でなければなかなか愉快なはなしだと思うところですが、
 こちらは 立候補する以上なんとか当選させたいと思って、しんどい思いをしながら
 いっしょに選挙区をまわっているのです。
 親身に手伝ってくれている人たちのことを考えても、このときの父の態度にはほんとうに
 腹がたちました。
 あまりの知らん顔にいいかげん憤慨しましたが、
 「もっとなんとかならないの」
 というと父は、
 「注文どおりにいきゃしないさ」
 と涼しい顔をしています。あきれたものです。
 
  父がこんな調子でしたから、そのうちこっちにお鉢がまわってきました。私に応援の
 演説をしろというのです。
 ・・・。父の態度に負い目もありましたから、泣く泣く引き受けて演壇に立ち、とにかく
 持たされた原稿を読み上げていくと、父をほめて歯の浮くようなことばかりが
 書いてあります。
 途中でばかばかしくなり、原稿を読むのをやめ、
 「父はつむじまがりの頑固者だという定評がありますけれども、あなたがたもやっぱり
 つむじまがりで頑固でいらっしゃるでしょうから、同病相哀れんで、
 一票投票してください。」
 といったところ、会場が大笑いになりました。
 
 ・・・。
  高知市内で街頭演説をしたときに、コートを着たままで演説をしていた父に、
 「外套をとれ」と
 野次が飛ばされたことがありました。
 それにたいして父が、
 「外套を着てやるから街頭演説です」
 と答えたところ、聴衆から大拍手がわきおこりました。
 父の気質と高知の気風は妙にあっていたのかもしれません。
 ・・・。
 
◎次回は、「政治資金」をどのように工面していたか、についてでも。
 
根木勢介  携帯:090-2825-2069
 
    

 

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根木勢介 さんの記事・・・吉田茂:その⑤娘和子の証言・高知県選挙区2-1

2012-12-30 | 根木勢介 さんの記事
根木勢介 さんの記事・・・吉田茂:その⑤娘和子の証言・高知県選挙区2-1
 
 
 
 仕事をしていた現役のころから、内山節(たかし)さんのフアンの集まりでも
ある、「哲学塾東京分校のようなもの」に年一回参加して来ました。
ここ数年は、母の葬儀などがあり、参加できていませんが、その内山さんから
奥さんは竹内綱と関係あるとお聞きしました。内山さんの奥さんは、竹内静子さん
といい,著作もある人ですが、4年ほど前に亡くなられました。
奥さんの生前は、よく宿毛にもお墓まいりなどで高知へ行っていたそうです。
「宿毛は遠い」、とこぼしていました。
どこにどのような「縁」があるかわからんもんですね。
内山さんには、竹内家(竹内綱)と大石家(大石弥太郎)が姻戚関係にあるとの
研究結果が出ていた土佐史談会の本を”おみやげ”代わりにあげたことがあります。
 
 
●さて、吉田茂と高知県との関わり(関係)ですが、その前に略歴を
 高知県人名事典から拾ってみました。
 
<吉田茂:1878~1967年>高知県人名事典911p・主要部分を抜粋
 
 ・総理大臣 明治11年9月22日東京神田区駿河台生まれ
 ・竹内綱、タキの五男、明治14年吉田健三の養子となる
 ・明治30年学習院を経て、39年東京帝国大学法学部を卒業
 ・戦前は、中国やイギリス、イタリアなどで外交官歴任
 ・戦後昭和20年東久邇(ひがしくに)内閣の外務大臣、
  次の幣原内閣も留任 
 ・21年自由党総裁・鳩山一郎が組閣直前追放されたあと、同党
  総裁となり、5月第一次吉田内閣を組織して総理大臣と終戦中央事務局総裁を
  兼ねる。
  22年辞職、社会党に政権を譲ったが、23年再び第2次吉田内閣を組織し
  総理大臣兼外務大臣、24年第3次、27年第4次、28年第5次と
  わが国では初めての組閣回数を重ねた。
 ・その間衆議院議員に高知県全県一区から出馬して7回当選。
 ・29年内閣総辞職をし、組閣5回、前後7年2か月の吉田政権は、終わりを
  告げた。
 ・昭和42年10月20日病没 89才。31日東京千代田区日本武道館で
  戦後初めての国葬が行われた。
 ・嗣子は評論家の吉田健一。
 
  ※竹内綱の読み方:上記高知県人名事典では「たけうちつな」となっています。
   ただ、下記の麻生和子さんの本では、「たけのうちつな」のふりがなに
   なっています。
   麻生家では、「たけのうち」のお家・・・、とか呼んでいたのでしょうか。
 
<父吉田茂:麻生和子著・光文社知恵の森文庫 168pより>
 
・選挙
 
  父とマッカーサーとが制定をいそいだ新憲法は昭和21年の秋に公布され、
 翌年の4月には新憲法下はじめての総選挙が行われるはこびになりました。
 思いもかけないなりゆきから総理大臣になるまで、父は、自分が選挙に
 打って出る日がくることなど考えもしなかったのではないかと思います。
  それでも自由党の総裁であり総理大臣である以上、とにかく国会に
 議席を持たなくてはなりません。そう心を決め、生まれてはじめて衆議院に
 立候補するにあたって、最初の問題はどこから立候補するかということでした。
 
