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中国西安で奮闘する大学教師Mの日々

日本人教員として中国の陝西省西安市の大学生・大学院生に対し、「日本文化・社会」や「卒業論文」などを教えています。

初心を思い出せたメール

2012年01月30日 03時32分41秒 | Mの研究活動や成果
〈西山門下生M先生から頂いた激励メールをプリントし、デスクの前に貼り付けました。自分に気合いを込める為に〉

唐突ですが本日、ある建築学者の方から以下の激励メールを頂きました。

「M様
論文の題目、貴君研究の独自視点を明確にされますように。
西山先生の研究業績、日本近代の住宅政策ハウジングに及ぼした影響などはそのものですが、西山という人物がかように成長できた時代、社会のニーズ、人や組織の可能性、建築家で生活空間で施行できたことアッピールや仲間組織作りエネルギー、使命感などから社会学的に観ていくのが面白いとおもうのですが。貴君の成果に期待しています。」

この方は、先日、京都で行った聞き取り調査の協力者のお一人です。
そして、私の研究対象である建築学者西山夘三の門下生の方です。
聞き取り調査の最後、

「建築学でなく、歴史学専攻のM先生(私)が書ける新しい西山論を是非書いて下さい。」

という言葉をかけて頂きました。

私のような個人を軸にした研究は、上に書かれたような視点がやはり必要です。
一言で言えば、

個人に着目しつつ、そこから如何に視野を広げ、どういう新しい知見を得られるか。

だと思います。
そして、私自身の独自視点を明確することは勿論重要なことです。
それを改めて認識することが出来ました。

実はここ数日、かなり体が重く、頭痛が止まず、精神的にもきつくなっていました。
が、このメールを見た後、

今の研究が完成するまでは絶対に魂を込めて書き抜こう!

という強い気持ちが出てくるのを感じました。
M先生、貴重なメールをどうもありがとうございました。

明日から関西へ!

2012年01月19日 01時47分51秒 | Mの研究活動や成果
〈中国安徽省にいた時期は、学生や教員達とグラウンドでよくサッカーをしました。今は・・・。〉

さ、明日から史資料収集と、聞き取り調査を兼ねた調査で関西へ行ってきます。
先ほど準備が終わったばかりです。

これから少し休憩し、後は博論第3章の執筆です。
明日は新幹線で仮眠をとれますから問題ないでしょう。


そういえば、先日ある読者の方から、

「博論の内容ばかりですね・・・」

と言われました(苦笑)
確かにそうなので、今後は日本滞在中のことを少し交え、話題を変えようと思います。

なるべく・・・です。
それでは。

北京への史資料調査へたどり着くまで

2012年01月10日 02時16分07秒 | Mの研究活動や成果
<最近、蘭州牛肉ラーメンにはまっていて、週に三回くらいは食べに行きます。日本の多種多様なラーメンとは違い、比較的あっさりとしたスープで店ごとで味に大きな違いはありません。>

明日(10日)から北京へ行ってきます。
主に、北京市档案館、そして中国国家図書館で史資料を収集するのが目的です。

北京には私が属する千葉大の中国事務所がある関係で、その職員の方に色々と助けて頂けそうです。
また、その事務所職員の方々と交流のある北京の民族大の学生も私をサポートしてくれるそうです。
(史資料に出てくる専門用語の翻訳や、自分で上手に話せない場面など万が一の際の通訳など)

そして、この調査のために出来るだけ効率的に行うために色々と事前準備もしました。
当初は、国家図書館へのみ行く予定でしたが、先日の聞き取り調査で有力な史資料がある場所を御紹介頂きました。

それが北京市の建築設計院だったのですが、そこに電話すると北京市の档案館の方が良いと返答がありました。
その回答を受けたのが今日の昼すぎでした。

早速、档案館に問い合わせると入館には事前に紹介状が必要だというのです。
そして、事前に閲覧を希望する史資料番号などを言ってほしいとも言われました。

そこで、慌てて大学の所属学部に行き、紹介状を作成してもらいました。
あと、少し遅れれば学部事務所には人がおらずに作成ができませんでした…(汗)
作成してれたのは英語科のZ先生で、全て英語で彼は私に丁寧に説明してくれました。

その後は、閲覧希望史資料を档案館のホームページから調べ、それをリストにまとめました。
結局、そのリストは事前に档案館に提出しなくても良いことが後で分かったのですが…

