根木勢介 さんの記事・・・お正月:江戸の龍馬は、どのようなお正月?!
風邪をひかないために、外から帰って来たら手に石鹸をつけてよく洗い、また
うがいもしています。
皆さんは、どのような「風邪」対策を実行されていいますか。
さて、龍馬の時代にお正月はどのようにすごしていたのだろうか?、少し気に
なりましたので調べてみました。
と、言っても「江戸」の人たちのお正月の過ごし方、になります。
★江戸の人たちのように、初日の出を拝んで、【吉運】を授かりたいものですね。
来年も、よろしくお願いします。
よいお正月をお迎えください。
■お江戸風流 さんぽ道:杉浦日向子著・小学館文庫 12pより
<・初詣で>
江戸の正月は、とても静かです。
初日の出を拝んだあとは、自宅でゆったり、好きな時にお節(せち)を
つまんで、酒を呑み、家でごろごろ寝正月。何もしないことが極上の初春です。
<・寝正月と挨拶まわり>
江戸のお正月は、現代と比べて大変穏やかです。三が日、自営の庶民で出歩く人は
ごくわずか、ただ寝るばかりが果報なり。まして働くなどもってのほか。
元日は湯にも入らず、掃除もなし。朝から酒を酌み交わし、お節料理をつまんで、
ひたすらごろごろするのです。町中は静まりかえり、子供たちが興ずる羽根つきの
音がカツーンカツーンと遠方まで聞こえるほど。
たいていの大人はホロ酔いの寝正月で、外へ出歩くのも大儀(たいぎ)がりました。
彼らにとってお正月は、時間に追い立てられず、人間関係にも縛られない、特別な
休息のときです。
一方、お武家のお正月はずいぶん忙しかったのでした。
上役への年始参りは、部下としての忠誠心の証しでもありました。
そして挨拶に出向くには体面上、ぜひともお供を連れなければなりません。
けれども太平の江戸では、戦乱という給料アップのチャンスもなく、年々家計を
切り詰め、家来をリストラしています。
それで三が日だけ、町人にお供のアルバイトを頼みます。
お供役の町人は、仲間が休んでいるお正月に、朝から晩まで、侍と一緒に何十軒もの
武家屋敷をまわります。武家屋敷は敷地が広く、隣の家でさえずいぶん距離があります
から、体力のいる仕事です。その分実入りもよく、収入を上手に使いこなせば、
蚊帳を吊る頃ころ、つまり夏ごろまで遊んでくらすつわものもいたといいます。
ならば、希望者が殺到するか、といえばさにあらず。江戸っ子は、正月は骨休めを
する祭日と決めていますから「どんなに金を積まれてもばかばかしくてやって
らんねえ」とたいてい見向きもしないのです。
志願者は、所帯を持つ予定があったり、年末の借金が未済みであったりと
よんどころのない事情のある人でした。
<・初日の出で、「吉運」を受けとめる>
江戸っ子の正月の定番は、年に一度の骨休めですから、年が明けるや有名な
神社仏閣へいっせいに押しかける大混雑の初詣でというのはありません。
初詣に行くとしても※十五日の松の内までに、氏神様へ詣でるくらい、氏神様、
いわゆる※鎮守の神は、正月にかぎらずことあるごとに通う馴染みの場所でもあり、
詣でるというより、新春のあいさつですね。農村地域などでは、大みそかの夜から
鎮守の杜に参って元旦を迎える「※二年参り」がご利益(りやく)あらたかと
されますが、江戸ではさほど重視されていません。
それに対して初日の出は、ほとんどの江戸っ子が拝みます。大みそかから夜通し、
呑んで騒いで、初日の出と同時に今年一年分の吉運が天から降ってくると信じられて
いたからです。
だからこそ、吉運をたくさん授かろうと、こぞって出かけました。
