「高知ファンクラブ」投稿者別パート2

「高知ファンクラブ」への投稿者ごとに集計した・・・パート2

根木勢介 さんの記事

2013-02-23 | 根木勢介 さんの記事

根木勢介 さんの記事

 

土佐の戦国七守護その1:若宮八幡宮

 

龍馬その①:長岡謙吉特集

龍馬その3:長岡謙吉特集3回目

龍馬その3:長岡謙吉・顕彰碑&祝賀会

龍馬その4:長岡謙吉特集第4回目・「維新、大政奉還」の由来

龍馬その5:長岡謙吉特集第5回目八策は、「十一策」だった?

 

広井勇(いさみ):牧野富太郎と同年、同じ佐川生まれ

お正月:江戸の龍馬は、どのようなお正月?!

「牧野富太郎伝 草木の人」演劇のお知らせ

イーハートーブ農学校の賢治先生

土佐藩って、言ってたの?!

坂本家の領地高・ランクは?

保井算哲に土佐の弟子がいた

観光ガイド:人間の魅力、その伝え方 2-1

 

いごっそう:土佐弁番付⑥-1

 

吉田茂:その②娘和子の証言・相続財産1

吉田茂:その③娘和子の証言・茂実父

吉田茂:その④娘和子の証言・大久保利通

吉田茂:その⑤娘和子の証言・高知県選挙区2-1

吉田茂:その⑤娘和子の証言・高知県選挙区2-2

吉田茂:その⑥娘和子の証言・お金はどこから2-1

吉田茂:その⑥娘和子の証言・お金はどこから2-2

吉田茂:その⑦娘和子の証言・金庫番2-2

吉田茂:その⑧番外編 寄り道しました

吉田茂:その⑨こりん(小りん)さん

吉田茂:その⑨高知県人による吉田茂・評

 

海の道・①塩と金毘羅講の道

 家紋:その①土佐の家紋

 

高知城・多聞櫓の「多聞」とは?

高知城その2: 「婉という女」

高知城その3: 兼山、婉 のプロフィール

高知城その4: 兼山は、土佐に仇たぬ人?!

高知城その5: 兼山の肖像画

高知城その6:二大政治家・末路の悲惨 兼山、東洋

高知城その6:大名・小名?!

高知城その7:合姫(一豊の妹・兼山祖母)、一族

高知城その7:高知城の(再建)天守

高知城その8:(漏らさんといてね)高知城天守の弱点

 

桜②:散りそめてこそ風雅なり

 

いごっそう:いごっそう論①

いごっそう:いごっそう論・分析②

いごっそう:いごっそう論・分析③

いごっそう:儀七・いごっそうと酒④

いごっそう:はちきんの番付⑤-1

いごっそう:はちきんの番付⑤-2

いごっそう:はちきんの番付⑤-3

いごっそう:はちきんの番付⑤-4

 

天文①:夜空を仰いで 数える星も・・・

天文②「天地明察」の映画・算木

天文③「天地明察」の映画パンフより2-1

 

長崎事情:その①長崎の有名人

長崎事情:その②大村純忠

長崎事情:その③アルメイダ2-1

長崎事情:その④アルメイダ2-2

長崎事情:その⑤ 南蛮流外科

長崎事情:その⑥ビスケット2-1

長崎事情:その⑥ビスケット2-2

 

大阪で見つけた土佐人:その1・弥太郎

大阪で見つけた土佐人:その2・兆民親子

大阪で見つけた土佐人:幸徳秋水2-1

 

こんぴら信仰:①金比羅さんに龍馬もお参り?!

 

根木勢介 さんの記事・・・変なおんちゃん:良平①

 

根木さんの「鏡川ML」 その6 鏡川<変なオンちゃんの定義>

根木さんの「鏡川ML」 その5 鏡川・年収は、300万円と三人扶持切米五石

根木さんの「鏡川ML」 その4 鏡川:高知県って、どんなところ?

根木さんの「鏡川ML」 その3 <土佐人顔><鏡川河川工事>

根木さんの「鏡川ML」 その2 鏡川 変なおんちゃんの話

根木さんの「鏡川ML」 その1 変なおんちゃん、が奇妙になつかしい。

坊さんが、かんざしを買ったお店、のこと

大人の・竹とんぼ教室(全3回)開催のお知らせ 
堂々めぐり、から、銅像めぐり

「クスノキと龍馬・・・明治維新を支えた木」・・・その1 はじめに

 

 

根木勢介さんの「龍馬十景」「龍馬の日常風景」 シリーズ
龍馬の日常風景・・・(一)軍鶏のいる風景


近江屋対談:龍馬&弥太郎  を開催します。

根木勢介さんの「龍馬十景」 ⑩ いのち・・・龍馬の手紙から 

根木勢介さんの「龍馬十景」 ⑨ 長崎・・・頭の中の地図と樟脳
根木勢介さんの「龍馬十景」 ⑧ 京都・・・龍馬の五つの顔
根木勢介さんの「龍馬十景」 ⑦ 江戸・・・選択?洗濯の龍馬
根木勢介さんの「龍馬十景」 ⑥ 脱藩・・・龍馬の魅力
根木勢介さんの「龍馬十景」 ⑤ 鏡川・・・龍馬の原風景
根木勢介さんの「龍馬十景」 ④ 春夏秋冬・・・晋作と龍馬
根木勢介さんの「龍馬十景」 ③
根木勢介さんの「龍馬十景」 ②
根木勢介さんの「龍馬十景」 ①
根木勢介さんの「龍馬十景」 シリーズ

 

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根木勢介 さんの記事・・・龍馬その5:長岡謙吉特集第5回目八策は、「十一策」だった?

2013-02-23 | 根木勢介 さんの記事

根木勢介 さんの記事・・・龍馬その5:長岡謙吉特集第5回目八策は、「十一策」だった?

 

 日曜日に魚梁瀬森林鉄道や馬路村の地域振興に尽力中の若者(34歳)のはなし

を聞く機会がありました。

NHK総合テレビの番組で「嵐の桜井翔」が馬路村を訪れて間伐体験などを

体験する番組が放送されました。いい番組だったと記憶しております。

この番組の放映後、馬路村への来村者が、増加しているそうです。

その彼は、テレビの影響・効果は、大きいと話していました。

 

 さて、「長岡謙吉」特集を今回も続けたいと思います。

なお、赤字部分は、根木によるものです。

■坂本龍馬 五つの新常識:文藝春秋スペシャル2012季刊夏号・48pより

 

「船中八策」は十一策あった(菊地明・幕末維新研究家執筆)

 

 慶応三年(1867)五月十二日、京都で薩摩藩の島津久光、宇和島藩の伊達

 宗城(むねなり)、福井藩の松平春嶽、それに土佐藩の山内容堂が合同し、政局

 を議する「四侯会議」が開かれました。容堂は親幕派ですが、久光は反幕、宗城

 と春嶽は幕府体制の維持には消極的な立場にありました。

 当然、容堂は孤立してしまい、その後の会議をボイコットして、二十七日には

 病気を理由に帰国の途についてしまいます。

 しかしこのままでは土佐藩の存在意義がなくなってしまいます。そこで容堂は

 帰国に先立って、長崎滞在中の後藤象二郎に事態を打開するため、上京を命じて

 いました。

 後藤象二郎が長崎から船で大坂に向かったのは、六月九日のことです。これには

 後藤の依頼によって、やはり長崎にいた龍馬が同行していました。

 この航海中に龍馬が提示したとされるのが、大政奉還と議会制を柱とした、

 いわゆる「船中八策」です。同行していた海援隊の長岡謙吉が起草したと

 いいます。

 

  ところが、この「船中八策」も「亀山社中」同様、昭和になってからの名称

 なのです。

 しかも、当初は「八策」ではなく、「十一策」だったとされていました。

 明治二十九年の『阪(坂)本龍馬』は、「長岡謙吉」をして建議案十一箇条を

 草せしめたり」、大正元年の『維新土佐勤王史』は「世にいわゆる坂本の八策なる

 もの」「第九、第十、第十一」の文字は、世に伝わらず」とあります。

 これが「八策」とされるのは大正三年の『坂本龍馬』からで、そこには「長岡を

 して左の八策を草せしむ」とあり、昭和元年の『雋(しゅんけつ)傑坂本龍馬』

 では「世にいわゆる龍馬の八策」とあります。

 ※雋(しゅん、すぐれているの意)

 

  そして昭和四年刊行の平尾道雄の『坂本龍馬海援隊始末』によて、初めて「時勢

 救済策として八箇条を議定した。いわゆる船中八策と称されるもので・・・・」と

 「船中八策」という名称が使用されたのです。

 後藤象二郎が山内容堂に上京を命じられてから、長崎を出立するまで、ある程度の

 日数があります。

 このとき後藤と龍馬は盟友関係にあり、上京命令を受けた後藤は、龍馬の意見を

 求めたはずです。後藤に対応能力がないということではなく、自分とは異なった

 経験を重ねている龍馬による、別角度からの打開策の有無を探ったに

 違いありません。

 その結果に有効性があると考えれば取り入れ、なければ却下すればいいのです。

 とにかく、反幕的方向に進んでいた政局において、親幕派の土佐藩が存在感を

 示すことは非常に困難な状況にありました。

 それなのに後藤は、乗船するまで龍馬に相談しなかったというのでしょうか。

 龍馬は相談を受けていたとしても、船に乗るまでは何も語らなかったというので

 しょうか。

 そう考えるのであれば、それは「船中」という言葉に引きずられた結果に過ぎず、

 そのようなことがあったはずはないのです。

 

  後藤と話し合った龍馬は、一つの答えを見いだします。それが、一見すると

 親幕的でないものの反幕的雄藩の政治参加を認めるというものでした。

 つまり、幕府が政権を朝廷に返還し、徳川家が一つの藩として新政権に加わると

 いう大政奉還です。

 もちろん、龍馬のオリジナルではありません。前述したように、海舟・松平春嶽・

 横井小楠らはそうした構想を抱いており、龍馬はそれに興味を持って彼らと接触し、

 海舟の門下生となったのです。

 長崎出立前の五月二十八日、龍馬はお龍に手紙を書きました。現存する唯一のお龍

 宛てのものです。

 そこに龍馬は「このたびの上京は誠にたのしみにて候」と書いています。

 このことは、龍馬が乗船後に大政奉還策を提示したものでないことを、如実に物語

 っています。

 龍馬が「たのしみ」にしていたのは、京都見物でも知人との再会でもなく、大政

 奉還という政策に京阪の親幕派の土佐藩士や反幕派の諸藩士がどのように反応

 するか、そこに興味があったのです。

 

  結果的に、土佐藩は大政奉還を藩論とし、幕府に建白することとなり、反幕派の

 薩摩藩もそれを認めました。

 そして、時の将軍・徳川慶喜は建白を受け入れ、徳川幕府は消滅することと

 なるのです。

 

 

根木勢介  携帯:090-2825-2069

 

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根木勢介 さんの記事・・・土佐の戦国七守護その1:若宮八幡宮

2013-02-22 | 根木勢介 さんの記事

根木勢介 さんの記事・・・土佐の戦国七守護その1:若宮八幡宮 

 

 我が妻は、牧野富太郎に厳しい見方をする。富太郎の奥さんの最後が「哀れ」だと

言う。『うどんが、ごちそう』の苦しい時期を支えたのは、奥さんであり、

そして、彼の家族だった。植物研究のための本の購入をすこし控えれば、うどんが

ごちそう、だというようなすさまじい生活をしなくてよかったのだから。

牧野植物園のSさんによると、『奥さんは、牧野富太郎の「同志」であった』から

最後までついて行けた』という。

 

 牧野富太郎の「植物画」は、有名である。画家を志しておれば、おそらく独特な

「絵画」の境地に到達していただろう。画家としても、一流の画家になったに

違いない。

彼が、好んで使用していたという「ネズミの毛の筆」のことが、出ていたので紹介

します。おそらく当時も「ネズミの筆」は高価だったでしょう。

赤字は、根木によるものです。

●文藝春秋・三月特別号(2013・3)

 

