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根木勢介 さんの記事・・・海の道・①塩と金毘羅講の道

2012-12-30 | 根木勢介 さんの記事
根木勢介 さんの記事・・・海の道・①塩と金毘羅講の道
 
 
 今、私の一番の関心は江戸時代の「水上交通」、「海の流通」です。
今日は、龍馬研究会の9月のイベントで「塩の道」を歩きました。
 
 海岸(香南市赤岡)から山奥(香美市大栃)に至る、「塩」を内陸部に運んだ
道が、塩の道。同時に「生活道」でもありました。
 
 ときどき強い雨もふりましたが、奇跡的に「雨の難」をさけてウオーキング
できました。
今日のウオーキング(美良布~大栃:11.6キロ)でしたが、特に印象が
深かったのは、『”金毘羅”信仰が、こんな山奥にまで盛んだったのか』、と
いうことでした。
 
 
◆金毘羅講
 
 宝暦(1751年)から安永(1772年)にかけ瀬戸内海の航海が活発に
なってくるにつれ、航海の守護神として金毘羅権現の信仰はにわかにさかんと
なり海運業者、船乗り、漁民などの信者が多くなった。
かくして、全国から来た参詣人を大坂から丸亀まで運ぶ金毘羅船が非常な
にぎわいをみせた。
社寺参詣を名目とする庶民レベルの旅旅行の開始である。
その中心が伊勢神宮と金毘羅社であった。
いずれも講(参詣するために組織された団体)を構成し、毎年講の代表という
形で代表者が選ばれるのであるがその中に若者が加えられて、一種の成人式の
役割をはたしていたことが、社会組織の重要な意義を有していたといわれる。
 
江戸時代の物価を換算するのは大変難しいが、一泊二食つきの旅館代を
中クラスでみると150文(1500円)であったときに大阪から三十石船で
下津井まわりで丸亀に行く船代は、たったの75文(750円)と安値で
あった。
最低でも三泊四日は要したことを考えると、これは一種の奉仕的な
価格であったが、船頭が丸亀の地元において宿屋を兼業しており、かつ参詣に
際して船頭が御師のごときガイドを務める仕事も引き受けていたので、それらを
考慮したサービス価格であったといえる。
このように、旅行システムが庶民レベルで完成していたことを示している。
(海の百科事典・金毘羅信仰 268pより)
 
 
■塩の道:宮本常一著・講談社学術文庫 19pより
 
<塩には霊がない>
 塩というものは、われわれにとってたいへん大事なものでありながら、それに
対しての認識がたいへんうすいのはなぜか、ということを考えてみますと
これについては渋沢先生が非常に的確に指摘しておられます。
つまり塩というものは、我々の食べもののなかの一つの要素にはなっていますが、
塩そのものはじつはエネルギーにならない。
米や麦を食べるとか酒を飲むとかは、これはすべてわれわれのエネルギーに
なります。
しかし塩は、食べてそれがエネルギーになるというものでなく、われわれの
からだの中にあるものをぐるぐる回していって、最後にはこれを排泄させると
いう、つまり循環の機能を救け、そして健康を保全するという働きをする
ものなのです。
もし、塩がなければ、そういう作用、働きがストップするというぐらいに
たいせつなものでありますが、塩そのものは、エネルギーを生まないという
一つの大きな特色をもっている。
この特色、つまりバイプレーヤー的であるということがわれわれに塩への関心
をうすくさせているばかりでなく、塩に対する我々自身の本能的に認識して
いるものが普通の食べ物とは違っているように思われます。
これは、どういうことかといいますと、エネルギーを生む食物はその中に
霊が宿っているというのでたいてい神に祭られています。
米なら米、麦なら麦、それぞれの穀霊というものがありますが、塩には
霊がないので塩自体を神に祭った例は、われわれが今日までずいぶん調べて
きましたけれども出てまいりませんでした。
塩を作った塩土の神というのは出てくるのですが、塩自体が神に祭られると
いうことはなかった。
これがそのまま、われわれの塩に対する一つの姿勢であったとみて
さしつかえないように思うのです。
 
※「塩には霊がない」というのは、面白い考えと思い、紹介しました。
 渋沢先生とは、民俗学の先生「渋沢敬三」さん、のちには日銀総裁などを
 したひとです。
 
根木勢介  携帯:090-2825-2069
 
 
  
 

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