根木勢介 さんの記事・・・保井算哲に土佐の弟子がいた
テレビでは、9月15日より封切りの「天地明察」の予告がよく流れて
いますね。
面白そうなので映画を見ようと思っています。
映画には、登場しないようですが、主人公の保井算哲(さんてつ)と
土佐・谷秦山とは、大いに関係があるようです。
<高知市歴史散歩:広谷喜十郎著・高知市文化振興事業団刊60pより>
★第27話 星空の狩人 1984年10月
最近、ハレー彗星の再来について、とかくマスコミで話題になっているが、
江戸初期の「桂井素庵記」は、彗星が出現して高知城下の人々が騒然と
している生々しいニュースを伝えており、それが二代藩主山内忠義の逝去と
重なったために人々を不安に陥れている。
高知県立図書館蔵の「天柱(てんちゅう)密談」(9巻)は、儒者谷秦山(
じんざん)が師匠保井算哲(渋川春海・はるみ)に送付した暦学に関する
質問状の書簡を集録したもので、秦山の質問に対して算哲の返答が朱でもって
書き込まれている。
それに、谷秦山が暦学研究のテキストとして使用した「貞享歴(じょうきゅう
れき)もある。
この暦は江戸の歴学者保井算哲が作成したもので、平安時代以来の宣明暦
(せんめいれき・中国伝来)の誤りを天体の長期観測結果、修正した日本人の
手になる最初の暦である。
秦山は、天体観測をして、高知の緯度を三十三度と推定しており、土佐天文学
の祖であるといえる。
「地球三十三番地」の標示塔が昭和37年に、高知市弥生町の一文橋近くの
江ノ口川南岸に建てられた。
なお、秦山が晩年住んでいた土佐山田町には住居跡記念碑があり、その台上に
かって渾天儀(こんてんぎ)の模型が置かれていた。
秦山の天文観測図としては「貞享星座」、「日月会合図」(谷垣守写)、「日出
日没観測図」などがある。
天体の運行を観測する器具を「渾天儀」といい、川谷薊山が制作して藩主へ献上
したものが土佐山内家宝物資料館に収蔵されている。
高さ四十センチで球体部分の直径が三十一・五センチである。
薊山は谷垣守から天文学を学び、江戸に出て算学を究め、帰国後は暦学に
精進した。
従来の官暦の誤りを指摘したり、宝暦十三年九月一日の日食の予測が見事に
あたり、国外にまで彼の名が知られるようになった。
なお、彼の作成した「星図」が高知市民図書館に保存されている。
秋は、夜空の星がきれいに見える時なので、子どもたちと一緒に星空を眺める
心の余裕を持ち、また、高知市在住のコメットハンターとして著名な関勉さんの
「星空の狩人」(筑摩書房)を読んで、はるかかなたの宇宙のドラマにも目を
向けたいものである。
★最近、雨が多くて、夜空も見えませんが、たまには、夜空も眺めてみますか?★
根木勢介 携帯:90-2825-2069
根木勢介 さんの記事・・・桜②:散りそめてこそ風雅なり
★昼間は、あたたかいですが、夜になると結構寒いですね。
この前の「低気圧の嵐」で散ったサクラもあるようですが、
まだ、サクラは楽しめますね。
今日の牧野植物園の”花絵巻”、たくさんの人々でにぎやかでした。
★★五台山の牧野植物園・南園に「お馬路」があります。
龍馬の若かりし・21歳の頃『坊さんカンザシ 買いよった』で里謡にも唄われた
「純信・お馬」の物語の路です。
高知県外からのお客さんの質問:(動物の)馬が通る路だったんですか?!
以前、「純信・お馬の物語」の映画を作ろう、と運動を起こした友人がいますが、
この物語を知らない人が増えているようです。
さて、
■江戸の人は、「サクラの花見」をどのように思っていたのでしょうか?
【お江戸風流さんぽ道:杉浦日向子著・小学館文庫22pより】
●桜見(さくらみ) 江戸のお花見
呑んで歌って食べて踊る、無礼講の宴。
行楽のなかの最高峰がお花見です。
敷きつめられた花弁の上で、
とどめなく降る桜を愛でる、
江戸の花見は、フアンタジーでした。
七分咲きより散る里桜
桜を愛でる花見(桜見)は、上方で始まりました。
野遊び感覚で弁当を携えて深山に入り、自生する一本の桜の名木を愛でるのが
古来の風習です。
やがて、江戸では、山中ではなく、植樹した桜を町中で花見しようという新しい
発想が生まれます。
山ではなく里山で楽しむ「里桜」の誕生です。
このように、桜の愛で方が上方と江戸では違います。
上方は桜の木自体の美しさを鑑賞するのに対して、江戸は人々がワイワイガヤガヤ
とコミニュケーションするための桜だったんですね。
江戸市中に数多くある花見名所には、団子屋や茶店は出ますが、持参の花見弁当も
大きな楽しみとなりました。
花見弁当は、季節の菜の花や山菜、桜餅などが詰め込まれ、みんなの持ちより
だから種類も豊富、それぞれ自慢の惣菜を分け合い盛り上がります。
また、花見の時期も、現代とは異なります。
今は七分咲き、八分咲きの散る前を見頃としますが、江戸では散る頃を愛でます。
江戸で「桜」といえば、一弁の花びらの形、これを単弁桜と称します。
空にハラハラと花弁が舞い、春先の黒くて軟らかい土の上に薄紅色の花びらが積り、
一面、桜の毛氈(もうせん)となる状態を愛でるのが、正統派の花見。
桜は散りそめてこそ風雅なり、なのです。
単弁桜の名所は、隅田堤。この堤は墨堤と呼ばれ、とりわけ多くの花見客で
賑わいます。
ほかにも、上野の山(今の上野公園)と飛鳥山。また、谷中・日暮里の一帯、湯島の
麟祥院、根津権現社(ごんげんやしろ)、小石川伝通院、大塚の護持院、広尾光林寺
などはしだれ桜で今に知られています。
王子の金輪寺、目黒祐天寺、品川御殿山の一帯、鮫洲西光寺、浅草寺など、江戸の
多くの寺社境内が名にしおう桜で覆われます。
幻想的な薄紅色に包まれて、万物の芽吹く春を寿ぐ(ことほぐ)ことこそ花見の宴。
酒杯の中の花びらを呑み干して、ことしもまた幸多かれと願いました。
花見は、夜も楽しからずや。
夜桜は、月と合わせて楽しみましょう。満月の頃、桜が見ごろなら極上。
春のおぼろ月にひらひらと舞う夜桜が映えて、いうことなしですね。
※桜餅:江戸では、もち米を炊いた粒をまとった道明寺(どうみょうじ)とは
違い、小麦粉のクレープを巻いたこしあんが主流。
根木の感想:佐川町役場の前の川、その一面が桜の花びらで覆われていてとても
きれいだったことをことを思いだしました。
●吉原の桜は旬のデコレーション 25pより
華やかさでは江戸随一の吉原遊郭は、桜について驚くべきことをしています。
開化寸前の桜を吉原中の丁(中央大通り)の真ん中に植えます。
旬の桜の木を、ひととき吉原に咲かせるわけです。
その期間中は、吉原の大門をくぐると、霞(かすみ)か雲かというほど桜が
連なります。
ほんの数日たってまた吉原に来てみても、もう跡形もありません。
桜が散りきる前に、植木屋が持って帰るからです。
なんともゼイタクな酔狂です。
吉原だからこそ許されることでしょう。
さらに五月には、花菖蒲(はなしょうぶ)を植えます。
一面、紫になるほど植えて、花が終わる寸前に引き抜いて持って帰ってもらいます。
いつも流行の先端をいく吉原では、どこよりも先に季節を思う存分楽しめる別天地と
しての心遣いがあるのです。
※花菖蒲:アヤメ科の多年草。江戸時代に改良が進み、花の美しいたくさんの
園芸品種が作り出された。
葉に芳香があり、端午の節句の菖蒲湯に使う菖蒲は、サトイモ科の多年草。
根木の注)別の江戸の本によると、吉原の「桜イベント」は、経営戦略だったそう。
江戸の花菖蒲を土佐に送っている龍馬ですが、吉原の「花菖蒲イベント」
の事を聞いたかもしれません。
■江戸の遊び方 :中江克己著・知恵の森文庫21pより
●夜の花見は吉原で艶やかに
・・・。
吉原の夜桜は寛保3年(1743)からはじまったという。
・・・。
吉原の年中行事のなかでももっとも艶やかに演出されたのが、この三月の
夜桜である。
ずらりとつらなる美しい桜並木の下を、華やかな花魁道中(おいらんどうちゅう)
がゆっくり進む。
江戸の夜は暗いが、吉原だけは光の洪水で昼と見紛う(みまごう)ばかりである。
そのなかで見る盛りの桜と着飾った遊女との組み合わせは、まさに別世界の
ものだった。
その光景を一目見ようと、多くの人々が吉原にやってきた。
・・・。
根木勢介 携帯:090-2825-2069
根木勢介 さんの記事・・・観光ガイド:人間の魅力、その伝え方 2-1
観光ガイドでは、人間の魅力について語ることも多いですね。
その時に皆さんは、どのように観光客の方に伝えていますか。
以前、観光ガイドの方法:対比する、と言うことを書きましたが、今回は、
西郷さんと中村半次郎(桐野利秋)を題材に取り上げてみました。
◎参考にしたのは、次の本で、その抜粋です。
■人間的魅力の研究:伊藤肇著・新潮文庫より、の抜粋
●第一等の資質は、”深沈厚重”(38p)
・・・。
第一に「魅力を出そう」と思ったところで出てくるものではないし、
また、前にも触れたが、それがある人にとっては魅力であっても、他の人は、
「何も感じない」と、そっぽをむくかもしれない。
それでいながら、「魅力がある」ということも厳然たる事実だし、「魅力がない」
ということも、また、厳然たる事実である。
しかも、最後にものをいうのはやはり、魅力である。
ところが、この複雑怪奇な、ややこしい「魅力」を、あえて分析した学者が
いる。明末の碩学(せきがく)、呂新吾(ろしんご)で、その著『呻吟語
(しんぎんご)』の中で明確に三つにわけている。
深沈厚重ナルハ是(こ)レ第一等ノ資質。
磊落(らいらく)豪雄ナルハ是レ第二等ノ資質。
聡明才弁ナルハ是レ第三等ノ資質。
そしてさらに次のような解説をつけ加えている。
「厚重深沈ナルハ、是レ第一等の資質ナリ。天下の大難ヲ収ムル者ハ
此ノ人ナリ。剛明果断ナルハ之ニ次グ。其ノ他、浮薄ニシテ、好ミテ
任ジ、能ヲツマダテテ自ラ喜ブハ、皆、行、逮(およ)バザル者ナリ。
即(も)シ、諸(これ)ヲ行事ニ見(あら)ハセバ、施為(セヰ)、
術(すべ)ナク、反(かえ)ッテ以(も)テ事ヲ僨(ヤぶ)ル。
此等ハ只(た)ダ談論ノ科ニ居ルベキノミ。
●善悪を越えて生死を共に・・・(44p)
「深沈厚重」の魅力で思い出す人物がもう一人いる。西郷隆盛である。
・・・。
※伊藤肇さんが、上げている第一等の人物は、他には、良寛さん。
●「芋の贈」から「命の贈」へ
以下、西郷の心の軌跡をたどってみよう。
「唐虞(とうぐ)ノ治、タダ是レ、情ノ一字ノミ。極メテコレヲ言ヘバ、万物
一体モ情ノ推ニ外ナラズ。」
