「高知ファンクラブ」投稿者別パート2

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栗田真二(佐川町)さんの模型の世界

2011-02-20 | 栗田真二(佐川町)さんの模型の世界

栗田真二(佐川町)さんの模型の世界

 

羽迫さんの町屋あれこれ・・・佐川の町並み~栗田真二の世界6

羽迫さんの町屋あれこれ・・・佐川の町並み~栗田真二の世界5

羽迫さんの町屋あれこれ・・・佐川の町並み~栗田真二の世界4

羽迫さんの町屋あれこれ・・・佐川の町並み~栗田真二の世界3

羽迫さんの町屋あれこれ・・・佐川の町並み~栗田真二の世界2

羽迫さんの町屋あれこれ・・・佐川の町並み~栗田真二の世界1

 

 

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羽迫さんの町屋あれこれ・・・佐川の町並み~栗田真二の世界6

2011-02-20 | 栗田真二(佐川町)さんの模型の世界

羽迫さんの町屋あれこれ・・・佐川の町並み~栗田真二の世界6

04~臨済宗妙心寺派「青源寺」

 開山したのは慶長8年(1603)創建。1766年再建。
 掛川・長蓮寺の高僧だった丈林宗規が、戦国大名、
 山内一豊や重臣である深尾重良と交わりが深く、
 静観の地 佐川を好んで青源寺を開いた。
 深尾家の菩提寺となる。
 この高僧は特に天皇が許す僧衣に紫の衣があり、
 紫衣僧(しえそう)として人々から尊敬されている。
 青源寺は代々紫衣僧の高僧、名僧を輩出している。 

 02~名教館の玄関

 安永元年(1772)佐川藩主、深尾氏が土居邸内に家塾
 として、「名教館」を創設、のちに藩校として士分の教育に
 資した。1830年東元町に広大な校舎を建設、以来幕末
 まで数多くの人材を育成し、佐川郡の文運を高めた。
 明治2年、版籍奉還により「佐川小学校」と改名し、
 中本町に佐川尋常小学校としての校舎の建築、
 玄関を移設した。 

 

羽迫博己さんの、町屋あれこれ

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羽迫博己さんの、町屋あれこれ・・・いの町編

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羽迫さんの町屋あれこれ・・・佐川の町並み~栗田真二の世界5

2011-02-20 | 栗田真二(佐川町)さんの模型の世界

羽迫さんの町屋あれこれ・・・佐川の町並み~栗田真二の世界5

 

09~竹村家住宅  国指定重要文化財

 東の店舗部分は230年、西の客間は170年前のもの。
 幕府の巡検使を迎えた程の格式の高い住宅で、
 高知城「懐徳館」と同様の貼り付け壁(和紙貼り付け)。
 付け書院の花頭窓は、土佐でしか見られない特徴である。
 東棟(店舗・屋号を黒金屋)、中棟(住居)、西棟(客間)の
 三棟からなっている。
 入口は西と東の2ヵ所で、西門は巡検使や高官を迎える
 正門で、東門は家人の入口である。

09~竹村分家(マル久呉服店)

 分家の初代は、安右衛門守信で安政6年(1777)に
 本家より分家する。屋号を「 久 」を掲げた
 建築は、文政11年(1828)に、そして明治5年に改修。
 当初は質屋を営み、次第に発展して呉服商となる。
 三代目安七守本のころ、土佐国西部では唯一の
 絹織物商として繁盛した。
 この安七が店舗と住居を別棟として
 連続させた家を新築している。

 

羽迫博己さんの、町屋あれこれ

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羽迫さんの町屋あれこれ・・・佐川の町並み~栗田真二の世界4

2011-02-20 | 栗田真二(佐川町)さんの模型の世界

羽迫さんの町屋あれこれ・・・佐川の町並み~栗田真二の世界4

05~元青山文庫 庫舎

 旧須崎署佐川分署として明治19年に建てられた。
 県内では、最も古い洋風建築である。
 その後、図書館として川田文庫に。時の宮内大臣、
 田中光顕から大量の書物を寄贈され、田中光顕の
 雅号「青山(せいざん)」をとり、青山文庫となる。
 民具館を経て、現在はイベント等で利用されている。

