いごっそう:はちきんの番付⑤-3
●読んだ本から: 東京学(新潮文庫)・小川和佑箸・平成12年発行より
・・・。
東京の女性の美しさは脚の長さにある。
これは意外に気づかれていないようだ。
電車の中で座っていて、駅に入って立ち上がると座っていた時の印象よりも
背が高い。
こう書いては、叱責されそうだが、小田急線、東横線と埼京線、高崎線に乗って
背丈を目測してごらんなさい。
現在、明治以来の東京人の若い女性たちは四世か五世になっているはずだ。
この四世、五世たちは男子なら1・7メートル以上、女性なら1.6メートル以上
がおよその平均値ではないか。
大阪の御堂筋、京都の祇園で感じたのは、女性がみな小柄なことだ。
1.6メートル以下である。神戸に行くと、それが1.6メートルくらいになる。
・・・。
※平成23年度の平均身長(17歳)の統計によると、
・平均身長: <男> <女>
東京―170.8cm 158.2cm
大阪―171.1cm 158.4cm
ほとんど大差ない、全国的にもほぼ同じ数値である。
「いごっそう、はちきん」を論ずる場合、『東京の女性が、背が高い』、の
ようなことにならない注意が必要に思います。
『いごっそうやはちきんが、土佐独特』とあまり固執しすぎると変なことに
なりかねませんね。
◆YさんやNさんから次のメールをいただきました。
(根木も、Yさんと同じで知らない人も多いです。)
・はは面白い。正確には10人ですね。
知ってるのは4人。聞いたことのあるのは2人。この人何者?は4人。
・なるほどいずれ劣らぬ烈女ですなぁ。
武市 富さん。平井加尾さんなんかもどうかしらねぇ。
・ガイドの時に「いごっそう」とはと聞かれて、知っていることをお話ししても、
納得してもらってないなと思ったことがあります。
いごっそうの捉え方がそれぞれなのかなと思いました。
納得してもらってないなと思ったことがあります。
いごっそうの捉え方がそれぞれなのかなと思いました。
<参考までに>これまでに登場した「はちきんの皆さん」です。
・北村喜代衛:調査中です。
・杉村作:作は西大谷の杉村作治の娘。母雪並びに江川鶴(野市町古川の医師
川久保泉亮に嫁し西佐古で開業)らとともに自由民権運動に加わり、
三大事件建白運動に参加した。香美郡自由大懇親会が明治村の物部川
高河磧(戸板田橋のかみ)で開催された時、大聴衆を前にして演説を
行い、大喝采を受けた。(当時条約改正反対運動がおこっていた。)
川久保鶴(昭和十年八十五歳没)夫妻の墓は、西佐古堂山の上にある。
・弘田里:里は明治十八年(1885)高知師範学校女子部を卒業。
教員として朝倉小学校を振り出しに高岡郡下小学校に勤め、その間に
須崎押岡弘田駿吉長男で小高坂住の弘田束稲と結婚。
キリスト教信者で大正二年(19139からダウドの高知女学会で教鞭をとり
夫没後は種崎のダウドの別荘に収容された虚弱児の養護と教育に打ち込む。
昭和七年(1932)教場が閉鎖。
翌年独自で私立無料保育双葉園を小高坂の藤沢富士男の土地無償提供の
侠援で開設し、全財産を投入した。後に高知慈善教会に移管されたが、
里は園長となり、昭和十五年(1940)厚生大臣表彰を受けた。没して
高知慈善教会葬が行われた。
・清岡静:1843(天保14年)~1913年(大正2年)
田野町出身。野根山事件で刑死した幕末の志士・清岡道之助の妻。
事件後、遺族の救援に努力する。習字、和歌、茶の湯に秀でた。
・富永らく:1866~1938
産婆、婦人運動の先駆者。本名は駱で慶応2年9月8日土佐郡江ノ口
田端の医師富永保孝(安高)、母里の長女として生まれた。