唐虞とは、堯(ぎょう)帝と舜(しゅん)帝のこと。堯舜は中国史上、最も
理想的な治世を実現したが、その政治の帰着するところは「情」の一字であり、
さらに敷衍(ふえん)すれば、宇宙の万物を一体とみる「仁」の心も実はこの
「情」を推し及ぼしたものにほかならないのである。
中村半次郎すなわち後年の桐野利秋が若き頃、西郷を訪れて入門を
乞(こ)うた。
その時、半次郎は極貧状態で、師に贈るものとてなく、考えたあげく、自分が
作った芋を持参することにした。
西郷の前へ出て丁重なあいさつをして、やおら、きたない包みを開いて芋を
取り出すと、「貧しいおいどんの土産でごわす」といった。
半次郎のやつ、何を贈するか、と興味深々で眺めていた門下生たちは、それが
芋だとわかると、どっと笑った。瞬間、色をなした西郷が左右をにらみつけて
怒号した。
「半次郎どんは、何の贈もなかとじゃによって、自分で耕してつくったから芋ば
おいに捧(ささ)げるというちょる。こいつは、半次郎どんの丹精をおいにくれる
こつじゃ。こい以上の贈はごわさん。その誠をしらず、ものの高で人間を律する
ようなヤツばらは、おいの門下ではなかじゃ。」
そして、半次郎の方を向くと、「西郷、ありがたくちょうだいつかまつる」と
深々と頭を下げた。
半次郎はこの時、命を捧げるのはこの人以外にない、と心に誓い、以来、その心の
約束を命が終わるまで持ち続けた。
「芋の贈」から「命の贈」となったのである。
※以上が、「第一等」の資質の魅力、でした。
次回は、「第二等」の資質の魅力、について書きます。
根木勢介 携帯:090-2825-2069
先日、「土佐勤王党コース」をご案内しました。
心配した”やぶ蚊対策”ですが、Yさんお勧めの「シュウ、シュウ」が、
役立ちました。(Yさん、ありがとうございました。)
兵庫県芦屋市からの若い夫婦で岡田以蔵のお墓まいりをしたくて勤王党コースを
選んだそうです。
(奥さんは、京都出身、奥さんの京都弁が、「心地よかった」。
京都弁に『クラッ』?!となりました。)
ネット(映像)検索でお墓は、すでに見られていたのですが、実際のお墓を
見たくなったそうです。
以蔵ファンの奥さんに引っ張られているのがご主人、そのようなご夫婦でしたが、
お墓まいりのための線香とお花をチャンとご用意されていました。
その心がけに感心させられました。
われわれガイドもこの心・配慮は、必要かな?
以蔵ファンなので、当然(?)司馬遼太郎の「人斬り以蔵」は読まれてました。
土佐勤王党コースを受けた時、以蔵についてどのような「ガイド」をするか、
悩んでいました。
ガイドの方法のひとつとして、『対比』があると思っています。
人物や建物でも、対比できそうな人・物を引き合いに出して「ガイド」を
する方法です。
以蔵に対比する格好な人は、「中村半次郎」だと思います。
ふたりは、①下級身分に生まれ、②真剣勝負にすぐれ、③学問の素地に乏しい、
④大物の引立て者がいた。
しかし、その性格・生き方は一方は、①社交的な人、②劣等感を持たなかった人
(尊藩、弊藩の誤使用はなしは、有名)、③「テロ」には消極で、
④周囲の人に好かれた。
★半次郎とお龍さん(龍馬)にまつわる話:龍馬研究会の会報に書いたことがあります。
○利秋(半次郎)、おりょうの寝室を襲う
私がまだ寺田屋にいた時分ですが、ある日の夕方、桐野利秋(そのころ村上伴左衛門と
偽名す)が大山実次郎らと共に江戸から来て、寺田屋へ泊まり込みました。
・・・。「あなたひとつお召りなさい。暴れたってしようがないじゃありませんか。
つまりはあなたの器量を下げるばかりですよ。今夜は私がお相手をいたしますから、
充分召し上がってください。」と恐るる色もなく夜更けまで、人も呑み自分も呑むで、
利秋らが酔い倒れている隙を窺い(うかがい)、そっと勝手へ下りて、跡仕舞の
手伝いなどして、己の部屋で寝ていますと、夜中になって襖の外に人のいるようですから、
何事かと気をつけていますと、突然入って来た人を見ると利秋です。私を捉えて、
「こら、貴様は今夜は俺の寝室へ来て寝ろ」と恐い顔をしておどしかけると、私は
せせら笑い、「冗談言っちゃいけませんよ。・・・。」
・・・。
「君、冗談しちゃあいけないぜ。ありゃ土州の坂本の妻だ。君も僕も顔を知らないから
無理はないが、僕はこの短刀に見覚えがある。・・・。君、とんだことをしたなあ。」
と言いましたから、利秋はびくりして、色々わびいり、翌日私を中の島へ連れてゆき、
御馳走をして、
「どうか昨晩のことは、坂本氏へ内証にしてください。」とほうほうの体(てい)で
薩摩へ帰ったそうです。
―以上は、「わが夫坂本龍馬 おりょう聞き書き」一坂太郎著58~59ページより―
「半次郎の映画」(昨年9月大阪などで劇場公開)のDVDを持っています。
私の次男が、この映画の制作に関わりました。
興味ある方には、お貸しします。
根木勢介 携帯:090-2825-2069
根木勢介 さんの記事・・・いごっそう:はちきんの番付⑤-4
今日の高知新聞に:弟が95才で死亡・喪主に姉二人・弟妹が並ぶ死亡広告、
姉二人は「一体、何才?」と余計な事を想いました。
さて、
◆Yさんから、次の人も「はちきん」に入れていいのでは?、とメールを
いただきました。
なるほどいずれ劣らぬ烈女ですなぁ。
武市 富さん。平井加尾さんなんかもどうかしらねぇ。
「はちきん」、をどのように定義するかですが、土佐の女性全部が、はちきんに
見えてきました。
「はちきん番外編」(まだまだ、はちきん!)をお届けします。
■おらんくといごっそう:近藤勝著・金高堂書店発行・昭和50年出版より
・はちきん(87p)
・・・。喜多こそ乙女に負けぬ「はちきん」の代表である。ここでどうしても
紹介しておきたい「はちきん」がもう一人いる。
安芸郡芸西村の料亭「琴風亭」の女将であった岡本正恵である。
父は大の闘犬好きで昭和四年には第十代横綱「琴風亭号」を出している。
幼い頃から気性が激しく勝気であった正恵は、こうした環境の中で自然に闘犬
好きになっていった。
はじめ学校の先生もしていたが、父の死後に琴風亭をつぎ、同時に、本格的に
闘犬に取り組んだ。昭和十年代には闘犬を三頭も飼い、専門の「犬引き」(犬の
世話人)もやとっていた。
子供に恵まれなかった正恵は、それこそ闘犬をわが子のように可愛がったという。
だが、太平洋戦争が激化し、敗色がこくなると、旧和食村(合併して現在の芸西村)
の愛国婦人会の会長だった正恵は、率先して闘犬を手放した。
文字通り、涙の別離であった。
戦後、婦人参政権が誕生すると周囲からおされて旧和食村の村会議員に当選した。
合併して芸西村となったが、その時も当選し、連続五期村議をつとめた。その当時、
土佐はもちろん全国的にも女性の村会議員はきわめてまれであったといわれる。
昭和41年3月に亡くなったが、彼女をよく知る人たちは、
「竹を割ったような性格で、まるで男みたいな人だった。」とか、
「一言でいえば任侠肌ですよ。」などと評している。
どこからどう見ても、代表的な「はちきん」である。
ちなみに、正恵はきわめてづきの美人だったという。
さて、「はちきん」は多分に反社会的な側面を持っている。それは「いごっそう」
の場合と全く同様である。
ここで取り上げる反社会的な「はちきん」の代表選手は、「かみなりお新」
という。出生はさだかでないが、土佐藩士の娘ということである。
うまれついて美貌に恵まれ、多くの勤王の志士たちから思いを寄せられたが
なびかなかった。
そのうち、土佐勤王党首領武市半平太の門人に思いをかけたが、この初恋は悲しく
も実らなかった。その後、上士格の家に嫁いだが、夫はよほどつまらん男だったと
見え半年たらずでさっさと離婚した。
しばらくして再婚し、後妻となったがこれも失敗に終わり、ついに自暴自棄となり
大阪に流れていった。それからは芸者、妾、万引き、枕探し、恐喝、にせ金使いなど、
悪のかぎりをつくし、世が明治となる頃には凄い入れ墨をした。
多くの子分をもつ大姉御「かみなりお新」となっていた。
お新は東京に舞台を移してからも、その貫禄と天性の名器をもって豪商、政府の高官
たちからおしみなく大金をむしりとった。
うまくいかないときなど、
「何いってんだい」
と素っ裸になって、すごんだという。好色の大家でもあった伊藤博文などはかえって
その度胸に惚れ込み、大金を与えたとか与えなかったとか・・・。
しかし、お新も、なぜか土佐出身者だけには決して手を出さなかったという。
だが、さすがのお新も西郷従道(つぐみち)には、ぎゃふんと言わされた。
例によって、入れ墨戦法を披露したが、西郷は平然として、
「その度胸で伊藤や井上を参らせたらしいが、おいどんはそうはいかんわい」
と、ぱっと着物をぬぎ見事な半身にわたる入れ墨を見せた。これには、百戦練磨の
お新も仰天し、素足で料亭を飛び出したということである。
・・・。(途中略)
かって郷土出身作家安岡章太郎が、「毎日ライフ」(昭和46年4月1日発行、通巻
第15号)で石垣純二と対話しているが、そのとき「女が強いわが郷里」をテーマの
一つとし、大いに語っている。さらに、いつか大宅壮一が「土佐の猛婦伝」を書くと
いうので、県立図書館で座談をもったそうであるが、そのとき、
「土佐の女はみんな猛婦ではないかな」
という意見も提出されたそうである。みんな猛婦だから、それを酒にまぎらわせ、
男たちは虚勢をはるというわけだ。たしかに面白い見解である。
さて、「はちきん」とどう関係があるかと、つね日頃考えていることの一つは、土佐
では女子教育が相当にさかんだったということである。
かすかな記憶をたどってみると、昭和十二、十三ごろの土佐には中学校(男子)が
僅かに五校だけだったが、それにひきかえ高等女学校は七校もあった。
もちろん、実業学校(男子)を加えると九校になるが、それでもその差は僅か二校に
すぎない。
土佐で女子教育が重視されたことは、この事実で明らかであろう。そして、この土佐
における女子教育重視の思想的基盤が、立志社を中心に澎湃(ほうはい)として
起こった自由民権運動であり、さらに植木枝盛に代表される婦人解放運動であった
ことは論をまつまでもあるまい。
どうもこの女子教育重視ということが「はちきん」と関係があるようだが、今の
ところこれ以上のことは言えない。
根木勢介 携帯:090-2825-2069
根木勢介 さんの記事・・・お正月:江戸の龍馬は、どのようなお正月?!
