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不老愚 助光 れいん坊

嘘、誤魔化し、怠慢を憤り、愛情、親切、思いやり、を喜び感動を記事にしています。

黄門さまと考古学

2010-04-20 14:49:40 | 文学・歴史

 静岡大学の滝沢 誠先生の講義「考古学」の第二回が有りました。今日のテーマは「考古学のあゆみ」です。
 発祥の地は矢張りギリシャです。16世紀ルネッサンスの高まりとともに、ギリシャ・ローマ時代を対象とした古典研究が盛んになり、遺跡・遺物の研究が始まりました。此れが「古典考古学」と言われるものです。
 それから 体系化が始まり、ウインケルマン、トムゼン、モンテリュースと言う学者達の研究に依り様式に依る分類、形式学的研究法と進展して来ました。
 これ等は 西洋諸国での考古学の発展の経緯ですが、我が国でも独自の研究、進展をさせる努力をした人達も居ました。
 古代は所謂伝承に尾ひれを付けた程の程度で、例えば「常陸の国風土記」(713年)の那珂郡大櫛にある貝塚は、ダイダラボッチと言う伝説の巨人が、海の貝を掘って捨てた跡等と言った類のものでした。だから 遺跡・遺物は超人的なものと言う認識でした。
 其れを 「考古学的な手法」で初めて古墳を発屈した、と言われるのが水戸黄門様 水戸光圀だそうです。黄門様は 1692年、今の栃木県で発見された「上車塚」と「下車塚」を発掘しました。此れは1676年に発見された「那須国造」の名前を明らかにする為でした。黄門さまは水戸藩主と言えども、那須藩は他藩ですから、ちゃんと丁寧に手紙を出して了解を取り、そして発掘完了後は記録を取った後に埋め戻し、周辺に松を植えて整備迄して居ます。此れが黄門さまの偉い所でしょうか。其の作業の責任者と言われたのが佐々木助三郎・助さんだそうです。


考古学

2010-04-13 15:10:40 | 文学・歴史

 今日 静岡大学の市民開放講座の平成22年度前期授業が始まりました。今回は 滝沢 誠先生の「歴史と文化 考古学」を受講する事にしました。
 其の第一回講義を受けに行って来ました。考古学って地味な学問ですから、さぞかし人気も無く受講の学生も少ないだろうと思いましたら、何と教室は超満員でビックリしました。先生の話では、最近の映画「インディジョーンズ」の影響と漫画本の影響で、考古学が有る種のブームなのだそうです。だから 今回の受講生は定員をオーバーして、仕方なく生徒を抽選で受け付けたそうです。そんな事とはつゆ知らず、開講ギリギリに教室に行ってやっと着席出来た次第でした。
 冒頭から先生は「最初に断って置きますが」と前置きして、「勉強するに当たって次の事を承知して置いて下さい。」
 第一に 考古学は決して宝探しでは無い。第二に 出土品にに隠されているメッセージを読みとる。 第三に 研究材料は遠く離れた存在ではなく極く身近な所に有る。第四に考古学は、古い時代の事ばかりを取り上げるのではなく、歴史は人類の創成期から現代までの繋がりで有るので現・近代の事も取り上げる。
 以上の前提条件を踏まえて此れからの勉強を進めて行きます。と言う先生のお話から「此れは面白そうだ!! また先生の話し方も上手だし!!」と思って、此れからの受講が楽しみになりました。