・輪島塗の下支え 文:神津カンナ、写真:高田浩行

 ・・・。

 線描用の驚くほど細い根朱筆(ねじふで)。左手の親指に縄でくくりつけた、

 絵画で言えばパレットのような爪盤(つめばん)、作品をしまっておく湿風呂

 (しめふろ)と言われる棚。どれもめずらしく、思わず見入ってしまう。

 「伝統工芸を支えるのは伝統工芸なんです。蒔絵師が存在しても、筆を作る

 人、紙を漉く人、炭を作る人がいなくなるとなりたたない。」

  ネズミの背骨の横にすっと出ている立ち毛で作る根朱筆(ねじふで)。

 一本作るのに最低でもネズミの皮は五枚必要だという。しかもどんなネズミでも

 いいわけではなく、今はなかなか手に入らず、この筆も一本数万円以上はする。

 ローテーションで何本かを使い回しし、消耗しないようにしているが持つのは

 三ヶ月程度。塗物を平らにするための作業工程は炭研ぎといわれるが、・・・。 

 

 今日は、五月連休のシャトルバスについての研修がありました。

その研修の中で、若宮八幡宮について「疑問点」が出されました。

以下の記述がよくわからない、との疑問です。赤字は、根木によるもの。

■高知観光ガイドブック3 108pより

 

・若宮八幡宮

 八幡宮は武家の守護神として昔から崇拝された。鎌倉時代の文治元年(1185)

 、源頼朝が吾川郡を吾川荘として京都の六条若宮八幡宮に寄進したとき、その

 八幡宮をあらためてこの地に勧請(かんじょう)したものと伝える。

 祭神は応神天皇(おうじんてんのう)、神功皇后(じんぐうこうごう)などの

 五柱である。

 長宗我部元親は、永禄3年・・・。 

 

帰りに図書館で調べてわかったことを皆さんに紹介します。参考になれば幸いです。

赤字・青字は、根木によるものです。

■長宗我部地検帳の神々(廣江 清執筆) 14pより 

 ・・・。

吾川郡長浜村(高知市)の若宮八幡宮は、 

 「京都六条若宮八幡宮の勧請したるものと見たり。六条若宮を今左牡牛八幡と云。

 往昔頼朝公の時六条為義の宅地を追福の為且国家安鎮に八幡宮を鎮め祭られ若宮

 八幡といふ。土佐国吾川郡を一円に寄附せられし由東鑑に見たり」

 (『詒謀記事(だいぼうきじ?!』) 

 『東鑑』には、 

  「文治元年十二月卅(三十・そう)日己卯以土佐国吾川郡令寄附六条若宮」 

 とある。

 六条若宮の社領に分祀された八幡であるから別宮であるが、本社が若宮であるから

 若宮八幡と称えたものであろう。

 『地検帳』には単に若宮とあるが、 

 若宮ノ御宮床

  一ゝ卅(三十)代 本社三間四間板つき(フきカ)   若宮宮床

 カヤフキ

 舞殿二間五間

 横殿二間八間ノ跡横殿ハナシ

 

 なかなかりっぱな社殿で、社領も一町二反二十六代一歩ある。

 長宗我部元親が出陣の時に祈願をこめたと言い伝えられているだけのことはある。

 祭神は応神天皇・神功皇后・市杵島姫神・田心姫神・㟨(たん)津姫神の五柱

 (『神社明細帳・吾一』)と記されているが、

 『土陽淵岳志』は、 

 「吾川郡長浜村若宮八幡宮ハ里人云伝ヘテ、悪源太義平ヲ祭ルト云。俗説信ス

 ヘカラス」 

 『南路志』は何によったかわからないが、 

  「或云昔長楽院罹₂火災₁失₂旧記₁、其詳不ㇾ可₂得而知₁矣(い・※註)。

  云言悪源太義平之祠或云吉良冠者希義之祠(下略)」

 

 と記している。これは「若宮」からきた連想であろう。

 若宮には四種ある。(『一三)若宮の項参照)が、その一つに非業の死を遂げた人

 の霊をまつった社がある。

 この若宮八幡に義平や希義がまつられているという伝説が生まれたのは、両人とも

 悲運に倒れている上、何れも源家にゆかりがあるからであろう。

 (このあとに、「一覧表」があるが、省略)

 

 ※矣(い)=置き字といわれる。普通は、読まない。

       きっぱりと言い切る語気をあらわす。

  祠=原文では、「ネ+司」の漢字。打ち出せないので「祠」を当てた。 

 

根木勢介  携帯:090-2825-2069

 

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根木勢介 さんの記事・・・高知城その8:(漏らさんといてね)高知城天守の弱点

2013-02-22 | 根木勢介 さんの記事

根木勢介 さんの記事・・・高知城その8:(漏らさんといてね)高知城天守の弱点 

 

 孫のなまえのことを先日、冒頭で書きました。さっそく返信いただいた皆さん、

ありがとうございました。超音波の画像を娘が送って来ましたが、今2センチの

大きさ、だそうです。ちっちゃいのですね。それでも人間のような頭や体のカタチも

していました。

その画像は、自分の孫とかの範疇を超えて、生命のふしぎさ・神秘そのものです。

 

先日の龍馬の生まれたまち記念館で名刺交換をしたお客さんは、「古風」な名前

でした。名前では、森林太郎(森鴎外)に決して「ヒケ」をとらない、山・やま関連。

「高山林太郎」さんと言う方で、高知には「方言のアクセント話法の調査」に来高。

日本でもっとも有名な大学の大学院生。博士課程在学中で「言語学研究室」に

所属されています。県立大学の橋尾先生を紹介した縁で、私も調査に協力することに

なりました。

最初に簡単な(父方・母方)祖父母の出身地などの問答があったのですが、女房に

このことを話すと

『あなたは、生粋の「安芸人」よ』。

いま、高知県安芸市の「代表選手」として、彼の調査に協力中です。

余談ですが、私の曾祖父の名前は、「根木林太郎」です。

  

さて、高知城のガイドでは、高知城の「弱点」について触れることはほとんどないと

思います。

専門家が見た「弱点」を記します。赤・青字は、根木によるものです。

■戦国の堅城Ⅱ ㈱学研発行・高田徹執筆 163pより

 

・高知城天守の弱点 

 これまで言い漏らしたが、実は高知城天守には弱点というべき点がある。

 一番目は天守台を持っていない点である。

 そのため本丸の現存建物を全て解体してしまえば、天守があった位置を特定

 しづらくなる。仮に天守台が築かれたなら、本丸内部での天守自体の独立性が強く

 なり、下層部分に石落・狭間・忍び返しを全方位に設けることも可能になった

 はずである。何故天守台が築かれなかったか、真相は明らかでない。

 ただ、天守と御殿は近接した位置にあり、現在の拝観ルートも御殿に入ってから

 天守へ進むようになっている。

 このような位置関係から考えると、本来天守と御殿は連続性が強く、両者を

 区分する意識は弱かったと思われる。このため、あえて天守台を築かなかったとも

 思われる。

 二番目は、先に述べたように後世の改変である可能性もあるが、天守コーナー

 よりも天守が載る石垣コーナーの方が鈍角となり、広がる点である。

 つまり、天守は北面石垣上にそそり立っているが、もう一面の東側石垣上には

 直接かからない。そこには余地が生じ、石垣と天守は離れてしまっている。

 高知城を築いた段階の石垣構築技術、あるいは先行地形の影響により、直角に近い

 高石垣を築くのが困難であったのだろうか。

 

 ※根木の注)この文章には、東側から見た天守の写真が添えられています。

       確かに石垣のラインと天守壁面は揃っていません。

       (東側・石垣に沿って塀があるため天守一階には狭間がない。

       天守の防御火力は、北面に集中する構造になっている。)

 

・防御における最重要建造物 

  以上、高知城天守を例としたが、その軍事的な機能が強かった点は理解されたと

 思う。念のために申し添えるなら、何も高知城天守のみが特別な天守なのではない。

 石落・狭間をどの程度設けるか、天守をどの位置に設け、縄張り上どの程度の役割

 を担わせるか、多少の差は存在したが、本来、天守のほとんどは高知城に近い機能

 を備えていたと考えるべきである。

 例えば、津山城(岡山県津山市)天守は層塔型であり、最上階が張り出す以外は

 シンプルな構造である。しかし、縄張り上は天守曲輪を形成しており、天守自体

 には実に九九か所もの鉄砲狭間を設けていた(さらに弓狭間は五六か所を備える)。

 入母屋(いりもや)・切妻(きりづま)・千鳥破風(はふ)等を交互に配した櫓・

 天守の外観は見栄えがする。しかし、このような天守に狭間を設けると屋根の

 位置によって影響を受ける。この点、津山城のような層塔型の、しかも破風を

 伴わない天守・櫓では直列的に狭間を設けられる。外観上のシンプルさが必ずしも

 その軍事的な機能の低さを示すわけではない。

 同様に、江戸期に入って築かれた独立式天守と称される徳川氏の大坂城(大阪市)・

 江戸城(東京都千代田区)などは本丸の中にポツンと築かれており、一見戦闘を

 放棄したような感を受ける。

 ただ、これらは今に残る天守台にさえ銃眼を備え、極めて複雑な枡形虎口を備えて

 いる(小天守台と呼ばれる部分である)。このような本丸内部での天守単独の

 要塞化こそ、大坂・江戸城に代表される徳川系城郭の指向したものでなかったか。

 なお、天守は、城郭にとって必要不可欠な存在だったわけではなく、天守が

 築かれない城郭も多かった。

 また、江戸期において天守が築かれなかったり何らかの理由により天守が滅失した

 際、同じ城内に存在する多層の櫓が天守の代替となったといった評価を耳に

 することがある。

 その例に挙げられるものとして、明石城(兵庫県明石市)の巽(たつみ)・坤(

 ひつじさる)櫓、江戸城の富士見櫓等がある。

 しかし、明石城の巽・坤(ひつじさる)櫓は本丸の防御上、重要な位置を占めて

 いるが、より重要な位置を占めているのは天守が築かれなかった天守台に

 他ならない。

 また、江戸城の富士見櫓は、城外側から見ると複数の窓や唐破風を設け、優美な

 姿を見せている。しかし、内側の本丸側から見ると、窓も少なく、装飾性は

 ほとんどない。

 内側からみれば、他の櫓の外観・機能と特に変わりはない。

 単なる外観的な近似性をもって天守であるか、その代替的存在であるか等を

 軽々しく判断するのは避けるべきであろう。

 実際、途中から天守を失いながらも、複数の三重櫓を持った大坂城(大阪市)、

 津城(津市)では、一体どの櫓が天守の替りになったと言えるのか。

 このような問いも、答えも、寡聞にして筆者自身はこれまで聞いたことが

 ないのである。

  

根木勢介  携帯:090-2825-2069

 

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根木勢介 さんの記事・・・龍馬その①:長岡謙吉特集

2013-02-19 | 根木勢介 さんの記事

根木勢介 さんの記事・・・龍馬その①:長岡謙吉特集

 

 

 今日は、龍馬研究会会報の新年号原稿、提出期限日でした。
会報原稿を送信したあとの”ほっとした気分”の中でメールを書いています。
 
◎お知らせ、です。
<Tさんから、次の情報をいただきました。>ぜひ、皆さんご覧ください。
 
●古木被害についての特集番組は、「四国羅針盤」の中で放映されることに
 なりました。
 
  ・放送日:25年1月25日(金)
       NHK総合テレビ
  ・時間: 19時30分~(30分程度)
  ・内容など:「御神木が狙われる」
        四国各地の被害その裏側を取材・・・
 
※根木のコメント:御神木を狙うやからに言いたい・『たたりがあるぞ』
 自然界のらゆるものに「霊」があると信じて来た日本の歴史(「塩」は、例外)。
 自然に対する敬虔な気持ちは、失いたくないものです。
 