06~浜口家住宅

 浜口家は天正の頃、長宗我部信親の家臣であり、
 江戸中期に香南市手結から移り住み、
 高知・佐川・須崎で酒造業を営んだ家系の住居です。
 屋号を「生金屋(あらがねや)」と言い、大正七年に
 竹村本家「黒金屋本家」、竹村出店「黒金屋出店」、
 浜口家「生金屋」の三軒の酒屋が合併し、
 佐川醸造(後の司牡丹)を設立した。

 

羽迫博己さんの、町屋あれこれ

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羽迫さんの町屋あれこれ・・・佐川の町並み~栗田真二の世界3

2011-02-20 | 栗田真二(佐川町)さんの模型の世界

羽迫さんの町屋あれこれ・・・佐川の町並み~栗田真二の世界3

 

10~司牡丹 酒蔵

 長大な酒蔵は、長さ85mで国内でも有数の長さを誇る。
 建築は天保9年(1839)で、東西2棟を繋いだものである。
 東棟は「黒金屋本家」、西棟は「黒金屋出店」であった。
 幕末の頃は、上町周辺で9軒も(「黒金屋本家」「出店」
 「岩屋」「入吉屋」「生金屋」「西秤屋」「吉田屋」「岸屋」
 「高橋屋」)造り酒屋があったが、やがて淘汰され、
 大正7年には3軒になり、竹村本家・竹村出店・浜口家が
 合併して「佐川醸造」を設立した。
 その後、「司牡丹」に発展した。

 

07~町の駅、観光案内所

 この建物は武村本家の貸家棟であり、三軒長屋
 (東棟・中棟・西棟)の形式を留めた古い建物である。
 東棟は当初、納屋として建築されたが、後に住宅として
 改築。中棟はかっては味噌蔵であったものを、終戦後、
 住宅に改造後に、納屋として建築。
 西棟は大正期頃までは、高陽銀行(現四国銀行)
 佐川支店として使用されていた。
 現在は、中央の家を、町の駅として観光案内や、
 おみやげの販売もしています。
      ~一寸一服いかがでしょう~

 

 

羽迫博己さんの、町屋あれこれ

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羽迫さんの町屋あれこれ・・・佐川の町並み~栗田真二の世界2

2011-02-16 | 栗田真二(佐川町)さんの模型の世界

羽迫さんの町屋あれこれ・・・佐川の町並み~栗田真二の世界2

20~森下雨村の生家

 小説家。明治23年佐川町上郷に出生。
 早稲田大学卒業後、「やまと新聞」の記者をを経て、
 「博文館」に入社、同社の雑誌「新青年」の編集長として
 活躍し、探偵小説翻訳や創作活動をながら、
 推理作家の養成に務め、江戸川乱歩、横溝正史等を
 育てた。今日の「探偵小説の父」と言われている。

        ~五月雨の土に残るや足の跡~

03~伊藤蘭林塾(寺子屋)

 蘭林は深尾家に仕える儒官となり、郷校「名教館」及び
 「蘭林塾」で教授すること50余年であった。
 当時の佐川では、大半の学徒の人々は蘭林塾の教えを
 受けている。
 牧野富太郎、田中光顕、広井勇、古沢滋などもすべて
 門下生で、この寺子屋から育っていった。

 

羽迫博己さんの、町屋あれこれ

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羽迫さんの町屋あれこれ・・・佐川の町並み~栗田真二の世界1

2011-02-16 | 栗田真二(佐川町)さんの模型の世界

羽迫さんの町屋あれこれ・・・佐川の町並み~栗田真二の世界1

 

01~町並み模型館
 
 ここには佐川町の上町周辺の古民家を、
 1/20に縮小した模型を展示しています。
 建物の外観、庭は勿論のこと、内部の障子や
 ふすま・掛軸・欄干にまで細かく再現しています。
 なお、模型の説明を(土・日のみ、佐川くろがね会
 )解り易く、ガイドいたします。
 プロの大工気分で、見学し、古民家の造り方と、
 構造、生活様式をご堪能ください。
 さらに、昔の職人の技が随所で見学できます。

 古民家は全国どこででも見られますが、
 ここでの時間と空間は、あなたにきっと大きな
 満足感、心のお土産を与えられるものと、
 信じています。

 

 

 

羽迫博己さんの、町屋あれこれ

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根木さんの「鏡川ML」 その6 鏡川<変なオンちゃんの定義>

