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mitakeつれづれなる抄

普段いろいろ見聞き感じ考え、そして出かけた先で気になることを書き綴ったブログです。

一宮市で「スマーターシティ」・ITで一宮活性化

2012年10月25日 | デジタル・インターネット

20121025ichiminit  今日の中日新聞朝刊尾張版に面白い記事がありました。見出しは「ITで一宮活性化計画」と毎度の題ですが、「一宮を元気にする会」という会があって、IT技術を駆使して都市の効率化を計るなどする、「スマーターシティ」を立ち上げるとのこと。11月1日の新駅ビルオープンが好機とのことです。

 詳しいことは記事をスキャンした画像を見ていただくこととして、この「スマーターシティ」とは日本IBMが提唱している、IT技術を用いて効率的で暮らしやすい都市運営の概念、だそうです。

 要は、無駄に行ったり来たりして余計にエネルギーを消費させることなく、事前に得た情報で一発で決めるとか。例えばが一つしか出ませんでしたが、そんなところなのでしょう。

 その発足説明会が、新駅ビルオープンの11月1日に駅ビル内のホールで行われ、IBMから説明があるそうです。市民40~60人と修文大30人とあり、直接私に関わる話ではなさそう。でもシステムとしてはこんな構想、興味はあります。

 ただ、「ITのために動く」のでは本末転倒。あくまで暮らしの中にどう入れるのか。中年~年配者の中には絶対拒絶される方もいますからね。便利だから全部移行ではダメです。得とく方法の一つがIT(Information Technology)であると思います。


京都の高瀬川一之船入・模擬の高瀬舟を撤去へ

2012年10月25日 | 京都

 10月23日の京都新聞web版記事からです。23日ですが日付替わる直前でした。京都市の鴨川西側を流れる人工河川の高瀬川。この史跡「一之船入」そばに係留されている模擬船が撤去されるのだそうです。撤去日は25日で今日。実行されたのだろうか。
記事→http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20121023000097

 高瀬川は、江戸時代初期に角倉氏により造られた水路で、近世の京都で、淀川を経て物資の運搬に利用されていました。その高瀬川から水路が引き込まれた船溜りが何箇所かあり、その一つが一之船入(いちのふねいり)。高瀬川でも最北部にあり、ここから南へ全部で9箇所の船入がありましたが、現在もそれらしき痕跡を残すのはこの一之船入だけで、当時の船運を連想させるように、模擬の高瀬船(高瀬舟)が高瀬川に係留されています。

 しかしこの高瀬川は石を並べたり組み合わせたりの水路で、近年水漏れがあるらしく改修工事を始め、そのために係留している船を移動させようとしたところ、想像以上に老朽化が進んでおり、いたずらに動かすと壊れてしまう恐れであるとのこと。

 重機を使うには桜の木を少し伐らねばならず、そのため景観に配慮で模擬船の撤去を決めたとのことです。

 現在の船は1984年に造られたもので、全長11m、幅2m。ただ飾ってあるだけかと思いきや、毎年9月の保勝会の祭りでは、人が乗って記念撮影を行ってきたそうです。動きはしないけど、あの船に人が乗ったことあるんですね。

 この高瀬川などは近世京都の歴史に出てくるものです。いずれブログで紹介しようと写真を撮っていましたが、記事にする機会が来ないまま、船が無くなってしまいました。

 模擬の高瀬舟です。水路に浮かんでいるのがその船。

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 こちらが一之船入の跡。高瀬川から引き込まれているものです。手前の船が模擬の高瀬舟。

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 2014年は高瀬川開削400年。その時までには新しい高瀬舟を造りたいとしており、寄付を募るとのこと。


祇園祭山鉾巡行・2014年から後祭復活

2012年10月24日 | 京都

 本日の京都新聞web版記事からです。毎年夏の風物詩で最大の祭である祇園祭。これの山鉾巡行が伝統にのっとり、大船鉾巡行復活の2014年から後祭(あとのまつり)を復活させるとのこと。実現すれば、1965年に後祭が中止(前祭と合同)となって49年ぶりの復活となります。
記事→http://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20121024000024

