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mitakeつれづれなる抄

普段いろいろ見聞き感じ考え、そして出かけた先で気になることを書き綴ったブログです。

JR西日本の新しい鉄道博物館が京都市に・2016年春予定

2012年12月19日 | 京都

 本日のJR西日本プレスリリースからです。現在の梅小路蒸気機関車館と一体になった新しい鉄道博物館を、2016年春の開館を目指しているとのことです。

 場所は、京都市下京区観喜寺町。地上3階建、延床面積約18,800平米の建物で、展示車両としてSL23両、新幹線車両6両、EL4両、DL4両、全部で50両ほどとなっており、かなり具体的な数字が出ています。既に展示車両の選定がなされたのでしょうか。総事業費70億円とのこと。

 新しい鉄道博物館は、梅小路運転区構内留置線を博物館に引き込み、営業車両などを展示。さらに運転シミュレータも設置するとニュースリリースにあります。大人気のコーナーになるだろうな。
http://www.westjr.co.jp/press/article/2012/12/page_3027.html

   ◇   ◇   ◇

 さて、どこに作るのだろう。下京区観喜寺町の中に限られるのか、すこしはみ出るのか。ここは御存知の通り、東海道本線と山陰本線と、丹波口駅と梅小路駅とを結ぶ短絡線に囲まれた、デルタ地帯になります。その一角に梅小路蒸気機関車館の転車台と扇形庫。その北側は狭いですし、西側は貨物関連の建物があり少し余裕はありますが、そこは観喜寺町からはみ出ます。

 まさか、折角整備した梅小路公園内に造るとは思えませんし、梅小路公園に残るJR社宅の跡地に建設するのか。しかしここでは線路が繋がっておらず、ニュースリリースにある『構内留置線を博物館に引き込み』は、新たに線路を敷く必要があります。ひょっとしたら、丹波口~梅小路間の貨物短絡線を廃止するのか?現在定期列車は無いですし。どの位置に新鉄道博物館の建物が出来るのか、非常に関心があります。

 現在、大阪市の弁天町駅にある交通科学館は、上を走る大阪環状線とは高低差があり、営業車両を持ってくるわけには行きませんね。新鉄道博物館は、梅小路構内に設けられ、引込み線で容易に車両を持ってくるのが可能みたいですね。珍しい車両を営業線で走り、その後、博物館で展示する事も可能なようです。

 その梅小路公園。元は貨物専用の梅小路駅荷扱い場所でした。荷扱い廃止で京都市の基盤整備で都市公園になりました。その一角には今春開館した京都市水族館があり、連日賑わっています。

 そこへ鉄道博物館ですか。3年ともう少しですけど。山陰本線に駅の一つも欲しくなりますね。かなり以前に梅小路公園でイベントがあった時、梅小路蒸気機関車にほど近い場所で、臨時の駅が開設されたことがありました。水族館が出来、「駅の一つもあれば」という声がありますけど、今後はさらにその機運が高まりそうですね。

***12月20日未明追記
 京都新聞と神戸新聞のweb版に、この鉄道博物館建設について記事がありました。新幹線500系車両も展示されます。館内イメージ図が記事中に。
京都→http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20121219000141
神戸→http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201212/0005612876.shtml

 stakenakaさんからのコメントと、これら新聞記事によれば、建設場所は、現在の梅小路蒸気機関車館の西側(北西から南西へ)の場所に設けられるとのこと。

 また現在ある、大阪市の交通科学博物館は、主要展示品を新しい鉄道博物館に移すため、存廃を含め検討するとのことです。


京都の高瀬川一之船入・模擬の高瀬舟を撤去へ

2012年10月25日 | 京都

 10月23日の京都新聞web版記事からです。23日ですが日付替わる直前でした。京都市の鴨川西側を流れる人工河川の高瀬川。この史跡「一之船入」そばに係留されている模擬船が撤去されるのだそうです。撤去日は25日で今日。実行されたのだろうか。
記事→http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20121023000097

 高瀬川は、江戸時代初期に角倉氏により造られた水路で、近世の京都で、淀川を経て物資の運搬に利用されていました。その高瀬川から水路が引き込まれた船溜りが何箇所かあり、その一つが一之船入(いちのふねいり)。高瀬川でも最北部にあり、ここから南へ全部で9箇所の船入がありましたが、現在もそれらしき痕跡を残すのはこの一之船入だけで、当時の船運を連想させるように、模擬の高瀬船(高瀬舟)が高瀬川に係留されています。