 さて、先日Sさんから「長岡謙吉」についての質問をいただきました。
長岡謙吉を通して「龍馬」について考えることにもなるので”長岡謙吉特集”を
試みます。
 
■長岡懐山 土佐偉人傳・寺石正路著 昭和15年5月発行 24pより
 
長岡懐山(かいざん)名恂字(ひさし)子行(しこう)諱敦美(あつよし)通称は
謙吉 初今井純正(いまいしゅんせい)と称す 高知城下浦戸町の人 父孝順
(こうじゅん)家世医家たり 
 
天才奇頴(きえい)にして嘉永元年十五歳、大坂に遊び医を学び
更に東遊し鱸松塘(すずきしょうとう)、森春濤(もりしゅんとう)に詩を学ぶ 
後帰国し医業を開く 安政六年二十六歳蘭医シーボルトにつき洋書と医を学ぶ 
シーボルト其才を愛し子アレキサンルに邦語を教えしむ 
 
文久元年外教崇信の誣告(ふこく)を受け罪を獲て帰国し布師田川以東に
追放せられ鹿児村(かこむら)に閉居す 
山に檜木多し依て檜山(かいざん)と号し後修して懐山(かいざん)という
巳にして冤(えん)解く
 
 
慶応中坂本直柔が海援隊を組織するや其同盟に加わり文司となる 
当時海援隊の往復文書大抵其手に成らざるなし 
彼の有名なる坂本直柔が後藤象次郎に付興せし大政維新の八策又大政奉還建白書は実に
明治復古の根本なるものなるが皆恂(ひさし)の起草する所にして慶応三年徳川氏
大政奉還の事愈(じゆ)行わるるや後藤象次郎に書を寄せ曰く
 
微賤の私儀閑文字を以て天機未発(てんきみはつ)前より此事に関係致候儀撫身
 感悦仕罷在候云々
 
其得意想うべし 
 
 
同年長崎浦上地方天主教再燃の兆しあるや同教の人心を蠱毒(こどく)
するを慨し閑愁録(かんしゅうろく)を著し海援隊より之を出版し世に頒(わか)つ
 
明治戊辰高松征討の時藤澤南岳(ふじさわなんがく)に面し順逆をとき藩主之を納れ
事穏やかに収まる 
尋て小豆島を鎮撫し又東征に従い功あり 五年工部省に仕う 同年六月十一日没す 
享年三十九歳芝増上寺安養院に葬る
其崎陽(長崎のこと)竹枝の一左の如し 大正十三年正五位を贈らる
 
又見春風吹₂柳絲(いと)₁、眠醒劂(けつ?)帳引₂相思₁、阿郎手澤唐山扇、
一首楓橋夜泊詩、
 ※劂(けつ?)⇒眠りから突然醒める意味か?
 
※根木のコメント:
 ・名前などは原文のまま転記、「難字」は、現代漢字に一部修正しました。
 ・次回は、他の人が「長岡謙吉」をどのように評価しているか、見たく思います。
 
根木勢介  携帯:090-2825-2069 

 

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根木勢介 さんの記事・・・龍馬その4:長岡謙吉特集第4回目・「維新、大政奉還」の由来

2013-02-16 | 根木勢介 さんの記事

根木勢介 さんの記事・・・龍馬その4:長岡謙吉特集第4回目・「維新、大政奉還」の由来

 

 

 添付の画像は、横浜に「脱藩中」の龍馬を見かけたと二男が送ってくれました。

偶然、横浜の赤レンガ倉庫のところで見かけたそうです。

 

 

 先日は、少し風邪気味なので家に閉じこもっていました。

読もうと思っていた文藝春秋・三月特別号:「司馬さんが見たアジア」が読めました。

 今日は、その文藝春秋の中から・・・。赤字は、根木によるものです。

■日本、中国、韓国 歴史の風景:司馬遼太郎・昭和46年より

 ・・・。(途中略。)

 

・現金競争に敗けた幕府

 

 それで徳川期いっぱいが続いて、明治維新になって農業国家がだいそれたことに

 軍艦も製鉄所も持つ。

 ところが外国に売るべきものは生糸しかない。いま考えてもぞっとするほどによく

 やったものだと思います。

 考えてみますと、明治維新成立の段階での日本というのは東アジアどの国の農村

 よりも豊かですね。むろん豊かさといっても相対的なものですけれども。

 ところで儒教的中国体制の中国の農村からは物事は起こらない、韓国の農村からは

 絶対に物事は起こらないですけれども、日本の農村は五十軒に三軒は富農です。

 それはさっきからいっている競争の原理によって、田圃(たんぼ)がふえていく。

 江戸時代の百姓でもお寺の過去帳などを見ますと、五代前は貧乏だったのが五代後

 には富農になっていたりします。

 また冨が持続するわけではなくて、極道者が出れば没落するし働き者が出れば家が

 興る。猛烈に働いて荒地を開墾していくわけだからそのたびにお米がとれる場所が

 ふえていくわけです。

 幕末でも、長州や島津のように殖産興業とか干拓をやった所は、米はもういい、

 こんどは現金がほしくなったというわけで、現金をうるには殖産興業がいい。

 それは割に古くからやっています。幕府だけはやっていなかった。

 幕府だけにかわいそうなことに一種の儒教的ムードがあったためです。

 これは儒教体制ということではありません。この儒教的ムードのために、農民を

 大事にしろとか、農というものを基本にせよということが、儒教以外の別の事情

 からきていますけれども、江戸時代の初期からあって、幕府直轄領では最後まで

 殖産興業をしなかった、だから現金収入がない。

 現金収入はかろうじて天領の博多、堺とか横浜という新旧の港から吸い上げる金

 くらいです。だから競争に敗けるわけですね。

 長州と徳川家とは競争していたんだということが、結果論からいってもいえる

 わけです。現金を蓄める競争を。で、長州はそれに勝った、むろん薩摩も勝って

 いるわけです。

 だからこんな狭い、といってもヨーロッパの国から普通だけれども、アジア的な

 規模でいえば狭い国で一つの天下が千数年成立しており、今も日本人は天下だと

 思っている。

 それが外に押し出すときには倭寇になり、豊臣秀吉の朝鮮出兵になったり日中事変

 になったり、やぶれかぶれになると太平洋戦争になるわけです。

 ・・・。

 ヨーロッパの帝国主義には帝国主義なりの歴史と成熟とエネルギーが出来上がって

 ゆきますけれど、日本のはそんなものとはまったく関係なしで、国内の競争原理

 そのままで行くわけですから倭寇の形ですよ。だから日中戦争までは倭寇です。

 ・・・。

 

●この同じ雑誌より:儒教への厳しい目・宮城谷昌光より

 ・・・。(途中略。)

・中国人の姿は未来の日本人か

 ・・・。

 もちろん司馬さんだけではなく、日本人全体が、中国の言葉を借りて思想に転化

 してきました。いま使われている「維新」も『詩経』にある。

 

  周雖舊邦(周は旧邦といえども)

  其命維新(その命はこれ新し)

 

 「周という国は、以前からある古い国ではあるが、いまこうして殷(いん)の

 王朝を倒したゆえに、新しい国になりましたよ」という意味で、明治という国の

 新しさを世の中に伝えるとき、明治の日本人は、殷と周の革命を引き合いに

 出して説いたわけです。

 

  また、「大政奉還」という言葉も古代中国の故事からきた言葉です。周王朝の

 建国者、武王が亡くなってしまったため、弟の周公旦が政治をとりしきったが、

 革命期の混乱を乗り越えた後は成年になった武王の子、成王に政治権力を還した

 、というものです。

 政治であれ思想であれ、中国の歴史にない事例はないし、それを日本はお手本に

 してきました。いま日本人が批判する中国人の言動は、数百年後、数千年後の

 日本人の姿かもしれない。

 とはいえ、これまでの日本人は、中国から採り入れるもの、入れないものを

 分けています。

 たとえば、科挙や宦官(かんがん)といった制度は採用しなかったし、仏教は

 入れても、道教は定着していません。儒教は入れたけれど、中国人や朝鮮の人

 たちのように、生活の中まで入りこむことはなく、あくまで学問の世界に

 とどまった。

 そうした理由を考えることは、まさに司馬さんが生涯をかけて挑んだテーマです。

 司馬さんがいらっしゃらない現在、こんどは私たちが司馬さんの目をかりて

 、中国、そして日本を眺めることが必要なのかもしれません。

 

 

根木勢介  携帯:090-2825-2069

 

 

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根木勢介 さんの記事・・・高知城その7:高知城の(再建)天守

2013-02-12 | 根木勢介 さんの記事

根木勢介 さんの記事・・・高知城その7:高知城の(再建)天守

 

 今日は、高知城の「天守」の観光ガイド当番でした。

午前中の時間帯、天守最上階は、「立錐の余地」がないほど混み合いました。

連休中なのと日曜(市)と重なったので多数の方が高知城に訪れたのだと思います。

天気がよかったし、午後から少し風が出ましたが、比較的風も弱く、天守からの

眺めは最高、お客さんは風景を楽しんでくれていました。

 

 

 さて、今回は高知城の「天守」のおはなしです。

「赤字」は、根木によるものです。

■戦国の堅城Ⅱ ㈱学研 158pより

検証 天守の防御力

 眼下の敵を迎え撃つ最強建造物の実力:文・高田徹

  ・・・。

  (途中略)

 

・高知城の天守

 高知城(高知市)天守は現存天守の一つであり、重要文化財に指定されている。

 その構造は四層六階の望楼型であり、最上階には勾欄(こうらん)を巡らし、

 四方への眺望が利く。その外観は、一見古風な感を伝えるが、現在の天守は寛延

 二年(1749)の再建である。

 それ以前の天守は慶長六年(1601)以降に山内一豊によって築かれたが、

 享保十二年(1727)に焼失した。

 寛延二年の再建にあたっては、創建時の天守の姿に極力近くなるよう設計がなされ

 建築にあたっても、旧来の形態に近づけるよう意図されたと考えられる。

 ただ、実際の問題として内部・外部とも、旧来の形態そのままに復元しなければ

 ならない、復元する必要がある、といった規制・目標があったとは考えられない。

 天守であるとはいえ、作事である点には違いはなく、そこに石垣・土塁といった

 普請に対するほど、幕府による統制は及んでいなかったと考えられる。

 むしろ、江戸期の天守改修・復元事例はもう少しアバウトな範囲で行われたと

 見るのが正しいだろう。

 

 ところで、近世初頭の高知城の姿を描いた「正保(しょうほう)城絵図」(国立

 公文書館蔵)では、天守を北東方向から見た姿を描いている。

 その一階部分を詳細にみると、壁面が三面あるように描いている。

 仮にこの描写を信じるのならば天守の平面は正方形でなく、いびつな五角形で

 あったことになる。

 平面が五角形だったとすれば、後述する天守と石垣塁線との間に広がる余地の

 問題について、異なる観点から説明も可能となろう。

 

 このように考えると、高知城天守は本来不整五角形を呈していたが、火災による

 復元の際に平面形態をいくぶん改修した可能性も想定できる。

 もっともこれにも問題はある。「正保城絵図」に描かれた天守は三層三階であり、

 現状と大きく異なる。

 現状は六階に勾欄を伴うが、「正保城絵図」では勾欄を描いていない。火災前の

 天守が勾欄を伴っていたのは明らかであり、この点「正保城絵図」の描写は

 誤りである。

 絵図ならではのデフォルメという見方も成り立つ一方、不整五角形の描写も実態

 通りで あったとは即断できない。

 

 高知城の他にも江戸期に改修・復元された天守はあるが、大枠ではともあれ、

 初期の天守構造をそのまま伝えているわけではない。

 現存の天守はいずれも近代以降の解体修理を受けている。

 近・現代における解体修理の場合は極力創建当初の姿に戻すよう、企図される。

 修理・改変の痕跡が小規模ならば、当初の姿も類推できるが、その規模が

 大きければそうはいかない。一部が可能となっても、全体の姿を創建当初の姿に

 忠実に戻すことは不可能に近い。

 つまりそこには複数の時代の改修・復元・復興が折り重なっている。

 我々が、今日見られる現在天守は少なくともそのような存在であることを認識

 すべきである。

 

■高知市史(上巻):294pより 一部抜粋

・二 高知山築城

 ・・・。

 (途中 省略)