風邪をひかないために、外から帰って来たら手に石鹸をつけてよく洗い、また
うがいもしています。
皆さんは、どのような「風邪」対策を実行されていいますか。
さて、龍馬の時代にお正月はどのようにすごしていたのだろうか?、少し気に
なりましたので調べてみました。
と、言っても「江戸」の人たちのお正月の過ごし方、になります。
★江戸の人たちのように、初日の出を拝んで、【吉運】を授かりたいものですね。
来年も、よろしくお願いします。
よいお正月をお迎えください。
■お江戸風流 さんぽ道:杉浦日向子著・小学館文庫 12pより
<・初詣で>
江戸の正月は、とても静かです。
初日の出を拝んだあとは、自宅でゆったり、好きな時にお節(せち)を
つまんで、酒を呑み、家でごろごろ寝正月。何もしないことが極上の初春です。
<・寝正月と挨拶まわり>
江戸のお正月は、現代と比べて大変穏やかです。三が日、自営の庶民で出歩く人は
ごくわずか、ただ寝るばかりが果報なり。まして働くなどもってのほか。
元日は湯にも入らず、掃除もなし。朝から酒を酌み交わし、お節料理をつまんで、
ひたすらごろごろするのです。町中は静まりかえり、子供たちが興ずる羽根つきの
音がカツーンカツーンと遠方まで聞こえるほど。
たいていの大人はホロ酔いの寝正月で、外へ出歩くのも大儀(たいぎ)がりました。
彼らにとってお正月は、時間に追い立てられず、人間関係にも縛られない、特別な
休息のときです。
一方、お武家のお正月はずいぶん忙しかったのでした。
上役への年始参りは、部下としての忠誠心の証しでもありました。
そして挨拶に出向くには体面上、ぜひともお供を連れなければなりません。
けれども太平の江戸では、戦乱という給料アップのチャンスもなく、年々家計を
切り詰め、家来をリストラしています。
それで三が日だけ、町人にお供のアルバイトを頼みます。
お供役の町人は、仲間が休んでいるお正月に、朝から晩まで、侍と一緒に何十軒もの
武家屋敷をまわります。武家屋敷は敷地が広く、隣の家でさえずいぶん距離があります
から、体力のいる仕事です。その分実入りもよく、収入を上手に使いこなせば、
蚊帳を吊る頃ころ、つまり夏ごろまで遊んでくらすつわものもいたといいます。
ならば、希望者が殺到するか、といえばさにあらず。江戸っ子は、正月は骨休めを
する祭日と決めていますから「どんなに金を積まれてもばかばかしくてやって
らんねえ」とたいてい見向きもしないのです。
志願者は、所帯を持つ予定があったり、年末の借金が未済みであったりと
よんどころのない事情のある人でした。
<・初日の出で、「吉運」を受けとめる>
江戸っ子の正月の定番は、年に一度の骨休めですから、年が明けるや有名な
神社仏閣へいっせいに押しかける大混雑の初詣でというのはありません。
初詣に行くとしても※十五日の松の内までに、氏神様へ詣でるくらい、氏神様、
いわゆる※鎮守の神は、正月にかぎらずことあるごとに通う馴染みの場所でもあり、
詣でるというより、新春のあいさつですね。農村地域などでは、大みそかの夜から
鎮守の杜に参って元旦を迎える「※二年参り」がご利益(りやく)あらたかと
されますが、江戸ではさほど重視されていません。
それに対して初日の出は、ほとんどの江戸っ子が拝みます。大みそかから夜通し、
呑んで騒いで、初日の出と同時に今年一年分の吉運が天から降ってくると信じられて
いたからです。
だからこそ、吉運をたくさん授かろうと、こぞって出かけました。
顔を上に向け、天を仰ぎ全身で朝陽を浴びます。江戸っ子が、お正月は湯にも入らず
掃除もしないのは、折角授かった吉運、つまり福を洗い流す、掃き出すのを
避けたかったからです。
初日の出の名所は、多くありますが、有名なのは洲崎(すさき)、品川、御殿山。
視界全開の景色の中で、水平線から昇る朝陽を拝むのが江戸住まいで最上の贅沢です。
※十五日の松の内:門松を立てている期間。現在では、七日が主流となっている。
※鎮守の神(氏神様):地元の氏子を守護する神、産土神(うぶすなかみ)。
※二年参り:旧年と新年をまたいで詣でるカウントダウン形式。
<・恵方(えほう)参りと七福神巡り>
一年の福を授かる初日の出に比べ、閑散としていた初詣で。その中で、恵方参りと
七福神巡りには根強い人気がありました。
恵方参りは、恵む方角に参ると言う意で、厄除けのお参りです。宮中儀礼として
平安朝の昔から続いています。
吉報は、※十干(じっかん)・十二支(じゅうにし)によって定められその年々、
その人の星回りで縁起のいい方角が違います。主に、前厄、本厄、後厄を迎えた
厄年の人たちが出かけます。
年の始めに厄除けをし、福を招き入れようと願いました。
七福神巡りが、一般に流行ったのは江戸の中期以降で、文人、俳人たちが遊びで
始めました。
古くは中世室町時代に成立した民間信仰ですが、江戸では風雅な初春の行楽と
なりました。
「恵比寿・大黒天・弁財天・毘沙門天・布袋・福禄寿・寿老人
(じゅろうじん)を七福神とし、神々が金銀財宝を積んだ宝船に乗って訪れる
絵柄は江戸で大流行となります。もっとも古い七福神とされるのは、不忍の弁財天
、※谷中感応寺の毘沙門天、谷中長安寺の寿老人、日暮里青雲寺の恵比寿・大黒天
・布袋、田端西行庵の福禄寿で、多くの参詣客が訪れました。江戸っ子たちは
その有名無実にかかわらず、市中各所の寺に、どれか一つの神が安置されている
のを見つけると、他の七福神を探しながら楽しんで市中を散策します。
お節の腹ごなしにはちょうどよい運動になりますね。
七福神の中でも人気があったのは、上方資本の多い江戸の店では、商売繁盛の神様
の恵比寿・大黒天・※江戸根生(ねお)いの職人衆では布袋さんです。
布袋さんはでっぷりとふくよかで、いつもニコニコして、おいしそうに酒を呑んで、
まわりにこどもが戯れている。そんな無欲なおおらかさが江戸っ子の羨望(せんぼう)
となったのでしょう。
布袋さんは、一見、怠け者みたいですが、実は、弥勒菩薩の化身で最後の最後に
民衆を救いにやってくる神様なんです。
そこらへんが、江戸っ子に頼られるんですね。
一方、武士に人気の神様は、煩悩や邪悪を払い去り、福寿を授ける毘沙門さんでした。
※十干:甲(きのえ)・乙(きのと)・丙(ひのえ)・丁(ひのと)・戊(つちのえ)
・己(つちのと)・庚(かのえ)・辛(かのと)・壬(みずのえ)・癸(みずのと)
の十の漢字の総称。十二支と組み合わせて年、月、日に配される。
※谷中感応寺:現在の谷中天王寺。当初、このお寺は日蓮自刻の像をまつり、
長耀山(ちょうようさん)感応寺と称していた。元禄十一年天台宗に改宗し、天保
四年には護国山天王寺t改称。現在同じ谷中にある感応寺は明暦三年の大火後に神田
佐久間町から現在地に移住してきたもので、神田感応寺と称される別のお寺である。
※根生い:その地で生まれ、そこで育つこと。また、その人。
<・門松は歳神様のお休み処>
お正月の情景で欠かせないのは門松です。
門松は、そもそも正月に来るという福の神、歳神様(としがみさま)を迎える目印
なのです。歳神様は、お正月だけに降臨する神様で、門松に立てた松の上でひと休み
されるといいます。
各家では、ぜひここにお寄りください、という願いを込めて飾り付けをします。
今の門松は、松飾りともいい、松が主体ですが、江戸は笹です。伸びっぱなしの
笹を束にし、まわりにぐるっと松を巻きました。
※長屋の木戸口や、通りの真ん中に建て、各家から眺められるようにします。
・・・。(省略)
※長屋の木戸口:表通りに面して設けられた長屋全体の出入り口。今でいえば、
マンションの表玄関。
<・みんなで持ち寄るお節料理>
長屋の共同作業は、門松だけではありません。お節料理もそうですし、お正月
用品も共同購入します。
・・・。(途中略)
大家さんは、親代わりの存在で、年末あるいは年始には店子(たなこ)にお年玉も
配ります。といっても、お金ではなく、鏡餅でした。
鏡餅が、丸い形をしているのは、壮健を願う心臓の形でもあり、また年玉の玉に
由来してもいるのです。
今は、珍しくなくなった餅つきですが、江戸の長屋でも、そう見られない光景です。
自分の家で餅つきができるのは、江戸市中では大きな商家ぐらい。多くの庶民は
大家さんにもらった丸餅を台所に飾り、正月を祝います。
さて、お正月といえばお節(料理)とお雑煮ですが、江戸の頃は、どちらもいまより
ずいぶん質素でした。お節は、日持ちのする味の濃い煮しめが主で、おかずというより
お酒の肴(さかな)です。
お雑煮も、江戸式となるとごくシンプルです。
醤油のおすましに焼いた四角い餅を入れ、小松菜に油揚げ(又は鶏肉か蒲鉾)を少々。
なぜこんなに質素なのかというと、徳川家康公が「貧しかった頃を忘れず年頭には
この雑煮を食べよう」と決意したせいでした。江戸中がそれにならい、将軍家でも
代々、この雑煮を食べました。
諸国万人の吹き溜まりだった江戸では各地お国自慢の雑煮がふるまわれた一方
長屋の職人と将軍が、そう違わない小松菜雑煮を頬張っていたというのが、
いかにも長閑(のどか)な泰平の春を感じさせます。
■江戸こぼれ話:文芸春秋編・文春文庫より
・江戸っ子のレジャー・ガイド・加藤恵(作家)86pより
・・・。(途中略)
それにしても江戸っ子はいそがしい。花見、月見、紅葉狩りといた行楽の合間にも
律儀にさまざまな信仰を守った。
正月には七福神詣でに出掛け、春秋の彼岸には六阿弥陀を巡拝した。
健脚なものは御府内八十八ヶ所をめぐった。律儀な信仰というものの、この参詣は
遊山的な要素が強かった。
六阿弥陀 嫁の噂の 捨てどころ
と川柳がいうように、信心をかねた保養というか、気分転換の行楽のようなもので
あった。
七福神詣では一種の初詣で、多分に遊山的であった。七福神を祀る寺社を巡って
一年の財福を祈るわけであるが、その由来には各説があって一定しない。
今日のように大黒天・恵比寿・弁財天・毘沙門天・寿老人・布袋和尚・福禄寿の
七福神に定まり、信仰が盛んになったのは江戸時代も末のことらしい。
そのことはともかく、江戸っ子の多くは元旦から七日まで、いわゆる松の内に