それらの作業が終わった後、北京でお世話になる千葉大の中国事務所のOさんに電話し、明日以降の予定を確認しました。
聞くと、10日は中央民族大の院生(女性)とOさんが一緒に档案館に来てくれるとのこと。

しかし、11・12日は未だ予定が立つ人がいないとのことでした。
場合によっては、私一人で作業する可能性もあり少し不安だったので、私の上海の学生Wさんに依頼しました。

彼女は快く引き受けてくれました。
急な依頼にも関わらず、気持ちよく引き受けてくれて本当にありがたかったです。


こんなわけで、ドタバタしましたが何とか明日は北京へ行けそうです。
色々な方々に助けてもらって調査が出来ていることを忘れずに、明日以降の調査も頑張って参ります。

明日は午前7時の高速鉄道で上海から北京へ行きます。
既にこんな深夜になってしまい、寝坊がかなり心配なMです。

建築をつなぐ“政治性”

2012年01月08日 02時41分52秒 | Mの研究活動や成果
<1月7日から9日までは中国の大学院統一試験があります。私の大学にも受験生が溢れていました。写真は本日の試験案内を表示した掲示板です。>

先日の1月5日、以前からずっと依頼を出していた自身の研究に関わる聞き取り調査を実施することが出来ました。
この研究課題は2009年の夏からずっと今まで取り組んできたもので、今は最終の取りまとめにかかっています。

歴史研究では特に重要な「実証」をするための、史料や証言を得るために2010年から探し続けていました。
その為に不可欠な一つが、先日実施した聞き取り調査であったわけです。

しかし、ここにたどり着くまでに道は長かったです。
何度も依頼(電話、手紙、メール)を出したにも関わらず、肝心の返事が来ないのです。
そのまま状態が続き、気づくと既に一年が経っていました・・・


「このままでは一生調査は出来ない・・・」


と本気で思い、最近はしつこく依頼の連絡をしていました。
その甲斐もあって、1月5日にようやく念願の調査が出来たという次第です。

当日は、同済大学建築学科のY教授と共に、聞き取り対象者の自宅へ伺いました。
ちなみに、Y教授は私の所属する千葉大の元留学生で日本語が堪能です。
しかも、中国建築界に顔が広く、今回の聞き取り対象者も先生が御紹介下さいました。

対象者は、ご夫妻で元同済大学の教員をされていた方々でした。
年齢は共に80歳前後でしたが、記憶もはっきりしていて、非常に聡明な方々でした。
大学退官後は、半年はアメリカで、半年は上海で暮らしているそうです。
ですから、英語も非常に堪能でした。


彼らには、1960年前後の時期の日中建築界の学術交流の実態と、その影響に関して質問をしてきました。
その内容を細かくここで書くことはしませんが、その話の中で興味深い話を聞けたのでご紹介します。

具体的にその話題とは、ソ連と中国との建築の関わりの実態に関するものでした。
私は予てから、1955年以降から中国国内でソ連の技術者達が建設した住宅に対する批判が出てきたことは知っていました。
そしてその背景を、中国人民の間で、ソ連型の住宅規格が中国の生活様式に馴染まなかったからだと考えていました。
(実際に先行研究でもそう書いているものがありましたので)
ですから、その世論のようなものに中国建築界が応える形で、新しい住宅間取りが考案されたと思っていました。

しかし、聞き取り調査で聞いてみると、そうではありませんでした。
彼らの話では、ソ連型の住宅は当時の中ソ関係が良好であった為、それを「受け入れるしかなかった」というのです。
そして、当時の中国の建築家達は、ソ連型よりももっと先進的な住宅設計を求めていたということでした。

何でもソ連が中国に派遣した技術者は、土木関係の人々が主で、建築設計の関係者は少なかったそうです。
その為に、中国の住宅設計を担う建築家たちは、そのことへの不満を抱えていたとお話下さいました。


ですから、当時の中国は人民だけでなく建築家達もまた同様にソ連型への住宅に不満を持っていたということが分かりました。
このことは、中ソ関係が悪化したから中国が他の国との関係を求め、同様に建築技術も海外に求めたという説明は成り立たないことを意味します。
(ちなみに、今まで私はこのように考えていたのですが・・・)
正しくは、中ソ関係が悪化する前から中国国内ではソ連以外から学びたいという意識が存在したが、それが国家同士の政治関係から顕在化しなかっただけなのです。
今まで文献だけで理解していた私は、こうした当時の社会情勢を初めて聞くことが出来ました。