 慶長の築城の設計については詳記された記録がない。元禄十一年(1698)九月九日

 には、大火があって、城麓の邸は焼失したが城内は無事だった。

 享保十二年(1727)二月の大火ではわずかに追手門そのほか二、三の建築を残して

 城内天守閣はじめ二の丸、三の丸は全く烏有(うゆう※)に帰した。

 その後幕府の許可を受けて、享保十四年(1729)九月十九日に再建に着手、

 延享二年(1745)八月三日には、二の丸、寛延二年(1749)八月十二日には、

 本丸、宝暦三年(1753)十一月二十六日には、三の丸が竣工した。

 元和元年(1615)閏(うるう)六月一国一城の令が布かれて、城地の広狭はほとんど

 一定し濫(みだ)りに拡張を許されなかったし、規模の変更にも厳しい統制があったので

 後世の姿から推して慶長の城もおよそ想像することができるだろう。

 ・・・。

 (後は、省略)

 

 注)烏有(うゆう):どうして、それがあろうか(いずくんぞあらんや)と言う意。

   まったくないこと。皆無。例「烏有に帰す」

 

■高知観光ガイドブック 1(土佐観光ガイドボランテイア協会作)58p、59pより

・天守

 天守は本丸の中央東の角に位置し、北側は高い石垣に沿って建っており、石垣に接する

 部分に石落としや忍び返しをつけている。

 天守は山内一豊創建の後、享保12年(1727)の火災で焼失、延享4年(1747)

 再建の棟木銘があり、以後約260年を経過しているが、その構造形式は創建当時の

 ものとほとんど変わりがないことが、昭和26年(1951)から10年をかけて

 行われた解体大修理の結果、磁石の据口の調査などから判明している。

 再建後、安永8年(1779)と弘化3年(1846)に比較的大規模の修理が行われ

 ついで上記の昭和の大修理となるのである。

 ・・・。 

 

<コラム 再建の天守>

 江戸時代、幕府は各藩の城郭工事について規制を行い、修復の場合も櫓の階数を

 減らすとか、もとの姿よりは防備を弱める形で許可をした。

  二代藩主忠義のときには、高知城普請の噂が出て、忠義自ら申し開きをしたことが

 記されている。こうした状況で、元通り再建した天守について、幕府の使者が検査に

 来たらどうするかというはなしが出て大騒ぎになった。

 このとき、城中に知恵者がいて「それはお天守が焼けそうになったので、城中の若侍

 が天守をかついでよせてあった、それを又据え直したと答えるとよいのではないか」

 という言い抜けの話ができていたという。

 

★根木のコメント:

 ・いくつかの疑問が出てきました。

  ①天守再建の時、幕府に「再建許可願い」を出さなかったのか?

  ②天守完成前後、上記手続きに合わせて、設計図の提出は、されなかったのか?

  ③ガイドブックで心配している(再建)作事にまで規制・統制があったのか?

 

 

根木勢介  携帯:090-2825-2069

 

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根木勢介 さんの記事・・・龍馬その3:長岡謙吉特集3回目

2013-02-09 | 根木勢介 さんの記事

根木勢介 さんの記事・・・龍馬その3:長岡謙吉特集3回目 

 

 今日の高知市は、朝から気温が低く、たいへん寒いですが、「春の訪れ」の

ニュースを83(はちみつ・蜂さん)プロジェクトのNさんから、お聞きしました。

Nさんの知人が、香南市吉川(旧吉川村)に置いてある「みつばち群」から、先月末

に「分蜂」があった、そうです。

分蜂とは、「新」女王蜂の誕生により「旧」女王蜂の元からその一群が「巣立つ」

ことをいいますが、普通は、温かくなった春から夏の時期に分蜂します。

この寒い時期に分蜂があったのは、いくつかの好条件が重なったからでしょう。

もともとこの巣箱(蜂群)は、気温の低い・山間部の「土佐町」から、温かい海辺の

町・香南市吉川に「疎開」させたものだそうです。

移動先の(旧)吉川村が、海辺に近く温かい・巣箱の場所も温かった、からでしょう。

温かいところでは、菜の花などももう咲いており、「蜜源」植物が、冬でも豊富です。

余談ですが、一般的教科書・参考書では、分蜂する場合、「旧女王蜂群(の巣箱)」

から「新女王蜂群」が、”巣立つ”ようです。

ところが、本日の83プロジェクトの「蜂さん談議」では、逆もある、との話が会員

から出されました。

自然界のふしぎさ・奥深さ、を感じました。 

 

さて、高知県歴史辞典では、「船中八策」の長岡謙吉の関わる箇所がどうなっているか、

転記してみました。(赤字は、根木によるもの)

■高知県歴史辞典:410pより 

・船中八策(の事項) 

  坂本龍馬が、慶応三年(1867)六月九日藩船夕顔丸で長崎港を出て兵庫に

 向かう船中で、同船の後藤象二郎に示したものといわれ、筆記者は海援隊文司

 長岡謙吉、その趣旨は龍馬の懐抱した王政復古案である、八ヵ条から成り、第一条で

 政権を朝廷に奉還、政令は朝廷から出ることをまず示し、第二条で万機公議で

 決するために上下議政局を設けること、第三条で人材登用と冗官(※)の整理を、

 第四条で外国との新しい国交樹立を、第五条で新法典の編纂を、第六条で海軍拡張を、

 第七条で帝都守衛の新軍隊編成を、第八条で世界共通の貨幣、物価の制度樹立を

 述べたうえ、これを総括して、この他には日本の危機を打開する道はないと

 言い切っている。 

  第一条は直接に土佐藩の進めた大政奉還への道であり、第二条は「五箇絛の御誓文」

 からやがて起る民権運動を展望させるものであり、さらに、第三条以下は明治政府の

 推進した開国和親と富国強兵策である。

 近代日本は龍馬の胸に描かれた八策の示すように歩んだということができよう。

 (この項は、横川末吉さん執筆) 

 ※冗官(じょうかん)=むだな役人 また、不必要な官職 

 

 また、別の本では、どうなっているでしょうか。(赤字は、根木によるもの)

■日本の近代1:開国・維新(1853~1871)松本健一著 266pより 

・「船中八策」を後藤象二郎へ

 ・・・。

 (途中略)

 龍馬はこの長崎から上京する船のなかで、新しい国家のグランド・デザインを語った。

 それが、「船中八策」だった。これを筆録したのは、龍馬が後藤(=土佐藩)の援助の

 もとに新しく発足させた海援隊の書記役、長岡謙吉である。

  この「船中八策」には、横井小楠の『国是三論』の思想を引き継ぎつつも、それを

 大政奉還によって維新国家へと完成させてゆく具体的綱領がすべて述べられていた。

 ・・・。 

※本日紹介の二つの本は、いずれも「筆記者」、「筆録」となっており、長岡謙吉の

 「関与度合い」が、低い表現となっている。

 次回も、もう少し、他の本を紹介したい。

 

根木勢介  携帯:090-2825-2069

 

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根木勢介 さんの記事・・・龍馬その3:長岡謙吉・顕彰碑&祝賀会

2013-02-01 | 根木勢介 さんの記事

根木勢介 さんの記事・・・龍馬その3:長岡謙吉・顕彰碑&祝賀会

 

 長女からおめでたの連絡があって、女房と孫の名前の話になりました。

最近は、男なら「蓮、颯太、大翔」(24年度ランキング)の順に多いそうです。

私の名前・勢「介」のように後ろに「介(又は輔)」をつけるのは、最近はごく少ないようです。

逆に、それなら「進之助、庫之助」のような名前の方が、インパクトがあっていいのでは、

なんて孫のことをまったく無視した無責任なことを話していました。

 

 最近、「砲術」のことが、すごく気になっています。

大砲の歴史(和砲・西洋砲)やその威力(飛距離・命中度)、西洋砲が日本の歴史に

与えた影響。

土佐の砲術の歴史を探ってゆけば、日本の砲術の歴史が見えてくるだろう、と勉強を

始めました。土佐では、徳弘董斎の資料が多いようですね。

大坂の緒方洪庵・適塾に土佐から14人が入塾していますが、そのひとりが、「徳弘数之助」です。

土佐の砲術家・徳弘董斎の長男ですが、惜しまれるのは、33歳で病没したことです。

 

ほぼ、「龍馬」と同年代の人です。

 

◎以下(添付)は、「適塾記念センター」より送って頂いた資料です。

 一部、父・董斎と子・数之助との「混同箇所」がありますのでご注意ください。

 なお、香南市野市町出身の「萩原三圭」のことも記載されていますのでご参考までに。

 

 

-----Original Message-----

From: Waka Hirokawa

Sent: Wednesday, January 30, 2013 4:32 PM

To: negi-600@me.pikara.ne.jp

Subject: 門下生・徳弘数之助お問い合わせの件

 

根木勢介様

 

大阪大学適塾記念センターの廣川と申します。

 

遅くなりましたが、当センター内 適塾記念会宛にお問い合わせいただいた、適

塾門下生・徳弘数之助についてお返事申し上げます。

 

当該人物に関しましては、適塾記念会会誌『適塾』31号(1998年)へ芝哲夫氏

「適塾門下生に関する調査報告(18)」が、また、40号(2007年)へ村田忠一氏

「土佐の適塾生徳弘数之助」が掲載されております。

姓名・経歴等に関しましては、両氏の論文で詳しく検証されておりますので、添

付の該論文をご参照いただければ幸いです。

 

なお、適塾記念会は当センター内に置かれており、封書をお送りいただいた住所

には現在「大阪大学事務局」その他の組織はございませんので御承知置きください。

--

廣川 和花(Waka HIROKAWA, PhD)

560-0043 大阪府豊中市待兼山町1-13

大阪大学適塾記念センター

06-6850-5016(代表)

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 さて、次のご案内を高知りょうまライオンズクラブさんよりいただきました。

私は、この日「観光ガイド」の当番があって、参加できません。

 

参加申し込みハガキを持っています。参加希望の方がおいでたら根木まで連絡ください。

 

申し込みは、2月15日が期限です。

祝賀会は、高知ではほんとうにめずらしい「アルコール抜き」の会です。

 

◆長岡謙吉顕彰碑・除幕式&祝賀会のお知らせ:

 

・除幕式:25年2月28日(木) 午前10時~11時

 

・除幕式場所:高知市はりまや町2丁目「幡多倉公園北東角」

 

・祝賀会:「得月楼本店(大広間)」同日午前11時30分から12時30分まで「小宴会」

      (ただし、アルコール抜き)参加費 一人3,500円

 

・主催:高知りょうまライオンズクラブ

     〒780-0862 高知市鷹匠町2-4-9 山内神社内

     電話:088ー0820-5206

 

根木勢介  携帯:090-2825-2069

 

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根木勢介 さんの記事・・・高知城その6:大名・小名?!

2013-01-31 | 根木勢介 さんの記事

根木勢介 さんの記事・・・高知城その6:大名・小名?!

 

 全国から来高される方をお迎えするのが、ガイドの仕事。時々、めずらしい

お名前があります。

もっとも、私自身の名字(根木)もめずらしさでは負けていませんが・・・。

手元に「高知県の名字ランキングベスト50」の資料があります。

ご参考までに以下㊿番まで、記載しました。

皆さんの名字は、次の中にありますか?

