アルツ・ジェンギンス夫婦の記録

重症アルツで亡くなった父の記録と現在100歳の母と高齢者みるきーの記録。

101歳 転院 医師から死ぬことを延々説明された

2024-06-02 18:36:00 | 100歳介護
2023年8月 自宅から特養施設入所
   (歩ける、一人で食べれる、ほぼ喋れる、少し手が使いにくい)

2024年3月23日 脳梗塞で救急搬送
   (歩けない、食べれない、飲めない、喋れない 寝返りもできない)

   (車いすに座れる、バイバイできる、ジャンケンできる、あーうーとか言葉を出せる、指さす、強く手を握る、うなずく、否定の首も振れる)

2024年5月31日 療養病院に転院

介護タクシーでストレッチャーのまま運ばれる。
すべて運転手さんが手際よくやってくれた。13500円

療養病院に到着したら、4人くらい玄関のそとにお迎えに出ててくれた。
感じがいい💖
事務員さんも、案内の若い男性も感じがいい💖

ところが
医師からの入院説明が2時間近く続いた。
医師は、紙を見ながら1項目ずつ説明し、チェックを入れていた。
その紙を、患者家族に渡せば済むんじゃないかと長い説明の時思った。

どんな説明かと言うと、
これから死ぬことを延々と語られた。
今日死ぬかもしれないという内容が延々と語られた。

死んだときの言い逃れっていうか、言い訳っていうか、文句を言わせないための説明だった。

【ここは、治療の病院ではなく、最後を迎えるための病院です。
治療はしません、治療のための検査もしません、最後を穏やかに過ごしてもらうための病院です ・・・】

私と姉は、棒付きの飴を上げたいとか、リハビリしてほしいとか、車いすにすわらせてほしいとか、希望をだしていたんだけど、この医師によって、すっかり希望を失った。

病院選びの時は、患者によって、飴も預かる、できるだけリハビリもする、車いすもいろいろなタイプが用意されている。。。。なんて言ってたくせに、
医師は、【 脳梗塞で倒れて2か月たち、治ってないということは、もう治らないので、リハビリの必要もない。これから立ち上がって歩くはずもない。】
夢も希望もないことを小さな声で、延々しゃべり続けた。




母の左手の腕があおタンで真っ青で、そして、指全部が腫れあがっているのは骨折してるんじゃないかと、この先生に聞いたら、
痛がらないから、骨折じゃない! 年寄は、すぐ青くなるんだ!
・・・・年寄は関節が外れてても痛くない・・・って言ったから聞いたのに。

リハビリの先生は来るけど、リハビリはしないで、飲めるか飲めないかの判断をするだけです。
熱が出たりしても家族には連絡しません。
ここも病院だから、風邪や痛み止めはあるのでその処置はする。

2時間、、、あと何をいってたかなぁ
とにかく、すぐに死ぬって言ってた。

こんなにぐじゅぐじゅ説明されるなら、この病院にしなければよかったけれど、どこの医者も本音はこれなんだろうな。

母は、男女混合の4人室に寝かされていた。
思っていた部屋よりきれいだった。

この病院は、なーーーーにも持ってこなくていいというので、なーーーーーにも病院にもっていかなかったから、
わたしは、施設の荷物と、救急病院の荷物を自宅に持ち帰り、荷物だらけになった。 テレビも、持ち帰った。

服や下着の処分は早めにする。
死んでから衣類を残されるのは悲しいから、生きているうちにする。


救急病院、ある日の、面会は外のベランダ庭園。 いい風にあたる母。
最後の外の風だったかも。



こんなにしっかりしてるある日の母、 ずいぶん回復した。

面会の帰りに、アサガオの苗をかって、[ もみじ公園 ]とやらに歩いて行ってみた。

わ! もみじだらけ。 紅葉の季節に是非来てみようと決心した。






ある日の面会で、ストローで炭酸水を飲ませてみた。
けっこう飲めるんだとおもったが、 ある日紅茶をあげてみてよく見たら、
ストローに入った飲み物って、ストローから落ちないんだ! 



救急病院 母の病室からの景色。 もうすぐ転院するから、この景色とはお別れ。



病院で与えられていた薬。




ある日の面会の帰りは、 外でハワイフェス。 先週もハワイフェス。



もう一つの広場ではビールフェス

生きていくには楽しみがひるようなんだな。

楽しめなくなったら、療養病院で最期を迎えるんだ。
元気な人のホスピスだった。

父が最後に入院にしていた療養病院は、みんな元気だったなぁ








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101歳 脳梗塞 60日

2024-05-22 10:29:00 | 100歳介護
特養施設から救急搬送されて脳梗塞のため、喋れず、食べれず、飲み込めず、動けずの母になってしまって60日経過。