 祇園祭の山鉾巡行は、元々は7月17日と一週間後の7月24日に行われていました。7月17日は祇園さんの御神輿が出る神幸祭の先触れのような位置づけ、その御神輿が帰られるのが7月24日の還幸祭で、その日にも山鉾が巡行していました。17日に巡行するのを「前祭(さきのまつり)」、24日を「後祭(あとのまつり」と呼ばれ、各山鉾はこのどちらかに現在も属しています。

 そして1965年(昭和40年)までは、前祭と後祭をきちんと当日に行われていましたが、交通事情や費用の点、それと観光客が一度に観たいとの希望もあり、7月17日の前祭に統合されてしまいました。統合と言っても日付とルートは前祭の通りですが、前のグループと後のグループとはしっかり区分けされ、前祭の殿(しんがり・最後尾)である船鉾の次に、後祭の先頭が続き、移行後祭の順序どおりで巡行されています。

 これをかねてから復元中の大船鉾が2014年からの巡行復帰を機に、後祭の原型を取り戻したいという声がありました。そして昨日、10ある後祭の各保存会代表者の会合で決めたとの事です。しかしこれに反対した保存会もあったとのことと、後祭を復活する事を決めただけで、どのルートを巡行するのかまでは決まっていません。

 参考までに。弊ブログ記事で、巡行経路の変遷
http://blog.goo.ne.jp/mitake3067/d/20110716

   ◇   ◇   ◇

 伝統にのっとり後祭復活は喜ばしいですね。しかし問題もあります。後祭を中止した理由の一つに交通事情があります。一週間の間に二度も道路を通行止めにするのは、いかがなものかという意見。しかしこれは、24日の巡行中止に代わって、現在は花傘巡行が行われていて、少しですが通行止め区間があります。

 もう一つ、この花傘巡行との兼ね合いです。織物商や花街の皆さんたち、そして多くの皆さんたちで折角くここまで育ててきた花傘巡行。後祭が復活だから終わり!とは言えないですよね。両者共存の道を探るのを望みます。

 巡行するとなるとどこを通るのか。後祭中止前年までは、烏丸三条から三条通を東へ、寺町通を南へ、四条通を西へのルートでした。しかし現在は三条通の一部と寺町通はアーケードがあり、高い南北観音山は絶対に不可能。とすると、ルートは限られてきそうです。

 他に後祭復活には、観光客分散の意味もあるとの事。14日からの4日間で100万人を超える観光客数。それと現在の前後合同の巡行では、先頭から最後まで通過時間が4時間半ほどかかり、この点でも分散化を計りたいという。

 今後は、山鉾連合会の評議員会を経て、文化庁や京都府、京都市、府警などとの協議を始めるとのこと。前向きな結論を望みたいです。

 ことわざで「あとのまつり」の語源は、この後祭が由来の一つとされています。大船鉾が幕末の元治で焼け、以来、後祭は囃子物の山が、北観音山と南観音山の二基だけで、京都の人に言わせると「さびしい祭ぉした」だそうで。2014年からの復活では大船鉾が加わりますので、そんな寂しいなんて言っておられませんね。


バカな判決・イタリアで地震警告せずで研究者に実刑

2012年10月24日 | 思索と考え

 昨日の夜、ネット上の各ニュースで知りましたが、イタリアで2009年4月におきた、M6.3の地震で、事前に住民に警告を発せなかった「故殺」で研究者らが訴追され、その判決が10月23日、有罪で禁固7年の実刑判決が出されたとの事です。

 その地震というものは、2009年4月6日午前3時32分、ローマ北東約95kmの場所でM6.3、震源の深さ10kmの地震が発生し、震源地付近で激しい揺れにより、煉瓦や石造りの建物が崩壊して、309人の方が亡くなられたというもの。

 典型的な浅い直下型地震ですね。震源地付近では激しい揺れなものの、震源を離れると被害は急に少なくなります。

 この地震の前から小さな地震が起き、結果的にこれが前震だったわけですが、事前に住民に警告を発しなかった(怠った)として裁判が起こされ、研究者らに有罪判決が出たわけです。

 「そんな無茶な!」

 私の第一の感想。そして時間を置いて日本からも世界からも地震研究者から同様の声が出ています。

 結論から言って、現代の技術や知識では、地震は絶対に予知できません。この予知とは「いつ・どこで・どのくらいの規模」を知らせて初めて地震予知です。現在はトレンド(傾向)として地震発生の可能性は「予測」できますが、「予知」は絶対にできません。もし「いつ・どこで・どのくらいの規模」で地震予知をされたら、それは科学の論ではなく、全くの嘘か、或いは、何らかの例えば自然の神様から教えてもらったとか、非科学的な要素が入ってきます。