理想の政治家

2010-03-24 13:22:00 | 文学・歴史
 江戸時代 幕府のひざ元で庶民や貧乏旗本達に依る反乱(打ち壊し)が何度かありました。とくに天明時代(1780年代)には、かの有名な老中田沼意次の「賄賂政治」で、商人が絶大な力を持って経済を支配して、幕府を凌駕して居ました。
 増長した商人達は贅沢を極め、武士や町人を馬鹿にして目に余る振る舞い振りだったと言われます。ご政道をあずかる筈の幕府役人も、商人達の御機嫌を伺い、御世辞を使い何がしかの御恵みに尻尾を振る始末でした。
 そんな状態に怒った庶民・下級武士達が堪らず暴発したのが此の打ち壊し事件です。其れで 田沼意次は老中を失脚、代わって老中になったのが松平定信です。
 松平定信は 徳川家一門の田安家の出身で、幼少の頃から俊英の誉れが高く、田安家の二男に生まれた為、白河藩の松平定邦の養子になりました。 もし 白河松平家の養子にならなければ徳川家治の後の将軍になったかも知れない、と言われた程の人物です。
 彼は 文筆も達者で、自分の名前「定信」を分解して「ウ下之人言(うげのひとこと)」と言うペンネームを使って日記風随筆、今で言うBlog的な文書を遺して居ます。
 其れに依れば 当時の庶民の不満が爆発した原因は『武士が自信と権威を失って、商人が傲慢になり、其の横暴・強欲な金儲けぶりに苦しめられた庶民の鬱憤の爆発である。 依って 此の問題の根本的な解決には、<武士の本分を回復させる必要が有る>。其れには「文=学問」と「武=剣道」を奨励して、弛み切った武士の心身を鍛え直す必要が有る。』と 定信は考えたのです。 其処で 幕府直営の教育施設として「素読所」を開設、成績優秀者を褒賞する制度を作り、剣術の大会を催して優秀者を表彰すると言う「文武奨励策」を実施しました。
 つまり 松平定信の偉い所は、役人の発想としては何でも取り締まる事を考えますが、そうでは無くて、其の根本的な改善策を考えたのです。
 今の役人の皆さんに見習って戴きたいものです。

鎌倉の大銀杏

2010-03-10 11:20:08 | 文学・歴史


 鎌倉の大銀杏が強風で倒れました。樹齢1000年以上と言われた、歴史的な大樹も遂に寿命が尽きたのです。
 此の大銀杏は、源頼朝の鎌倉幕府樹立も見て来たでしょう。そして 2代将軍頼家が修禅寺に幽閉されて、北条の手の者に殺された事も、更に 3代将軍実朝が、目の前で木陰に隠れて居た公暁に殺された事も、全部見て来たのでしょう。
 そして 人間達の醜い権力争いで、殺し合い争いあう姿をじっと黙って見続けながら、「人間とは 何と愚かな者か!何百年、何千年経っても全然進歩成長しない馬鹿な生き物だなぁ~!」と 呆れて居るでしょう。


山本静山門跡

2010-03-04 12:00:45 | 文学・歴史
 昭和天皇に隠された妹君が居た!と言う本を読みました。 文春文庫 著者は河原敏明 2002年11月10日発行です。 此の著者は、皇室のジャーナリストとして、永年取材を続け、皇室関係者に多くの人脈を持つ人だそうです。
 其の本の前書きに「双子を産んだ母親は、畜生腹と言って蔑視される。とくに男女の双子は前世における情死者の生まれ変わりと言われ・・・江戸時代には双子を恥じ、恐れてただちに踏んだり絞め殺す風習がおおかった・・・<平凡社 世界大百科辞典> 二十一世紀のこんにちでも俗信に依る悲劇はまま有るようだ」と非常にショッキングな内容で書きだされています。
 大正天皇と貞明皇后の間には 昭和天皇・秩父宮・高松宮・三笠宮の四人の子供が居ました。然し三笠宮は糸子と言う女の子と双子だったと言うのです。それが 前述の俗信の為、公式には女子誕生の件は宮内庁の計らいで密かに隠ぺいされてしまいました。 三笠宮は大正4年12月2日で、其のさいのお産要員の女官、当時の侍従、侍医、他元皇族、華族など延べ百人に及ぶ関係者に取材の結果、此の事柄に確信を得た、と書いて有ります。
 そして 此のお方は、その後 京都の円照寺の山本静山門跡として、平成7年4月12日まで存命で、80歳の天寿を全うされたと言います。著者は四度ご本人にお逢いして其の事を直接尋ねたのですが、静山門跡は終始沈黙してお答えにならなかったそうです。双子として生まれたばかりに悲劇の人生を送られた内親王として、宮内庁も今は内々ではみとめて居ると聞きます。
 