顔を上に向け、天を仰ぎ全身で朝陽を浴びます。江戸っ子が、お正月は湯にも入らず
掃除もしないのは、折角授かった吉運、つまり福を洗い流す、掃き出すのを
避けたかったからです。
初日の出の名所は、多くありますが、有名なのは洲崎(すさき)、品川、御殿山。
視界全開の景色の中で、水平線から昇る朝陽を拝むのが江戸住まいで最上の贅沢です。
※十五日の松の内:門松を立てている期間。現在では、七日が主流となっている。
※鎮守の神(氏神様):地元の氏子を守護する神、産土神(うぶすなかみ)。
※二年参り:旧年と新年をまたいで詣でるカウントダウン形式。
<・恵方(えほう)参りと七福神巡り>
一年の福を授かる初日の出に比べ、閑散としていた初詣で。その中で、恵方参りと
七福神巡りには根強い人気がありました。
恵方参りは、恵む方角に参ると言う意で、厄除けのお参りです。宮中儀礼として
平安朝の昔から続いています。
吉報は、※十干(じっかん)・十二支(じゅうにし)によって定められその年々、
その人の星回りで縁起のいい方角が違います。主に、前厄、本厄、後厄を迎えた
厄年の人たちが出かけます。
年の始めに厄除けをし、福を招き入れようと願いました。
七福神巡りが、一般に流行ったのは江戸の中期以降で、文人、俳人たちが遊びで
始めました。
古くは中世室町時代に成立した民間信仰ですが、江戸では風雅な初春の行楽と
なりました。
「恵比寿・大黒天・弁財天・毘沙門天・布袋・福禄寿・寿老人
(じゅろうじん)を七福神とし、神々が金銀財宝を積んだ宝船に乗って訪れる
絵柄は江戸で大流行となります。もっとも古い七福神とされるのは、不忍の弁財天
、※谷中感応寺の毘沙門天、谷中長安寺の寿老人、日暮里青雲寺の恵比寿・大黒天
・布袋、田端西行庵の福禄寿で、多くの参詣客が訪れました。江戸っ子たちは
その有名無実にかかわらず、市中各所の寺に、どれか一つの神が安置されている
のを見つけると、他の七福神を探しながら楽しんで市中を散策します。
お節の腹ごなしにはちょうどよい運動になりますね。
七福神の中でも人気があったのは、上方資本の多い江戸の店では、商売繁盛の神様
の恵比寿・大黒天・※江戸根生(ねお)いの職人衆では布袋さんです。
布袋さんはでっぷりとふくよかで、いつもニコニコして、おいしそうに酒を呑んで、
まわりにこどもが戯れている。そんな無欲なおおらかさが江戸っ子の羨望(せんぼう)
となったのでしょう。
布袋さんは、一見、怠け者みたいですが、実は、弥勒菩薩の化身で最後の最後に
民衆を救いにやってくる神様なんです。
そこらへんが、江戸っ子に頼られるんですね。
一方、武士に人気の神様は、煩悩や邪悪を払い去り、福寿を授ける毘沙門さんでした。
※十干:甲(きのえ)・乙(きのと)・丙(ひのえ)・丁(ひのと)・戊(つちのえ)
・己(つちのと)・庚(かのえ)・辛(かのと)・壬(みずのえ)・癸(みずのと)
の十の漢字の総称。十二支と組み合わせて年、月、日に配される。
※谷中感応寺:現在の谷中天王寺。当初、このお寺は日蓮自刻の像をまつり、
長耀山(ちょうようさん)感応寺と称していた。元禄十一年天台宗に改宗し、天保
四年には護国山天王寺t改称。現在同じ谷中にある感応寺は明暦三年の大火後に神田
佐久間町から現在地に移住してきたもので、神田感応寺と称される別のお寺である。
※根生い:その地で生まれ、そこで育つこと。また、その人。
<・門松は歳神様のお休み処>
お正月の情景で欠かせないのは門松です。
門松は、そもそも正月に来るという福の神、歳神様(としがみさま)を迎える目印