ジャンケンも、バイバイもするし、笑ったり、痛がったり、ウンといいえん返事もできる。

不自由になっただけで、以前の母のままだ。

それを主治医が、このまま5日で亡くならせるかどうするか?って私に3回くらい電話してくるから嫌だ。


ある日は睡眠中の面会



ある日は座るリハビリ中で一緒に外を見る



母の日は、きっと家族がくると介護士さんが言って、座って待っててくれた。
外が良く見える談話室がある。
早稲田大学と、明治大学と、帝京大学が並んで建っている。




姉が面会に行ったら、ベートーベンがいたとと言っていた。
美容院をお願いした。






自分で飴をもって食べれる。
面会票をよく見たら、食べ物絶対禁止って書いてあったので、もうやめとく



車椅子によく乗せてくれる介護士さんに感謝



入れ歯を外されてるので、美貌もだいなしだけど、おしゃれな髪形で笑ってくれた。




ある日も、広い談話室で面会



土曜の面会の帰りにウロウロしていたら、新井薬師になった。


面会の帰りにパンを買う悪い習慣ができてしまった。
サクサクのリンゴパイだった



バスに乗ろうとしたら、うちわやさんがあった。 近所にうちわの会社があったんだ。



栄養が足りてなくてまもなく死ぬと主治医が言うので、療養病院を探している。 ここは、すごくいいのに、残念なのは、面会が週に1回しかできない。

1 ほったらかしで狭くてくらいんだけど毎日会える病院
2 リハビリもして広々のお部屋の病院だけど週1しか会えない

さて困った。





面会の帰りに朝顔の為を探したけれど、苗を買った。 楽しみ

土日は病院の外の公園でフラフェス



スケジュールいっぱいの母。




こんな写真が出てきた。 




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肺癌じゃないかもしれないと言われた。

2024-05-14 08:21:00 | 病院、病気
2024年5月9日
3ヶ月ぶりに肺癌検査でCTを撮る。
3ヶ月ぶりと言っても、2ヶ月めで肺炎になってしまって発熱、悪寒、激しい咳き込みで重病だったから、果たして9ミリの結節はどう変化したか、すごく不安だった。


左が今までの9ミリの結節映像。
右が今回の5/9のct映像

9ミリの結節は、消えている、、
消えているというか、つぶれて広がっている。痰が絡んだり炎症だったりの様子

という、曖昧な先生の言葉。
癌ではないと先生は言った。

私はもう一度3ヶ月前の画像を先生に見せて


じゃ、この9ミリの結節は癌じゃなかったんでしょうか?
と確認したけど癌じゃなかったというようなことを先生は言っていた。

『癌だったらこういう検査はしない』
と今回は言ってたけど、
『癌の疑いがあるからこういう検査をする』って前は言ってた。
その意味もわかるけど、

前より茶色く染めてくるくるに頭のトップだけパーマがかかって、高い声で説明してくれるこの肺の専門医を信用してるけど、

今回のこの広がった白い影は大丈夫なんだろうか?


次回のCTがマニュアル通りの半年後10月なのでしばらく癌の心配はお休みだ。

セカンドドクターにみてもらいたい。
今日、内科の主治医には診てもらおう!
 
私の肺炎は治っているらしいけど
息を吐くと最後が苦しい。
時々咳が出る。
痰はほとんどなくなった。
胸は苦しい
呼吸は時々そっとしている
とにかく、肺は病気だ。どこか病気がある気配がする。



CT検査に向かう途中の新緑の公園。
バスの定期を持っているのに雨の中徒歩で病院に行った。30分歩いた。

肺炎療養中は、ずっとお茶を飲み続けた。
タイの友達が、体の炎症がとれるマリーゴールドティを送ってくれた。


↑このタイのお茶はすごく美味しい。
日本茶の香りがして、バニラの香りがして
砂糖もレモンもいらずそのまま普通に飲める。


肺炎療養中に五月人形を飾った。

40日全てを休んで存在を消していたので、
存在が解禁になったので人付き合いが開始された。でも、1人が好きなんだ。じっとしていたい。


猫を再び預かった

母の見舞いに行ったら麻婆豆腐フェスタやってた

王将で1人ランチ

膵臓癌で亡くなったボーイフレンドを偲ぶ会で鯛めし

高校時代憧れだった帰国子女の彼も今じゃ仲良し。

癌じゃないと知らされた帰りに1人カプリチョーザ

94歳の小学校の担任先生とクラス会


タイから一時帰国のボーイフレンドと中華

ある日は深川飯


家に帰ると猫がいる。





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101歳 脳梗塞から45日。

2024-05-05 15:56:00 | 100歳介護
101歳4ヶ月の母が救急搬送されて45日経った。

同時に私が肺炎で身動きできず40日経った。

自分が死にそうだったので母の命を預かっているのも忘れ母はもうどうにでもなっていいと考え、私は40日も療養生活をしてしまった。

仕事も介護も家事も趣味も宴会も付き合いも友達もない毎日がゴールデンウィークのはずが、何もできなかった。
こんな日を夢見ていたのに何もできない。

今日は5月5日子供の日

だけど世間では何のイベントもしてないわ。


今日の母。寝てるわ。

中野のブロードウェイは天井に鯉のぼり

ある日は、メロンの飴をこっそりなめさせる。

ある日は、オレンジの飴をこっそりなめさせる

水につけて、少しでも水分を口に入れれればと思ったが、むせる。
脳梗塞で飲み込むこともできないらしい。


両足の爪が取れてしまった。
4ヶ月前に特養で何があったんだろうか。
取れる前は真っ黒になったのだ。
孫が、体操したり、声出しさせたり、じゃんけんしたり、グーチョキパーを示唆たり、一生懸命リハビリしてくれてる。



