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根木勢介 さんの記事・・・龍馬その5:長岡謙吉特集第5回目八策は、「十一策」だった?

2013-02-23 | 根木勢介 さんの記事

根木勢介 さんの記事・・・龍馬その5:長岡謙吉特集第5回目八策は、「十一策」だった?

 

 日曜日に魚梁瀬森林鉄道や馬路村の地域振興に尽力中の若者(34歳)のはなし

を聞く機会がありました。

NHK総合テレビの番組で「嵐の桜井翔」が馬路村を訪れて間伐体験などを

体験する番組が放送されました。いい番組だったと記憶しております。

この番組の放映後、馬路村への来村者が、増加しているそうです。

その彼は、テレビの影響・効果は、大きいと話していました。

 

 さて、「長岡謙吉」特集を今回も続けたいと思います。

なお、赤字部分は、根木によるものです。

■坂本龍馬 五つの新常識:文藝春秋スペシャル2012季刊夏号・48pより

 

「船中八策」は十一策あった(菊地明・幕末維新研究家執筆)

 

 慶応三年(1867)五月十二日、京都で薩摩藩の島津久光、宇和島藩の伊達

 宗城(むねなり)、福井藩の松平春嶽、それに土佐藩の山内容堂が合同し、政局

 を議する「四侯会議」が開かれました。容堂は親幕派ですが、久光は反幕、宗城

 と春嶽は幕府体制の維持には消極的な立場にありました。

 当然、容堂は孤立してしまい、その後の会議をボイコットして、二十七日には

 病気を理由に帰国の途についてしまいます。

 しかしこのままでは土佐藩の存在意義がなくなってしまいます。そこで容堂は

 帰国に先立って、長崎滞在中の後藤象二郎に事態を打開するため、上京を命じて

 いました。

 後藤象二郎が長崎から船で大坂に向かったのは、六月九日のことです。これには

 後藤の依頼によって、やはり長崎にいた龍馬が同行していました。

 この航海中に龍馬が提示したとされるのが、大政奉還と議会制を柱とした、

 いわゆる「船中八策」です。同行していた海援隊の長岡謙吉が起草したと

 いいます。

 

  ところが、この「船中八策」も「亀山社中」同様、昭和になってからの名称

 なのです。

 しかも、当初は「八策」ではなく、「十一策」だったとされていました。

 明治二十九年の『阪(坂)本龍馬』は、「長岡謙吉」をして建議案十一箇条を

 草せしめたり」、大正元年の『維新土佐勤王史』は「世にいわゆる坂本の八策なる

 もの」「第九、第十、第十一」の文字は、世に伝わらず」とあります。

 これが「八策」とされるのは大正三年の『坂本龍馬』からで、そこには「長岡を

 して左の八策を草せしむ」とあり、昭和元年の『雋(しゅんけつ)傑坂本龍馬』

 では「世にいわゆる龍馬の八策」とあります。

 ※雋(しゅん、すぐれているの意)

 

  そして昭和四年刊行の平尾道雄の『坂本龍馬海援隊始末』によて、初めて「時勢

 救済策として八箇条を議定した。いわゆる船中八策と称されるもので・・・・」と

 「船中八策」という名称が使用されたのです。

 後藤象二郎が山内容堂に上京を命じられてから、長崎を出立するまで、ある程度の

 日数があります。

 このとき後藤と龍馬は盟友関係にあり、上京命令を受けた後藤は、龍馬の意見を

 求めたはずです。後藤に対応能力がないということではなく、自分とは異なった

 経験を重ねている龍馬による、別角度からの打開策の有無を探ったに

 違いありません。

 その結果に有効性があると考えれば取り入れ、なければ却下すればいいのです。

 とにかく、反幕的方向に進んでいた政局において、親幕派の土佐藩が存在感を

 示すことは非常に困難な状況にありました。

 それなのに後藤は、乗船するまで龍馬に相談しなかったというのでしょうか。

 龍馬は相談を受けていたとしても、船に乗るまでは何も語らなかったというので

 しょうか。

 そう考えるのであれば、それは「船中」という言葉に引きずられた結果に過ぎず、

 そのようなことがあったはずはないのです。

 

  後藤と話し合った龍馬は、一つの答えを見いだします。それが、一見すると

 親幕的でないものの反幕的雄藩の政治参加を認めるというものでした。

 つまり、幕府が政権を朝廷に返還し、徳川家が一つの藩として新政権に加わると

 いう大政奉還です。

 もちろん、龍馬のオリジナルではありません。前述したように、海舟・松平春嶽・

 横井小楠らはそうした構想を抱いており、龍馬はそれに興味を持って彼らと接触し、

 海舟の門下生となったのです。

 長崎出立前の五月二十八日、龍馬はお龍に手紙を書きました。現存する唯一のお龍

 宛てのものです。

 そこに龍馬は「このたびの上京は誠にたのしみにて候」と書いています。

 このことは、龍馬が乗船後に大政奉還策を提示したものでないことを、如実に物語

 っています。

 龍馬が「たのしみ」にしていたのは、京都見物でも知人との再会でもなく、大政

 奉還という政策に京阪の親幕派の土佐藩士や反幕派の諸藩士がどのように反応

 するか、そこに興味があったのです。

 

  結果的に、土佐藩は大政奉還を藩論とし、幕府に建白することとなり、反幕派の

 薩摩藩もそれを認めました。

 そして、時の将軍・徳川慶喜は建白を受け入れ、徳川幕府は消滅することと

 なるのです。

 

 

根木勢介  携帯:090-2825-2069

 

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