 しかしこの高瀬川は石を並べたり組み合わせたりの水路で、近年水漏れがあるらしく改修工事を始め、そのために係留している船を移動させようとしたところ、想像以上に老朽化が進んでおり、いたずらに動かすと壊れてしまう恐れであるとのこと。

 重機を使うには桜の木を少し伐らねばならず、そのため景観に配慮で模擬船の撤去を決めたとのことです。

 現在の船は1984年に造られたもので、全長11m、幅2m。ただ飾ってあるだけかと思いきや、毎年9月の保勝会の祭りでは、人が乗って記念撮影を行ってきたそうです。動きはしないけど、あの船に人が乗ったことあるんですね。

 この高瀬川などは近世京都の歴史に出てくるものです。いずれブログで紹介しようと写真を撮っていましたが、記事にする機会が来ないまま、船が無くなってしまいました。

 模擬の高瀬舟です。水路に浮かんでいるのがその船。

Img_0145

 こちらが一之船入の跡。高瀬川から引き込まれているものです。手前の船が模擬の高瀬舟。

Img_0157

 2014年は高瀬川開削400年。その時までには新しい高瀬舟を造りたいとしており、寄付を募るとのこと。


祇園祭山鉾巡行・2014年から後祭復活

2012年10月24日 | 京都

 本日の京都新聞web版記事からです。毎年夏の風物詩で最大の祭である祇園祭。これの山鉾巡行が伝統にのっとり、大船鉾巡行復活の2014年から後祭(あとのまつり)を復活させるとのこと。実現すれば、1965年に後祭が中止(前祭と合同)となって49年ぶりの復活となります。
記事→http://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20121024000024

 祇園祭の山鉾巡行は、元々は7月17日と一週間後の7月24日に行われていました。7月17日は祇園さんの御神輿が出る神幸祭の先触れのような位置づけ、その御神輿が帰られるのが7月24日の還幸祭で、その日にも山鉾が巡行していました。17日に巡行するのを「前祭(さきのまつり)」、24日を「後祭(あとのまつり」と呼ばれ、各山鉾はこのどちらかに現在も属しています。

 そして1965年(昭和40年)までは、前祭と後祭をきちんと当日に行われていましたが、交通事情や費用の点、それと観光客が一度に観たいとの希望もあり、7月17日の前祭に統合されてしまいました。統合と言っても日付とルートは前祭の通りですが、前のグループと後のグループとはしっかり区分けされ、前祭の殿(しんがり・最後尾)である船鉾の次に、後祭の先頭が続き、移行後祭の順序どおりで巡行されています。

 これをかねてから復元中の大船鉾が2014年からの巡行復帰を機に、後祭の原型を取り戻したいという声がありました。そして昨日、10ある後祭の各保存会代表者の会合で決めたとの事です。しかしこれに反対した保存会もあったとのことと、後祭を復活する事を決めただけで、どのルートを巡行するのかまでは決まっていません。

 参考までに。弊ブログ記事で、巡行経路の変遷
http://blog.goo.ne.jp/mitake3067/d/20110716

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 伝統にのっとり後祭復活は喜ばしいですね。しかし問題もあります。後祭を中止した理由の一つに交通事情があります。一週間の間に二度も道路を通行止めにするのは、いかがなものかという意見。しかしこれは、24日の巡行中止に代わって、現在は花傘巡行が行われていて、少しですが通行止め区間があります。

 もう一つ、この花傘巡行との兼ね合いです。織物商や花街の皆さんたち、そして多くの皆さんたちで折角くここまで育ててきた花傘巡行。後祭が復活だから終わり!とは言えないですよね。両者共存の道を探るのを望みます。

 巡行するとなるとどこを通るのか。後祭中止前年までは、烏丸三条から三条通を東へ、寺町通を南へ、四条通を西へのルートでした。しかし現在は三条通の一部と寺町通はアーケードがあり、高い南北観音山は絶対に不可能。とすると、ルートは限られてきそうです。

 他に後祭復活には、観光客分散の意味もあるとの事。14日からの4日間で100万人を超える観光客数。それと現在の前後合同の巡行では、先頭から最後まで通過時間が4時間半ほどかかり、この点でも分散化を計りたいという。

 今後は、山鉾連合会の評議員会を経て、文化庁や京都府、京都市、府警などとの協議を始めるとのこと。前向きな結論を望みたいです。

 ことわざで「あとのまつり」の語源は、この後祭が由来の一つとされています。大船鉾が幕末の元治で焼け、以来、後祭は囃子物の山が、北観音山と南観音山の二基だけで、京都の人に言わせると「さびしい祭ぉした」だそうで。2014年からの復活では大船鉾が加わりますので、そんな寂しいなんて言っておられませんね。