 

 ①山本、②山崎、③小松、④浜田、⑤高橋、⑥井上、⑦西村、⑧岡林、⑨川村、

 ⑩山中、⑪坂本、⑫片岡、⑬松本、⑭田中、⑮前田、⑯和田、⑰山下、⑱田村

 ⑲岡本、⑳西森、㉑岡村、㉒中村、㉓岡崎、㉔森田、㉕矢野、㉖中山、㉗森本

 ㉘横山、㉙岡田、㉚伊藤、㉛土居、㉜森、㉝野村、㉞尾崎、㉟竹内、㊱安岡

 ㊲松岡、㊳北村、㊴渡辺、㊵橋本、㊶中平、㊷西岡、㊸門田、㊹浜口、㊺筒井

 ㊻宮崎、㊼小笠原、㊽大崎、㊾藤原、㊿竹村

 

この雑誌の中の「特筆事項」を紹介すると・・・

 

・高知県でも、長宗我部や香宗我部、安芸といった名族の名字は数が少ない。

 つまり、系図が伝わっている家というのはごく一部にすぎず、それらをいくら

 収集したところで「日本人の名字」という全体像をみることができないということ

 である。

・猫は現代では普通にいるが、猫のつく名字は少ない。古代や中世において

 猫はほとんど飼われていなかった。

・色の名字では、「青」「赤」「白」「黒」の四つが圧倒的。「茶」「黄」「紫」

 「緑」などは、極端に少ない。これは、日本では古くは色の種類は四つしか

 なかったという説と一致。

・日本人の名字の数ははっきりしていない。しかし十万種以上あるのは確実。

(文化高知 2013年1月 №171 森岡浩氏執筆より転記)

 

 

 さて、ふだん何の気もとめず使っている「大名」って、一体何でしょうか。

大名という貴族(骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと・鈴木尚著)155pより

 

 「大名」は、時代によって、その意味が、多少、変化しているが、普通は江戸時代

の大名をさしている。

「大名」という言葉は、平安時代末、土地の私有権を強化するため、耕作地に自らの

名を冠するようになったとされる名田(みょうでん)の経営者=名主(みょうしゅ)

の中で特に有力な農民のことを大名田堵(だいみょうたと)と呼んだことに始まる。

 

鎌倉時代になると、大きな名(みょう・領地)をもち、多数の家の子、郎党を従えた

武士を大名、小さな名しか持たぬものを小名というように変わってきた。

南北朝以後は、名主の中で有力な領主にまで成長したものを守護大名といい、さらに

戦国時代になって、これら領主層の中から新しく豪族が台頭し、他の守護大名を武力で

従え、地域的な封建体制を築くようになったのが戦国大名である。

さらにその後、織田氏・豊臣氏が現われると、名主・荘官の領地支配を否定し、それに

代わって領土とその農民を直接、大名が支配できるような石高制(こくだかせい)が

採用された、これが近世大名である。

 

しかし、この体制が大名の知行制度として完成し、法律的にも社会的にも、確立される

ようになったのは、江戸時代であって、大名とは徳川将軍の支配下にあって、

一万石以上の領地をもつ封建的領主であると理解されるようになった。

 

この江戸時代大名は徳川将軍から、一定の土地を領地として与えられ、その土地に

ついて、行政・司法・徴税権を行使できるような藩が組織された。

また、大名は徳川氏との親疎の関係から3種に大別され、それは、①親藩:将軍家と

血縁関係のある大名、②譜代大名:徳川氏が三河(愛知県)の一大名に過ぎなかった頃

からの家臣の子孫、③外様大名:関ヶ原合戦後に徳川氏に従属した大名である。

また領主の格式にも段階があって、国もち、城もち無城による区別があったほか、

江戸城に登城したとき、控えるべき詰所の別によっても、溜間詰(たまりのまづめ)、

菊間詰(きくまのづめ)、雁間詰(がんのまづめ)など8階級の席次に分かれていた。

これら、大名の数は、江戸時代末には、およそ270余りあったが、その大部分は、

5万石以下の譜代大名で、加賀(金沢)前田家の120万石余や仙台伊達家の

62万石余のような大大名は少なかった。

また、幕府の要職には、原則として親藩・譜代大名の中から任用された。

 

これらの大名は明治維新後は、藩の知事に任命されたが、廃藩置県後は華族に列せられ

第二次世界大戦で爵位を失うまで、世襲であった。

 

根木勢介  携帯:090-2825-2069

 

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根木勢介 さんの記事・・・広井勇(いさみ):牧野富太郎と同年、同じ佐川生まれ

2013-01-26 | 根木勢介 さんの記事
根木勢介 さんの記事・・・広井勇(いさみ):牧野富太郎と同年、同じ佐川生まれ
 

 伊達政宗のお墓が改葬(昭和49年)されて、調査によって、彼の頭蓋骨や骨から

いろいろわかったそう。頭蓋骨から「顔」が復元、身長など身体の特徴がわかった。

身長は、159.4センチで現在の日本人からすれば10センチほど低いが

当時であれば、平均らしい。

興味を引くのは、「独眼竜」と呼ばれる正宗だが、眼窩(がんか)には「異常」が

なかったとのこと。

このようなことを聞くと混乱してしまうが、歴史とは「通説」を完全に信用しては、

いけないもの、らしい。

(骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと 鈴木尚著)

 

さて、龍馬の生まれた町記念館に「広井勇」のポスターが、貼られている。

広井勇のことに少し触れたい。

■山に向かいて 目を挙ぐ 工学博士広井勇の生涯:高崎哲郎著 鹿島出版会

 (2004年2月発行)より

 

<序にかえて>より

・「広井君の事業よりも、広井君自身が偉かったのであります」

広井勇の終生の知友・内村鑑三(宗教哲学者・文明批評家)は広井の葬儀に臨んで

こう断言した。私は、内村の心友と永別する惜別の情と慟哭それに鋭い人間観察に

肺腑をえぐられるような感動を覚えることを常とするが、同時にこれ以上の簡潔に

して明瞭な「広井論」を知らない。

札幌農学校(北海道大学の前身)入学以来、半世紀を超える知識人同士の厚情は、

「ホモ・フアーベル」たる土木技術者・広井勇のいきざまの本質を鋭く突いている。

広井の六七年間の生涯は、日本の近代土木界の揺籃期における先駆者として、ひと時も

休息を許さない刻苦勉励のそれであった。

それは彼自身が希求したものであるとともに、日本という「遅れて来た近代国家」の

宿命を背負わされた結果ともいえよう。彼は与えられた事業をすべて完璧に完成させた。

その記念碑ともいえる土木事業は、港湾として、橋梁として、水害のない河川として

、ダムとして、全国各地に残されている。今日においてなお、光芒を放ってやまない。

疑う者は小樽港を訪ねよ。また、学会、官界、実業界への貢献も一頭地を抜いている。

だが彼の生涯の何物にも代えがたい最大の功績は、多くの優れた門弟たちを育て社会に

送り出したことではないだろうか。広井が師と呼ぶべき人物、それは札幌農学校時代の

ウイリアム・ホイーラーをはじめ少なからざる人物がいる。知友も少なくない。

が、しかしそれ以上に氏を恩師と呼び慕う人々ははるかに多かった。私はかって

「評伝 技師 青山士(あきら)の生涯」(講談社)を刊行したが、広井門下である

クリスチャン技師青山士の生涯は広井と内村の影響を抜きにして考えることができない。

青山は広井が独力で開いた孤高の道を誠実に歩み続けたのである。

・・・。

広井をはじめ内村(鑑三)、新渡戸(稲造)、宮部(金吾)ら札幌農学校同期生は

言葉の正しい意味で「エリート」であった。

「選ばれた者」であった。それ故に、彼らは”noblesse oblige”(ノーブレス・

オブリージュ、高い身分に伴う徳義上の義務)を果敢に実行することを宿命付けら

れた。

幕末に生まれ昭和期に他界した彼らの人生は壮絶な戦いであった。何と戦ったのか、

それを解明することが本書のねらいのひとつである。

・・・。

「学術論文や設計図にはオリジナリテイ(独創性)がなければならぬ」

広井の門下生に対する忠告である。

・・・。

 

※根木のコメント:

 ・赤字は、根木によるもの

 ・佐川町立:青山文庫で「広井勇展」開催中 12月15日~25年3月31日

  2月3日(日)講演会あり:高橋裕(東大名誉教授など)

               佐川・桜座13時30分~

 ・広井勇:上記の伝記では『いさみ』となっている。

  また、「広井」は、「廣井」が正式な名称だそう。

  ただ、高知県人名事典では、廣井勇(いさむ)と呼んでいる。

 

広井の曾祖父「廣井鴻(こう)」について、高知県人名事典を見ると、つぎのように

紹介されている。

■廣井鴻(1770~1853)

 和算家、字は千里。号は、遊冥(ゆうみょう)。通称、喜十郎。

 明和7年10月15日、高岡郡佐川村(佐川町)に生まれた。父は 徳。

 家は深尾家の臣。17歳で仕官し高知邸で兵学、のち文学教授兼算学の師となり、

 また刀槍の術も教えた。

 のちに佐川に帰り名教館(めいこうかん)助教、教授、君公の侍読をし、算数の

 教授となり、多くの門弟を育てた。積年の功労により、天保7年(1836)

 禄10石加増。

 嘉永6年9月11日没。84才。墓は佐川町松尾山麓。

 

※根木のコメント:

 ・広井の祖父は、「廣井勘左衛門」といい、儒学者だったそう。

 ・広井勇の叔父は、片岡利和(勤王の志士)。また、田中光顕とも親戚関係になる。

 ・入学が難関だった札幌農学校の「土佐ボーイズ」と呼ばれた人たちについては、

  次回に。

  片岡利和については、次回にでも。 

 

根木勢介  携帯:090-2825-2069

   
 
 

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根木勢介 さんの記事・・・いごっそう:土佐弁番付⑥-1

2013-01-12 | 根木勢介 さんの記事
根木勢介 さんの記事・・・いごっそう:土佐弁番付⑥-1 
 

 「食」を中心としたテレビ番組に「ケンミンショウ」があります。

食の代わりに「方言」を中心とした番組があれば、高知県は先頭に立てる可能性

豊かな県です。この「方言豊かな風土」をどのように活かせればいいでしょうか?!

 

 

 そこで今回。

観光ガイドのみならず「高知県人」ならどうしても身に付けておきたい・

これを知らずしては高知県人ではない、たいへん「重要」なお知らせです。

 

 

<高知県人度・チェック表>にも、ご活用ください。

 

■新土佐風土記:橋詰延寿著・昭和27年発行 126pより

・土佐方言番付

 

 土佐方言の番付ができていますので発表いたします。この番付はもう三年前に

できまして文書や絵葉書で紹介、発表いたしましたが、ラジオを通じての発表は

今度がはじめてであります。

・・・。

 

土佐方言くらべ番付の行司は「ジ・ヂ」、「ズ・ヅ」で年寄りは坂本龍馬と田中

貢太郎先生でございます。勧進元は坊さん簪(かんざし)宣伝社となっています。

鎌倉・室町時代に出ました本の中にも、渦はウズというぞ、水はミヅというぞと

書いてあります。これから考えますともうすでに平安末期からこのジ・ヂ、

ズ・ヅが崩れはじめています。

徳川期に入ってはその進歩が早くなって、もうジ・ヂ、ズ・ヅの区別はつかなく

なっています。

土佐の歌人今村楽が本居宣長翁に会ったときは、もう翁の晩年で耳が遠くなって

いました。そこで今村楽は、筆談でもって土佐にジ・ヂ、ズ・ヅの区別があること

を話しますと本居翁は”それはまことに奇特のことである”と関心したことが記録に

残っています。

土佐が南海の別天地であったため、これがずっとそのまま残ったことと考えます。

しかし今はこのジ・ヂ、ズ・ヅも区別が次第に崩れてなくなっていることは事実で

あります。

 

 

 さて、東軍の陣容は、      西軍の方言力士は、

 

  横綱:エンコウ         横綱:シバテン

  大関:トイチ          大関:チクト

  関脇:イゴッソウ        関脇:ハチキン

  小結:アマノン         小結:センバ

  前頭:ゴゼムシ         前頭:アブラコ

  前頭:オンシ          前頭:オラ

  前頭:オンチャン        前頭:ルイ

  前頭:ミミキレ         前頭:キリブサ

  前頭:タツバイロ など     前頭:ツボ    など

 

 

 

★★★根木のコメント〇△×?★★★

 全部で9×9=18の方言が並びました。

 皆さんは、いくつ「方言のガイド」ができますか?

 根木の頭の中では、?・×・△・〇!

 

     初耳のようなもの:ミミキレ・タツバイロ・キリブサ?

     聞いたことあるもの:アブラコ

 

 この続きは、次回にでも。

 お楽しみに!