七福神詣でに出掛けた。
江戸の七福神詣では、いくつかあったが、谷中のが古く、宝暦年間(1751
~63)以後、文化年間(1804~18)以前に始められたと考えられている。
それは大黒天(生池院・上野護国院)、毘沙門天(谷中天王寺)、寿老人
(谷中長安寺)布袋(日暮里修性院)、恵比寿(日暮里青雲寺)、福禄寿
(田端東覚寺)であった。
ついで人気があったのはが向島七福神(隅田川七福神)である。
隅田川の風光が文人墨客に賞でられるようになった文化文政(1804~30)
ころ、大田南畝(蜀山人)などによって設けられた。隅田川は淡水、塩水の入り
混じりなので、魚群の種類が多く、鷗(かもめ)をはじめ、水禽(すいきん)たち
の優美な姿も見られて、ここに独自の趣きがあった。
文化元年(1804)北野平兵衛(北平)の隠居心が動き、多賀藤十郎邸の跡地を
もとめ、さまざまな樹木を植えて百花園(墨田区東向島)を開いた。
加藤千蔭、酒井抱一、村田春海、亀田鵬斎、大窪詩仏などという文人墨客は
大田南畝を肝煎(きもいり)りにして此処に集まり、萩や薄などの秋草を植え
風流を楽しむようになった。
北平は頭をまるめ、菊屋宇兵衛と改名し、これを詰めて菊宇、あるいは鞠塢
(きくこう)とも称した。ところで南畝らは、鞠塢の愛蔵する福禄寿に目をつけ、
多聞寺(墨田区墨田)の毘沙門天、長命寺(墨田区向島)の弁財天などと結びつけ
七福神を構成した。
すなわち、恵比寿・大黒天(三囲神社)、弁財天(長命寺)、布袋(弘福寺)、
福禄寿(百花園)寿老人(白髪神社)、毘沙門天(多聞寺)がそれである。
隅田川の美しい風光を賞でながら七福神を巡るという趣向は、大いに江戸っ子を
喜ばせた。江戸の七福神詣でには、このほか浅草名所、亀戸、下谷、日本橋、柴又、
深川、山の手、新宿山の手などがあった。
・・・。
■大江戸浮世絵暮らし:高橋克彦著・角川文庫
<・子供のための「羽子板絵」>149pより」
つぎの「羽子板絵」というものは、完全に浮世絵が芸術でないのだという
決定的な証拠だと思います。
この絵は、正月に遊ぶ羽子板にするものなのです。江戸時代の押し絵羽子板と
いうのは、ものすごく高価なものでした。
ですから、押絵の羽子板を使って遊べるというのは、大店(おおだな)の娘さん
とかお金持ちの家だけだったのです。
でも、子供ってそういうものを見ているとどうしても遊びたくなりますね。
しかも、親御さんたちも、自分の子供が貧しい羽子板を使っているのはかわいそう
だと思ったのでしょう。
そういうところに浮世絵師たちが注目して、こういう「羽子板絵」をこしらえて
あげたのです。「羽子板絵」というのは、本物の押し絵羽子板のように役者の
似顔絵とか、美しいお姫様を羽子板のかたちのなかに描いています。
買った親たちは、羽子板のかたちに切り取って、板に張り付けて使ったのです。
そうすると、立派な押し絵羽子板ができがったのです。
こういう作品を見ていますと江戸の人たちの親子関係の温かさみたいなものが
少しわかってくる気がします。
もともと切り取られることを大前提とした絵画作品というものは、どこにも
ありません。江戸の人たちが、いかに浮世絵を日常の娯楽、あるいは日用品と
して扱っていたかということが、このたった一枚の「羽子板絵」から読み取る
ことができるのです。
※根木のコメント:
・そう言えば、高知城の本丸御殿にある「容堂」の掛け軸は、「隅田川」を
詠んだもの、だったっけ?
・「土佐の布袋さん」といえば、私は、「岡本寧甫(河田小龍作)」の絵を
いつも連想します。
・今年は、門松を立ててないですが、わが家には歳神様はやって来ないのかな。
・鏡餅「丸」のカタチ:丸い「玉」の形自体に霊力をもつと信じた日本人の思想
に由来。杉玉、勾玉(まがたま)、玉串などが、その現れか。
根木勢介 携帯:090-2825-2069
根木勢介 さんの記事・・・高知城その2: 「婉という女」
今年も、「高知をもっとよく知る」ための試みを続けて行きたいと考えて
います。送りつけたメールが、皆さんのご迷惑にならなければさいわいです。
(このようなメールは不要、の方は申し出ください。コメントも不要です。)
★土佐のはちきんさん、と言えば代表の一人に「お婉」さん。この正月は、
大原富枝さんの「婉という女」を読み返していました。
いくつかの賞:野間賞、毎日出版文化賞、を受けた本だけのことは、ありますね。
長編ではないけれど、読み応えのある本です。
今回は、その中から・・・。
■「婉という女」:大原富枝著・角川文庫 174pより
・あとがき(より):全文です
この文庫には「婉という女」に「日陰の姉妹」を添えて一本とした。
「婉という女」を書きたいと思って資料を集めたり、ゆかりの地を歩いたり
しはじめたのはまだ戦争中のことであった。
昭和十九年の三月、東京はもう小規模の空襲に見舞われたこともあり、防空演習が
盛んに行われていたが、私はその三月いっぱい高知に帰郷していた。
野中婉が四十年の幽獄をゆるされてから六十五歳(享保十年~1725)で永眠する
までそこに住んでいたという「安履亭」の趾を見に行った日は、空は青く晴れて南の
国土佐はもう初夏のような日差しであった。
安履亭趾は高知市の朝倉の西郊、朝倉の町はずれにあって、木の丸神社と電車通りを
中に相対していた。
山を背負っていて山から流れ落ちる小溝が邸を巡ってちょろちょろと音たてていた。
邸の境界らしく山吹の花が垣根ふうに植えられて、咲けるだけ咲ききった姿で微風に
揺れていた。その山吹の花のたたずまいが、その一郭を邸あとらしく見せていた。
朝倉の婦人会で建てた「安履亭趾」の碑(いしぶみ)が立っている。
あたりは一面のれんげ畑で、その小溝の畔(ほと)りの水草の生い茂る岸に立って
いるとそこに膝をついて米を洗い、菜っ葉を洗ったであろう婉の姿が私の眼に
浮かんできた。
その翌日、私は県立図書館で当時館長をしていた中島氏から婉の直筆の手紙が図書館
に秘蔵されていることを教えられた。館長はそれを非常に大切にしていてなかなか
外来者には見せなかったそうであるが、仕合せにも私はそれを見せて貰うことが
できた。
十六通の婉の手紙はそのうち十四通が秦山(しんざん)に宛てたものであった。
この資料は谷子爵家(西南の役に熊本城に籠城した谷干城の家系)から出たものだと
いうことであった。この婉の自筆の手紙を見ることができたということが私と婉との
決定的な結びつきになったと思う。
大判の和紙に女としては強い立派な筆蹟で水茎のあとうるわしく記るされた
その手紙を私は人気のない静かな図書館の中で手帖に写した。
二百年を経た手紙は、紙が黄いばみ、雨もりのあとのような紙染(しみ)もあり、
紙魚に食われて欠字しているところもあったが、とにかく完全な形で遺されていた。
読みにくい変体仮名の文字を苦労して読んでいるうちに、私はそこに数奇な運命を
生きた婉のせつせつとした息づかいをきく思いがした。
生活の苦労をうったえ、思慕の思いをのべ、学問への憧れを述懐するその手紙の中
には私に思わずペンを止めさせるものがあって、信書の秘密を犯す思いを何度かした。
高知城の追手門内にある藤並神社(山内一豊を祀る)の奥に婉の生誕の地、野中家の
邸趾がいまもあるが、そのころはいまよりもずっと原形を止めていて鬱蒼とした林の
中に池のあとや井戸が残っていた。私はそこを婉のことを考えながら歩いた。
四歳の雛の節句に母や兄妹とと宿毛に配流(はいる)されるまで、婉はここに
生まれてここに育ったのである。
戦争が烈しくなった昭和二十年の五月、県立図書館は蔵書を疎開するため荷造りし
翌日は送り出すことにしていたその夜、空襲を受けて高知市街とともに全焼し
婉の自筆の手紙も焼失してしまった。これを知ったとき、私は前年のあの手紙との
めぐりあいを大切なものとして認識した。この日から婉はわたしの中で生きはじめ
十数年を経て小説「婉という女」はようやく生まれた。
戦争中、空襲と窮乏のなかで東京に最後まで頑張った私は、戦後の文芸復興の
なかで戦争中の無理のために二度にわたって重い病気をした。
回復して間もなく私がかねて探していた婉の父、兼山の資料がやっと私の手に
入った。
婉を書き始めたのは昭和三十四年の夏ごろからで、その年の三月末、土佐に帰郷し
土佐山田にある婉の作った祀堂(しどう・まつる意)や、舟入川の畔りの
兼山終焉の地を見にいった。
土佐によくある春の驟雨(しゅうう)の日で降ったりやんだりする雨の中で
咲きみだれたれんげや菜種の花が強くむせるような芳香を放っていた。
婉を書くときに私には歴史小説を書くという意識は全くなかった。
作家はいつの時代、いかなる人物に素材を借りても、結局は自分を描くことしか
できないものである。
それが小説というものの宿命であり、生命であると思う。
「日陰の姉妹」は婉の異母姉妹を扱ったものでこの作品はその終わりにあるように
婉の幽獄の地、宿毛を訪ねたときに生まれた。婉の幽囚を描くとき、私は自分の
青春の日の十年にわたる療養生活を思った。そのことは作家と作品とのあいだに
通い合うもうひとつの秘密な営みであったと思う。
婉の墓は、高知市の海の見える高見山の中腹にある。生前に彼女が建てたもので
真ん中に一番大きな父兼山の墓、左右に祖父玄番と曾祖父の墓、前方左右に婉とその母
池まさの墓がある。
母の墓石には表に「野中一明生母池代之墓」と刻み、その横に「哀女婉泣建立」と
彫ってある。
野中家墓地の一段下に、十七歳で兼山に殉死した古槇治郎八の墓と、最後まで婉と
ともに生きた乳母、信の墓がある。
幽囚のなかで死んだ男の兄弟たちと異母姉妹は配所の宿毛に眠り、婉と母と乳母とは
高知に眠っている。池まさと美濃部つまの墓はこうしてはっきりしているが、
公文かちややな女の墓は、わからない。
「婉という女」は昭和三十五年二月号「群像」に「日陰の姉妹」は三十六年「小説中央
公論(夏季号)」に発表したものであることを付記しておく。
1964年5月17日 著者
根木勢介 携帯:090-2825-2069
根木勢介 さんの記事・・・高知城その3: 兼山、婉 のプロフィール
今年も「高知」のことをひとつひとつ、勉強してゆきたいと思います。