この話を整理すると、

・国家同士の政治的関係とは別の次元で、建築家同士の思いや願いは確実に存在していた
・が、国と国との政治的な関係が何よりも優先させる中で、そうした思いや願いはかなわなかった
・そうした建築家の思いや願いが行動に移せるか否かは、やはり国家同士の関係の変化が大きかった
 (国家の関係が悪化したことで、国家も建築家もソ連以外の建築技術を共に求めた為)

ということです。
建築というものはこうした国家間同士の政治関係によって結びつき、逆にそれに離れるものであるといえます。
(そもそも何を建築と定義するかにもよりますが・・・)
ちなみに、この中ソ関係の悪化した原因である一つは、1956年のフルシチェフのスターリン批判とされます。
つまり、政治的イデオロギーが国家同士を、そしてその先にある国家同士の建築に影響を与えていたわけです。

「建築は非常に政治的な産物である」

そうしたことは以前から指摘されていることではありますが、今回はそうしたこととは別の一面を知れたように思います。
一言で言えば、自分の思いが様々な政治的理由から実現しないことへの中国の建築家達の葛藤のようなものでしょうか。

歴史研究にはこうした当時の状況を文献だけでなく、モノや聞き取りなどで迫っていく作業が不可欠です。
そのことの重要性も、今回改めて強く感じさせられました。


聞き取りに御協力頂いた対象者には、質問が十分に出来なかった項目を文章に直して送りました。
(それに協力してくれた三・四年の学生達には本当に感謝しています。どうもありがとう。)
それに回答いただいた後、私の方へ送ってくれることになっています。
その中に、新しい聞き取り対象者を紹介してもらう依頼も書きました。



聞き取り調査は出来ましたが、まだ“証拠”となる史資料が不足しています。
ですので、今月10~12日まで北京になる中国国家図書館で史資料収集をしてきます。

「最後まで粘って下さい」

という指導教官のメッセージの通り、最後まで粘って調査してくるつもりです。
その後は、半年ぶりの日本へ一時帰国です。

博士論文への道 ~論文全体の構成(ほぼ完成形)~

2011年12月19日 02時45分34秒 | Mの研究活動や成果
<私が勤める大学の旧校舎の夜の正門。昼よりも、ライトアップされて綺麗になる夜の正門が私は好きです。>

なんか重々しいタイトルになってしまいました。

最近は頭が博論のことに占領されています。
ま、そうでないといけない時期なのでしょうが。

そこで、現在私が取り組んでいる博論の全体構成をここで紹介致します。
もっとも私以外、基本的にどなたも関心を持っていないのは承知です(苦笑)

ですが、博論はこれまでの自分の研究活動の一つの集大成です。
その記録という意味でも、ここに書いておきたいと考えました。
今後は、こうした記事が博論完成まで何度か登場することになるでしょう!?
きっと。。。

序章と終章を除くと、各章は約2万5千~3万字程度になる予定です。
既にほぼ書き上がっている章は、1~5章です。
が、3章はほぼ全面書き換えが必要で、今取り組んでいます。

この内、学術誌(査読誌・紀要共に含む)に掲載して頂いたのが、
1・3・4章の3つです。


私はこの研究を通じて、主に以下の点を考えようとしています。

(1)西山夘三という一人の建築学者の研究の軌跡を軸に置きながら、近代以降の日本住宅史を描く。
  ※それを通じて、建築史・住宅史では日が当たりにくい庶民住宅の歴史に焦点を当てる
(2)西山の住宅研究が、近代以降の日本社会(特に戦時体制下と高度成長期)から如何に影響を受けながら形成されていくのかを考える。
  そこから、近代以降の日本社会の特質を再構成していきたい。
  ※逆に、西山の住宅研究が社会へどういう影響を与え、どんな意味を持ったのかも考える
(3)徹底的に西山個人へ着目することで、従来の近代日本住宅史で得られなかった新しい史実を得られないだろうか。
  ※その具体的な答えが、5・6章辺りになる予定