2011-02-15 | 根木勢介 さんの記事
根木さんの「鏡川ML」 その6 鏡川<変なオンちゃんの定義>
 
竹内さん、こんばんは。
 
  私も、竹内さん同様、土佐勤王党・党員3人を並べることについては、
 反対です。
  理由は、このネットで書いたように、「銅像は、置かれる空間が、大切
 と言う、司馬遼太郎さんの考えに、賛同するからです。
  一同に並べればいいと言うのは、観光のみの都合であって、銅像は、
 「芸術作品」であることを、全然考えて、ないのでしょう。
 
  高知県も"龍馬伝"で観光振興をはかる為に、「観光コンサルタント」を
 何人か、雇っていますね。
  当の観光コンサルタントの「考え」は、どうなんでしょうね。
 どんな風に考えているか、聞いてみたいものですね。
 
  高知駅前と桂浜に、「3体像」を並べることについて、ある女性から、
 こんなことを言われました。
 
  『高知って、お金が、ないって、いいながら、3体像を並べるお金は、
  どこから、出るんだろうね。
  お金が、有り余っているわけでないのに、もっと有効な使い道を
  考えてほしい。』
 
 
 
 ★その6 鏡川<変なオンちゃんの定義>
 
  高知県観光振興のため・土佐勤王党結成150年、・・・・だから、
 単純に「3体像」を並べる発想が、生まれたのでしょうか。
 
  これが、家庭の課題であれば、「そのお金、そんなことに使っていいの?」
 変なオンちゃんは、「美学」を持っています。
 
   『けんどねや、ちょっと待てよ。
    なりふり構わないようなみっともないことじゃ、ないろうね。』
 
  「土佐人」って、なんだろう、と考えたことがあります。
 私の定義では、土佐人を一言で、「表現」すると、「けんどねや精神を持った人」、
 となります。
 
  変なオンちゃんは、特有の「美学」を持っています。
 美学が、あるから、オンちゃんの存在が、「輝く」のです。
 変なオンちゃんは、皆、この美学に裏付けられた「けんどねや」精神に
 満ちています。
 
 
 ●この前に、変なオンちゃんの例であげた「西山 小鷹」は、実在の人物です。
 高知県人名事典から、彼の紹介を、以下します。
 
   【西山小鷹(しょうよう)】
    1859年~1928年。近代の漢詩人、名、麓。号、小鷹。
   安政6年6月13日、土佐藩士・西山禎吉直保の長男として生まれる。
   明治3年(1870)9月父を失い、以来母とともに小高坂村(高知市)
   西町52番屋敷の叔父・丸岡莞爾の家に寄寓(丸岡は同年上京)。
   小鷹という号は、小高坂をもじったものか。
 
    青年時代を迎えても就職せず、友人の横山又吉、山崎久典らの家を回っては
   徒食を続けた。弊衣破帽、いつのころか葬式の旗持ちをする人と知られたが、
   いかに貧窮しても権威にへつらわず、人の物は鼻紙1枚も盗まぬことを浪人の
   倫理とした。
 
    漢詩は、竹内峴南の南海吟社に属し、峴南に次ぐ技量の持ち主として
   称揚された。
   晩年は、長生をもてあましていたが、孫の言によれば昭和3年10月11日、
   高知市永国寺丁11番屋敷で死去したという。70才。
   墓は、高知市小高坂丹中山南下。墓表「奇詩人西山小鷹碣(けつ)」。
 

根木さんの「鏡川ML」 その5 鏡川・年収は、300万円と三人扶持切米五石

2011-02-15 | 根木勢介 さんの記事
  高知駅前や桂浜に「土佐勤王党の3人像」を並べるそうですね。
 私は、これには、賛成しかねます、反対です。
 司馬遼太郎さんが、桂浜の龍馬像を賛辞した次の文章から、反対理由を
 汲んでください。
 
  <司馬さんが、昭和63年に銅像建設物故者追悼会に寄せたメッセージから抜粋>
 
  銅像の竜馬さん、おめでとう。
  あなたは、この場所を気に入っておられるようですね。
  私もここが大好きです。世界じゅうで、あなたが立つ場所はここしかないのでは
  ないかと、私はここに来るたびに思うのです。
 