  真っ先に父の頭に浮かんだのは高知だったようです。
 高知は父の実父の竹内綱の出身地でしたし、竹内綱自身も、父の実兄にあたる
 竹内明太郎も、戦前の帝国議会の衆議院議員に高知県から立候補して
 選出されています。
 そうした縁をたどれば高知県から出るのがいちばん自然でしたが、神奈川県
 から出馬してはどうかと親切にすすめてくれるかたがあり、父はその提案にも
 心を動かされたようです。
 
  父の回想によれば、このとき林譲治(はやしじょうじ)さんに相談して
 みたところ、神奈川だったら冠婚葬祭全部をいかなくてはならないけれど
 、高知だったら遠いからそんなことをしないですむ。
 遠ければ選挙民がしょっちゅう訪ねてくることもないだろうから、
 父の無愛想が目立たなくてすむというようなことをアドバイスされたようです。
 選挙区に愛想をふりまくといったことは父のもっとも苦手とするところでしたから
 自分でもなるほどと思いあたる節があったのでしょう。父は高知県からの出馬を
 決めました。
 
  高知と決めたものの、ここはひじょうにむずかしい土地柄だという話も耳に
 していました。たしかに高知県人にはかなりのへそまがりが多く、現職の
 総理大臣というだけで大歓迎して迎えるという気風ではありません。
 父のほうにしても、東京は神田で生まれた本当の江戸っ子だと威張っていたのが、
 突然高知から立つことになり、
 「滑稽だよね、にわか高知県人になっちゃうんだから」
 と自分でいって笑っていましたから、へそまがりではいい勝負だったかも
 しれません。
  高知でのいわゆる選挙運動は、やはり高知から出ている林譲治さんが中心と
 なって段取りをつけてくださることになりました。
 林さんは父の遠い親戚にあたるそうです。
 戦前からの自由党の議員で、吉田内閣では書記官長をつとめておられました。
 
 (次回に続けます)
 
 ◆以下は、吉田茂について、いただいた感想です。
  ありがとうございました。
 
   ・宿毛出身の私は、大変興味深く読ませていただきました。
    吉田茂のワンマンぶり以外の知られざる素顔が垣間見られて、興味深かったです。
 
    ・凄いご一家ですね。
 
根木勢介  携帯:090-2825-2069
   

 

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根木勢介 さんの記事・・・吉田茂:その⑥娘和子の証言・お金はどこから2-1

2012-12-30 | 根木勢介 さんの記事
根木勢介 さんの記事・・・吉田茂:その⑥娘和子の証言・お金はどこから2-1
 
 
 昨日のNHK総合テレビドラマ・吉田茂の「負けて勝つ」を見ました。
麻生太郎さん(和子さんの長男)など今も生きている方が、登場するのは
”龍馬伝”などとまた違ったおもしろさが、ありますね。
 
 司馬遼太郎さんが、土佐に山内家が”進駐”して、江戸期ずっと土佐を
支配したことについて、『土佐は、山内進駐軍に占領されていた』というような
表現をされています。
終戦後、アメリカ進駐軍に支配された日本の姿と山内進駐軍に支配された
江戸期の土佐の姿がダブって見えました。
 
 
◎お二人の方から次のメールをいただきました。
 
 自分自身のための「雑記帳」のつもりもあって、皆さんにメールを送っています。
期待に添えない話題もあるかもしれませんが、よろしくお願いします。
 
 
 ・毎回、楽しい話題をありがとうございます。
 次回を心待ちにしております(^-^)
 
 ・tvなかなか面白い。こんな歴史は習わなかったから。人間の芯はまさしく高知県人だと
  思いました。和子さんを誰が演じていたか?記憶無し。
  でも、よくあの時代の女性の一つのタイプを演じていたと思う。
 
◆大久保利通の借財
 
  今回は、吉田茂が政治資金をどのように工面していたかの話に入りますが、
 和子さんの曾祖父にあたる「大久保利通」は、どうだったか、調べてみました。
 (大久保利通の時代も吉田茂と同様、大きな問題を抱えていたのですね。)
 
  ・・・。
  そのころ、日本国内では、財政緊縮や家禄削減をめぐって大蔵省と他省が
  対立し、不平士族の動きも油断がならず、樺太問題、朝鮮問題など外交上の
  事態も切迫していた。そこで、大久保、木戸を呼び返すことになり、3月
  28日、大久保は一行と別れて帰国の途につき、5月26日、横浜着。
  木戸は7月23日帰着。遅れて岩倉一行は9月13日に帰国した。
   この旅行中、大久保と木戸は、また不仲になった。それは、木戸の子分
  伊藤(博文)が、大久保に接近したからである。
  後年、伊藤は
  「木戸公は(心が)ひろく大きくはなかった。むしろ狭い方であった。・・・。
  然るに大久保さんは、誠に度量のひろい大きな方であった。・・・。
  それに、平生、誰の系統とか、何藩人とかの区別を設けず、何人に対しても
  推すべきは心中から之を推し、用うべきは心中から敬して用いておられた。
  ・・・。ゆえに天下に志あるものは、多く大久保さんの知遇を得んことを
  欲した」
  と語ったと伝えられる。
  大隈も同様であった。大久保が、藩閥にとらわれずに
  人材をうけいれ、その人事も概して公平だったことには、幾多の証言がある。
  (大久保利通:毛利敏彦著・中公新書 179pより)
 
 
  ・・・。やがて、大久保は、太政官出勤のため、馬車で清水谷にさしかかった。
  午前8時ごろ、石川県士族島田一郎ら6名の征韓派士族が、大久保を襲って
  斬殺した。
  このとき、大久保49歳。これから本願の殖産興業に不退転の力を
  傾けようとしたそのときに、彼は、17年間の政治生涯を閉じた。
  殖産興業を基幹に富国強兵、資本主義的近代化を目指すという大久保路線は
  「大久保に比し、精励と手腕と意力において劣るともまさらざる後継者たち」
  (服部之総)の手にひきつがれた。
  そして、大久保の死後、八〇〇〇円の借財が残されていたという。
  (大久保利通:毛利敏彦著・中公新書 193pより)
 
 
 ◎次回は、吉田茂が「政治資金」をどのように工面していたかについての本題。
 
 ●添付は、根木作・「リョーマの休日」、休日は、自転車でどうぞ!
 