 

根木勢介  携帯:090-2825-2069

 

   
 
 

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根木勢介 さんの記事・・・高知城その7:合姫(一豊の妹・兼山祖母)、一族

2013-01-11 | 根木勢介 さんの記事
根木勢介 さんの記事・・・高知城その7:合姫(一豊の妹・兼山祖母)、一族
 
 

 正月一日に室戸に行きました。キラメッセで食事をしましたが、海を見ていつも

女房とはなしをするのですが、「鯨」が見られたら面白いね、と。

鯨が目の前で泳いでくれたら最高ですが、現物の鯨が無理ならちょうど真ん前・

50メートル先に「岩礁」があるのでそこに「浮力発電・鯨」を浮かべても

いいと想います。お正月の初夢でした。

 

さて、高知城でも次のガイドもできると、「ひとくちメモ」的に紹介しました。

●お城の植栽:城には、どのような植物を植えていたのか?

<戦国の堅城‐築城から読み解く戦略と戦術・学研発行・歴史群像シリーズより>

 

・植栽(131pより)           

 城造りでは、植栽もおろそかにできない。城の植物は、美観だけでなく、防御面

でも大切な役割を担っているからだ。

城に植える木は、籠城戦に役立つものを選びたい。まず挙げたいのは松竹梅だ。

おめでたい木として知られるこの三種は、実は、戦闘時の利用価値も高い。

中でも、松は悪条件にも強く、城の木の定番となっている。竹も利用価値が

高く、矢の材料となる矢竹は、密生させれば、強力なバリケードにもなる。

梅は不可欠なものではないが、実が兵糧になる。

樹木以外の植物では、薬草類も充実させたい。城の一画にお花畑を設けて管理すると

よいだろう。

木を植える際は、塁の内側に並べると外から見えにくくなり、効果的だ。塁や堀の

外側は、敵の隠れ場所をなくすよう、見通しよく空けておくとよい。

 

 ◇松の利用法 

  松は、柵・乱杭・逆茂木の材料のほか、油分が多く燃えやすいので、薪や夜間の

  警備に必要な松明(たいまつ)にも重宝した。松脂(まつやに)も利用範囲が

  広く、弓弦や狼煙(のろし)の材料、血止めにもなったとされる。

 

 ◇竹の利用法

  竹は様々な道具の材料になるが、城ではやはり臨時的な防御用具である虎落

 (もがり)や、竹束の材料となることが重要。いざとなれば竹鎗(たけやり)にも

  なる。小型の竹である矢竹は、文字通り矢の材料となる。

  中世の曲輪の名に見られる「笹曲輪」は、この矢竹を栽培した曲輪だろう。

 

 ◇城の植栽

  城に植える木は、戦闘時には柵や逆茂木(ぎゃくもぎ)等の臨時的な防御施設に

  なる。松が主流だが、他に柵等に使いやすい杉、実が食用になるカヤやイチョウ

  等も考えられる。

  木は、堀などの内側に沿って植えるのが定型。土塁には芝を張ると、表面の

  くずれを防ぐ効果がある。塁や堀の外側は木を植えないが、敵を近づけたくない

  搦手側の斜面等には、矢竹を密生させるのもよい。

  城によっては梅林を設けることもある。桜もよく植えるが、現在桜の名所と

  なっている城跡には、明治以降の植樹も多い。 

 

婉の母「きさ」の名前:Nさんから次のメールをいただきました。

 Nさん、連絡をありがとうございました。

 確かにご指摘の通り小説の「あとがき」と小説「文中」と名前が相違していました。

 私が紹介したあとがきの「校正ミス」ですね。気がつかなくて、すみません。

 このようなメール、大歓迎です。皆さんは、根木よりずっと勉強・研究されて

 います。

 その知識の「共有」の場であり、共有できたらと願っております。

 

 

 えんの生母は、やはり、池きさ だとおもいます。
その1  「高知観光ガイドブック3 」 p69、に きさ とでている。
      「野中兼山」 横川末吉著 吉川弘文館 p281 えんの母 きさ とでている。
その2  「えんという女・正妻」 大原富枝著  講談社  p53、54  清七,希四郎、

      わたくし。貞四郎、そして その母池きさ。 と表記されている。 
その3  筆山にある 「野中兼山と一族の墓 」には、左前に えんの母の墓があるが

      母池氏之墓と記名されているだけで きさの名はない。    
その4  本山町の大原富枝文学館へ調査研究に行ってきた。

      そこでも明確に えんの母として きさ が記されている。

                             (以上は、Nさんからのメールです。)


 

<合姫(一豊の妹・兼山の祖母)のことについて>

どのような一族だったかも、少し長くなりますが、紹介しました。

■野中兼山・婉女そして土佐山田:野中神社改築委員会・土佐山田町教育委員会発行

・二、兼山の人と治績(依光貴之執筆) 35pより

 

1.生い立ちと時代

 野中氏の家系

濃尾平野の西部を南北に流れる大河揖斐川(いびがわ)を遡ると、大垣市の北方

約十五キロで山麓の町揖斐川町にさしかかります。その町の三輪地区が野中氏

発祥の地といわれます。

系図上の初代は野中道永といい、かなりの土地をもつ地主(名主)であったようです。

(付録の系図を参照してください)

道永の子伯仙は、天正十三(1585)年に七十三歳で没しており、戦国動乱の

なかを生きた人です。

そのため、青年時代に剣術家衣斐丹石(えびたんせき)について学び丹石流の奥義に

達していたようです。丹石流は短い刀を使い相手のすねを蹈(ふ)み折るぐらいに

肉迫する気合を尊ぶなかなか激しいもので、野中家の気風を養ったのはこの剣法

だったともいわれてます。

 

その奥義書は、長男良平が若死をしたため伯仙の臨終に際し、次男益継に譲られ

ました。

伯仙は剣術だけでなく医術・和歌・書道にも通じた文武両道の人でした。

伯仙の妻は丹石の姪(一説に娘)で二人の間には四人の子供が生まれ、長男が兼山の

祖父良平(よしひら)、次男がのち兼山が養子入りする分家野中家の租・益継

(ますつぐ)、三男が遂繼(かつつぐ)です。

良平は、戦国の風雲に乗じて身を立てようと、はじめ織田信長(あるいは信忠か)に

仕え、秀吉を経て、山内一豊に属し、その妹合姫(ごうひめ)を妻としました。

一豊が近江(滋賀県)の唐国(からくに)で四百石を領した頃のことです。

 

合姫は良平より四歳年下で、兼山の父良明(よしあき)と通姫(つうひめ・乾和三妻)

を生みましたが、夫良平が天正七(1579)年三十一歳で早死したため、自分より

八歳年下の義弟益継と再婚し、そこでも三男三女をもうけました。

その長男直継(なおつぐ)は宿毛の領主安東氏の娘と結婚、一男二女が生まれましたが

、男子(合姫の孫)が早世して後継ぎがなかったため、末娘の市に兼山をめあわせて

養子としたのです。つまり、合姫からいえば自分の血を分けた孫同志の結婚であり

”同姓娶らず”の儒教の教えにめざめた兼山にとっては、忌むべき結婚となるのです。

 

合姫は至って健康で、土佐へ入国してのち、兄一豊のあとをうけて甥の忠義が藩主と

なり夫の益継、子の直継、孫の兼山と三代続けて重臣として藩政を掌握した時代に

、酒を友として豪奢(ごうしゃ)に暮らし、正保三(1646)年九十三歳の生涯を

終えました。兼山の全盛時代で、儒教による葬式のうえ、日を改めて法華宗による

盛大な葬儀があり、筆山の北麓に葬られました。

諡(おくりな)を慈仙院妙仁日大大姉といいます。

 

さて、兼山の父良平は七歳で父に死に別れましたが、後嗣のなかった伯父一豊に

愛せられ、土佐入国時には五千石を受けています。有能な伯父益継が二千三百石

ですから、野中家の本家筋とはいえ、いかに優遇されたかわかります。

それが慶長十三(1608)年ごろ、妻もつれずにわかに国を出奔し、海路

播州姫路へと赴きます。その間の事情はよくわかりませんが、かねて一豊から

山内の姓を許され、幡多郡中村で二万九千石を与えられる約束を得ていたところ

、慶長十年の一豊の死によって反故(ほご)にされたためであろうといわれます。

一豊の弟康豊の辣腕ぶりもさることながら、良明の癇癖(かんぺき)の強い性格も

原因であったようです。

 

良明の妻が池田侯の重臣の妹であったので姫路へ行き、池田家では一万石をもって

召し抱える話もあったけれども、良明はこれを辞退し、年に二百石の扶持米をもらって

姫路や京都で何とか浪人暮らしを続けたようです。

良明の妻はあとを追って姫路へ来て間もなく死亡しました。その後妻として迎えられた

のが、豪商秋田家に養われていた孤児の萬でした。その時萬は二十四歳で、六年後の

元和元(1615)年に兼山を海、九年後に良明に死別します。兼山の誕生日に

ついては、六月十三日説と一月二十一説と両説あり、お婉堂の位牌には”六月十三日

己亥午刻生”とあります。

上方での良明一家の暮らしは決して楽ではありませんでした。良明は家計を顧みて

限度内で暮らせる人ではなく、やがて、二百石の扶持米も池田家の備前転封とともに

打ち切られたはずです。

 

萬は良明の死と共に上方での生活をあきらめ、当時四歳の佐八郎(兼山の幼名)の

将来も考え、海山を隔てた土佐へ下り、分家の益継・直継父子を頼むことにしたのです。

(この間の経緯については小倉少助が境から呼び下したとの説もありますが、『野中

遺事略』によりました。)

萬は慶安四(1651)年六十六歳で急死したので、兼山は儒葬をもって野中家の采地

(さいち)の帰全山に厚く葬り、山崎闇斎執筆の「夫人秋田氏墓表」を碑に刻みました。

それには、夫人は針仕事や織物などで家事万端に通じ、夫によく仕えて内助の功あり。

わが身を飾らず、姑の看病を怠らず、下女をも懇(ねんごろ)に教え導いた。

兼山の短所を見ぬいて、友とよく交わり、寛容であるようさとし、また父良明の美点も

伝えた。はじめ姑に従って仏教を尊んでいたが、兼山が儒教に帰したのちはこれに従った。

などと誌され、「けだし夫人のごときは婦女の楷模(かいも・手本)なり」と結ばれて

います。 

根木勢介  携帯:090-2825-2069

   
 
 

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根木勢介 さんの記事・・・高知城その6:二大政治家・末路の悲惨 兼山、東洋

2013-01-10 | 根木勢介 さんの記事
根木勢介 さんの記事・・・高知城その6:二大政治家・末路の悲惨 兼山、東洋
 
 

 「多聞」から始まった高知城シリーズ(?)、わたくしの中で高知城ガイドの

「マンネリ」化を感じたのが、シリーズを始めるキッカケとなりました。

期待されるほどのことは、できませんが、「根木の雑記帳」くらいの気持ちでお読み

いただければ幸いです。 

●25年1月7日の次のメールについて、Sさんから下記の返信をいただきました。 

1867(慶応3年)年海援隊が

結成されると文司(書紀)として隊の往復文書のほとんどを手掛けた。

同年、龍馬が土佐藩参政後藤象二郎に提出した独自の国家構想『船中八策』も、

龍馬の意を受けて謙吉が起草したものである。

(25年1月7日メール)

 

<Sさんからのメール>

長岡謙吉が書記の役にあったことは認められますが、船中八策を謙吉が起草したと

長崎遊学辞典に書かれてあったのですか?