なのです。歳神様は、お正月だけに降臨する神様で、門松に立てた松の上でひと休み
されるといいます。
各家では、ぜひここにお寄りください、という願いを込めて飾り付けをします。
今の門松は、松飾りともいい、松が主体ですが、江戸は笹です。伸びっぱなしの
笹を束にし、まわりにぐるっと松を巻きました。
※長屋の木戸口や、通りの真ん中に建て、各家から眺められるようにします。
・・・。(省略)
※長屋の木戸口:表通りに面して設けられた長屋全体の出入り口。今でいえば、
マンションの表玄関。
<・みんなで持ち寄るお節料理>
長屋の共同作業は、門松だけではありません。お節料理もそうですし、お正月
用品も共同購入します。
・・・。(途中略)
大家さんは、親代わりの存在で、年末あるいは年始には店子(たなこ)にお年玉も
配ります。といっても、お金ではなく、鏡餅でした。
鏡餅が、丸い形をしているのは、壮健を願う心臓の形でもあり、また年玉の玉に
由来してもいるのです。
今は、珍しくなくなった餅つきですが、江戸の長屋でも、そう見られない光景です。
自分の家で餅つきができるのは、江戸市中では大きな商家ぐらい。多くの庶民は
大家さんにもらった丸餅を台所に飾り、正月を祝います。
さて、お正月といえばお節(料理)とお雑煮ですが、江戸の頃は、どちらもいまより
ずいぶん質素でした。お節は、日持ちのする味の濃い煮しめが主で、おかずというより
お酒の肴(さかな)です。
お雑煮も、江戸式となるとごくシンプルです。
醤油のおすましに焼いた四角い餅を入れ、小松菜に油揚げ(又は鶏肉か蒲鉾)を少々。
なぜこんなに質素なのかというと、徳川家康公が「貧しかった頃を忘れず年頭には
この雑煮を食べよう」と決意したせいでした。江戸中がそれにならい、将軍家でも
代々、この雑煮を食べました。
諸国万人の吹き溜まりだった江戸では各地お国自慢の雑煮がふるまわれた一方
長屋の職人と将軍が、そう違わない小松菜雑煮を頬張っていたというのが、
いかにも長閑(のどか)な泰平の春を感じさせます。
■江戸こぼれ話:文芸春秋編・文春文庫より
・江戸っ子のレジャー・ガイド・加藤恵(作家)86pより
・・・。(途中略)
それにしても江戸っ子はいそがしい。花見、月見、紅葉狩りといた行楽の合間にも
律儀にさまざまな信仰を守った。
正月には七福神詣でに出掛け、春秋の彼岸には六阿弥陀を巡拝した。
健脚なものは御府内八十八ヶ所をめぐった。律儀な信仰というものの、この参詣は
遊山的な要素が強かった。
六阿弥陀 嫁の噂の 捨てどころ
と川柳がいうように、信心をかねた保養というか、気分転換の行楽のようなもので
あった。
七福神詣では一種の初詣で、多分に遊山的であった。七福神を祀る寺社を巡って
一年の財福を祈るわけであるが、その由来には各説があって一定しない。
今日のように大黒天・恵比寿・弁財天・毘沙門天・寿老人・布袋和尚・福禄寿の
七福神に定まり、信仰が盛んになったのは江戸時代も末のことらしい。
そのことはともかく、江戸っ子の多くは元旦から七日まで、いわゆる松の内に
七福神詣でに出掛けた。
江戸の七福神詣では、いくつかあったが、谷中のが古く、宝暦年間(1751
~63)以後、文化年間(1804~18)以前に始められたと考えられている。
それは大黒天(生池院・上野護国院)、毘沙門天(谷中天王寺)、寿老人
(谷中長安寺)布袋(日暮里修性院)、恵比寿(日暮里青雲寺)、福禄寿
(田端東覚寺)であった。
ついで人気があったのはが向島七福神(隅田川七福神)である。
