根木勢介 さんの記事・・・高知城その4: 兼山は、土佐に仇たぬ人?!
野中兼山や婉のことをおはなしする時間があればいいですが、・・・。
●高知城 ひとくち知識:
<山内一豊の戒名・法名>
山内一豊[天文十五年(1546)~慶長十年(1605)9月20日]
・『大通院心峯宗伝(だいつういん しんぼう しゅでん)
意味:心の峯は宗を伝えて大きく通る
(こころの みねは むねをつたえて おおきく とおる)
山内盛豊の二男。尾張に生まれる。盛豊は織田信長に仕えていた。
一豊は信長に仕え元亀元年(1570)姉川の戦いで功をあげる。
のち、豊臣秀吉に属し、禄五百石を領す。天正九年(1581)妻の
貯えによって名馬を買いあげた。中国征伐に従い、毛利勢と戦う。
天正十一年(1583)には、若狭西県一万九千余石を領し、高浜に
住む。
ついで秀次に属し、長浜三万石を領す。同十八年(1590)には小田原
征伐に従い、その功によって東江国掛川城主となり、五万石を領す。
慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いには東軍に属し、この功で
土佐国二四万余石に移封され土佐守に任ぜられた。
翌六年(1601)九月から高知城を築城し同八年(1603)に移る。
墓地:高知市 真如寺(曹洞宗)
『「婉という女」で大原さんは、兼山のことを「土佐に仇(あだ)たぬ」人だった
のでは?』、というように描いています。
面白い見方だと思いますので、以下紹介しました。
・・・。
それにもましてわたくしが心に止めて、きいた一つの話があった。
それはわたくしの夢にも考え及ばなかった、恐らく兄上さえも一度も想像する
ことのなかったにちがいない、愕然とする内容(はなし)であった。
「お奉行様は不運なお方でございました。ご器量が大き過ぎたのでございます。
土佐一国には大きすぎる器でございました。」
と老人はいうのであった。
――もしも殿様が剛腹な方であられたなら、お奉行様は殿様を幕府の枢機に参画
おさせして、背後から日本国中に思うさまお仕置き(政治、経綸)の腕を振る
われたにちがいございませぬ、そのときにはお奉行様のいわれる、学問をこの世
に活かした見事な哲理の国が生まれたにちがいございませぬ、お奉行様ほどの
器量人は当時も今も江戸には一人もおりませぬ、殿様に度胸と肚(はら)の
なかったことがかえすがえすも不運でございました。
身を容れるには小さすぎる土佐に屈居して、才腕器量が溢れて、小人どもの嫉視
(しっし)中傷に足をすくわれなされたのでございます、と老人は歎く。
江戸幕府にどのようなすぐれたお役人衆がいられ、どのような政治が行われて
いるものか、勿論わたくしにはわからない。
けれども十六歳まで人質として江戸に育った兄上のお話では、大御所様という
お方は無類の遠謀深慮、諸大名方の裕福になることを常に抑え、わが子孫を盤石
の安泰に置くことを念願されたので、太閤様の遺臣どものうち、名だたる伊達さま
はじめ気骨ある大名方もことごとく、骨抜きにされておしまいだという。
父上失脚の一面の理由(ことわり)として、土佐二十四万石を石高三十余万石に
導いた目覚ましいお仕置きぶりが、幕府の不興を買ったのだということがあるのを
みても父上がもしも幕府に参画されたとしたら、その運命は更に大きな悲劇を
招いていたのではあるまいか、とわたくしは愕然としたのであった。
(婉という女・大原富枝著・72pより)
根木勢介 携帯:090-2825-2069
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