起草するとは単に文書を作成するのではなく、文案を起こすことです。

あくまでも文案は龍馬の考えで謙吉は単に代書したに過ぎないのでは 

ないですか。

隊の往復文書のほとんどを手がけたとありますが、彼は海援隊の中でどのような

位置にあったのですか、当時龍馬に具申するほどの立場だったのですか。

そのあたり誤解をうけやすいので根木さんの考えを聞かせてください。

 

⇒根木より:

・紹介しました「長崎遊学事典」では、転記の文章通り、です。

 この本は、図書館で閲覧できます。各県(藩)別の長崎遊学者の人物・紹介本

  です。

・この事典の長岡謙吉「評価」の高さに少し「違和感」をもちながらも紹介

 しました。

 特に長岡謙吉の業績・分担(書紀)について、「断定」した書き方をしている

 のが気になります。

  船中八策について、長岡謙吉”自筆”の「八策・起草下書き」など発見されれば

「断定」もできるでしょうが、・・・。

 

 これについては、日を改めて取りあげたいと思います。 

 

★さて、O(おー)さんから、吉田元吉(東洋)の「元吉」は、どのように読むのか?

問合せをいただきました。

おかげさまで、吉田元吉(東洋)について、勉強ができました。

<もときち?、もとよし?、げんきち?>

 

■土佐人物抄記・平尾道雄著・昭和28年発行 12pより

七、吉田東洋

 

 野中兼山を藩政初期の大政治家とすれば、吉田東洋は藩政末期の代表的政治家で

あって、しかもその末路の悲惨さにおいて両々相対するものとせねばならない。

その識見の遠大さにおいて、その施策の果断さにおいて抜群の器量を持ちながら、

独裁ぶりを吏僚に嫉視せられ衆人の怨恨を受けて自ら運命を縮めたことまで

奇しくも相似たものが感じられる。

 

東洋の通称は官兵衛、後ち元吉、名は正秋である。知行二百石の馬廻りの武家に生れ、

師を求めて和漢の学に通じ、殊に史書を読み経済の道を講究した。

少壮早くもその才腕を認められて船奉行、郡奉行を歴任したが、嘉永六年米艦浦賀に

来航して修好を求め、国事漸(ようや)く非常なるに及び、藩主山内容堂は東洋を

抜いて参政(仕置役)に任じ江戸に迎えた。かれが、水戸の藤田東湖と親交する

ことになったのもこの頃で、その活躍を期待されたが、一日旗本松下加兵衛を饗応の

席上加兵衛が酒酔にまぎれて無礼を加えたのを、東洋は我慢できず即座に

なぐりつけた。

「吉田元吉頭をこくが、数寄屋小橋で伊達もこく」と当時の世間は流行歌にした。

「こく」とはなぐるの方言、伊達こきに対句したもので、東洋の性格の烈しさと

装身に凝る生活態度がこの歌詞に窺われるものである。

松下は、山内家とは親戚の家筋だったので、東洋は土佐に追還せられ、長浜に蟄居

した。この地に設けた鶴田塾の後藤象二郎、福岡孝弟、岩崎弥太郎のごとき英材が

養成されたのである。

 

幕末混乱の時勢は、東洋の幽居を許さなかった。安政戊年の獄に連座して山内容堂

が退隠し、ついで幽門を命ぜられると、東洋は再び参政に復活し、藩政の要路に

たつことになったのである。

彼の読書力はすでに西洋事情を知識し、世界の大勢を理解していた。したがって、

彼は開港主義をとり、いちはやく岩崎弥太郎を長崎へ派遣した。外国事情を操って

他日の貿易を予想したもので、汽船の四十五艘をも備え海外雄飛の策を容堂に進言

したのである。

 

不幸にしてこの構想は生前に実現できなかったが、後藤象二郎は彼の遺策をうけて

開成館を創立し、岩崎を長崎貿易に活躍させた。

東洋は、また新時代に即応する学制改革を計画して致道館を新築し、階級打破の

一端として文武官の世襲制度を廃止した。「海南政典」の編修も「藩吏」の編修も

彼の企画に成るものであった。

階級制度の打破は、当然門閥家の反感を招くものだったし、致道館の新築や幕府の

命による大阪湾防備のための住吉陣営工事は民衆に労費を負わせ、豪華を好む生活

ぶりが、一層上下の憎悪をつのらせた。

 

文久二年四月八日の夜、東洋は四十八歳を一期に暗殺されたが、手を下したのは

勤王派の刺客で、尊王攘夷を念願する武市瑞山等の必死の策動を軽視したところ

にも彼の大きな不覚があったのである。

 

 

武市半平太 月と影と:松岡司著 1997年発行 54pより

 ・・・。

東洋はこの夜、藩主の参勤交代発途をもって御前講の終会日としていた。そのため

家老衆がつとめる奉行職から、近習、外輪(とがわ)をとわず役所の面々が

きらぼしのごとく二ノ丸に列席し、その講義「日本外史」の終了とともに祝いの酒が

ふるまわれた。

約一時間。午後十時すぎ、ようやく東洋は息のかかった重役をつれて下城。追手門を

出て、追手筋を東にすすみ、家老深尾丹波邸の角で最後の伴、大目付大崎健蔵と

わかれた。

南にくだること約百メートル。帯屋町通りに面した四つ角に家中・中屋茂馬の屋敷が

ある。その長屋門の蔭から顔をかくした刺客がおどり出た。

「元吉、参る!」(「壬戊変事」『寺村左膳日記』『皆山集』)

雨の闇夜に暗殺剣が舞う。

背後から真っ先に切りかかった六尺の偉丈夫、那須信吾だ。

活劇の状況は彼の書面を借りよう。

 

 先(まず)、件(くだん)の右側より後ろへ踏ん込み、首を見込左の肩より唯(ただ)

 一打と思い刀を下候所、傘に障(さわり)、但しは手凝(こ)り候歟(か)、浅手に

 而件 直(ただち)に見返り抜合、六、七篇切り合候所を外方より段々手を下し、否

 (いなや)切伏せ直に私立寄、俯(うつぶ)せに斃(たおれ)候を刀に而首を打候所

 、首筋より腮(あご)え掛り余程切れかたく、屡(しばしば)拝み打ちに仕候、

 (青山文庫蔵)

 

東洋は、南下して自邸のある東に歩をむけていた。その南の蔭から傘(かさ)ごと

背面をおそったのだ。

東洋も容易に命をすてるわけにはゆかない。

浅手で振り向きざま「不届者、にくきやつ!」とさけんで刀を抜く。

その気迫にさすが豪胆な信吾も押され、数合切り結びながら中屋屋敷の対角にある

間市之進邸のしもまで下がった。東洋の家来に対していた大石団蔵・安岡嘉助が

引き返し、嘉助がまたも東洋の背後から切りかかる。

刃(やいば)は肩口から首にかけて横に払われた。

「グワッ」

東洋は絶命した。

・・・。

 

 

※中々、「元吉」のふりがなは、出てきません。やっとありました。

 (赤字部分は、根木による。一部漢字を現在漢字に直しています。)

■土佐偉人傳:寺石正路著・昭和15年発行 59pより

吉田東洋

 

 吉田東洋(よしだとうよう)通稱は元吉(もときち)、名は正秋(まさあき)、

字は子悦(しえつ)東洋は其號なり

其先秦氏の名将吉田市左衛門正重に出づ

正重征韓の役唐人町豆腐屋(とうふや)秋月氏租(あきづきしそ)、朴好仁(ぼく

こうじん)を擒にしかへる子孫山内氏に仕へ馬廻に列し禄二百石を賜はり帯屋町に

住す

人となり明快俊偉(しゅんゐ)学問宏博(かうはく)に自ら一家の識見を備ふ

初幼時藩士安並雅景に就き和漢の書を学び弱冠以後東遊の途次伊勢斉藤拙堂

(さいとうせつどう)の門に入り文章を学び大に得る所あり

天保十二年二十六歳の時父跡目を相続す

尋で船奉行に任ぜられ明年郡奉行に転じ又再び船奉行に任ぜられる 時に承平日

久しく百度弛廢す

東洋鋭意諸制を改革して諸制一新大に見るべきあり 巳にして母疾を以て一旦官を

辞し家居す

 

嘉永六年米使渡来し海内忽(たちま)ち騒然たり 幕府米国国書の漢詩文を諸藩に

送致す

当時土藩の国老重役皆肉食の徒にして一人も能く右の漢文を読む者なし時に新藩主

容堂豊信(とよしげ)は深く之を慨し執政には宜しく読書の人を用ゆべし

当今其任に當(あた)る者は東洋を除きて其人なしと直に擢でゝ参政の重任に任ず

同年江戸に上り藤田東湖、鹽谷宕陰(しおやとういん)、横山湖山の諸名流と

相往来し互いに師友の交を訂す

 

此時偶容堂江戸藩邸にて其親戚にして旗本たる松下嘉兵衛を饗応することあり

東洋其接伴たり

嘉兵衛酔ふて東洋の頭を殴打(おうだ)す 東洋怒て之を拳撃して櫞下(えんした)

に擠下(さいか)す事聞こゆ 容堂深く嘉兵衛の妄禮を怒るも幕府の後難を畏れ

枉(ま)けて東洋を罰し官祿を奪ふて土佐に遂下せしむ 東洋蟄居を命ぜらるるも

意気軒昂平日に異ならず一書を東湖に寄せ其懐を述ぶに曰く

・・・。(途中略)

安政二年江戸大震あり東湖壓死(あっし)す 訃至る東洋謫(たく)中痛惜の情に

堪えず書を鹽谷宕陰に寄せて曰く

 

「誠に一昨年来は毎々天變御難儀奉ㇾ察候且藤田東湖翁の訃驚入候人之云亡邦国

 診瘁(ひとのここにほろぼうしんすい)ㇾ惜之至りに御座候云々」

 

東洋巳に罪を獲る城南三里吾川郡長濱村に謫(たく)せられ鶴田の里に居り日に

読書を事とし意気少も衰へず 後進の俊才後藤象次郎、福岡孝弟、岩崎弥太郎等

住居に来て其教を受く 安政五年容堂は時勢切迫の為め再び東洋を起して故の参政に

復す 東洋謫居四年是に於て再び赦されて旧職に復し公の知遇に感激し粉骨国事に

尽くさん事を期せり 即ち藩政改革に関する一大覚書を呈出し人材の養成と採用を

新政の主眼とすべきを痛論し安政末年土藩が摂海の防御を申し付けられるや住吉に

陣営を建て直に兵備の充実を世に示したり 同年容堂は戊午(ぼご)獄事(ごくじ)

に関し品川に幽居を命ぜられるや東洋は驚きて東上公に謁(えつ)す 

公一詩あり

 

「人生何事如₂生死₁、別後相逢情更深、話ㇾ舊(旧)不ㇾ知宵過ㇾ半、一燈風雪

 五年心」

 

君臣遇合の情懐想ひ見るべし 万延元年桜田騒動以来世情騒然となりしが東洋は

少しも騒がず 人材教育は興国の大本なりとの持論を抱き容堂に請うて藩校文武館

設立の許可を得て其経営に余念なかりき然(しか)も国論反対の多きを見て快からず

其年の暮江戸に上り公に謁し国暇を乞ひ自ら大阪に下り私塾を開かんとの内願を

なせしも公は手づから酒を賜り慰撫(いぶ)して許さず 東洋詩を作り懐を述べて

曰く

 

「歳終喧閙(とう・さわがしいの意)攪(かく)₂吾眠₁、久苦官途鬢(ひん)欲

 ㇾ斑、挂(けい)綬(じゅ)有₁心猶(なお)未ㇾ果、風塵中又遇₂新年₁。」

 

之を読で東洋の心事潔白又功名を貪(むさぼ)る念の淡泊なりしを察すべし 然るに

東洋は兼ねて容堂の主唱せし公武合体論を飽くまで信奉し当時土佐勤王党を代表せる

武市瑞山等の懐抱せる絶対討幕論には少しも之を賛する意志なかりき抑 武市瑞山

は土佐勤王党の主領にして識見遠大に時勢を洞察する明ありて兼ねて京洛にて西国

強藩の有志と連絡を通じ藩主を抱して蹶起(けっき)其時機を待つばかりなりき

文久元年の暮れ瑞山江戸より帰り時勢に就きての献策を東洋に致す 東洋自ら容堂の

信任を受け己が持論を断行するの確信を有し断乎として之を退けて用いず 

 

瑞山の党(なかま)遂に東洋暗殺に決す 文久二年四月八日東洋藩主豊範(とよのり)