「テーマ」が、突然別のことに飛んだりしますが、忘れてしまった訳ではありません。
●「はちきん」、「婉」について、Tさん、Yさん、Nさんコメント(返信)
ありがとうございました。
(皆さんに要請しているものではありません、よろしくお願いします。)
・「婉という女」はなんども読みましたが、「日陰の姉妹」はよんでいません。
たしか、「本妻」?とか兼山の奥さまの市さんの物語と一緒でした。
歴史より、真実に思える大原さんの小説にドッコンはまった一人ですが、
婉さんの真実の手紙があったことは初めて知りました。
兼山の邸跡がもっと残っていたら良かったのに惜しいこと。戦災ですね。
・えんの生母は、池きさではないでしょうか。
・それでは世界一の「はちきん」は 本日(12月30日)の高知新聞に掲載された
サッチャー元首相でなかろうか。
当時を思い出すと「鉄の爪」をもった凄い人物であり国家であると思った。
(記事参照されたし)
【余談(何処かの国も実力がないと何も言えないでしょうね)】
・女性解放関係ありと思いますよね。自立心が強い頑張りやさんが多いもの。
★根木の注)
・『えんの生母は、きさ?』:前回の「婉という女」のあとがきは、原文通りを
転記しました。
・婉さんの手紙は、一部残っているようです。
(土佐|人と風土・平尾道雄選集第三巻51p・紅林良治氏蔵、谷秦山宛の
写真が掲載されています。)
・大原さんは、「まさ」とされています。
また、最後の方で、大原富枝さんは、「哀女婉泣建立」と書かれていますが、
『「弧」哀女婉泣建立』がどうも正しいようです。
・今月、婉のお墓を訪ねる予定ですので①生母の名前、②「弧が前につく?」を
確かめて来ます。
■兼山と婉 の簡単なプロフイール:
●土佐の墓その2:山本泰三著 84pより
<84野中 兼山>
兼山は名良継、伝右衛門あるいは伯耆(ほうき)と称す。父良明(5千石家老・
一豊没後幡多3万石の約束が不履行で京都に出て没す)の長男。
幼時、父没し叔父益継(奉行職)を頼って土佐に帰り、直継(本山土居付き家老、
千七百石・奉行職)の養子となり、娘「市」を妻とした。
奉行職となり、寛文三年(1663)罷免されるまで約三十年間藩政を行い、
土佐藩初期藩政確立に尽力した。施策は独創性に富み土木・殖産等の大事業を
厳しく遂行した。失脚後、土佐山田町中野に隠居したが、四カ月のちに急逝した。
翌年野中家は改易になり、諸子は宿毛に幽閉された。
兼山の施策は、後代益々評価されている。
〇墓所:高知市塩屋崎 妙国寺西方、野中兼山墓道標から石段を登る
・野中傳右衛門良繼 (※兼山)
寛文三 癸(き)卯年(1663)十二月十五日(四十九歳)
・野中主計益繼 曽孫弧女婉植之
元和九 癸亥(1623)十月六日 六十二歳
・野中玄蕃直繼 孫弧女婉植之
寛永十三 丙子年(1636)十一月十八日 五十歳
良平―良明―良継(直継養子・市を娶る)
益継―直継―市(良継妻・墓は宿毛市安東家墓所)
遂継―信継―孝継・・・・太内
(※良平、益継、遂継は、兄弟)
〇野中兼山邸跡碑 高知城大手門(追手門)前
<85野中 婉>
婉は兼山の死の翌年(寛文四年・1664)四歳で遺族らと宿毛配流になる。
四十年後、男系が絶えて、元禄十六年(1703)婉四十四歳の時赦されて
朝倉に帰住。旧臣古槇弾七重中(重利孫)、井口段之丞正基の協力で土佐山田町に
祖廟を建て(宝永五年・1708)(現お婉堂)直継・益継・慈仙院等の墓も建てた。
医を業としながら、藩より八人扶持を給せられ嫁ぐことなく終わったが、兼山の
娘としての誇りを持ち続けた。
赦免後は、谷秦山に文通指導を受け、儒学・神道・詩文に通じ大家の域に達した。
〇墓所:高知市塩屋崎 野中兼山墓地内
・野中良繼之女婉 後號 安履亭
享保十 乙巳年(1725)十二月二十九日(六十六歳)
・野中清七一明之生母池氏 弧哀女婉泣植之丐(かい?)
宝永元甲申年(1704)冬十月十一日 八十二歳
〇野中兼山墓域改修碑 大正十年
大町桂月撰 島田實書
〇頌徳(しょうとく)之碑 昭和十年
佐々木金久撰 川谷廣次書
〇野中婉宅跡碑 朝倉神社前電停南側山麓
寺石正路撰 朝倉婦人会建 大正十五年
根木勢介 携帯:090-2825-2069
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根木勢介 さんの記事・・・高知城その4: 兼山は、土佐に仇たぬ人?!
野中兼山や婉のことをおはなしする時間があればいいですが、・・・。
●高知城 ひとくち知識:
<山内一豊の戒名・法名>
山内一豊[天文十五年(1546)~慶長十年(1605)9月20日]
・『大通院心峯宗伝(だいつういん しんぼう しゅでん)
意味:心の峯は宗を伝えて大きく通る
(こころの みねは むねをつたえて おおきく とおる)
山内盛豊の二男。尾張に生まれる。盛豊は織田信長に仕えていた。
一豊は信長に仕え元亀元年(1570)姉川の戦いで功をあげる。
のち、豊臣秀吉に属し、禄五百石を領す。天正九年(1581)妻の
貯えによって名馬を買いあげた。中国征伐に従い、毛利勢と戦う。
天正十一年(1583)には、若狭西県一万九千余石を領し、高浜に
住む。
ついで秀次に属し、長浜三万石を領す。同十八年(1590)には小田原
征伐に従い、その功によって東江国掛川城主となり、五万石を領す。
慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いには東軍に属し、この功で
土佐国二四万余石に移封され土佐守に任ぜられた。
翌六年(1601)九月から高知城を築城し同八年(1603)に移る。
墓地:高知市 真如寺(曹洞宗)
『「婉という女」で大原さんは、兼山のことを「土佐に仇(あだ)たぬ」人だった
のでは?』、というように描いています。
面白い見方だと思いますので、以下紹介しました。
・・・。
それにもましてわたくしが心に止めて、きいた一つの話があった。
それはわたくしの夢にも考え及ばなかった、恐らく兄上さえも一度も想像する
ことのなかったにちがいない、愕然とする内容(はなし)であった。
「お奉行様は不運なお方でございました。ご器量が大き過ぎたのでございます。
土佐一国には大きすぎる器でございました。」
と老人はいうのであった。
――もしも殿様が剛腹な方であられたなら、お奉行様は殿様を幕府の枢機に参画
おさせして、背後から日本国中に思うさまお仕置き(政治、経綸)の腕を振る
われたにちがいございませぬ、そのときにはお奉行様のいわれる、学問をこの世
に活かした見事な哲理の国が生まれたにちがいございませぬ、お奉行様ほどの
器量人は当時も今も江戸には一人もおりませぬ、殿様に度胸と肚(はら)の
なかったことがかえすがえすも不運でございました。
身を容れるには小さすぎる土佐に屈居して、才腕器量が溢れて、小人どもの嫉視
(しっし)中傷に足をすくわれなされたのでございます、と老人は歎く。
江戸幕府にどのようなすぐれたお役人衆がいられ、どのような政治が行われて
いるものか、勿論わたくしにはわからない。
けれども十六歳まで人質として江戸に育った兄上のお話では、大御所様という
お方は無類の遠謀深慮、諸大名方の裕福になることを常に抑え、わが子孫を盤石
の安泰に置くことを念願されたので、太閤様の遺臣どものうち、名だたる伊達さま
はじめ気骨ある大名方もことごとく、骨抜きにされておしまいだという。
父上失脚の一面の理由(ことわり)として、土佐二十四万石を石高三十余万石に
導いた目覚ましいお仕置きぶりが、幕府の不興を買ったのだということがあるのを
みても父上がもしも幕府に参画されたとしたら、その運命は更に大きな悲劇を
招いていたのではあるまいか、とわたくしは愕然としたのであった。
(婉という女・大原富枝著・72pより)
根木勢介 携帯:090-2825-2069
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根木勢介 さんの記事・・・「牧野富太郎伝 草木の人」演劇のお知らせ
「県庁おもてなし課」の映画化や「吉田茂さん」のドラマなど高知県にとっては、
観光面でもうれしいニュースが続いていますね。
土佐観光ガイドボランテイア協会では、さっそく吉田茂コース(城西館経由コース)
を設定して観光面に一役買おうとしていますね。
そういえば、高知龍馬空港の吉田茂銅像の移転は、進んでいるのでしょうか。
さて、牧野富太郎の演劇が、いよいよ今月29日にあります。
(添付のチラシをご覧ください。)
今年は、”龍馬脱藩150年”の年でもありますが、牧野富太郎博士の生誕
150年の記念すべき年でもあります。
何年か前に、高知県で初めて「牧野富太郎」の演劇に取り組んだ劇団the・
創(そう)、その皆様による牧野富太郎については、2回目の公演です。
脚本・演出の西森良子さんが、「牧野富太郎」をどのように描くのか、興味津々
です。
皆様もぜひ、ご覧になってください。
ふるさと佐川を愛し、土佐を愛し、植物を愛し、また人間を愛した人でもある
牧野富太郎。牧野博士から、学ぶことがたくさんあります。
ジョン・万次郎を映画化する運動が、起こっているようですが、「牧野富太郎の
映像化」も進めたい、と思っています。
これまでに牧野富太郎の映画やドラマ化はありません。
辰巳柳太郎時代の「新国劇」で一度公演があって、それ以降は、今回の
「劇団 the創」さんによる演劇があるのみです。
根木勢介(牧野富太郎を映像化する会)
携帯:090-2825-2069
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根木勢介 さんの記事・・・吉田茂:その②娘和子の証言・相続財産1
吉田茂のテレビドラマがもうすぐ始まるそうですね。
以前、吉田茂の義父の出身藩・福井藩のことを紹介しました。
茂の義父・吉田健三は、明治22年・40歳で亡くなり、莫大な遺産(50万円)
を残したが、茂が全部使った、と言われている。
莫大な遺産を現在の円に換算すると@8,000円/一円として40億円?!