朝三暮四

2010-02-28 16:23:43 | 文学・歴史

 「朝三暮四」の意味について、国会で自民党の茂木敏充氏から質問をされた鳩山首相が、「朝決めた事と、夜決めた事で直ぐ変わる。すぐにものが変わっていく事だと理解して居る」と答えました。鳩山さんも麻生さんと余り知識の差は無いようです。
 正しくは 昔中国に、大変猿を可愛がって居て、沢山飼って居る猨公と言う人が居ました。 有る時 猨公は経済的に苦しくなったので、猿に与える餌代を節約しなければならなくなりました。其処で 猿達を集めて相談しました。
 「私はお金に困って来たので、お前達にやる餌のドングリを朝三個、夕暮四個にする」と言った所、猿達は歯をむき出し、キーキー叫んで怒りました。其処で猨公は「それでは朝四個、夕暮に三個にする」と言った所猿達は納得して平伏した。だから同じ事でも言い方次第で相手に与える印象が大きく異なる、と言う故事に基づくのです。
 従って 鳩山さんは間違って居るのです。


二二六事件

2010-02-26 18:14:15 | 文学・歴史


 1936年2月26日 青年将校達が武装蜂起した事件がありました。世に言う「二二六事件です」。近衛歩兵連隊他1483名の兵隊を率いて「昭和維新」「尊皇討奸」を掲げて蜂起したのです。
 何故 その様な事を起こしたのかと言えば、当時も今も余り変わって居ない政治腐敗と貧困が日本に深く浸透しており、此れを全く省みようとしない政財界に怒った血気盛んで、純粋な青年将校達が已むに已まれず暴発した、と言えると思います。
 其の時 東北地方はじめ 農村では、何年も続いた凶作で、生活に困って娘を売春婦として売ったり、又 劣悪な環境承知で徒弟として働かせると言う状況でした。
 其れにも拘わらず、政治家や高級官僚たちは、財閥と癒着して築地・神楽坂と言った所で連日連夜の宴会三昧でした。
 今も 政財界や高級官僚達が、国民の苦しみを親身になって見ようとして居ません。下手をすると「平成維新」の名の下に暴発する青年達が出るかも居れません。


司馬遼太郎

2010-02-12 15:59:45 | 文学・歴史

 今日 2月12日は 作家 司馬遼太郎の命日「菜の花忌」です。 1996年2月12日 突然の死でした。死因は内臓の大動脈瘤の破裂によるものでした。私も司馬遼太郎のフアンですから、死亡のニュースを見て大きな衝撃を受けましたので、当然何故亡くなってのか?ひょっとして犯罪?とか色々考えちゃいました。
 でも 何処に聞いても、奥さんの福田みどりさんに聞いても教えて貰えませんでした。今から思えば あまり死因をオープンにしたくない理由が有ったのでしょう。その後漏れ承る所に依れば、司馬さんは極端な偏食で、其の為に栄養が偏り、免疫力が相当低下して居たのではないか?と想像します。本人のエッセイを読みますと、「妻の料理は珍妙な味がする。私は極端な偏食で、かけうどんとカレーライスさえ食べておけばいいので・・・」と書いてあります。やっぱりこの辺りに死因の要因が有るのかな?と思います。そして 死の直後その死因を公にし難い所が有ったかも知れません。
 それにしても 享年73歳と言うのは未だ若過ぎます。未だ々々沢山の作品を世に出して欲しかったのに・・・私達読者にもっと作品を読ませて欲しかったのに。
 司馬さんの作品で一番好きなのは「燃えよ剣」「新史 太閤記」「項羽と劉邦」等ですが、晩年の作品は小説としては余り初期の輝きは有りませんでした。でも エッセイとして「街道を行く」などは其の豊富な知識と資料に基づいた説得力溢れる素晴らしいものでした。速読の名人で、友人と話をしながら、コーヒーを一杯飲む間に一冊の本を読んで仕舞ったと言う、超人的な技の持ち主だったと言います。其の速読力を駆使してあの歴史小説も、エッセイも書く事が出来たのですね。つくづく惜しい作家を失いました。残念です!!。