の前に日本外史の侍講をなし帰途中勤王党の壮士安岡正定、那須重民、大石団蔵三人

の為め殺害さる年四十八 妻其淑(しゅくとく)あり兼ねて伉麗(こうれい)

尤(ゆう・すぐれた意)篤し變(変)を聞き驚哭し越へて七日卒す 城南潮江山高見

に葬る 嫡子(ちゃくし)源太郎家を繼ぐ 後正春という 維新後外交官となり令名

あり 東洋、人となり才学あり識見又秀づ故を以て自ら一家の主張をなし人と相いれず

遂に中道に斃れる 惜しむべきかな兼ねてより藩治整頓の志あり 嘗(かつ)て制度

改正役を設け儒家松岡毅軒(きけん)、細川潤次郎等を其官を任じ秦氏以来山内家

時代に及ぶ制度法律の調査をなし一部の大法典を編す 名付けて海南政典と称す

徳川氏三百年列藩の制度皆不文律に留まる 然し荘重典雅の漢文を以て始めて成文律

となし 後世に遺す者此の書を以て唯一となす 史論以て不朽の偉績となす

 

 

※根木のコメント:

 ・「読み方」がわからないとガイドの時に困りますね。

 ・「元吉」の名前は、よく使われているものの「ふりがな」なしが、ほとんど

  でした。

  原因としては、東洋自体の研究(評価)がされてないからだと推測します。

  「東洋についての本」の少なさにも驚かされます。

 ・最後の紹介文は、長文です。転換ミスがあるかも。

  読みにくいですが、よく読めば伝わってくるものがあります。

 

 

根木勢介  携帯:090-2825-2069

   
 
 

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根木勢介 さんの記事・・・高知城その5: 兼山の肖像画

2013-01-08 | 根木勢介 さんの記事
根木勢介 さんの記事・・・高知城その5: 兼山の肖像画
 
 

ある方からの年賀状によると、「長岡謙吉」の顕彰碑ができるそうです。 

  『今年は念願の「龍馬死後の海援隊隊長・長岡謙吉※の顕彰碑」も南はりまや町に

   実現します。それにつけても、今日の土佐人は何か元気がなくなったと思えてなりません。

   損得を越えて、世のため人のために生きた”土佐人をテーマとした絵画展”が

   できないかと今、考えております。』 

●今日は、高知県立美術館で開かれている「リヒテンシュタイン 華麗なる侯爵家

 の秘宝」展に女房と行って来ました。

 リヒテンシュタイイン家は、日本でいえば、「地方の一大名」のような極小国。

 この国は、現在でも人口が、三万人余だそうです。

 日本の歴史でいえば、「兼山時代」の作品も会場にずらっと並んでおり、よくも

 今日まで、散逸せず残ったものだと驚きました。

 会場にリヒテンシュタイン家の「家系図」がありましたが、日本の家系図とは、

 違って「何代目」の表示はありません。

 日本の「作られた」家系図と違って、”真正”なものでしょうから、よく”改易

 や領地を取(り上げ)られず”家系が続いているものだとこれにも驚かされます。 

 

◆Nさん、Yさんから、次のメールをいただきました。 

・えんの生母は、池きさではないでしょうか。 

・お城周辺、面白うて悲しいねぇ。祖母の合さんも・・・。ご登場願えませんか?

案内所から一豊像までの合間に、一寸お話するのによかったけど。

 

・う~ん。確かに。幕府にいて、急進なお仕置きをなさるとなると、

しもじもはおおごと。まだまだ、土佐でやりたいこともあったのでは・・

わが殿様、外様であったことが苦労の種か?

独断の強さが不幸の始まりか、身体を賭けたお仕置きだったと思う。

山田の屋敷跡、舟入川のそばに立った時、兼山先生~と叫びたい

愛しさと哀れさを感じました。

 

・あだたぬは仇とかきますか?なんか方言の意味がちがうような?

 

⇒根木の返信:

 【あだつ(動)】高知県方言辞典より

  はいる。はいりきる。

  「ちょっと足摺へ行ったばーなことに、近所や親戚へ、いちいちみやげものを

  買ーちゃるゆうーたら、アダツかや。

  (多くの人に一々金をかけてみやげ物を買うことはできぬの意。)

  注)「あだたん」という否定形がよく使用される。

    「龍馬は、土佐にアダタン人物やった」

    「人数がおおーて(多くて)、この講堂にゃアダタン」など。

 

  ★結論:Yさんの指摘通り、あだたぬは、カタカナか、ひらがな、のようです。

 

■高知城:①兼山の肖像画

・野中兼山と其の時代・平尾道雄著・高知県文教協会刊1pより

 

一、兼山の画像

 

 「古語実録」と題する古書に、野中兼山を評して「器量骨柄世に秀でたる人」と

書き、江戸の評判では「日本一の家老なり。

年若にして髻(もとどり)の毛厚きゆえ家老づきせぬ」ともあって、これを聞いた

兼山はさっそく家来を呼んで髻の毛を抜かせたとも書いてあるし、身長は六尺一寸

あったとも見えている。

土州の大守山内忠義は、六尺三寸、忠義の小姓松田五郎太夫はこれより大きくて

六尺五寸、江戸在府のとき、この大男三人組が同じ身支度で時折り町へ出かける。

お忍びの慰みでそっと出かけるのだが、いつとなく世間に知れてうわさの種になった

というのである。

この三人が、あるとき囲碁をやった。興つきて、力自慢の忠義が碁石を盤の上に置き、

親指でぎゅっと押し付けると碁石は盤木へめりこんでしまった。

かわって兼山がやると碁石はくだけて飛び散った。

次に五郎八がやると殿様の忠義がやったと同じく盤面へもりこんだというはなしが

ある。

世間話を書いたものでまともに受け取ることはできないが、いずれにせよ人並み

はずれた大男で、力持ちだったことが想像される。忠義と五郎太夫のばあいは、

碁石がめりこみ、兼山のは砕けてはねたとさりげなく書かれてあるが、はしなくも

そこに兼山の気性のはげしさが語られているのではないか。

野中兼山について書かれたものは随分たくさんあるが、その容貌や風采について、

私はこのほかに見当たらない。

 

こんにちよく見かける兼山肖像画について、私は故公文菊僊画伯から次のような

裏話を聞いた。昭和十五、六年のことで、当時画伯は東京郊外の五反田に住んでいた。

画伯は坂本龍馬画像の絵筆をとっていたが、そのほか武市瑞山、間崎滄浪、吉村虎太郎

らの肖像研究にもいろいろ苦心しておられたのである。

そんな苦心談のなかで、画伯は兼山画像のことについて問わず語りにその思い出話を

聞かせてくれた。

『実は古いことだが、文部省から依頼を受けて、私がそれを書くことになったのです。

 ところがーーー』

兼山の肖像というものは、いろいろと手をつくしたが、どこにも残っていない。

そこで制作することになって、いろいろと伝記を調べてはどんな性格を持っていたか。

こんな性格ならばどんな目鼻だちをしているか。どんな口元をしているか。

いろいろ想像してみる。

そのころ高知の新京橋付近に野中太内という人の娘が住んでいた。もう相当の年配

だったが、これが兼山一族の流れだというので、その人の顔立ちに自分の想像を

あわせてみる。

やっと、制作して文部省の係へ提出しておいたが、どうも心がおちつかない。

どこかに兼山先生のほんものの肖像が保存されていて、発表されたらという不安である。

 

それから忘れるともなく数年経って、あるとき画友の一人がやってきた。

そして、『上野の博物館に兼山の肖像画が出ているそうだが、知っているか。』

という報告である。

『驚きましたね。私は、顔色を変えて博物館へ駈けつけましたよ。ところが、---』

そこで発見したのは、かって文部省へ提出した自分の作品だった、というのである。

画伯は胸をなぜおろした当時を回想しながら静かに笑った。

評伝記書に使われている兼山画像は菊僊画伯のものでなく、上村(うえむら)昌訓画伯

の作である。

明治三十年頃のことで、当時の内務省から兼山画像の提出を高知県に求めてきた。

県の勧業課で詮議したが発見できないので昌訓画伯(当時第一中学校教諭)に依頼、

野中太内の娘が小藤某に嫁ぎ、高知城北麓に住み、茶や裁縫を教えているのを知って

いろいろ研究し制作して内務省へ納めた。

関東の震災で現物は焼けたらしいというのである。

(寺石正路・土佐史談三十号所載)不惑を過ぎると、人間は自分から自分の顔をつくる

ものだという説がある。

形成された人間は、その個性を顔にあらわすようになるという意味であろう。

私は、そのとき「古語実録」で知った兼山の風采を画伯に話した。

画伯はそれを知らなかったと答えて残念がったが、兼山のもつ気迫や体力をその画像に

認めることができるならば菊僊画伯の制作も成功したものといえるだろう。

ともあれ、兼山は戦国の余風消えやらぬあらあらしい時代にたくましく、すぐれた

象徴的な人間だったのである。

 

⇒根木の注)

 現在の評伝記書に一般に見られる「兼山画像」は、上記で平尾さんが話されている

 公文菊僊画伯のものです。

 

 

※根木より:

・Nさんから婉の母は、「池 きさ 」では、ないかの問い合わせをいただきました。

 大原富枝さんの「婉という女」では、「池 まさ」となっていますが、

 調べてみると、他の本(伝記本)では、Nさんの言われる通り、「池 きさ」でした。

 「小説」家として、”故意に”「まさ」としたのか、大原さんの本意はわかりません。

 

・次回にでも、兼山祖母の「合(ごう)姫」=山内一豊の妹に触れます。

 

 

◆長岡謙吉のこと:長崎でシーボルトに学んだそうです。

<長崎遊学事典・平松勘治著 ・渓水社より>

 

長岡謙吉 の項:

 1834~1872年(天保5年~明治5年)江戸時代末期の海援隊士、明治時代

初期の官僚。名は、恂・敦美など、字は子行、通称は純正・謙吉など、号は檜山・

懐山など。代々医業に携わる長岡孝順の子として土佐国高知城下に生まれた。

初め碩学の土佐藩士河田小龍に師事した。

1852(嘉永5年)年、大坂・江戸に遊学して医学と詩文を修めた。

1859(安政6)年26歳のとき、長崎に遊学した。同年、再び来朝した

シーボルトから蘭方を学び、代わりにその長子アレキサンデルに日本語を教えたと

言われる。

1861(文久1)年キリシタンの嫌疑を受けて、帰国を命じられ、追放の刑で同国

長岡郡大津村鹿児(高知市)に蟄居した。

赦免後、再び長崎に赴いて坂本龍馬の配下に入り、1867(慶応3年)年海援隊が

結成されると文司(書紀)として隊の往復文書のほとんどを手掛けた。

同年、龍馬が土佐藩参政後藤象二郎に提出した独自の国家構想『船中八策』も、龍馬の

意を受けて謙吉が起草したものである。

また、肥前国彼杵郡浦上山里村(長崎市)におけるキリシタンの復活を見聞して

『閑愁録』を著し、海援隊から出版した。

龍馬の横死によって海援隊は解散に追い込まれたが、一部の同志とともに讃岐国

塩飽諸島(香川県丸亀市)で隊の再建を図った。

1868(明治1年)年の戊辰戦争の際、土佐藩に、佐幕派の讃岐国(香川県)

高松藩と伊予国(愛媛県)松山藩の征討令が発せられると、ただちに高松城下

(高松市)に赴き、旧知の藩儒藤沢南岳を通じて藩主松平頼聡に恭順を説いて

成功した。

塩飽諸島を本拠に海援隊が再編されて隊長に選ばれると新政府に海軍創設意見書を

建白するなど龍馬の後継者として活動を始めたが間もなくして土佐藩から隊の解散を

通告された。その後、新政府に登用されて三河藩(後に愛知県に編入)知事に

就任した。

さらに大蔵省・工部省に出仕したが、若くして東京で病没した。

<参考文献>『日本人名大事典』「朝日日本歴史人物事典』『三百藩家臣人名事典』

『明治維新人名辞典』『高知県人名事典』

 

根木勢介  携帯:090-2825-2069

   
 
 

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