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根木勢介 さんの記事・・・高知城その8:(漏らさんといてね)高知城天守の弱点

2013-02-22 | 根木勢介 さんの記事

根木勢介 さんの記事・・・高知城その8:(漏らさんといてね)高知城天守の弱点 

 

 孫のなまえのことを先日、冒頭で書きました。さっそく返信いただいた皆さん、

ありがとうございました。超音波の画像を娘が送って来ましたが、今2センチの

大きさ、だそうです。ちっちゃいのですね。それでも人間のような頭や体のカタチも

していました。

その画像は、自分の孫とかの範疇を超えて、生命のふしぎさ・神秘そのものです。

 

先日の龍馬の生まれたまち記念館で名刺交換をしたお客さんは、「古風」な名前

でした。名前では、森林太郎(森鴎外)に決して「ヒケ」をとらない、山・やま関連。

「高山林太郎」さんと言う方で、高知には「方言のアクセント話法の調査」に来高。

日本でもっとも有名な大学の大学院生。博士課程在学中で「言語学研究室」に

所属されています。県立大学の橋尾先生を紹介した縁で、私も調査に協力することに

なりました。

最初に簡単な(父方・母方)祖父母の出身地などの問答があったのですが、女房に

このことを話すと

『あなたは、生粋の「安芸人」よ』。

いま、高知県安芸市の「代表選手」として、彼の調査に協力中です。

余談ですが、私の曾祖父の名前は、「根木林太郎」です。

  

さて、高知城のガイドでは、高知城の「弱点」について触れることはほとんどないと

思います。

専門家が見た「弱点」を記します。赤・青字は、根木によるものです。

■戦国の堅城Ⅱ ㈱学研発行・高田徹執筆 163pより

 

・高知城天守の弱点 

 これまで言い漏らしたが、実は高知城天守には弱点というべき点がある。

 一番目は天守台を持っていない点である。

 そのため本丸の現存建物を全て解体してしまえば、天守があった位置を特定

 しづらくなる。仮に天守台が築かれたなら、本丸内部での天守自体の独立性が強く

 なり、下層部分に石落・狭間・忍び返しを全方位に設けることも可能になった

 はずである。何故天守台が築かれなかったか、真相は明らかでない。

 ただ、天守と御殿は近接した位置にあり、現在の拝観ルートも御殿に入ってから

 天守へ進むようになっている。

 このような位置関係から考えると、本来天守と御殿は連続性が強く、両者を

 区分する意識は弱かったと思われる。このため、あえて天守台を築かなかったとも

 思われる。

 二番目は、先に述べたように後世の改変である可能性もあるが、天守コーナー

 よりも天守が載る石垣コーナーの方が鈍角となり、広がる点である。

 つまり、天守は北面石垣上にそそり立っているが、もう一面の東側石垣上には

 直接かからない。そこには余地が生じ、石垣と天守は離れてしまっている。

 高知城を築いた段階の石垣構築技術、あるいは先行地形の影響により、直角に近い

 高石垣を築くのが困難であったのだろうか。

 

 ※根木の注)この文章には、東側から見た天守の写真が添えられています。

       確かに石垣のラインと天守壁面は揃っていません。

       (東側・石垣に沿って塀があるため天守一階には狭間がない。

       天守の防御火力は、北面に集中する構造になっている。)

 

・防御における最重要建造物 

  以上、高知城天守を例としたが、その軍事的な機能が強かった点は理解されたと

 思う。念のために申し添えるなら、何も高知城天守のみが特別な天守なのではない。

 石落・狭間をどの程度設けるか、天守をどの位置に設け、縄張り上どの程度の役割

 を担わせるか、多少の差は存在したが、本来、天守のほとんどは高知城に近い機能

 を備えていたと考えるべきである。

 例えば、津山城(岡山県津山市)天守は層塔型であり、最上階が張り出す以外は

 シンプルな構造である。しかし、縄張り上は天守曲輪を形成しており、天守自体

 には実に九九か所もの鉄砲狭間を設けていた(さらに弓狭間は五六か所を備える)。

 入母屋(いりもや)・切妻(きりづま)・千鳥破風(はふ)等を交互に配した櫓・

 天守の外観は見栄えがする。しかし、このような天守に狭間を設けると屋根の

 位置によって影響を受ける。この点、津山城のような層塔型の、しかも破風を

 伴わない天守・櫓では直列的に狭間を設けられる。外観上のシンプルさが必ずしも

 その軍事的な機能の低さを示すわけではない。

 同様に、江戸期に入って築かれた独立式天守と称される徳川氏の大坂城(大阪市)・

 江戸城(東京都千代田区)などは本丸の中にポツンと築かれており、一見戦闘を

 放棄したような感を受ける。

 ただ、これらは今に残る天守台にさえ銃眼を備え、極めて複雑な枡形虎口を備えて

 いる(小天守台と呼ばれる部分である)。このような本丸内部での天守単独の

 要塞化こそ、大坂・江戸城に代表される徳川系城郭の指向したものでなかったか。

 なお、天守は、城郭にとって必要不可欠な存在だったわけではなく、天守が

 築かれない城郭も多かった。

 また、江戸期において天守が築かれなかったり何らかの理由により天守が滅失した

 際、同じ城内に存在する多層の櫓が天守の代替となったといった評価を耳に

 することがある。

 その例に挙げられるものとして、明石城(兵庫県明石市)の巽(たつみ)・坤(

 ひつじさる)櫓、江戸城の富士見櫓等がある。

 しかし、明石城の巽・坤(ひつじさる)櫓は本丸の防御上、重要な位置を占めて

 いるが、より重要な位置を占めているのは天守が築かれなかった天守台に

 他ならない。

 また、江戸城の富士見櫓は、城外側から見ると複数の窓や唐破風を設け、優美な

 姿を見せている。しかし、内側の本丸側から見ると、窓も少なく、装飾性は

 ほとんどない。

 内側からみれば、他の櫓の外観・機能と特に変わりはない。

 単なる外観的な近似性をもって天守であるか、その代替的存在であるか等を

 軽々しく判断するのは避けるべきであろう。

 実際、途中から天守を失いながらも、複数の三重櫓を持った大坂城(大阪市)、

 津城(津市)では、一体どの櫓が天守の替りになったと言えるのか。

 このような問いも、答えも、寡聞にして筆者自身はこれまで聞いたことが

 ないのである。

  

根木勢介  携帯:090-2825-2069

 

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