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根木勢介 さんの記事・・・高知城その5: 兼山の肖像画

2013-01-08 | 根木勢介 さんの記事
根木勢介 さんの記事・・・高知城その5: 兼山の肖像画
 
 

ある方からの年賀状によると、「長岡謙吉」の顕彰碑ができるそうです。 

  『今年は念願の「龍馬死後の海援隊隊長・長岡謙吉※の顕彰碑」も南はりまや町に

   実現します。それにつけても、今日の土佐人は何か元気がなくなったと思えてなりません。

   損得を越えて、世のため人のために生きた”土佐人をテーマとした絵画展”が

   できないかと今、考えております。』 

●今日は、高知県立美術館で開かれている「リヒテンシュタイン 華麗なる侯爵家

 の秘宝」展に女房と行って来ました。

 リヒテンシュタイイン家は、日本でいえば、「地方の一大名」のような極小国。

 この国は、現在でも人口が、三万人余だそうです。

 日本の歴史でいえば、「兼山時代」の作品も会場にずらっと並んでおり、よくも

 今日まで、散逸せず残ったものだと驚きました。

 会場にリヒテンシュタイン家の「家系図」がありましたが、日本の家系図とは、

 違って「何代目」の表示はありません。

 日本の「作られた」家系図と違って、”真正”なものでしょうから、よく”改易

 や領地を取(り上げ)られず”家系が続いているものだとこれにも驚かされます。 

 

◆Nさん、Yさんから、次のメールをいただきました。 

・えんの生母は、池きさではないでしょうか。 

・お城周辺、面白うて悲しいねぇ。祖母の合さんも・・・。ご登場願えませんか?

案内所から一豊像までの合間に、一寸お話するのによかったけど。

 

・う~ん。確かに。幕府にいて、急進なお仕置きをなさるとなると、

しもじもはおおごと。まだまだ、土佐でやりたいこともあったのでは・・

わが殿様、外様であったことが苦労の種か?

独断の強さが不幸の始まりか、身体を賭けたお仕置きだったと思う。

山田の屋敷跡、舟入川のそばに立った時、兼山先生~と叫びたい

愛しさと哀れさを感じました。

 

・あだたぬは仇とかきますか?なんか方言の意味がちがうような?

 

⇒根木の返信:

 【あだつ(動)】高知県方言辞典より

  はいる。はいりきる。

  「ちょっと足摺へ行ったばーなことに、近所や親戚へ、いちいちみやげものを

  買ーちゃるゆうーたら、アダツかや。

  (多くの人に一々金をかけてみやげ物を買うことはできぬの意。)

  注)「あだたん」という否定形がよく使用される。

    「龍馬は、土佐にアダタン人物やった」

    「人数がおおーて(多くて)、この講堂にゃアダタン」など。

 

  ★結論:Yさんの指摘通り、あだたぬは、カタカナか、ひらがな、のようです。

 

■高知城:①兼山の肖像画

・野中兼山と其の時代・平尾道雄著・高知県文教協会刊1pより

 

一、兼山の画像

 

 「古語実録」と題する古書に、野中兼山を評して「器量骨柄世に秀でたる人」と

書き、江戸の評判では「日本一の家老なり。

年若にして髻(もとどり)の毛厚きゆえ家老づきせぬ」ともあって、これを聞いた

兼山はさっそく家来を呼んで髻の毛を抜かせたとも書いてあるし、身長は六尺一寸

あったとも見えている。

土州の大守山内忠義は、六尺三寸、忠義の小姓松田五郎太夫はこれより大きくて

六尺五寸、江戸在府のとき、この大男三人組が同じ身支度で時折り町へ出かける。

お忍びの慰みでそっと出かけるのだが、いつとなく世間に知れてうわさの種になった

というのである。

この三人が、あるとき囲碁をやった。興つきて、力自慢の忠義が碁石を盤の上に置き、

親指でぎゅっと押し付けると碁石は盤木へめりこんでしまった。

かわって兼山がやると碁石はくだけて飛び散った。

次に五郎八がやると殿様の忠義がやったと同じく盤面へもりこんだというはなしが

ある。

世間話を書いたものでまともに受け取ることはできないが、いずれにせよ人並み

はずれた大男で、力持ちだったことが想像される。忠義と五郎太夫のばあいは、

碁石がめりこみ、兼山のは砕けてはねたとさりげなく書かれてあるが、はしなくも

そこに兼山の気性のはげしさが語られているのではないか。

野中兼山について書かれたものは随分たくさんあるが、その容貌や風采について、

私はこのほかに見当たらない。

 

こんにちよく見かける兼山肖像画について、私は故公文菊僊画伯から次のような

裏話を聞いた。昭和十五、六年のことで、当時画伯は東京郊外の五反田に住んでいた。

画伯は坂本龍馬画像の絵筆をとっていたが、そのほか武市瑞山、間崎滄浪、吉村虎太郎

らの肖像研究にもいろいろ苦心しておられたのである。

そんな苦心談のなかで、画伯は兼山画像のことについて問わず語りにその思い出話を

聞かせてくれた。

『実は古いことだが、文部省から依頼を受けて、私がそれを書くことになったのです。

 ところがーーー』

兼山の肖像というものは、いろいろと手をつくしたが、どこにも残っていない。

そこで制作することになって、いろいろと伝記を調べてはどんな性格を持っていたか。

こんな性格ならばどんな目鼻だちをしているか。どんな口元をしているか。

いろいろ想像してみる。

そのころ高知の新京橋付近に野中太内という人の娘が住んでいた。もう相当の年配

だったが、これが兼山一族の流れだというので、その人の顔立ちに自分の想像を

あわせてみる。

やっと、制作して文部省の係へ提出しておいたが、どうも心がおちつかない。

どこかに兼山先生のほんものの肖像が保存されていて、発表されたらという不安である。

 