以上のようなことを博論では考えていく予定です。
論文の題目、そして構成は以下の通りです。


学位請求論文の題目
近現代日本における庶民住宅の史的考察 -建築学者西山夘三の住宅研究を中心に-

序章 研究の目的と方法
 1、研究の目的と意義
  1-1 研究の目的
  1-2 研究の視点と仮説
  1-3 研究の意義
 2、既往の研究と本研究の位置づけ
  2-1 既往の研究
  2-2 本研究の位置づけ
 3、本論文の構成

1章 近代日本における住宅研究の史的展開 -「庶民住宅」研究の進展を中心に- 
 はじめに
 1、近代日本における住宅研究の展開
 2、同時代における「庶民住宅」研究の進展 -建築学者西山夘三の研究成果を中心に-

2章 西山の住宅研究における思想の基礎形成
 はじめに
 1、西山の生い立ち~三高時代
 2、京大時代のデザムでの活動とその影響
 小括

3章 西山夘三の「庶民住宅の研究」の思想 -その独自性と「職能」意識を中心に- 
 問題の所在
 1、西山の住宅研究の思想的特質
 2、新たな建築家像の構想 –西山の建築家としての「職能」意識‐
 小括

4章 戦前・戦後の庶民住宅の設計と規格化 -その連続性と断絶性- 
 はじめに
 1、戦前から戦時体制下における庶民住宅の規格化
 2、第二次大戦後の住宅規格化の特質 ‐戦時体制からの連続面-
 3、高度成長期における「nLDK」規格の普及 ‐戦時体制からの断絶面-
 小括

5章 西山住宅理論の海外への伝播 -主に1960年代の中国に着目して- 
 はじめに
 1、1960年代前後の中国国内の住宅設計の転換
 2、日本から中国への「小面積住宅」設計の受容過程
 小括

6章 西山住宅学の意義と課題
 はじめに
 1、戦時体制下における西山の「住宅供給論」 -大河内一男の生産力理論との関係から-
 2、第二次大戦後の西山住宅学の「貢献」とその「限界」
 3、同時代における西山の社会的役割とその具体的影響

結章


それでは皆さん、さようなら。

日本における東アジア近代建築史の研究

2011年12月11日 00時21分04秒 | Mの研究活動や成果
<最近、少し飲む機会が増えている“紅牛”の健康ドリンク。ま、あまり飲みすぎは良くないのでしょうが…>

最近の歴史学界ではトランスナショナルな歴史像が求められること自体がもはや当然のことのようになっています。
そうした中、私の専門である日本近現代史でも一国史からアジアへと視野を広げていく流れが強まっています。

私は特に、日本の近代以降の建築(特に、住宅)・都市に関する歴史に強い関心を持っています。

最近では、この分野でも日本国内からもっと外に視野を広げた研究が進みつつあります。
しかし、幾つかの研究書も指摘するように、東アジアの近代建築の全体像を描き出した研究はありません。
どれも個別の建築や都市に関する研究であり、ぞれらを結びつけるような成果は今後の課題です。


さて、そうした研究状況の中で、私の研究視角は主に、

歴史学の研究成果や議論を、実際の建築(住宅)や都市に重ね合わせ、それらを共に交わらせながら一つの歴史像を構築する

というものだと考えています。
ただ、このように口で言うのは容易ですが、実際に一つの歴史像を描くまでの作業は困難を極めます。
それはやはり、建築や都市という存在は多面性にあふれ、その在り様を忠実に描く事自体が難しいからでしょう。
(逆に言えば、だからこそやりがいのある分野とも言えるのでしょうが…)

ともかく、自身の研究視角を柔軟に、そして広い視野から迫っていく姿勢が求められる分野です。


そうした私のような研究視角の背景には、基本的に日本の近代化の経験を考えたいということがあります。
そしてそうした点は、現在、東アジア近代建築史の研究状況をみると基本的に共通する点のようです。
(『東アジア近現代史通史 別巻』(岩波書店、2011年)所収の谷川論文参照)

ですから、今後はそうした枠組みや範疇を脱して、「次の」方向性を思考していく必要があります。
(ま、それは博士論文の研究が一区切りついてからの作業になると思いますが)
その時に重要なのは、「何を軸に」、「どこまでアジア建築・都市の多面性を忠実に」東アジア近代建築史を描いていくかです。

特に、前者の「何を軸に」描くのかが決定的に重要になると私は考えています。
そこが確認できれば、未だ出されていない東アジアの近代建築の全体像も描けるようになると思うからです。