根木勢介  携帯:090-2825-2069

 

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根木勢介 さんの記事・・・吉田茂:その⑥娘和子の証言・お金はどこから2-2

2012-12-30 | 根木勢介 さんの記事
根木勢介 さんの記事・・・吉田茂:その⑥娘和子の証言・お金はどこから2-2
 
 前回、根木作:「リョーマの休日」の自転車 の添付をしましたが、「自転車」
について、調べてみました。
なお、添付の自転車は「龍馬の生まれた町記念館」で夏休み工作教室のひとつと
して作ったものです
プラモデルのように組み立てで完成するようになっています。
 
 
◆以外と自転車の歴史は、新しいのですね。
龍馬の生まれる20年ほどまえにドイツで発明されたそうです。
その自転車がいつ日本へ入ってきたのか、また龍馬も自転車を見たのか、少し
興味があります。
龍馬が幕末に自転車を見たとしても自転車という日本語自体ががなかったのです。
 
 
<国産の自転車>のこと:明治元年には「国産自転車」があった!!
 
・黎明期・明治初期
 
  文明開化の時代、人々にとって驚きと共に迎えられた乗り物といえば蒸気船と
 蒸気機関車、そして自転車だった。
 その自転車の日本への渡来については諸説がありはっきりしていない。
 
  国産自転車の最初の記録は、明治元年(1868)に、近代機械産業の始祖と
 いわれる、からくり儀右衛門こと田中久重(ひさしげ・1799~1881)
 が二輪車と三輪車を製造したと、彼の弟子の川口市太郎の手記にある。
 このときの自転車は「がたくり車(ボーンシャエーカー型)」といわれる前輪が
 わずかに大きく、この前輪に直接ペダルがついているものである。
 
 ところで「自転車」という日本語をつくったのは、東京の彫り物職人だった
 竹内寅次郎。明治3年(1870)に外国人が乗り回していた車をモデルに
 自転車をつくり、それに「自転車」という商品名をつけて販売したという。
 ・・・。
 (雑誌・サライ 1998年7月2日発行110Pより)
 
自転車については、まだまだ面白い話がありますが、このへんで。
 
 
●吉田茂は、政治資金をどのように工面していたのか?
 
 前回、大久保利通は、「借財」を8,000円残して暗殺されたと
紹介しました。
(吉田茂には安斎という「金庫番」がいました。)
 
<父 吉田茂:麻生和子著・光文社知恵の森文庫 187pより>
 
・財布
 ・・・。
  自由党の会計は、父の執事の安斎が引き受けていました。安斎は大福帳の
 ようなものにお金の出入りをすべて記帳しておきます。それをあとで、党の人と
 いっしょに整理していました。党のお金とは別に、父が政治に使うお金の面倒は
 主人(麻生多賀吉)がみていました。政治にはどうしてもお金がかかります。
 たまたまお金があるのならそれを使えばいいことでしょうが、もしなかったら
 相当な苦労だと思います。
 代議士になって大きな家を建てた、広い土地を買ったというようなお話を耳に
 するといったいどうやってそれだけのお金を稼がれたのかしらと不思議になります。
 ぜひ教えていただきたいものです。
 
 もう時効ですからお話してもいいかと思いますが、父の個人的な政治資金は麻生家
 から注ぎこんでいたものでした。
 父のところにいくお金について、主人は二重帳簿をつけていました。お金をつくる
 ために何かを売る場合、ないしょで売って、売ったお金が父の方に流れている
 ことをつきとめられないよう二重帳簿につけます。
 ・・・。
 ほんとうに父はお金を持っていなかったのですが、のんきな人でしたから
 どこからお金が入ってくるかということは気にもとめていなかったのでは
 ないかと思います。
 「とにかく麻生に任せてあるんだから、そんなこと知らないよ」
 などといっているのですから、じつに結構な身分です。
 
 なにぶん父は、吉田家から受け継いだ一財産をさっさと使いはたしてしまった人です。
 自分が政治に使うお金がどこからきているのかというようなことをいっさい考えない
 ところが、吉田茂の吉田茂たるところだったのかもしれません。
 婿に世話になっているということは、あまり頭になかったのではないかと思います。
 父にお金を注ぎ込んでいた麻生のほうにしても、女房の父親だからということを
 越えて吉田茂という人物にほれこんだために援助をおしまなかったようなところが
 ありました。
 それでも、あまりたくさん麻生のお金が父のもとに流れていっているようだと、
 さすがに気がひけます。そこで、
 「吉田の父は、よくこれだけお金に無頓着でいられるものね」
 というようなことを私が口にすると、反対に麻生が怒りました。
 「財政的に援助しているのはおれのお金だ。お前の金じゃない」
 というのです。
 麻生が父にお金をつぎこみ、そのことを心配すると、私が麻生に怒られるのでしたが、
 それでもやっぱり肩身の狭い思いをするのに変わりはありません。
 麻生自身は、父とおなじで、お金にほんとうに困ったことのない人でしたから、
 父につぎ込むお金を惜しいとは思わなかったのではないでしょうか。
 