  あなたもご存知のように、銅像という芸術様式は、ヨーロッパで興って完成しました。
  銅像の出来具合以上に、銅像がおかれる空間が大切なのです。その点日本の銅像は、
  ほとんどが、所を得ていないのです。
 
 
 
その5 鏡川・年収は、300万円と三人扶持切米五石 
   :このような「地域通貨」が、ありました。 
 
  最近、「龍馬研究会」の会報の発送作業を行いました。
 
  その中で、「お米」で”支払い”のはなしが、出ました。
 
  龍馬の時代のように、お米で代価を支払う、これって、
 おもしろいじゃない?
 高知で取れたお米を「支給」すれば、高知県からお金が、出て行かないし、
 県内産のお米の消費につながるし、お金も循環、これこそ「地産地消」。
 
  『全部、「お米」の給料をもらっても、困るけれども、一部なら、
 いいんじゃない!』、の結論になりました。
 
 
  ●今から5年後、高知市上町在住:高知県職員「龍馬くん」の年収:
 
    ・現金:300万円・・・有税
    ・お米:三人扶持切米五石=10石4斗・・・無税
    (高知県内のお米屋さんでしか使えない「高知県産米・引き換え用
     お米券」で、6月、11月にもらった。)
 
 
   <龍馬くんは、お米券をどのように使ったか>
 
    窪川の龍馬くんの実家では、お米を作っていて、これまでは、
   実家からお米をもらっている。
    龍馬くんの上町の家庭では、お米券は、不要。
   それで、京都市にいる奥さんの両親や、親戚・友人に窪川の新米に
   お米券を「換米」して、御中元とした。
   奥さんの両親や皆さんは、「新米」に大喜び。
   龍馬くんの「株」が、グンと上がったのは、言うまでもない。
 
 
 
   ※註)三人扶持切米五石とは・・・
   
    一人扶持は、一日に付き、米5合、年間一石八斗、三人扶持
   五石四斗、合計 十石四斗。
 
    切米は、何回にも分けて渡される米、または金銭に切り替えて
   渡されるお米のこと。
 
    「一石」は、ひとりが、毎日3回・各一合のお米を一年間食べられる
   量のお米のこと。
    1合×3回×365日≒1,000合=一石
 
  【余談】坂本家の年収
 
    県職龍馬くんの遠戚:坂本(龍馬)家の領地高は、
   161石8斗4升。
   高知もしくは、その近辺に居住した郷士82人の平均は、50石程度。
   武市半平太は、51石Ⅰ斗8升7合、岡田以蔵20石6斗4升7合。
 
 

根木さんの「鏡川ML」 その4 鏡川:高知県って、どんなところ?

2011-02-15 | 根木勢介 さんの記事
鏡川MLの皆さん、おはようございます。
 
  "変なオンちゃん"から始まった「鏡川シリーズ」、これからも
 随時、書き連ねて、行きたいと思います。
  いろいろな私のボランテイア活動や、私生活の中での体験をふまえた
 内容を、中味に展開する予定です。
 
  読んでいただければ、幸いです。
 
 2月13日の第2回鏡川早朝ウオーキングで出会った、「犬」を連れて、参加の方と少しおはなしをしました。
(坂本耕平さんが、「高知フアンクラブ」にアップして、くれた方です。)
 18才から東京に出られ、2年ほど前に高知に戻られたそうです。
推定ですが、40年以上県外生活をおくられたのでしょう。
高知へ戻って、改めて、高知をながめると魅力あるところだと思うそうです。
 
 
 <さて、 皆さんにとって高知県は、どんなところでしょうか。>
 
★高知県って、どんなところ?
 
 もう、10年くらい前ですが、娘が東京の大学に進学したときに
一番困った質問が、「高知県って、どんなところ?」、だったそうです。
 
 高知で育てば、ある程度、高知県のことは、知っています。
少し知っていても、相手に伝わるように「語れる」かは、別の事です。
高知について、語れる"域"、でなかったということです。
 
 先日、観光ガイドの同期仲間と今後の観光ガイドの役割や、方向性について、
話し合いを持ちました。
その中で、高知県のこどもたち(~高校生・大学生)って、高知県のことを
どれだけ知っているんだろうね、が話題になりました。
 