それから忘れるともなく数年経って、あるとき画友の一人がやってきた。

そして、『上野の博物館に兼山の肖像画が出ているそうだが、知っているか。』

という報告である。

『驚きましたね。私は、顔色を変えて博物館へ駈けつけましたよ。ところが、---』

そこで発見したのは、かって文部省へ提出した自分の作品だった、というのである。

画伯は胸をなぜおろした当時を回想しながら静かに笑った。

評伝記書に使われている兼山画像は菊僊画伯のものでなく、上村(うえむら)昌訓画伯

の作である。

明治三十年頃のことで、当時の内務省から兼山画像の提出を高知県に求めてきた。

県の勧業課で詮議したが発見できないので昌訓画伯(当時第一中学校教諭)に依頼、

野中太内の娘が小藤某に嫁ぎ、高知城北麓に住み、茶や裁縫を教えているのを知って

いろいろ研究し制作して内務省へ納めた。

関東の震災で現物は焼けたらしいというのである。

(寺石正路・土佐史談三十号所載)不惑を過ぎると、人間は自分から自分の顔をつくる

ものだという説がある。

形成された人間は、その個性を顔にあらわすようになるという意味であろう。

私は、そのとき「古語実録」で知った兼山の風采を画伯に話した。

画伯はそれを知らなかったと答えて残念がったが、兼山のもつ気迫や体力をその画像に

認めることができるならば菊僊画伯の制作も成功したものといえるだろう。

ともあれ、兼山は戦国の余風消えやらぬあらあらしい時代にたくましく、すぐれた

象徴的な人間だったのである。

 

⇒根木の注)

 現在の評伝記書に一般に見られる「兼山画像」は、上記で平尾さんが話されている

 公文菊僊画伯のものです。

 

 

※根木より:

・Nさんから婉の母は、「池 きさ 」では、ないかの問い合わせをいただきました。

 大原富枝さんの「婉という女」では、「池 まさ」となっていますが、

 調べてみると、他の本(伝記本)では、Nさんの言われる通り、「池 きさ」でした。

 「小説」家として、”故意に”「まさ」としたのか、大原さんの本意はわかりません。

 

・次回にでも、兼山祖母の「合(ごう)姫」=山内一豊の妹に触れます。

 

 

◆長岡謙吉のこと:長崎でシーボルトに学んだそうです。

<長崎遊学事典・平松勘治著 ・渓水社より>

 

長岡謙吉 の項:

 1834~1872年(天保5年~明治5年)江戸時代末期の海援隊士、明治時代

初期の官僚。名は、恂・敦美など、字は子行、通称は純正・謙吉など、号は檜山・

懐山など。代々医業に携わる長岡孝順の子として土佐国高知城下に生まれた。

初め碩学の土佐藩士河田小龍に師事した。

1852(嘉永5年)年、大坂・江戸に遊学して医学と詩文を修めた。

1859(安政6)年26歳のとき、長崎に遊学した。同年、再び来朝した

シーボルトから蘭方を学び、代わりにその長子アレキサンデルに日本語を教えたと

言われる。

1861(文久1)年キリシタンの嫌疑を受けて、帰国を命じられ、追放の刑で同国

長岡郡大津村鹿児(高知市)に蟄居した。

赦免後、再び長崎に赴いて坂本龍馬の配下に入り、1867(慶応3年)年海援隊が

結成されると文司(書紀)として隊の往復文書のほとんどを手掛けた。

同年、龍馬が土佐藩参政後藤象二郎に提出した独自の国家構想『船中八策』も、龍馬の

意を受けて謙吉が起草したものである。

また、肥前国彼杵郡浦上山里村(長崎市)におけるキリシタンの復活を見聞して

『閑愁録』を著し、海援隊から出版した。

龍馬の横死によって海援隊は解散に追い込まれたが、一部の同志とともに讃岐国

塩飽諸島(香川県丸亀市)で隊の再建を図った。

1868(明治1年)年の戊辰戦争の際、土佐藩に、佐幕派の讃岐国(香川県)

高松藩と伊予国(愛媛県)松山藩の征討令が発せられると、ただちに高松城下

(高松市)に赴き、旧知の藩儒藤沢南岳を通じて藩主松平頼聡に恭順を説いて

成功した。

塩飽諸島を本拠に海援隊が再編されて隊長に選ばれると新政府に海軍創設意見書を

建白するなど龍馬の後継者として活動を始めたが間もなくして土佐藩から隊の解散を

通告された。その後、新政府に登用されて三河藩(後に愛知県に編入)知事に

就任した。

さらに大蔵省・工部省に出仕したが、若くして東京で病没した。

<参考文献>『日本人名大事典』「朝日日本歴史人物事典』『三百藩家臣人名事典』

『明治維新人名辞典』『高知県人名事典』

 

根木勢介  携帯:090-2825-2069

   
 
 

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