隅田川の風光が文人墨客に賞でられるようになった文化文政(1804~30)
ころ、大田南畝(蜀山人)などによって設けられた。隅田川は淡水、塩水の入り
混じりなので、魚群の種類が多く、鷗(かもめ)をはじめ、水禽(すいきん)たち
の優美な姿も見られて、ここに独自の趣きがあった。
文化元年(1804)北野平兵衛(北平)の隠居心が動き、多賀藤十郎邸の跡地を
もとめ、さまざまな樹木を植えて百花園(墨田区東向島)を開いた。
加藤千蔭、酒井抱一、村田春海、亀田鵬斎、大窪詩仏などという文人墨客は
大田南畝を肝煎(きもいり)りにして此処に集まり、萩や薄などの秋草を植え
風流を楽しむようになった。
北平は頭をまるめ、菊屋宇兵衛と改名し、これを詰めて菊宇、あるいは鞠塢
(きくこう)とも称した。ところで南畝らは、鞠塢の愛蔵する福禄寿に目をつけ、
多聞寺(墨田区墨田)の毘沙門天、長命寺(墨田区向島)の弁財天などと結びつけ
七福神を構成した。
すなわち、恵比寿・大黒天(三囲神社)、弁財天(長命寺)、布袋(弘福寺)、
福禄寿(百花園)寿老人(白髪神社)、毘沙門天(多聞寺)がそれである。
隅田川の美しい風光を賞でながら七福神を巡るという趣向は、大いに江戸っ子を
喜ばせた。江戸の七福神詣でには、このほか浅草名所、亀戸、下谷、日本橋、柴又、
深川、山の手、新宿山の手などがあった。
・・・。
■大江戸浮世絵暮らし:高橋克彦著・角川文庫
<・子供のための「羽子板絵」>149pより」
つぎの「羽子板絵」というものは、完全に浮世絵が芸術でないのだという
決定的な証拠だと思います。
この絵は、正月に遊ぶ羽子板にするものなのです。江戸時代の押し絵羽子板と
いうのは、ものすごく高価なものでした。
ですから、押絵の羽子板を使って遊べるというのは、大店(おおだな)の娘さん
とかお金持ちの家だけだったのです。
でも、子供ってそういうものを見ているとどうしても遊びたくなりますね。
しかも、親御さんたちも、自分の子供が貧しい羽子板を使っているのはかわいそう
だと思ったのでしょう。
そういうところに浮世絵師たちが注目して、こういう「羽子板絵」をこしらえて
あげたのです。「羽子板絵」というのは、本物の押し絵羽子板のように役者の
似顔絵とか、美しいお姫様を羽子板のかたちのなかに描いています。
買った親たちは、羽子板のかたちに切り取って、板に張り付けて使ったのです。
そうすると、立派な押し絵羽子板ができがったのです。
こういう作品を見ていますと江戸の人たちの親子関係の温かさみたいなものが
少しわかってくる気がします。
もともと切り取られることを大前提とした絵画作品というものは、どこにも
ありません。江戸の人たちが、いかに浮世絵を日常の娯楽、あるいは日用品と
して扱っていたかということが、このたった一枚の「羽子板絵」から読み取る
ことができるのです。
※根木のコメント:
・そう言えば、高知城の本丸御殿にある「容堂」の掛け軸は、「隅田川」を
詠んだもの、だったっけ?
・「土佐の布袋さん」といえば、私は、「岡本寧甫(河田小龍作)」の絵を
いつも連想します。
・今年は、門松を立ててないですが、わが家には歳神様はやって来ないのかな。
・鏡餅「丸」のカタチ:丸い「玉」の形自体に霊力をもつと信じた日本人の思想
に由来。杉玉、勾玉(まがたま)、玉串などが、その現れか。
根木勢介 携帯:090-2825-2069
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