<莫大なその遺産は、いつまで残っていたのか?>
「父吉田茂」:麻生和子著 光文社知恵の森文庫 55pより
●麻生和子:1915年、5月13日吉田茂・雪子夫人の三女として中国・
安東に生まれる。聖心女学院、ローマの聖心女学院を経て、ロンドン大学で
学ぶ。1938年、麻生太賀吉と結婚、三男三女をもうける。
長男は、衆議院議員・麻生太郎、三女は寛仁親王妃信子殿下。
1996年逝去。(以上は、文庫本の筆者紹介による)
・・・。
もともと外国へのあこがれや興味があったかどうか、そんな話もとくに
聞いていませんが、父(茂)が育った吉田の家が海のむこうの国を向いた
商売をしていたために、子供のころから外国の話を聞きながら大きくなったの
だろうということはありそうです。
父の父、吉田健三は福井の藩士の家に生まれています。十いくつかのときに
長崎に出て英語を学び、幕末のころには英国の軍艦に乗せてもらって、上海から
シンガポール、ヨーロッパ、アメリカと見聞を広め、日本に帰り着いたのは
明治になってからでした。
日本にもどった吉田健三は横浜のジャーディン・マジソン商会に入り、海外
からの商品の買い付け、また日本の物産の輸出というような、いわゆる商品
取引の仕事に抜群の商才をあらわしたのだそうです。扱った商品は軍艦から
生糸までというのですから、いまでいえば商社マンでしょうか。
ジャーデイン・マジソン商会から独立した吉田健三は、いくつもの事業をおこし
、そのことごとくが成功して、40歳の若さで病死するまでに一財産を築き
あげています。
吉田健三が亡くなったときに、父はまだ十歳くらいだったといいます。それで
その年端もいかない少年が、吉田健三が一代で築いた財産をそっくり相続したと
いうのですからたいへんなお話です。
さて、このとき父が相続した財産は、一説によると当時のお金で50万円、いまの
貨幣価値に直すと数十億円に相当するといわれています。
父がお金持ちだったという話はよく聞いていましたが、私自身は金持ちの家の
娘という気分は全然味わったことはないのです。
むしろ、海外に出るたびに父は借金をして、日本にいるあいだにそれを返し
、また出るとまた借金をするというくりかえしでした。そのまえにあったはずの
財産がどこにいってしまったのか、ほんとうにふしぎで、一度聞いてみようと
思っていてとうとうきかずじまいでした。消えてしまった吉田家の財産の
行方については、これから先もずっと謎のまま、ということになるのでしょう。
そうはいっても、あったはずの吉田の財産をきれいさっぱり使いはたしてしまった
のはまぎれもなく父だったでしょうが、その父はじつは吉田家の養子でした。
◎このあと、実父竹内綱の話になりますが、続きは次回にでも。
この前の「全国龍馬ファン集い」に参加された方、お疲れ様でした。
いよいよ、滋賀・福井行きも迫ってまいりました。
それでなくても、11月は行事の多い月ですね、体調に気をつけましょう。
今日の「龍馬の手紙を読む会」で越前藩にお金を借りるはなしが、出ました。
それに関係する話を以下と次回に展開します。
◆幕末福井藩の財政状況のこと:由利公正や岡倉天心実父の活躍
<シリーズ藩物語 福井藩 舟澤 茂樹著>p163~より
【富国の方針】
まず深刻な藩財政の窮乏の実態を明らかにしておきたい。
藩主春嶽は就任6年後の弘化元年(1844)頃から藩政改革に着手するが
当時の財政史料(松平文庫)によると、累積した借財総額は95万8454両に達して
いた。それでは当時の福井藩の歳入額はどれくらいであったのであろうか。
時代は少し下るが、「安政元年御本立凡積(ごほんだておよそづみ)」によると
歳出が8万7946両で、2万2470両の赤字とあるから、歳入はおよそ6万
5000両ということになる。藩財政は歳入の15倍ばかりの借財を抱えた深刻な
状況にあったのである。
藩政改革の重点は、まさにこの財政窮乏を克服することにあったといえる。
その方法として、従来の専売制への依存から脱却する、産業振興策の模索が始まった。
安政3,4年(1856,7)ころ、橋本左内が掲げた積極的貿易策はその方向を
示すものといえよう。左内は、蘭学を学び海外事情にも精通していたが、その頃下田で
始まった米国総領事ハリスとの交渉から、開国に向かう幕政の気運をも察知していた。
左内は藩に対する建議などによって海外交易の利を唱導していた。この交易論に共鳴
したのが由利公正(当時三岡八郎)で、通商条約調印後を目指して準備にかかっていた。
ところが、その条約発効直後の安政6年10月、左内は後述する将軍継嗣問題に
かかわったことで、幕府によって処刑されてしまった。由利は理論的指導者を失って
その出鼻をくじかれるが、やがて左内に代わり指導することに
なるのが、横井小楠であった。
横井小楠は、安政5年4月、教育顧問として福井藩に招かれていた。
やがて彼は藩首脳と藩政の基本政策について協議し万延元年(1860)に
「国是三論」をまとめている。その富国論の骨子は次の通りである。
交易によって民を豊かにすることが「富国」の大前提で、領民が富むことこそが、
藩(国)が富むことになる。そのためには、領民が生産物を商人に買い叩かれない
ように、藩営貿易がなされるべきである。藩がその利益を貪らなければ、生産者で
ある領民に冨が蓄積される。さらに民を豊かにするためには彼らが増産に励むことが
必要だが、その元手となる生産資金は藩が無利子で融資しなければならない。
その資金の調達方法として藩札(紙幣)を発行する。仮に一万両の藩札を
領民に貸し付け生糸を生産したとする。その生産物を開港場で売却すると
正金一万一千両が得られる。かくして藩札(紙幣)が正金に変わった上に、
さらに1000両の利益が得られる。藩は、その正金を生産販売に充当すれば
必ずや藩財政は安定する―というのが横井の富国策の骨子であり、我が国が
初めて国際貿易を始めるという状況下にあって、産業資金の融通で商品を生産し
、海外交易によりその成果を確実に収めることができる具体的な方法を
明示したのであった。
小楠の理論を現実の施策として実践したのが、経済担当の由利公正らである。
安政6年には産業資金として藩札5万両の発行を決定、藩営貿易の拠点として
”物産総会所”を開設した。当会所は、福井城下九十九橋北詰めの藩札元締め
駒屋方に設けられた。
物産総会所に集荷された産物は、横浜・長崎の藩営商社を通じて海外に輸出された。
福井藩の横浜商館石川屋には、岡倉天心の父に当たる岡倉覚右衛門が送り込まれた。
岡倉は、”制産方下代”という下級武士であったが、算盤の才能を見込まれ藩命に
よって商人となり、越前屋金右衛門と名乗る。福井藩をバックに越前の生糸・
紬(つむぎ)・紙・茶などを海外に輸出した。横浜に次いで長崎にも福井屋を
出店した。福井城下商人の三波波静が、藩の支援のもとに生糸の輸出を
行ったのである。
福井藩の商品生産は活気づき、生糸・布・木綿・茶・麻等が盛んに産出された。
由利の伝記によると、文久元年(1861)に長崎から輸出された生糸だけでも
25万ドル(100万両)の販売実績を上げたという。
かくして春嶽の代において着手された経済再建策は、茂昭の代に軌道に
のったのであった。
※岡倉天心:文久二年(1862)福井藩の横浜商館の経営に当たっていた
覚右衛門の長男として、横浜商館にて生まれる。明治期美術界の
指導者。本名は、覚三、天心とする。大正二年(1913)没。
幕末の福井藩が、生糸でめざましい業績を上げたように維新後、生糸などで
横浜有数の実業家となったのが、福井藩士の吉田健三(茂の養子先の養父)。
◆吉田茂と福井藩の関係:以下を参照ください。
次回は、その②「坂本龍馬の福井訪問:お金を借りた話は、本当?!」
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根木勢介 さんの記事・・・吉田茂:その③娘和子の証言・茂実父