寄せ書き

2010-02-07 16:01:55 | 文学・歴史
江戸時代の古文書を勉強した際知りましたが、「寄せ書き」と言うものが「百姓一揆」に起因したのだそうです。
 江戸時代農民達は、一年かけて汗と涙を流して作ったお米を「年貢」として強制的に領主にうばわれました。其の割合は領主が五割、農民が五割と、比較的良心的なものが基本的でしたが、其れはたてまえで、領主の都合で其の割合が六:四になり、七:三、八:二となって終いには農民の取り分が二分しか無いと言う情けない状況になって仕舞うのです。此れでは農民は堪りません。だから 生き延びる為にやむを得ず「誤魔化し」をやります。 然も 作柄が豊作だとか、平年並みの歳は良いのですが、凶作の歳は悲惨です。例え凶作でも上納する年貢の割り当ては「検地」で決められた年貢高は変わりません。東北地方の青森や、岩手では餓死者が出る所までいきました。「天明・明暦の大飢饉」と言われる大飢饉です。此の時の餓死者は数十万人と言われ、餓死者の肉を喰らうとか、お互いの子供を交換して殺して喰らう事も有ったという話です。
 そう言う飢饉の時、農民達は止むに止まれず団結して立ち上がったのが「百姓一揆」です。当然 一揆の首謀者は磔(はりつけ)の刑と言う死罪です。其れを覚悟しての「決死の行動」です。
 その 一揆をおこす時、領主に提出する「連判状」に名前を署名するのに、一番右はじか、左はじに書くと「首謀者」にされて仕舞います。其れで 丸く円形に「寄せ書き状」に書くのと、誰が「首謀者」か判らないと言う知恵を絞った結果、作られたそうです。然し 領主の方も其れで簡単に騙されては居ませんでした。誰でもいいから一人首謀者らしき者を捕えて磔にすれば、幕府に対して面目が立ちます。適当に一人に向かって「お前だろう!」と言えば、其の男が慌てて「違います!○○です!!」と日頃から憎まれて居る奴の名前を言いますので、其の人は可哀想に村中を引き廻しの上、磔の刑にされたのです。
 江戸時代の残酷物語でした。
 

続いろごのみ

2010-01-21 12:12:00 | 文学・歴史

 今日の静大・岡崎先生の講義は今年度最後でした。あとは期末テストに入りますので授業は有りません。
 今日の講義は先週の「いろごのみ」の続きでした。先週も書きましたが、「いろごのみ」とは、風流の道「和歌」「文学」に魂をかけて居る人です。折口信夫の言う所の定義を其れを「正・誤」とはっきり決めつけるものではありませんが、有名な論文なので揚げて置きますと、
 「光源氏の色好みで特徴的なのが有る。末摘花という女性を愛した時のことです。此の末摘花という女性は決して美しい人ではなく寧ろ醜女でした。そして和歌や管弦のに優れた人でもありませんでした。どうして此の様な女性に源氏ともあろうものが手を出したのか? それは古代の結婚の形式は「忍婚」と言って、新郎・新婦は一夜を伴にした明くる朝、初めて顔を合わせると言う仕来たりがあったのです。だから 翌朝 初めて花嫁の顔を見た光源氏は末摘花の顔を見て、観念したのでしょう。
 然し 光源氏は、一度関係した女性を決して不幸にして居ません。最後までちゃんと面倒を見て居ます。此処が光源氏の「いろごのみ」たる所以です」
 成るほど 「いろごのみ」の光源氏も御苦労があったのですねぇ~