 ・・・。
 

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根木勢介 さんの記事・・・海の道・①塩と金毘羅講の道

2012-12-30 | 根木勢介 さんの記事
根木勢介 さんの記事・・・海の道・①塩と金毘羅講の道
 
 
 今、私の一番の関心は江戸時代の「水上交通」、「海の流通」です。
今日は、龍馬研究会の9月のイベントで「塩の道」を歩きました。
 
 海岸(香南市赤岡)から山奥(香美市大栃)に至る、「塩」を内陸部に運んだ
道が、塩の道。同時に「生活道」でもありました。
 
 ときどき強い雨もふりましたが、奇跡的に「雨の難」をさけてウオーキング
できました。
今日のウオーキング(美良布~大栃:11.6キロ)でしたが、特に印象が
深かったのは、『”金毘羅”信仰が、こんな山奥にまで盛んだったのか』、と
いうことでした。
 
 
◆金毘羅講
 
 宝暦(1751年)から安永(1772年)にかけ瀬戸内海の航海が活発に
なってくるにつれ、航海の守護神として金毘羅権現の信仰はにわかにさかんと
なり海運業者、船乗り、漁民などの信者が多くなった。
かくして、全国から来た参詣人を大坂から丸亀まで運ぶ金毘羅船が非常な
にぎわいをみせた。
社寺参詣を名目とする庶民レベルの旅旅行の開始である。
その中心が伊勢神宮と金毘羅社であった。
いずれも講(参詣するために組織された団体)を構成し、毎年講の代表という
形で代表者が選ばれるのであるがその中に若者が加えられて、一種の成人式の
役割をはたしていたことが、社会組織の重要な意義を有していたといわれる。
 
江戸時代の物価を換算するのは大変難しいが、一泊二食つきの旅館代を
中クラスでみると150文(1500円)であったときに大阪から三十石船で
下津井まわりで丸亀に行く船代は、たったの75文(750円)と安値で
あった。
最低でも三泊四日は要したことを考えると、これは一種の奉仕的な
価格であったが、船頭が丸亀の地元において宿屋を兼業しており、かつ参詣に
際して船頭が御師のごときガイドを務める仕事も引き受けていたので、それらを
考慮したサービス価格であったといえる。
このように、旅行システムが庶民レベルで完成していたことを示している。
(海の百科事典・金毘羅信仰 268pより)
 
 
■塩の道:宮本常一著・講談社学術文庫 19pより
 
<塩には霊がない>
 塩というものは、われわれにとってたいへん大事なものでありながら、それに
対しての認識がたいへんうすいのはなぜか、ということを考えてみますと
これについては渋沢先生が非常に的確に指摘しておられます。
つまり塩というものは、我々の食べもののなかの一つの要素にはなっていますが、
塩そのものはじつはエネルギーにならない。
米や麦を食べるとか酒を飲むとかは、これはすべてわれわれのエネルギーに
なります。
しかし塩は、食べてそれがエネルギーになるというものでなく、われわれの
からだの中にあるものをぐるぐる回していって、最後にはこれを排泄させると
いう、つまり循環の機能を救け、そして健康を保全するという働きをする
ものなのです。
もし、塩がなければ、そういう作用、働きがストップするというぐらいに
たいせつなものでありますが、塩そのものは、エネルギーを生まないという
一つの大きな特色をもっている。
この特色、つまりバイプレーヤー的であるということがわれわれに塩への関心
をうすくさせているばかりでなく、塩に対する我々自身の本能的に認識して
いるものが普通の食べ物とは違っているように思われます。
これは、どういうことかといいますと、エネルギーを生む食物はその中に
霊が宿っているというのでたいてい神に祭られています。
米なら米、麦なら麦、それぞれの穀霊というものがありますが、塩には
霊がないので塩自体を神に祭った例は、われわれが今日までずいぶん調べて
きましたけれども出てまいりませんでした。
塩を作った塩土の神というのは出てくるのですが、塩自体が神に祭られると
いうことはなかった。
これがそのまま、われわれの塩に対する一つの姿勢であったとみて
さしつかえないように思うのです。
 
※「塩には霊がない」というのは、面白い考えと思い、紹介しました。
 渋沢先生とは、民俗学の先生「渋沢敬三」さん、のちには日銀総裁などを
 したひとです。
 
根木勢介  携帯:090-2825-2069
 
 
  
 

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根木勢介 さんの記事・・・天文①:夜空を仰いで 数える星も・・・

2012-12-30 | 根木勢介 さんの記事
根木勢介 さんの記事・・・天文①:夜空を仰いで 数える星も・・・
 
 
 
 テレビでは、9月15日より封切りの「天地明察」の予告がよく流れて
いますね。
 
 
面白そうなので映画を見ようと思っています。
映画には、登場しないようですが、主人公の保井算哲(さんてつ)と
土佐・谷秦山とは、大いに関係があるようです。
 
 
 
<高知市歴史散歩:広谷喜十郎著・高知市文化振興事業団刊60pより>
 
★第27話 星空の狩人  1984年10月
 
  最近、ハレー彗星の再来について、とかくマスコミで話題になっているが、
 江戸初期の「桂井素庵記」は、彗星が出現して高知城下の人々が騒然と
 している生々しいニュースを伝えており、それが二代藩主山内忠義の逝去と
 重なったために人々を不安に陥れている。
 