観光ガイドの皆さんから・・・
  
  
 郷土・高知県のことを何も知らないで、県外に出たり・社会に出ているんじゃ
ないだろうか。
「森」の関係でいえば、「森の出前授業」などのカタチでこどもたちに
森林の機能、植物のこと、いきもののこと、などを学校などに出向き
こどもたちに伝えています。
 でも、高知県の歴史のこと、人物のこと、遺跡、のことなどは、こどもたちに
誰かが、伝えているんだろうか?
こどもたちにこのことを伝える大きな役割を担っているのが、観光ガイドでは、
ないだろうか?
高知県外へ、出るにしても残るにしても、高知県に「誇り」を持ってもらいたいね。
  
  
         ・・・こんな、話になりました。
 
 「龍馬の生まれた町記念館」などにこどもたちが、来館して、また、
地域に出向いての「ガイド」も、実際は、行われており、協力もしております。
 でも、郷土を知り・誇りを持ってもらうために、観光ボランテイアガイド協会で、
もっと積極的に取り組む姿勢が、いるね、の話です。
 

 

 


根木さんの「鏡川ML」 その3 <土佐人顔><鏡川河川工事>

2011-02-10 | 根木勢介 さんの記事
鏡川MLの皆さん、こんばんは。
 
   <土佐人顔>
 
   私は、大学は、関西の大学でしたが、関西フエりーをよく利用しました。
  船内を見渡した時、会話を聞くまでもなく、ああ、この人は、「土佐人」、と
  即・判断できたような気が、したものです。
  判断基準は、「顔」です。顔つきに特長があるように思いました。
  女の顔は、判別が、つきぬくいですが、男の顔は、判別できました。
 
   私の大学時代、大阪に住んでいた父の従姉妹(生きておれば、110才くらい) は、「梅田を歩いていても、高知の女は、色が黒いのですぐわかるよ」、と
  言っていました。皮膚の色が、判断基準だったようです。
 
  
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  <鏡川河川工事>
 
  先日、高知大学へ行く途中、鏡川橋の上から、河川工事を
 しているのが、見えました。
 
  鏡川だけでなく、県下どこの川も、草木で覆われているのが、気になります。
 今回の鏡川の工事は、本格的な川さらいのようです。
 雨の少ない、この冬の時期に行っているのでしょうが、川の様相が、
 一変することでしょう。
 
  先週の日曜日に、「鏡川トリム公園」の一斉清掃に参加して来ました。
 紅葉橋周辺でも、大きな河川浚渫(しゅんせつ)工事になって、いますね。
 生態系への影響の大きさを考えれば、大規模工事は、よくないとの
 意見もあります。
 しかし、現実問題として、「適正な工事規模」を決めるのは困難でしょうね。

根木勢介 さんの記事

鏡川ファンクラブ

鏡川早朝ウォーキング 

(2月13日朝6時30分、鏡川・みどりの広場スタートで、第2回「鏡川早朝ウォーキング」が実施されます。鏡川近くの方、参加されませんか?)


松木さんの写真コーナー 目次

2011-02-09 | 松木さんの写真コーナー

松木さんの写真コーナー 目次(ここからは、カーソルをそのまま下に移動すると、スライドショウ的に連続してみることが出来ます)

 

松木さんの写真コーナー8・・・香長平野のナベヅル(飛行)

松木さんの写真コーナー7・・・香長平野のナベヅル(焼き跡地で餌拾い)

松木さんの写真コーナー6・・・香長平野のナベヅル(散歩中の人も)

松木さんの写真コーナー5・・・香長平野のナベヅル(群れて)

松木さんの写真コーナー4・香長平野のナベヅル

松木さんの写真コーナー3・香長平野のナベヅル(羽ばたき)

松木さんの写真コーナー2・香長平野のナベヅル(4号掩体の前で)

松木さんの写真コーナー1・香長平野のナベヅル(1号掩体の前で)

 

 

 

高知の自然・環境

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松木さんの写真コーナー8・・・香長平野のナベヅル(飛行)

2011-02-09 | 松木さんの写真コーナー

松木さんの写真コーナー8・・・香長平野のナベヅル(飛行)

                     香長平野のナベヅル(飛行)

                     香長平野のナベヅル(飛行)

                     香長平野のナベヅル(飛行)

 

出典:ウイキペディア ナベヅル

 

松木さんの写真コーナー

南国市ファンクラブ

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松木さんの写真コーナー7・・・香長平野のナベヅル(焼き跡地で餌拾い)