最近、「男と女の違い」について、なかば納得させられたことがあります。
ある団体のボランテイア仲間のNさんに言われたのですが、
『プラモデルなどに夢中になるのが、男。女は、プラモデル完成品には、興味を
示しても、プラモデルそのものには、関心を持たない』
そうだ。
家のカミサンに聞くとその通りだそうです。最近、ボランテイアで組み立て品を
考案して「悦」にいっている自分としては、悔しい・残念な気分です。
さて、吉田茂の写真を見ていて以前から不思議に思っていたことがあります。
「メガネ」なのですが、吉田茂は”鼻眼鏡”をかけているそうですね。
<父吉田茂:麻生和子著・光文社知恵の森文庫>p251、57pより
●おしゃれ、鼻眼鏡
・・・。
鼻眼鏡はローマ時代(イタリア大使)からだったと思います。
洗濯ばさみみたいになっていて、鼻筋にはさんで留めるようになっています。
使い慣れれば、つるがない分うるさくないのでしょう。
父の白足袋もずいぶん有名になりました。貴族趣味だといわれたりも
していたようですが、私どもではみんな白足袋を履いていましたからとくに意識
したことはありませんでした。
むしろ紺足袋のほうが、洗っているうちに色が落ちてしまって洗濯がききません。
白足袋ならいくら洗濯してもだいじょうぶですから、かえって経済的です。
父の足の大きさは、九文半でした。男の人としてはかなり小さいほうでしょう。
一度にあつらえた足袋をたくさん持っていましたが、亡くなったときに
このサイズでは他に合う人がいなくて始末に困りました。
靴のほうも、イギリスにいるあいだは注文して作らせていました。旅行先で
靴屋に入るといつも子供靴の売り場に行けといわれるので、これには父も
憤慨していました。
・・・。
●実父と育ての母
・・・。
父(吉田茂)の実父は竹内綱(たけのうちつな)といって、高知県宿毛(すくも)
の出身の自由党の志士でした。この竹内綱という人もたいへんおもしろい人物
だったらしく、幕末から明治へかけての混乱期に、土佐、高知を舞台に大活躍を
したのだそうです。
父は竹内綱の五男でした。ちょうど父が生まれようとするころ、父親の竹内綱は
西郷隆盛の鹿児島挙兵に際して、頼まれてドイツ製の小銃を横浜のジャーデイン・
マジソン商会に発注したという嫌疑をかけられ政治犯として新潟の監獄に
ほうりこまれていました。
大久保利通が暗殺された直後でもあり、薩長を主流とした時の政府にとって、
高知出身の竹内綱のような存在は、東京から遠ざけておくにかぎるということ
だったのでしょう。
竹内綱と横浜の吉田健三は親友の間柄で、吉田に子供が一人もなかったため
かねてより、
「今度生まれる赤ん坊が男の子だったら、キミに養子にあげよう」
「よし、もらおう」
という約束ができていたのだといいます。
そんな相談をしているときに竹内綱は牢屋に入れられてしまい、吉田健三は
残された竹内の家族、もうすぐ生まれる竹内の妻を親身に世話しました。
「そのとき、生まれてきたのが玉のような男の子で」
と、これは父が自分でいっていたのですが、その玉のような赤ん坊は約束通り
吉田にもらわれ、大事に育てられたのだといいます。
父を育てたのは吉田健三の妻、養母になるわけですが、この人は佐藤一斎(さとう
いっさい)という幕末の有名な儒学者の孫娘で士(こと)といいました。
たいへん聡明な人だったようで、父はこの養母にずいぶんかわいがられて育った
ようです。
「あんなにきゃしゃなばあさんが、しょっちゅうおれをおんぶして学校から帰った。
よくおぶって帰ってきたなあ」
と、父は懐かしがっていましたから、祖母は父のことをずいぶん甘やかして
育てたのだと思います。
吉田の祖父が早くに亡くなったのち、祖母のほうが長く生き、父は祖母を
お芝居に連れていったり、訪ねていくといつもなんだかとても親しそうに
話していました。
父自身、自分が養子であることを十七になるまで全然知らなかったと
いうのですから、まずまず幸福な子供時代だったのでしょう。
・・・。
◎麻生和子さんのもう一人の祖父は、牧野伸顕。曾祖父は、大久保利通です。
吉田一家では、大久保利通はどのような人だったのでしょうか。
続きは、次回にでも。
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根木勢介 さんの記事・・・イーハートーブ農学校の賢治先生
最近、いい本・欲しかった本、を何冊か見つけることができて、たいへんうれしい
気分です。
その中のひとつ、宮沢賢治が好きな兼松さんにぜひ読んでほしい本を紹介します。
。
●「イーハートーブ農学校の賢治先生」(作:魚戸おさむ、小学館発行・2010年
9月発行・原案監修:佐藤成)です。
大正10年(1921年)25歳
12月3日岩手県稗貫農学校(後の県立花巻農学校)教諭に就任
大正11年(1922年)26歳
2月 「精神歌」を作る
9月 生徒5~6人と岩手山登山
11月27日 妹トシ死去
大正12年(1923年)27歳
1月 上京、原稿を弟・清六に託して出版社に持ち込ませるが
出版を断られる
7~8月 樺太旅行
大正13年(1924年)28歳
4月 心象スケッチ「春と修羅」を自費出版
5月 生徒と北海道修学旅行
8月 「飢餓陣営」、「植物医師」、「ボランの広場」、「種山ヶ原の夜」
を生徒たちと上演、一般公開
12月 「注文の多い料理店」刊行
大正14年(1925年)29歳
4月 同僚の白藤慈秀と「松並木討論会」を行う
(この年、賢治の発案により花巻農学校に楽団誕生)
大正15年、昭和元年(1926年)30歳
花巻農学校を依頼退職
宮沢賢治37年の人生の中で、上記年表・稗貫農学校の4年4カ月(25才~
30才)を描いた作品です。
農学校の教師として心血を注いだ・また充実した時期で彼の作品の約7割が
この時期に書かれているそうです。
才能豊かな人だったでしょうが、「宮沢賢治像」が、「理想的」に描かれすぎて
いるキライはありますが、いい本だと思います。
『多面多才の人・宮沢賢治』として捉えられ、①詩人であり童話作家、②熱心な
法華経信者、③勉強家、④ユーモリスト、⑤ボランテイア、⑥ナチュラリスト、
⑦鉱物が好き、⑧農作業を積極的に実践、⑨草花を愛した(花壇も設計)、⑩
音楽愛好家、⑪生徒思い、⑫ハイカラ、⑬教育者、⑭農学校の舎監、⑮演劇を
奨めた、など枚挙にいとまがありません。
なにはともあれ、生徒たちに信頼され・尊敬された先生であったことは、
想像できます。
生徒のために・人のために何ができるか、それを常に考えた人なのでしょう。
兼松さん、たからちゃんネットの皆さん、ご一読ください。
<根木のため息:『牧野富太郎にもこのような本が欲しいなあ!』>
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根木勢介 さんの記事・・・吉田茂:その④娘和子の証言・大久保利通
最近、いい本をブック・オフで見つけました。
マンガ本ですが、宮沢賢治のことがよく理解できます。
牧野富太郎にもこのような本が、出て欲しいものです。
(南方熊楠には、水木しげるが書いた本があります。)
◆イーハトーブ農学校の賢治先生:作 魚戸おさむ・原案監修 佐藤成(小学館)
皆さんは、スイカはどのようにたべますか?
上記の本の中に、宮沢賢治の「スイカの食べ方」が出て来ます。
宮沢賢治のスイカの食べ方は、一風変わっていた。
笹竹のストローをスイカに突き刺し、中身を吸い取るのだ。
農学校のスイカも毎年、百個のうち三十個ぐらいは、中身を
吸い取られ、がらんどうだった。
すべて賢治の仕業だった。
『スイカは こうやって食うのが、いちばんうめ!!』
実は、この賢治と同じ方法でスイカを食べていた人がいます。
宮沢賢治に倣ったのでしょうか。それとも、偶然?!