  高知県立図書館蔵の「天柱(てんちゅう)密談」(9巻)は、儒者谷秦山(
 じんざん)が師匠保井算哲(渋川春海・はるみ)に送付した暦学に関する
 質問状の書簡を集録したもので、秦山の質問に対して算哲の返答が朱でもって
 書き込まれている。
 それに、谷秦山が暦学研究のテキストとして使用した「貞享歴(じょうきゅう
 れき)もある。
  この暦は江戸の歴学者保井算哲が作成したもので、平安時代以来の宣明暦
 (せんめいれき・中国伝来)の誤りを天体の長期観測結果、修正した日本人の
 手になる最初の暦である。
 
  秦山は、天体観測をして、高知の緯度を三十三度と推定しており、土佐天文学
 の祖であるといえる。
 「地球三十三番地」の標示塔が昭和37年に、高知市弥生町の一文橋近くの
 江ノ口川南岸に建てられた。
 なお、秦山が晩年住んでいた土佐山田町には住居跡記念碑があり、その台上に
 かって渾天儀(こんてんぎ)の模型が置かれていた。
 秦山の天文観測図としては「貞享星座」、「日月会合図」(谷垣守写)、「日出
 日没観測図」などがある。
 
  天体の運行を観測する器具を「渾天儀」といい、川谷薊山が制作して藩主へ献上
 したものが土佐山内家宝物資料館に収蔵されている。
 高さ四十センチで球体部分の直径が三十一・五センチである。
 薊山は谷垣守から天文学を学び、江戸に出て算学を究め、帰国後は暦学に
 精進した。
 従来の官暦の誤りを指摘したり、宝暦十三年九月一日の日食の予測が見事に
 あたり、国外にまで彼の名が知られるようになった。
 なお、彼の作成した「星図」が高知市民図書館に保存されている。
 
  秋は、夜空の星がきれいに見える時なので、子どもたちと一緒に星空を眺める
 心の余裕を持ち、また、高知市在住のコメットハンターとして著名な関勉さんの
 「星空の狩人」(筑摩書房)を読んで、はるかかなたの宇宙のドラマにも目を
 向けたいものである。
 
 
★最近、雨が多くて、夜空も見えませんが、たまには、夜空も眺めてみますか?★
 
 
 
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根木勢介 さんの記事・・・天文②「天地明察」の映画・算木

2012-12-30 | 根木勢介 さんの記事
根木勢介 さんの記事・・・天文②「天地明察」の映画・算木
 
 
今月11日、研修部研修:今一度歩いてみよう”土佐っ歩”コース・高知城
コースを歩きました。
反省会(ふりかえり)で出された質問・感想などを添付フアイル(7枚)に
まとめてみました。
まだ、不十分な項目もありますが、転送などで活用していただいても
かまいません。皆さんのお役に立てれば、幸いです。
 
 
<算木(積)>
 
 昨日は、妻と映画「天地明察」を見て来ました。
 高知城との関係でいえば、『算木』が出て来ます。
お城の石垣の角(隅)によく見られる「算木積(さんぎづみ)」のもととなった
といわれる算木。
主人公の安井算哲(渋川春海)がそれを使って計算をするところが出て来ます。
算木とは、どのようなものだったか、がわかります。
この映画関連のパンフレットによると、
 
 ・算木:赤と黒の棒が、計算用具に
   中国では紀元前より使われていたという計算用具、算木。
   赤の算木はプラス、黒はマイナスを表わし、日本では
   そろばんが普及するまで用いられた。
 
とあります。映画では、そろばんと併用して使われていました。
   
山崎闇斎(やまさきあんさい)が、算哲の師匠として登場しますが、算哲を
助けるために「矢を背中に受けて」殺されてしまいます。
(これは、史実ではなく、映画の作り話、だそうです。)
 
< 土佐と渋川春海の関係>
 山崎闇斎(1619~1682)は、土佐の谷秦山(1663~1718)の
師匠でもあり、算哲(1639~1715)の師匠でもあります。
算哲と秦山は、師弟関係です。
 
■谷秦山:(土佐/人と風土・平尾道雄選集第3巻 52pより)
 
 近世土佐の学問に金字塔を立てた谷秦山(たにじんざん)のことはあらゆる機会に
紹介されています。
南学系譜のなかに厳然とその輝かしい位置を占めていますが、いわゆる南学は
いうまでもなく、山崎闇斎の垂加神道を学んで土佐に日本学を確立しました。
 
 これは南学に新性格をあたえたもので、土佐藩の尊王思想も、幕末の勤王運動も
これから導かれた、と考えられます。古神道は自然の理法と人類の運命を占う
方法として天文学と結び、秦山は荒木田経晃や安倍泰福、江戸の渋川春海から
神道や天文暦学を学んで、土佐に天文学をうちたてました。
 
 古神道の究明は、実証史学のたねをまき、その他に医学の道を求めています。
秦山の名は丹三郎史重遠、その子は丹四郎垣守(かきもり)、その孫は丹内真潮
ましお)、世間では、この三人をあわせて「三丹」と呼び、この学派のことを「
谷門の学(こくもんのがく)」と称えました。学問追求の真剣さと、後代に
あたえた影響の大きさから考えて、秦山を「土佐学の始祖」とみることも
できるのではないでしょうか。
・・・。
 