2011-02-08 | 松木さんの写真コーナー

松木さんの写真コーナー7・・・香長平野のナベヅル(焼き跡地で餌拾い)

 

出典:ウイキペディア ナベヅル

 

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根木さんの「鏡川ML」 その2 鏡川 変なおんちゃんの話

2011-02-08 | 根木勢介 さんの記事
根木さんの「鏡川ML」 その2 鏡川 変なおんちゃんの話
 
  おばちゃんは、変なおばちゃんになれるだろうか?
  私の偏見と独断であるが、おばちゃんは、「現実主義」だから
  変なおばちゃんには、なれない、のである。
  おばちゃんには、「変に」なって欲しくもない。
  第一、可愛くも、なくなるから。
  
 
 <安岡章太郎:「鏡川」、の本から>
 ・築屋敷に一時住んでいた「丸岡莞爾」、の縁者:西山麓(小鷹)
  と横山又吉
 
 ★変なおんちゃんが、たくさん登場するが、その中から:
 
  ・・・。
  『横山よ、持つべきものは友人じゃ。わしは君の友情が
  何にもまして嬉しいし、感謝する、有難う。山崎にも
  よろしゅうに伝えてくれ・・・』
  と、早速にも山崎のところへ出かけて行きそうな気配である。
  横山も、これなら世話のし甲斐もあった、と上機嫌だった。
 
  『ただし、おまんのその「山崎」という呼び捨てはイカんぜよ。
  「山崎先生」とまでは言わんでも、「山崎さん」ぐらいに言わんと
  相手はともかく大病院の院長じゃきに・・・。おまんが山崎の部屋へ
  入って二人だけで、漢詩でも教えいう時なら「山崎」でも結構じゃ。
  けんど、技師やら助手やら婦長やらの大勢おる前で、おまんが
  「オイ、山崎」いうて呼び捨てに呼んだら、こりゃ、ちくと能が
  悪かろうぜよ・・・』
 
   すると、たったいままであれ程喜んで、はしゃぎ気味でさえあった
  小鷹が顔色を変えている。
  『よ、横山よ・・・』それだけ言うと小鷹は、昂奮のあまり、痩せて
  縦皺(たてじわ)の寄った頬を痙攣させ、暫くはなにを言っているのか、
  言葉にもならないようだった。『お、おまさんの言うことが、さっきとは、
  別人のように違ごうちゅうねや・・・』
 
   横山は、小鷹の言葉がやっと聞き取れたが、こんどは何を言わんと
  しているのか、意味が良くわからなかった。
 
  『わしあなァ、誰のことでも呼び捨てにする、おたがいに人間同士、
  それが当たり前じゃないか・・・。あれは明治の終わりか大正の
  初めじゃったか、奥州の会津で松平容保の墓を見に行こうと思うて、
  道で女学生らしいのに訊いた、「容保の墓、何処ですぞ」とね、すると
  その女学生、キッとなって訊きかえしたものじゃ「カタモリさまのお墓
  ですか」と・・・。わしゃあ、あきれてねえ、「はあ、カタモリサマですか」
  というたもんじゃ。土佐じゃ山内容堂のことは「容堂サマ」とは言わんろう、
  歴史上の人物じゃからな・・・』
 
   ここで横山は、やっと反駁(はんばく)のキッカケをつかんだ。
  『山崎はなア、歴史じゃない。生きた医者で家には、看護婦も医者の卵も
  大勢おる、書生も人力車夫もたくさんおって、それが皆、山崎を「先生」
  と呼ぶ』
 
  (途中略)・・・。
  『わしは、おまんのことじゃあち、一ぺんも先生というた こたあ
  ありゃせんぜよ』
  その一言に横山はギクとなって、たじろいだ―。
  じつは横山は高知市立商業学校の創立者で、明治31年の開校以来ずうっと
  校長で大正6年に引退するまで、それを 続けてきた。
  しかし校内ではともかく、一旦校門を出ると、仲間の連中には誰にも
  先生などとは、呼ばせはしなかった。・・・。
 
  ⇒漢詩の実力・技量は、人から評価されるほど優れているが、
  世間に対する「柔軟さに欠ける」ので、生活に困っている小鷹。
  結局、友人の横山又吉(黄木)の持って来た山崎先生の申し出を断る。