中野の健やかな病院。
次々に計画通り看護師さんが来てくれて、よくみてくれる。

じゃんけん✌️ 勝つと笑ってくれる


5/4には、私の手を強く握って、あーあーと声を出して、そして、遠くを指差して何かを言いたそうだった。

あの世から誰かが来た時とは、目つきが違う。

父の時、散々、私の知らない人がやって来たんだ。
父が、名前を言っていた。
父の知り合いはみんな知ってるはずなのに、知らない人がやって来たんだ。

父が亡くなる少し前に、もうすぐ死んじゃうのか聞いたら、そうだと言っていた。
川は見えるのか?つて聞いたら、見えるっていっていた。

何度もブログに書いてるけど、

鈴木さんのお母さんが
『私が死んだら、どうしょうもない息子をすぐ天国に呼びよせるから』と約束して亡くなったのに、息子はぜんぜん死ななかった。
今65位になるだろうけど、どうしてるのかなぁ。その後が知りたい。



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発砲事件の実況見聞

2024-04-29 01:17:00 | 病院、病気
4/19日早朝の発砲事件は私にとってすごく大きな事件で、世間の知らないあんなことやこんなことを知ってるんだけど、

どこまで警察は調べ上げてくれたのか、図書館に新聞を読みに行った。

何にも載ってないわ。

いつの頃からか新聞の文字は老眼鏡もいらないくらいの大きさとなってから、載せれる事件も限られてるようだ。

読み応えのない新聞だなぁ。

旅の広告や演奏会の広告、図書の広告は読みたい。

ピストル事件から1週間経って実況見聞、、!漢字がわからない、、
車をバックさせて切り返すシーンだな。
運転が下手だし、大きな車のくせにあんな狭い道路に入ってるっていうところが考えられない。 
運転してた子は何故逃げようとしたんだろ。
女の子たちが熟睡してる車を盗んだのかもな、、違うな、、いつも運転してる子はあの日冷静に遠くから見てたし。






3月の下旬に髪の毛を切ったばかりだけど、
気に入らなくて、思い立って短く切った。
咳も出なくなったのでやっと外出する気になった。

↓こんな写真を見せて切ってもらった





そして、母の人生最大に悪い状態の母に会いに行った。
面会前に鎌倉パスタでランチ。
美味しいけど1400円もするんだからおいしくなきゃ許さない


食べ放題のパンはつけなかったので、
物足りなくてパン屋に入り
美味しそうなあんぱんを買った

中は餡子と生クリーム↓
肺炎中は、甘いものを全く食べれなかったが、間食もできるようになり、
5キロ減った憧れの体型も、間も無く戻るであろう。



そして、母は、呼びかけに答え、喋ろうと声を出して、じゃんけんもするしバイバイもする。孫の顔見て笑うし、アタは動かせるけど、手足は動かさない。
栄養は鼻から。





そしてある日は、1人で面会へ。
中野の公園ではワイン祭りをやっていた。
代々木公園でやれば何万人も人が来るのに、中野だから、五人くらいしかお客はいなかった。 ワイン飲みたかった。


グラスワイン300円だけど、試飲かと思えるほど少ないものを飲んでる人がいた。
試飲なら許せるけど、300円なら許さない




そして母に、水をつけたキャンディを舐めさせた。看護師さんに内緒だ。
母は、健やかな寝ていて反応が少なかったけど、バイバイ!と言ったら手でバイバイしてくれた。

そしてある日、ピストル事件の車に乗っていた女の子たちと思われる子が熟睡するのを見ていたら、黒い車から外国人団体が手ぶらで降りてきて、20分くらいで戻ってきた、、
どこ行ってきたんだろ?不思議だ


私の肺炎の咳もだいぶ治まり、痰がなくなった。咳は時々出る。
1時間だけ訳あって喋る仕事したら、途中咳き込んで周りの人が驚いた顔をしていた。

肺炎は治ったけど肺癌の咳が残ってる感じだ。

世の中はゴールデンウィーク。
私も40日間ゴールデンウィーク。
それなのに何もできない。
それなのにすごく忙しい。
寝てるくせに忙しい。




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アルツ・ジェンギンス夫婦の記録

16年間アルツハイマーと戦った父ジェンギンスは2008年2月14日に亡くなりました。壮絶介護→施設入所→胆管癌による死。大切な父の最期の介護記録をここ残しました。 そして、夫を亡くした母は初期認知が進行中です。 年寄りと暮らす苦労を記録中。