★余談①:谷干城(たてき)
    3000人で(西南の役で)西郷軍・2万人の進撃を抑え、全日本の
    動乱を防いだのは、熊本鎮台司令長官谷干城(たにたてき)の毅然たる
    態度と、五十余日にわたる不屈の籠城戦。
    この谷干城は、谷秦山の末裔です。
 
 余談②:土佐南学、西学、京学
    ”南学”の名付け親で「南学伝」の著者大高坂芝山(おおたかさか
    しばさん)(1647~1713)は京都を中心とする学問を”京学”
    、備前岡山を中心とする学問を”西学”、これに対して土佐に起こった
    学問を”南学”「と定義している。
    一方、寺石正路(1868~1949)の「南学史」では周防大内氏の
    学を”西学”としている。
    (土佐観光ガイドボランテイア協会・高知観光ガイドブック③ 89p)
 
※だいぶん、「天地明察」の映画とは、はなしがそれてしまいました。
 『ご明察』とは、行かなかったですね。
 
 次回は、もう少し映画のことに触れます。
 
根木勢介  携帯:090-2825-2069
 
 

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根木勢介 さんの記事・・・吉田茂:その⑦娘和子の証言・金庫番2-2

2012-12-30 | 根木勢介 さんの記事
根木勢介 さんの記事・・・吉田茂:その⑦娘和子の証言・金庫番2-2
 
 
 今日は、久しぶりに「雨」の心配をせずにすむ一日になりました。
四国では、雨は当分いらないですね。
 
 
◆大久保利通(ここでは、茂の奥さんである雪子の祖父)のこと:
 
【海音寺潮五郎】
 ・・・。彼(大久保利通)はほとんど薩摩外に出ていないのです。斉彬の
 生前、西郷(隆盛)がちょっと熊本に連れ出て、熊本藩の家老長岡監物と
 西郷の友人津田山三郎とに会わせたことがありますが、そのほかには
 国外に出たことはないのです。
 他の連中は度々江戸、京、大坂に出ているんです。
 有馬は何べんも江戸へ行っているし、吉井友実は大坂藩邸詰めになっているし
 、有村俊斎すら何度も江戸に出ています。
 だのに、国許を離れない大久保の方が、天下の形勢にも通じており、
 なかまにもえらいと見られていたのです。
 よほど頭もよく、統制力もあったのですね。
【司馬遼太郎】
 才腕の人としては、日本史上最高の政治家といえるかも知れませんですね。
 西郷の場合、哲人、思想家という本質がある。
 別に西郷は思想書を著したわけではなく、その書簡などもほとんど時勢に
 関することで、思想そのものは書いていない。
 江藤淳氏はおもしろいことを言っているのですが、「西郷隆盛という思想がある」
 と。
 当時の日本人もそう思っていたし、今のわれわれも、西郷というのは、文字で
 なくてその生涯を原稿用紙にして、行動とたたずまいでもって思想を書いた人だ
 という感じですね。
 西郷さんならこういうだろうとか、いちいち人間の生き方についての根底の課題が
 出てくる存在ですけれども、そこへゆくと大久保利通にはそれがない。
 大久保にあるのは、稀有の、天才的といっていいマキュベリズムの才能なんですね。
 マキュベリズムは革命の前期、これは、例えば吉田松陰のような、詩人気質の
 人物が多くは出て来ますが、その時期には必要なくとも、革命の仕上げ期には要る。
 それに革命成功後の政権樹立後にも要る。
 革命も煮詰まって来るともはや、息詰まる陰謀と敵の陰謀封じの工作々々の連続  
 ですから、
 大久保はそれをやった。しかも破壊屋というだけでなく、政権樹立後の体制つくり
 をも主導的にやった。
 一人の人間にそれだけの才能がよくも宿っていたものだと思うほどです。
 ですから西郷がえらいか、大久保が偉いかというけれども、このふたりは
 全く体質の違った結局別の人ですね。
 別の人でありながら実によく組み合っていて、投手と捕手の関係のように二人で
 みごとな機能を果たした。
 あれほどの人物が、互いに近所で生まれて幼な友達だったということは奇蹟ですね。
【海音寺】
 奇蹟ですね。薩摩は当時武力的には日本一の雄藩ですから、幕府を倒したのは
 主として薩摩の力をいわなければなりませんが、その薩摩の中軸となった二人が
 同じ町内に生まれ合わせ、あんなに双方かわっているのに最も仲がよくて、最も
 しっくりした連携をとって働いたということは、日本歴史の大奇蹟ですね。
(日本歴史を点検する:海音寺潮五郎・司馬遼太郎の対談集 111Pより)
 
 
<吉田茂の金庫番2-2・安斎正助>
■父吉田茂:麻生和子著 光文社知恵の森文庫254pより
・富士山
 ・・・。
 昭和四十二年の十月二十日は、とてもきれいに晴れた秋の日でした。
しばらく前から父は床についていましたが、その日は体調がよかったらしく
、冨士を見たいといいました。
看護婦さんに手伝ってもらってベッドから椅子に移し、窓に寄せると、遠くに
はっとするほど美しい富士山が見えました。
「きれいだね、冨士は」
という父と、しばらくのあいだいっしょに富士山を眺めて過ごしました。
その日、調子のよさそうな父を残して私が渋谷の家に戻る途中、父は息を
ひきとりました。
眠るように静かな最期だったそうです。八十九歳でした。
亡くなった母も私もカトリックでしたから、父も最後には洗礼を受けると
約束していました。
そうして、まんまと天国泥棒をしようというのです。
けれども父は、なんでも来いでしたから、高天原からもおよびが来るでしょうし、
極楽からも天国からもおよびが来てしまって、どこへ行っていいんだか
わからないやと困ったかもしれません。
父が亡くなったあと、安斎は自分の家族のことを妙に心配しているようでした。
主人(麻生多賀吉)が決まったお金を分けると、ひじょうに安心したというふうで
したのでそのまま父の死の後始末に追われていたところ、一年目に安斎は大磯の
家の松葉を掃き集め自分の身もいっしょに火をつけてしまいました。
殉死というのでしょうか。
ひとりではなにもできない父のそばへ行って身の回りの世話を焼こうと思って
くれたのかもしれません。
・・・。
 