子供時代といえば、あるとき、
「スイカを割らずに食べる方法を知っているかい」
と父が私に聞きます。
「知らない」
というと、
「ムギワラを突っ込んで吸い出すと、甘い中味だけ吸い出せる」
と父は得意そうな顔をしています。
(父吉田茂:麻生和子著・光文社知恵の森文庫59pより)
※上記の父は、吉田茂さんです。
麻生和子さんは、吉田茂の三女。麻生太郎元首相のお母さんです。
●さて、吉田家では「大久保利通」をどのように思っていたのでしょうか。
<父吉田茂:麻生和子著・光文社知恵の森文庫 161pより>
・行ったり来たり
戦争が終わってまだまもないころ、祖父牧野伸顕が、
「せっかくわれわれが苦労してここまでつくりあげた国を、こんなにしてしまって」
とポツリとつぶやいたのを聞いたことがあります。
祖父にしてみれば、父親の大久保利通をはじめとする幾多の人々が、文字どおり
命をかけて築き上げた近代日本が目の前で焦土と化したわけですから、さぞかし
悔しく残念だったことでしょう。
その大久保利通は私には曾祖父にあたりますが、じつはこれだけ有名な人物でも
私の代になるともう歴史の本に書かれている以外のことはなにも知らないのです。
あるとき、本の中に出てくるこの人物が、ひじょうに理知的であってもなんとなく
冷たい人のように感じられて祖父にそのことをいってみたことがあります。すると祖父は、
「いや、そんなことはない。たいへんに情け深い人だった」
といいました。
大久保利通の人となりが実際にどうであったのか私にはよくわかりませんが、偉い人で
あったことはたしかなのだろうと思います。明治という時代は、本当に偉い人たちが、
たくさん集まっていたという気がします。
父にとって牧野の祖父は、明治という時代をつくりあげてきた大先輩のひとりでしたから
、岳父である以上に崇拝していたと思います。
一方祖父の方はというと、父という人間を好きでしたし認めてはいましたが、それほど
偉い人だと思っていなかったのではないかという気がします。
父が総理大臣になったときに、祖父はとても心配して、
「だいじょうぶかね」
と首をかしげていました。
私としてもまったく同感でしたので、思わず、
「私もそう思うわ」
といって祖父と顔を見合わせたものです。
・・・。
◎吉田茂は、高知県を「選挙区」としたわけですが、それについての
エピソードを次回にでも。
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根木勢介 さんの記事・・・吉田茂:その⑤娘和子の証言・高知県選挙区2-2
いよいよ今日から吉田茂のテレビドラマが始まりますね。
NHK総合 午後9時から~10時15分。「負けて、勝つ」渡辺謙が吉田茂、
さて、和子さんは、誰でしょうか。
最近、私の長男のことが家族で話題になりました。
長男が、
「仕事や勤めている会社での”愚痴”を話しているのを聞いたことがないネ」
と、言う話です。
私や他のこどもはいわゆる”愚痴”をよくこぼす性質(たち)なのです。
愚痴自体は、決して悪くない、と思っています。
愚痴をこぼす、ことによって、自分の感情をコントロールできし、愚痴は、
一種の「感情のはけ口」だと思います。
この長男について親として、少し心配するのは、愚痴をこぼさないことが感情を
押さえて(抑えて)いて、それがいつか「爆発」するようなことにならないかが、
気懸かりです。
実は、吉田茂さんは、私の長男のような性質(たち)だったようです。
<退陣>
政治の世界の裏の面というのしょうか、闇の部分でずいぶん苦労もしたと
思うのですが、父のいいところは、あとで悔んだり恨んだり、愚痴をいったりと
いうことがまるでなかったことです。
あいつはいやなやつでこんなことをしたとか、あんなことをしたとかと
いうことを父は決していわない人でした。
ですから、誰かにだまされたというようなことがあっても、一度終わったことは
終わったこと、もうあれは忘れちゃったなどといって、さっぱりしたものでした。
自分のまちがいにたいしても、しまったと思えばやり直せばいいといって
いましたし、なにか問題が起きたときにも、おまえがそのことをいわなかった
からだとか、こういうふうにすればよかったのだとかは、みごとなほどひとことも
いいませんでした。すんだことをぐずぐずいうのは潔くないと思っていたので
しょうし、もともとすっきりした性格でもあったのでしょう。
子供のころ、
「女はいつまでもくよくよしているからいやだ」
と父にいわれて、男に生まれればよかったと思ったのをおぼえています。
・・・。
(父吉田茂:麻生和子著・光文社知恵の森文庫231pより)
<父吉田茂:麻生和子著・光文社知恵の森文庫 170pより>
・選挙
(24年9月6日の続き)
・・・。
さて、選挙のためにいよいよ高知に出向く段になって、父が私にいっしょに
来ないかといいます。
・・・。
選挙運動といえば立候補者の演説と決まっていますが、あいにく父は演説が
苦手でしたし、実際に父の演説を聞いてあまり上手だと思ったことはないのです。
自分の話をするのをいやがりますし、天下国家を論ずるだけで、説得力というのも
あんまりなかったような気がします。
本人自身が大向こうを相手に演説をして、自分のいっていることで聴衆をひきつけよう
というようなことをほとんど考えたことがなかったのではないかと思います。
・・・。
父の演説の内容で記憶に残っているのは、
「日本は早く一本立ちになって、外国と肩を並べて話ができるようにならなければ
だめだ。そのためには、とにかく早く立ち直らなければならない」
というようなことでした。
父が演説が苦手でしたので、林さん(林譲治)たちは、その日の行程であらかじめ
三カ所くらい、どことどこでご挨拶願いますということを決めていました。
けれどそのときの様子で、途中に人が大勢集まっている場所があれば、当然
そこで「ちょっとなにか挨拶をしてください」ということになります。
ところが父はそれがいやなのですから困ったものです。
不承不承出ていって、
「吉田茂です」
といっておしまいです。
よろしくでもなければ、お願いしますのでもないのです。
予定の場所で一応いうことを決めて演説に臨んでも、なんとなく雰囲気が気に入らない
とやっぱり、「吉田茂です」のひとことで終わってしまいます。
父にしてみれば、立候補するにあたってぺこぺこ頭をさげてまわる必要などさらさら
ないと思っていたのでしょう。たしかに選挙は、立候補者がなにを考えているのかを
ひとりひとりの選挙民が自分で判断して一票を投じればいいものですから、たのんで
まわる必要はないという父の考え方もひとつの見識かもしれません。
これが自分の父親でなければなかなか愉快なはなしだと思うところですが、
こちらは 立候補する以上なんとか当選させたいと思って、しんどい思いをしながら
いっしょに選挙区をまわっているのです。
親身に手伝ってくれている人たちのことを考えても、このときの父の態度にはほんとうに
腹がたちました。
あまりの知らん顔にいいかげん憤慨しましたが、
「もっとなんとかならないの」
というと父は、
「注文どおりにいきゃしないさ」
と涼しい顔をしています。あきれたものです。
父がこんな調子でしたから、そのうちこっちにお鉢がまわってきました。私に応援の
演説をしろというのです。
・・・。父の態度に負い目もありましたから、泣く泣く引き受けて演壇に立ち、とにかく
持たされた原稿を読み上げていくと、父をほめて歯の浮くようなことばかりが
書いてあります。
途中でばかばかしくなり、原稿を読むのをやめ、
「父はつむじまがりの頑固者だという定評がありますけれども、あなたがたもやっぱり
つむじまがりで頑固でいらっしゃるでしょうから、同病相哀れんで、
一票投票してください。」
といったところ、会場が大笑いになりました。
・・・。
高知市内で街頭演説をしたときに、コートを着たままで演説をしていた父に、
「外套をとれ」と
野次が飛ばされたことがありました。
それにたいして父が、
「外套を着てやるから街頭演説です」
と答えたところ、聴衆から大拍手がわきおこりました。
父の気質と高知の気風は妙にあっていたのかもしれません。
・・・。
◎次回は、「政治資金」をどのように工面していたか、についてでも。
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根木勢介 さんの記事・・・吉田茂:その⑤娘和子の証言・高知県選挙区2-1
仕事をしていた現役のころから、内山節(たかし)さんのフアンの集まりでも
ある、「哲学塾東京分校のようなもの」に年一回参加して来ました。
ここ数年は、母の葬儀などがあり、参加できていませんが、その内山さんから
奥さんは竹内綱と関係あるとお聞きしました。内山さんの奥さんは、竹内静子さん
といい,著作もある人ですが、4年ほど前に亡くなられました。
奥さんの生前は、よく宿毛にもお墓まいりなどで高知へ行っていたそうです。
「宿毛は遠い」、とこぼしていました。
どこにどのような「縁」があるかわからんもんですね。
内山さんには、竹内家(竹内綱)と大石家(大石弥太郎)が姻戚関係にあるとの
研究結果が出ていた土佐史談会の本を”おみやげ”代わりにあげたことがあります。
●さて、吉田茂と高知県との関わり(関係)ですが、その前に略歴を
高知県人名事典から拾ってみました。
<吉田茂:1878~1967年>高知県人名事典911p・主要部分を抜粋
・総理大臣 明治11年9月22日東京神田区駿河台生まれ
・竹内綱、タキの五男、明治14年吉田健三の養子となる
・明治30年学習院を経て、39年東京帝国大学法学部を卒業
・戦前は、中国やイギリス、イタリアなどで外交官歴任
・戦後昭和20年東久邇(ひがしくに)内閣の外務大臣、
次の幣原内閣も留任
・21年自由党総裁・鳩山一郎が組閣直前追放されたあと、同党
総裁となり、5月第一次吉田内閣を組織して総理大臣と終戦中央事務局総裁を
兼ねる。
22年辞職、社会党に政権を譲ったが、23年再び第2次吉田内閣を組織し
総理大臣兼外務大臣、24年第3次、27年第4次、28年第5次と
わが国では初めての組閣回数を重ねた。
・その間衆議院議員に高知県全県一区から出馬して7回当選。
・29年内閣総辞職をし、組閣5回、前後7年2か月の吉田政権は、終わりを
告げた。
・昭和42年10月20日病没 89才。31日東京千代田区日本武道館で
戦後初めての国葬が行われた。
・嗣子は評論家の吉田健一。
※竹内綱の読み方:上記高知県人名事典では「たけうちつな」となっています。
ただ、下記の麻生和子さんの本では、「たけのうちつな」のふりがなに
なっています。
麻生家では、「たけのうち」のお家・・・、とか呼んでいたのでしょうか。
<父吉田茂:麻生和子著・光文社知恵の森文庫 168pより>
・選挙
父とマッカーサーとが制定をいそいだ新憲法は昭和21年の秋に公布され、
翌年の4月には新憲法下はじめての総選挙が行われるはこびになりました。
思いもかけないなりゆきから総理大臣になるまで、父は、自分が選挙に
打って出る日がくることなど考えもしなかったのではないかと思います。
それでも自由党の総裁であり総理大臣である以上、とにかく国会に
議席を持たなくてはなりません。そう心を決め、生まれてはじめて衆議院に
立候補するにあたって、最初の問題はどこから立候補するかということでした。
真っ先に父の頭に浮かんだのは高知だったようです。
高知は父の実父の竹内綱の出身地でしたし、竹内綱自身も、父の実兄にあたる
竹内明太郎も、戦前の帝国議会の衆議院議員に高知県から立候補して
選出されています。
そうした縁をたどれば高知県から出るのがいちばん自然でしたが、神奈川県
から出馬してはどうかと親切にすすめてくれるかたがあり、父はその提案にも
心を動かされたようです。
父の回想によれば、このとき林譲治(はやしじょうじ)さんに相談して
みたところ、神奈川だったら冠婚葬祭全部をいかなくてはならないけれど
、高知だったら遠いからそんなことをしないですむ。
遠ければ選挙民がしょっちゅう訪ねてくることもないだろうから、
父の無愛想が目立たなくてすむというようなことをアドバイスされたようです。
選挙区に愛想をふりまくといったことは父のもっとも苦手とするところでしたから
自分でもなるほどと思いあたる節があったのでしょう。父は高知県からの出馬を
決めました。
高知と決めたものの、ここはひじょうにむずかしい土地柄だという話も耳に
していました。たしかに高知県人にはかなりのへそまがりが多く、現職の
総理大臣というだけで大歓迎して迎えるという気風ではありません。
父のほうにしても、東京は神田で生まれた本当の江戸っ子だと威張っていたのが、
突然高知から立つことになり、
「滑稽だよね、にわか高知県人になっちゃうんだから」
と自分でいって笑っていましたから、へそまがりではいい勝負だったかも
しれません。
高知でのいわゆる選挙運動は、やはり高知から出ている林譲治さんが中心と
なって段取りをつけてくださることになりました。
林さんは父の遠い親戚にあたるそうです。
戦前からの自由党の議員で、吉田内閣では書記官長をつとめておられました。
(次回に続けます)
◆以下は、吉田茂について、いただいた感想です。
ありがとうございました。
・宿毛出身の私は、大変興味深く読ませていただきました。
吉田茂のワンマンぶり以外の知られざる素顔が垣間見られて、興味深かったです。
・凄いご一家ですね。
根木勢介 携帯:090-2825-2069
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