 地震は地球の表面の地殻活動の一つです。ですので、地球上表面と数十~百キロ深さまで、数百メートル間隔で事細かに地震計や歪計を置けば、或いは予知が可能かもしれません。しかし地球表面事細かでは、建物があったり大きな海洋だったりして、そんな事出来ません。

 なので、まともな研究者なら、地震予知は無理だろうと考えているはずです。日本では東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)の記憶が新しく、また東海地震では政府あげての観測網がしかれています。しかし東北地方太平洋沖地震は見逃し、東海地震は想定モデル通りの地殻活動をしているとは限らず、果たして事前の設定どおりに地震が発生するのかどうか。

 それと、先ほど地震は地球表面の地殻活動と書きました。だからなのか、地面ばかりに目が行っててはダメです。よく地震雲があると言われていますが、この地震雲とされる雲は地球表面を越えた空気中の出来事なので、地殻とは関係なく非科学的な考えとされています。でも非科学的な出来事を非科学的と切ってしまう事こそ、とんでもない非科学的だと思います。

 御用学者であればあるほど、地震雲などを非科学的と断定し否定する傾向があります。人は、研究者なら特に、謙虚にならねばなりません。現代の人がもつ「知」は、その自然界森羅万象全てではありません。非科学的な地震雲も明確に科学的に否定できない以上、何らかの地殻現象を反映したものかもしれません。

 非科学的ついでに。地震など自然災害は、政情不安な社会に多いようにも感じます。自然災害によって政情不安になるのか、その逆なのか、それぞれ両方ありますけど、この政情不安定や人心の荒廃などの社会状況と自然災害とは、全く関係ないとは言えないと思います。


尾張一宮駅新ビル「i-ビル」・完成した外観

2012年10月23日 | 地元尾張の話

 尾張一宮駅で建設工事中だった新駅前ビル「i-ビル」。建物の工事は夏ごろにほぼ終わり、内装工事も10月始めには大体終わっているようで、今は設備の搬入、そして入居する店舗の研修のようなことをしています。

 これまで尾張一宮駅ホームから写した新駅ビルの写真を載せましたが、やっぱり東側の表からの写真も欲しく、写してきました。

 まずは北東側から全景。

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 南東側から。

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 大きな開口部があります。

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 この開口部は、線路側はガラスで塞がれていますので、風が吹き抜ける心配はありません。

 駅前ロータリーのある銀座通りから。正面ですね。

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 近づいて正面。現在通れるのは、左の屋根の延長先にある、白い枠の部分だけ。

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 JR東海、尾張一宮駅の駅名表記。出来れば、名鉄の名鉄一宮駅表記も欲しかった。この部分は、広いコンコースです。まだ通れません。

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 新駅前ビルのロゴ。前にも書いたように、世界デザイン博覧会のマスコット「デポ」にそっくりなんだな。

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 街中から完成した新駅ビル。つまりこの写真を写したのは、バスで一つ手前の栄一丁目停留所で降りたのでした。そこからトボトボと徒歩。

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 さて、この建物は、「駅ビル」ではなく「駅前ビル」です。JR東海の敷地に建てられていますが、施主は一宮市。JR東海の駅機能は全て高架下にあり、このビルは単にJR東海の敷地に建てられた複合施設の建物です。

 そして建物の運営は、JR東海の関連会社に委託されたのだったかな。入居する市の施設の他は、この運営委託事業者の采配で選ばれたそうです。成城石井が入るなど、地元色は薄いものです。しかし成城石井か。転勤族目当てですね。

 なので正面入口には、「尾張一宮駅」ともう一つ、「名鉄一宮駅」も欲しかったのですが、名鉄の表記をさせない圧力があったのかな。考えてみれば、名鉄側の名鉄百貨店建物も。コンコース入口には「名鉄一宮駅」だけの表記ですもんね。両者仲良く表記するのが、親切で大人というものです。

 中央図書館以外のオープンは、11月1日。

撮影:2012年10月14日(鉄道記念日だ)