明治6年高知の共立学舎英語学校に学ぶ。明治19年5月に産婆を開業し
翌月開催された通俗衛生演説会に弁士として参加、この年から植木枝盛
と親交を結び、婦人運動に参加し、翌年12月高松で開かれた玉藻女子
懇親会の会主をつとめ演説した。
その後「東雲新聞社」に勤務、医師源頼記と結婚、頼記は土佐郡森村で
開業したので、らくは同村の小学校の教師となったが、夫に死別し、のち
上京して「報知新聞社」に入り、「六花」の号(中江兆民命名)で
執筆に従った、幸徳秋水が「万朝報社」に在社したころには本郷菊坂町に
隣合わせ、親交を結んでいたと伝えられている。昭和13年没、73才。
・幸徳多治:1840(天保11年)~1910年(明治43年)
大逆事件首謀者として刑死した幸徳秋水の実母。幡多郡伊田生まれで
中村の薬種商・幸徳家に嫁ぐ。秋水は、3男で、獄中の秋水と交わした
書簡は胸を打つ。
・お馬:前述のメールをを参照ください。
・山崎竹:1866(慶応2年)~1908年(明治41年)
佐川町出身。婦人運動の先覚者。植木枝盛の指導を受け、民権派の
婦人運動の組織者となる。
新聞に「婦人論」を寄稿、演壇にも立つ。愛国婦人会高知支部幹事。
・楠瀬喜多:1836(天保7年)~1920年(大正9年)
高知市出身。板垣退助の民権論に共鳴し、運動に参加。
婦人参政権を唱える。河野広中、頭山満ら立志社に来訪した民権家の
世話をし、「民権ばあさん」として知られる。
・坂本乙女:1832(天保3年)~1879年(明治12年)
高知市出身。坂本龍馬の姉。裁縫、料理よりも武術、学問を好み、
背が高く仁王様と言われたほどの女丈夫。龍馬のよき理解者、絶えず
激励した。
・野中婉:婉は兼山の死の翌年(寛文4年・1664年)四歳で遺族らと宿毛配流になる。
四十年後男系が断えて、元禄一六年(1703)婉四十歳の時、赦されて
朝倉に帰住。医を業としながら、藩より八人扶持を給せられ嫁ぐことなく
終わったが、兼山の娘としての誇りを持ち続けた。赦免後は、谷秦山に
文通指導を受け、儒学・神道・詩文に通じ、大家の域に達した。
・岡上菊栄:1867~1947
慶応三年九月九日父樹庵・母乙女の長女として生まれる。昭和二十二年
十二月十四日没、年を受くる八十年。高知慈善教会初代博愛園長として
幸うすき数多くの子供たちをいつくしみ育てた。
※(坂本)乙女の離退の時期と菊栄誕生の時期をめぐって、菊栄の実母
について論議あるが、明治になって作られた菊栄の戸籍に”母坂本乙女”
と記されていることと、菊栄本人が5人の子供たちに、母は乙女であると
話していたことによる。)
・谷玖満子:1843(天保14年)~1909年(明治42年)
谷干城の妻。西南の役で炊事、負傷兵の看護に挺身、烈婦の名を挙げる。
愛国婦人会理事に選ばれ、各種婦人会、慈善会に関与、社会事業に活躍。
・秋沢久寿栄:1883(明治16年)~1968(昭和43年)
高知市出身。一弦琴奏者。戦後「白鷺会」を作り一弦琴の復興に努力する。
一弦琴は昭和27年県無形文化財、29年国の無形文化財に指定。
・前田松寿:1871(明治4年)~1954年(昭和29年)
教育者。高知市生まれ。小学校教員を経て、私立高知女学校(現土佐女子高の
前身)を設立。女子教育の先覚者として、生涯をささげた。
・大原富枝:作家(詳細は、省略します。)
★根木のコメント:
「北村喜代衛」は、高知県人名事典にも、記載ありません。
どなたか、ご存知の方がおいでたら教えてください。
根木勢介 携帯:090-2825-2069
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