ほぼ仕事、そして空き時間には博論に追われている現時点では、具体的な答えはもちろんありません。。。
しかし、今後の研究の方向性を決めていく為にも、そろそろこうした点を熟考すべき時期に入っていると感じています。

日本へ戻れば研究時間だけで、仕事はゼロなので、博論の執筆をしつつ、こうした点も考えていこうと思います。



さて、明日は二年生の学生宅へお邪魔して、彼らと一緒に食事を作ることになっています。

そして、これが今学期最後の学生達との交流になります。
学生の皆さんに対して、もっと日本語の交流をすべきなのでしょう…
しかし、私もそろそろ厳しい状況に置かれつつあります。

来学期また学生達と刺激的な新しい交流機会を設けて、とにかく彼らの語学向上の為に頑張るつもりです!

今週末のM(研究調査、仕事の会合)

2011年12月05日 16時01分13秒 | Mの研究活動や成果
今日で4年生の講義はすべて終了しましたぁ!
(ふー、これで少し安心。。。)
そして、2・3年の講義もあと二週間で全て終わります。
(仕事はあとひと踏ん張り…です)

そうすると、あとは一時帰国して博士論文オンリーです。
一時帰国が迫っているのは嬉しいですが、最近は相当多忙です。
それが原因でしょうが、やや気持ちが急いているのが分かります。


そんな最近のMですが、一歩一歩焦らず確実に進んでいこうと思っております。
さて、今週末のこと。


12月3日(土)

上海の復旦大学にて、上海を中心にその近くで活躍する日本人外教の会合がありました。
要は勉強会で、その後、忘年会(?)のような性格が混じったものでした。

私は自分の仕事があって、途中から参加させてもらいました。

参加者は40人程度だったと思いますが、外教の年齢は高めでした。
(中には、私よりも若い先生方もちらほらいましたが…)
大体45歳位が平均の年齢だったのではないかと思います。
ほとんどが私の父母と同じくらいのベテランの先生方でした。

二部の会では、食事をしながら自己紹介をしました。
話を聞いていると、それぞれ情熱を持ち、努力して教授しているのが分かりました。
やはり、長年中国で教えているというベテランの先生方の話は勉強になりました。

特に、自分の長年の人脈を活かして各業界の人々をゲストに招くという講義の実践例は興味深かったです。
私も外教にしかできない、というより自分の特性を活かした講義を早く確立させたいです。

それと同時に、せっかく上海での外教の人脈が出来たので、それを活用していこうと考えています。
具体的には、今後、大学間同士の交流を増やし、日本語科の学生や外教をより交わらせたいと思っています。
その約束も、上海の某大学の外教の方々と約束してきました。


12月4日(日)

以前からずっと見に行きたいと思っていた、里弄住宅の見学に行ってきました。
江蘇路から静安寺、そして南京西路と地下鉄駅の三つ分の距離をゆっくりと歩きながら、里弄住宅見学をしました。

里弄住宅とは、近代中国の時代につくられた庶民住宅であり、戸建ではなく集合住宅です。
この住宅は、租界時代の遺産なので、当時の上海での住宅形式や、生活を知る文化財です。

私はここ数年、中国の都市集合住宅に関心を持って研究を進めています。
ですので、上海での里弄住宅が時代と共にどのような変遷を遂げていくのかにも関心を持っていました。

ちなみに、里弄住宅は新式と旧式というような区別があります(あくまでも中国語資料・文献による区別)。
私はこの区別が具体的にどういうものなのか、調査不足で現時点では分かっていません。
幾つかの資料では、規模が大きくなったなどの両者の相違が記載されていますが、充分ではないのです。

こうした住宅形式の変遷を通して、中国の近代化過程を知ることにもつながっていきます。
また、東アジア一帯の交流が頻繁になっていく時期になれば、それらの交流が住宅形式にもたらす影響も予想されます。
このように上海の集合住宅の形を一つとっても、それを東アジアという領域に視野を広げて考えていくことが可能です。

ですから、研究自体は色々と発展可能なので、今後はなるべく多くの里弄住宅を見学して時期ごとの相違を細かくチェックしていく予定。
また、勤務する大学などの縁故を活用して、なるべく里弄住宅内部を正確にみていきたいと考えています。


ですので、博論の研究が終わった後、中国に滞在できるという長所を活かしてこうした研究にも着手していく予定でいます。
なかなか研究のまとまった時間はとれないのですが、仕事の合間にも少しづつこうした作業をしていければと思います。