※安斎正助
 
 
●次回は、「小りん(こりん)」さんについてでも。
 
根木勢介  携帯:090-2825-2069
 

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根木勢介 さんの記事・・・吉田茂:その⑧番外編 寄り道しました

2012-12-30 | 根木勢介 さんの記事
根木勢介 さんの記事・・・吉田茂:その⑧番外編 寄り道しました
 
昨夜、高知市である人の講演会がありました。
いま、尖閣諸島問題に端を発した中国のデモ報道が連日取り上げられています。
講演のなかでその演者が参加者に次々とクイズを出しました。
 
◆日本の領土:
 
 今話題の「領土問題」にも、また吉田茂にも関係することですが、・・・
 
・ボツダム宣言(1945年・昭和20年)を読んだことありますか。
・日本の降伏文書(1945年)を読んだことありますか。
・サンフランシスコ平和条約(1951年)を読んだことがありますか。
 
・・・の質問も出ましたが、その名前は知っていても会場のほとんどの人が
読んだことがないようでした。
私も、断片的には知っていても読んだことは、ありません。
 
権妻制度・板垣・岩崎・後藤>
■政 財 腐蝕の100年:三好 徹著・講談社文庫 129pより
・・・。
 後藤(象二郎)は慶応3年6月に坂本龍馬と一緒に長崎を出るとき、同地の
土佐商会(土佐藩の経営する貿易会社)の裁量を岩崎に任せた。
後藤は、そのあと龍馬がアイデアを授けた大政奉還の建白によって、天下の
名士になってゆくのだが、この人事は、たとえていえば、土佐藩長崎出張所の
平社員の岩崎をいきなり所長にしたようなものだった。その代償として
使い込んだ遊興費や放漫経営の赤字をたくみに処理してもらう約束が交わされ
たのだ。細かいことは省略するが、岩崎は土佐商会を再建し、九十九商会と
改称して、さらに発展させようとしている。
つまり、大きな利益が見込めるからこそ、廃藩置県によって、国有化される前に
払い下げてもらいたいのだ。
後藤はのちに娘を岩崎の弟の弥之助に嫁がせたくらいだから、両者の間に何も
隠し事はなかったように第三者から見られているが、事実は必ずしもそれほど
親密ではなかった。
後藤は岩崎に、長崎在任中の自分の不行跡の後始末をさせたのに、実はさほど
岩崎を信用していなかった。
岩崎の方も、慶応3年10月ごろの日記を見ると後藤のことを「後藤公」と
書いたり呼び捨てにしたりで、日記にいう「種々公私の談をなす」間の感情の
変転がよくわかる。
 
 板垣退助を何のために柳橋に招待するのか、本当は後藤だって検討は
ついていたが、わざと「何のために?」と質問したのだ。
「九十九商会が国有化されて帳簿を調べられますと、長崎時代の俗事がすべて
つかまれてしまいます」
と岩崎はいった。
後藤に対しては、高知在住の保守派から「京、長崎において公事に託して遊興
の事」に関する彼の行状について、山内容堂(15代藩主、このころ隠居して
いたが、実権をにぎっていた)あて告発状が出たことがあった。
 
俗事とは遊興や不行跡の意味であり、それが公になったら、岩崎も困るが
後藤はもっと困る。さらに、岩崎の返事は廃藩置県の計画をつかんでいることも
暗示しているのだ。
後藤は苦笑して、板垣を紹介することを約束した。板垣は金銭に淡泊だった。
新政府の大官たちは大邸宅に住み、召使を数十人も雇って幕藩時代の大名の
ように暮らす者が多かったが、板垣は土佐藩邸の一室で起居していた。
晩年に至っても、板垣の財産は高知市内の200坪の家屋敷と趣味の100頭の
猟犬だけだといわれた。
板垣のそういう性格を知っている後藤は、岩崎の接待攻勢も通じないだろう、と
予測していたが、この招宴のあと、板垣が休息所を持つ、といい出した。
休息所とは妾宅のことである。
岩崎が宴席に呼んだのは小清(本名せい)という柳橋きっての美妓で、このとき
17歳。5尺そこそこの小柄な女性だが、板垣は自分に酌をする小清を見て
思わず息をのんだ。
 