京都木屋町の名が無い通りに名称付与・龍馬通も登場

2012年08月29日 | 京都

 讀賣online関西発、2012年8月28日記事からです。京都市の木屋町、河原町通と木屋町通に挟まれ、三条から四条の間にある無名の東西の通りに、地元商店主らで作る「木屋町共栄会」が名を付け、そのうちの一つが「龍馬通」としたそうです。
記事→http://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20120828-OYO1T00856.htm

 龍馬通は、三条通の一本南の通り、大黒町に坂本龍馬が仮住まいした家があるそうで、その北側、三条通沿いには池田屋跡、少し離れた河原町通四条上ルには近江屋跡があり、歴史的な趣が深まりそうと記事。

 木屋町共栄会では京都府警から許可を得て、各通りに新しく付与した通り名称を記したプレートを取り付け、史跡を訪ねる人へ案内のパンフレットも作成の予定。

Kiya    ◇   ◇   ◇

 讀賣onlineに新たに付けられた通り名称の図があり、それを基に作成してみました。(右図・クリックで拡大)
阪急百貨店が載っているのは地図が古く御容赦。

 北から、龍馬通、南大黒橋通、六角通、北車屋町通、南車屋町通、蛸薬師通、八之舟入町通、十軒町橋通、真橋通。六角通と蛸薬師通は、河原町以西にある既存の通り名称をそのまま延長。「○○橋」とあるのは、木屋町の高瀬川に架かる橋の名を基にしたそうです。

 今でこそ河原町通は繁華街として阪急の駅名にもなっていますが、元々は寺町通が川西(鴨川の西)の限界でした。そして寺町から東は元は河原だったものを、鴨川の改修で新たに利用出来る土地となった「新開地」です。

 河原町通の名も、元は河原を示していますし、木屋町の東にある細い南北の通り「先斗町」も、その読み方「ぽんと」は、ポルトガル語由来で「先っちょ」、すなわち陸地と水面の境目を示しています。

 近世に町場化され、町組もできましたが、中世以来の都市としてはあくまでも「新町」。通り名称は与えられずに現在まで来ており、所表示の有名な「○○通△△上ル」の方法が少々長くなっています。「○○通△△二筋上ル東入」とか、道案内風ですね。

 この通り名称、市議会の承認を経れば、正式な通り名称として、所表記にも使えるようになるとのことです。


二寧坂で転んではいけません・転倒者が多いらしい

2012年08月24日 | 京都

 京都新聞web版8月24日付記事からです。京都東山の観光名所、円山公園や高山寺から清水さんを結ぶ途中の「二寧坂(二年坂)」。土産物屋が並ぶこの坂道で、石畳の改修工事後、滑りやすくなって転倒者が多いのだそうです。
記事→http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20120824000079

 2007年から2009年にかけて電線地中化の景観工事を行った際に、石段をコンクリートから花崗岩に変え、階段の下の勾配も急になって滑りやすくなったらしいとのこと。地域からの改善要望を受け、表面に凹凸を加工したものの、それでも転倒者があり、救急搬送される例も幾つかあるのだそうです。

 地元の商店主からつくる会でも、工事直後から滑りやすくなったと感じているとのこと。

 以前写した二寧坂の写真。東山花灯路の時の撮影で、いずれも夜です。

 2009年3月。この部分は改修前で、ここでスリップが多いらしい。

Img_0141

 反対側。

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 2012年3月。坂の勾配が若干変わっているようにも見えます。

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 二年坂は、清水さんに係るなにかお話があった場所ですけど、その中に転倒してはいけないようなお話もあったと思います。そんなところで転倒してしまっては、縁起でもないですね。ましてや救急車搬送されては・・・。

 よく景観整備で綺麗な形に整備されます。見かけは綺麗ですが、実際に使ってみると不便な事が多いです。この二寧坂もそうだったのでしょうか。坂道は摩擦係数が減り、水平よりは滑りやすくなります。それを踏まえた整備をされるのが本来なのですけどね。

 新聞記事で市当局の弁として、「気をつけてほしい」とあります。一般論で気をつけるのは当然ですけど、ここは観光地。土産物屋を覗きながらのそぞろ歩きもありましょう。やっぱり見かけは不恰好でも「滑らせないぞ!」という材質・形状であってほしかったです。