恵まれた上海生活への感謝を忘れずに・・・

2011年11月20日 01時23分31秒 | Mの研究活動や成果
<土曜日に行った上海図書館で、中庭を撮影してきました。なかなか綺麗な庭園です。>

最近、研究の関係で頻繁に行っている上海図書館へ、今日は午後から行ってきました。
私の中国でのアパートからは、大体タクシーで15分ほど、地下鉄だと徒歩を含めて40分ほどです。

ここは論文の資料・文献を収集するだけでなく、授業で使用する資料集めにも重宝します。
日本語文献や、雑誌(学術雑誌、一般雑誌)も結構充実しています。

また、図書館には日本語堪能な職員もいて、詳しく図書館を案内してくれたりもします。


上海に来てからはもちろんのこと、安徽省にいる時期も二か月~三か月に一度位のペースで通っていました。
今日、上海図書館で一人で資料収集をしている時、突然、当時の記憶が走馬灯のようによみがえってきました。

当時は、安徽省から夜行汽車で片道10時間で上海へ着き、そのままホテルに二泊ほどして上海図書館へ通ったものです。
夜行は揺れが強いのでなかなか眠れず、かつシートも硬くて体も痛くなったので、帰りの時には常にグッタリでした。

それでも上海図書館へ行って資料を探したりしている時間は、非常に充実していました。
そして、辛かった思いでというよりも、楽しかったという思い出が圧倒的に多いです。

当時は、担当する授業数も多く、ほとんど休日はありませんでした。
だから、やっと空いた時間を使って何とか上海に来ていたのです。
でも、辛い思い出と感じないのは不思議です。


ともかく、そんな安徽省時代の思い出を振り返り、今の自分の状況が恵まれていることを実感した次第です。
そして、

「果たして、あの時と同じような気持ちで必死に研究に向かえているのだろうか」

と自分自身に問わずにはいられませんでした。
恵まれた環境を得ると、逆にそこに慢心のような気持ちが生じることがあります。
または、そうでなくても徐々にそうした恵まれていることへの感謝を忘れがちです。


あの当時のことを忘れず上海でも研究を続けていくことが、着実に研究成果を積み重ねる一つのポイントにも思えました。
ともかく何だかそんな感じがしました。

私の最初の中国生活は、上海のような恵まれた場所でなく、逆に研究環境が劣悪であった場所から始まりました。
そして、二年半の安徽省での生活を経て、今の上海生活へと拠点を移してきたのです。
客観的にみれば、最初から上海のような場所で生活を始めた方が良かったという方もいるでしょう。

でも、私はやはりそうするべきではなかったと今は思います。
劣悪な研究環境の場所へ行った経験が、自分の研究が出来るという環境に対しての有難さを肌で教えてくれたからです。

何でも最初から順調に行くのも良いことですが、そうでなく、色々と苦労する経験も大切のようです。


最も大切なことは、ただ苦労を経験するということではなく、その経験をその後に活かすことなのだと思います。

中国では中秋節の連休へ!研究を進めたい。

2011年09月06日 22時40分41秒 | Mの研究活動や成果
<講義最後の挨拶の時、携帯カメラで私を撮影していた学生からもらいました。…前の学生も写真を撮っていますね。以前の勤務校でもそうでしたが、中国人は写真を撮るのが好き(?)なようです。別の講義では、わざわざデジカメを持ってきていた学生もいました。>

明日は午前中の一コマの講義後、来週の火曜日まで連休です。
(私の場合、月から水曜までに講義が集中しているため)
というのも、来週月曜日が中秋節にあたるため休みになるからです。

上海に来てから、ずっと大学の仕事や、生活の準備に追われていました。
また、以前の勤務先の大学から送った段ボール箱に詰めた本が、明日自宅に来ます。

このようにもろもろの環境のため、この間、全く研究が出来ませんでした。
そうした状況も明日で終わり、いよいよ研究の方も進めることが出来ます。


やっとか…という感じですが、とにかく嬉しいです。
明日の講義が終わったら、残りの仕事を早く済ませ、研究を進めたいところです。
また、連休中に蔵書数、また、その種類共に多い上海図書館にも必ず行くつもり!
もし、連休中開館しているなら、上海市内の各大学図書館へも行きたいですね。
上海市内でどの位、研究に必要な文献が収集できるのか把握しておきたいからです。

あとは、中国語の勉強を集中して進めること位でしょうか。

上海に住んでしまうと、不思議と名所や市内の有名や場所へ行こうという観光気分が消えます。

「その気になれば、いつでも行けるさッ!」

という気持ちがあるからでしょうか。
ともかく、そうしたことに今はほとんど関心がないのです。


まずは上海の環境・仕事に全力で慣れること、その後は、研究をどんどん進める!