もとより岩崎はそれを見逃さなかった。
板垣は、高知に正妻の鈴がおり、ほかに政野という弘化元年(1844年)
生まれの28歳の権妻(ごんさい)が高知郊外の九反田にいる。
「権(ごん)」は、「仮」あるいは正に対する副をあらわし、この場合は
第二夫人である。
また、彼がとくに好色というわけではなく、この時代の上層の武家階級では、
妾宅を持つのはごく普通のことだった。
板垣などはむしろ堅ブツの方だったかもしれないが、岩崎の狙いは的中した。
このとき35歳の板垣は、安政2年(1855年)生まれの17歳の柳橋芸者・
小清に心を奪われてしまった。
こうした女性たちの年齢や本名がわかるのは、実は明治4年制定の戸籍法によって、
正妻のほかに権妻も出生地や生年の届け出を出すことに定められ、その記録が
残ったからである。
戸籍法はそのあとの学問や徴兵制のための前段階の新法だったが、同時にこういう
副産物をもたらした。
ただし、権妻条項は、それがあっては具合が悪い、と感じた政治家たちによって
ほどなく削除された。
・・・。
 
◎東京にいる二男から次の映画情報をもらいました。
 
 
この映画館の建つ場所は、「戦災」のがれきが埋められたところだそうで、
これも吉田茂の時代に「端を発した」のですね。
 
★次回は、権妻でも、正妻でもなかった「こりんさん」について、でも。
 
根木勢介  携帯:090-2825-2069
 
 

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根木勢介 さんの記事・・・天文③「天地明察」の映画パンフより2-1

2012-12-30 | 根木勢介 さんの記事
根木勢介 さんの記事・・・天文③「天地明察」の映画パンフより2-1
 
 二十四節気七十候、[秋]の候、いかがお過ごしでしょうか。
  春にはい出た虫は土にもぐり、渡り鳥が移動を始める秋。
  キクの花が咲き、モミジが色づき、冬はもうすぐそこに。
 
 ◆前回の「吉田茂」シリーズで用語の間違いがありました。
  〇ボツダム宣言(誤り)⇒「ポツダム」宣言(正)でした。
 
 ◆また、これまでに色々な「コメント」などをいただきました。
  全部は、紹介できませんが、一部紹介とお礼を申し上げます。
 
  
・あら、あら、秦山の記念碑は夫の住んでいた隣らしい。芝生の真ん中にあった、あったと。
 そこらあたりで遊んだと。えぇ、「渾天儀」??やったろか?今もある?
 さぁありゃあせんか?ですって。
 
・塩は霊でなく、清めるものなんですね。
 悪霊を祓う・・そんなに感じて、お葬式の後や、相撲にもと思っていたのですが?
 
・安斎正助さんはドラマに登場してないようですね。
 小りんさん同様、興味があります。
 
 また、「土佐南学」については、『読むと頭が痛くなる』、そのような感想も
ありました。
私もよくわかっていないので頭が痛くならないように、これから勉強したい、
と思います。
 
<映画を見るとパンフを買い求めるようにしています。>
パンフにも、参考になる事項が、必ずありますね。
 
●最近、高知新聞につぎのような内容の「投書」が載っていました。
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 ・二十四節気のこと
  日本気象協会が、「日本版二十四節気と称して新しい季節の言葉の提案に
  取り組む」予定だったが、これは、愚挙だとの猛反対があり取りやめた
  そうです。
  「危惧が晴れて眠りが爽やか」になって、安堵したとの投書です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
  ”二十四節気”と言われても根木には、ピンとこないですが、たとえば
  明日23日は、何の日でしょうか?
 
  あすは、暦の上では、『秋分』です、といえばわかりやすいでしょうか。
  この秋分などが、二十四節気で、秋分の場合には、さらにこれに次の三つの
  「候」が付き、全部で「二十四節気七十二候」というそうだ。
 
   ・雷乃収声(かみなり すなわち こえを おさむ)
     雷が鳴り響かなくなると、本格的な秋が訪れる。
     太陽が真西に沈む頃。
   ・蟄虫〇戸(むし かくれて とを ふさぐ)
     春にはい出てきた虫が土中に入り穴をふさぐ。
     冬ごもりの支度に入る、
   ・水始涸(みず はじめて かるる)
     稲穂の実りの時期を迎え、水田の水をなくして、収穫に備える。
 
  一年を24の節気と72の候に区切り、季節の風物を言葉で
  表現したもの。安井算哲(渋川春海)はも、その改訂に携わったとされる。
 
■「天地明察」のパンフレットより:
◎原作者の冲方 丁(うぶかた とう)さんの記載文より:抜粋
 ・・・。
  今年は”天文ゴールデンイヤー”ですが、時間感覚に関しては、
 江戸時代の人よりも現代人のほうが敏感なはず。
 だからこそ、今回の映画で、算哲の志した天文学とは「社会を動かす学問でも
 ある」と、より感じていただけたのではないでしょうか。
 時間の観念を司り、ということは文化を担い、さらには人に”眼差し”
 を与えたんですね。
 例えば天皇陛下にはもともと「北斗七星にもっとも近い人」という意味があり、
 全員が同じものを見上げる経験を与え、結果、社会の巨大な構造を
 意識できるようになったんです。
 星を見る時は、星に見守られている、つまり星を鏡にして彼方からの
 視点を人間は想像し、自分自身を見つめている。
 渡り鳥は星空を手がかりに巨大な海を越えてゆきますけど、人間の場合
 、精神的にそれをやっており、壮大な時間感覚を認識して、とてつもない
 視野を獲得してきたんですよね。
 これは、他の動物にはまったくない能力で 、だから人間は国家や社会を
 つくれたんです。その源は、星の観測からきている、ちなみに歴史の”史”と
 いう字は、もとは「星を見る人」を意味していました。
 ・・・。
 
※次回は、「武士階級と日付」のことでも。
 
根木勢介  携帯:090-2825-2069
 
 
 

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