今はこのことしか頭にない私です。

…とはいえ、中国の友人・知り合いの皆さんは是非、楽しい連休をお過ごし下さいね。
それでは。

研究会会合で大学へ

2011年08月20日 00時14分33秒 | Mの研究活動や成果
〈一時帰国の際、中国の上海で買ってきた掛け軸。こうした中国土産が少しづつ増えています。〉

今日は私も参加している研究会会合があり、大雨の中、大学へ行きました。
これは、いわゆる大学から研究費をもらって行う共同研究です。
大学院生達が主体となって行うところに主眼があり、教員の参加はあまりありません。
(我々以外の研究会では、教員が積極的に音頭をとっているところもあるようですが・・・)

我々の研究会では、以下のことを念頭に置きながら議論を進めてきました。
それは、主に近代以降の日本における「標準化」をめぐって、参加メンバー各自の問題関心からその歴史的な考察を進めるというものです。

2008年4月に研究会を発足させ、教員や院生達を集め、議論を行ってきました。
しかし、これまでの議論は問題意識が十分に絞られておらず、議論が右往左往していた節が少なからずありました。

そこで、中国へ帰る前に集中的に議論を行い、年末までに成果を纏めようと考えました。
その会合が本日であったということです。

会合では、事前にお願いした五人に各自報告をして頂きました。
内容は主に、

1、標準化という概念に対する報告者の理解、認識
2、そうした概念を自身の研究にどのように活かせるか

でした。
「1、」の部分である程度、研究会参加者の認識をすり合わせて、今後の方向性を絞り、各自の研究テーマを決定していこうとしたわけです。

議論では、それぞれ報告者から有益な意見や報告がありました。
特に、

(1)社会が近代化していく過程でヒトやモノの標準化は不可欠なものである
(2)標準化が進む過程で、そのダイナミクスに注目すべきである
 ※例えば、功利主義、権威主義、異質なものの排除(または、包摂)、普遍主義など
(3)標準化は誰がリーダーシップをとるか、また、自身が作ったルールを如何に社会に浸透させるかという「支配」として論理の側面を持つ
(4)(3)に関わって、「支配」の論理に対する抵抗という動き、すなわち、標準化と対照的な動向が同時に発生していく流れにも目を配るべきでは?
(5)近代日本における「標準」概念を辞書、辞典などから整理した報告

以上のような意見(または、報告)は、今後の議論に参考になるものであったと思います。
こうした報告や意見に対して、史的に標準化を考える際には二つの視点を共有して各自の研究を進めようという話になりました。

一つは、「効率化を目指す標準化」という視点
もう一方は、「パワー集中による標準化」

こうした視点を共有して、各自の研究テーマに重ねたテーマから考察を進めていくことになりました。
ちなみに、報告書に載せる論文は本年末までに提出が望ましいとか・・・

私も可能な限り論文を書いておきたいのですが、既に二本の投稿論文を抱えています。
(どちらも提出は本年末)
それに、今月末からは上海での仕事が始まり、博論執筆の方もあります。
博論提出は、来年2月末日です。

何とか頑張ろうと思っていますが、今回ばかりはさすがに出来る自信はありません・・・



さて、最後になりますが、今回の会合では以下の議論が弱かったように思います。
それはずばり、

近代という時代の中で、標準化がどのように誕生していくのか
(要するに、近代化と標準化との関わり)

です。
この点については、今後、もう少し議論をした方が良いと思っています。
本日の会合では、どうもその議論が不十分な感じがしました。
それと同時に、グローバリゼーションの中での標準化という視点でも誰かが積極的に議論をし、研究論文にまとめてほしいと思っています。
私は来週水曜日には中国へ戻ってしまうので、その前に研究会の方々に伝えようと思っている次第です。


明日は、熊谷の県立図書館で資料収集、その後は、私がお気に入りの新郷にある蕎麦屋へ行く予定。
やはり中国では、あのような美味しい蕎麦は食べられません。
それでは、今日はこの辺で。