日本武尊

2010-01-04 12:02:01 | 文学・歴史


今日は毎年恒例で、草薙神社の初詣をして来ました。草薙神社は第12代景行天皇(紀元前13年)の息子日本武尊やまとたけるのみこと)を祀った由緒ある神社と謂われています。景行天皇の東日本の夷討伐の命令を受けて遥か大和の国から遠征して来たのす。
 其の有名な故事来歴にも拘らず、近年では神社の衰退振りが目立って居ます。此れは地元の銀行の営業をしている人に聞いたのですが、其の原因は住民達の意識の問題で、此処の住民達の構成は殆どがサラリーマンOBで、退職金も年金も充分貰って豊かな生活を送っています。然し 所謂「団塊の世代」で、丁度この団地が造成された時、此処へ越して来た転居族ばかりですから、郷土愛とか歴史などには丸きり無関心な人達の集団です。だから 自治会には入らず、町内の行事には参加しないで、防災訓練にも出て来ない「無気力・無関心・無責任」の日本を一番駄目にした年代なのです。
 其の銀行の営業マンの言葉は厳しいですけど、一方で貯蓄率の高さは抜群で、銀行や証券会社の上得意様が揃っておいでになると言う事です。日本武尊もきっとお嘆きのことでしょう。


ドラマのネタ切れ?

2009-12-22 20:34:10 | 文学・歴史

どうも 現在は作家不足と言うか、有力な作家が枯渇して居るのでしょうか?「司馬遼太郎」「松本清張」のリバイバルのドラマが頻りとテレビで放映されています。「坂の上の雲」「坂本竜馬」とか「松本清張生誕100年記念ドラマ」など・・・ひと昔前の作家の作品がドラマ化されて放送される事はファンの一人として嬉しいと思いますが、何だか違和感を感じて仕舞います。
 何故でしょうか?私の我が侭な主観の所為でしょうか?色々考えてみまして、ひとつの思い当たるポイントが有りました。それは 物語を書かれた時代背景とドラマが作られた時代背景の違いと思われます。
 それに 活字で読んだ物語と映像で見る物語との差は大きくて、新たな感慨が有るかと 楽しみにして居ましたが、少し期待外れでした。脚本か、演出か、出演者か何れかがどうも、私が原作を読んで受けた印象と違うのです。主に原作の進行速度とドラマのテンポが明らかに違うのです。 「坂の上の雲」で 司馬遼太郎は、<日露戦争では日本が幸運でロシアに勝ったに過ぎなくて、其れを実力で勝った、と間違えた軍部・国民があの悲劇の太平洋戦争へ突きっ進んで行った>と言う処を強調したかったのですが、それがドラマでどの様に表現されるでしょうか?矢鱈と勇ましい戦争場面ばかりじゃ無ければいいのですが・・・又しても同じ間違いを起こす奴が出るかも知れないから。
 原作の「松本清張」も「司馬遼太郎」も恐らく「違うじゃないか!もっと原作を忠実に再現してほしい!」と嘆いているじゃないでしょうか? それとも脚本・演出・演技の限界で「まぁ 仕方が無いか?」と諦めて居ますか。


源氏物語 其の十

2009-12-17 15:54:54 | 文学・歴史

きょうは 静大 岡崎先生の今年最後の講義が有りました。然し 今日は寒かったなぁ~
 今日のテーマは「長恨歌」と「源氏物語の『葵の巻』と『幻の巻』との関りに就いて」です。つまり 「長恨歌」と言うのは今迄勉強して来た「桐壺の巻」との関りはひと段落して、桐壺以降にも関りの有る所が有りますので、その所を勉強しました。
 「葵の巻」 葵の上は光源氏と夫婦になりますが、長女を出産して直ぐに亡くなって仕舞います。平安時代の男は妻の実家に入り婿見たいにして滞在するのですが、妻が亡くなって仕舞うと其の家を出て行きます。葵の上の父親である左大臣は、娘を失った悲しみと、光源氏と言う素晴らしい婿が居なくなった二重の悲しみにくれるのです。光源氏と葵の上のやすんだ御帳の前に源氏が使った硯があり、手習いをした紙が未だ残して在るのを見ると、見事な筆跡で漢詩や和歌が書いてある。此の人を婿殿としてお世話出来なくなって残念である。此の処に『鴛鴦瓦冷霜花重、旧枕故衿誰与共 <睦まじいおしどりをかたどった瓦は冷たく凍って、白い花の様な霜が深く置く夜、昔の枕や衿を誰と共にする事が出来よう>』
 次に「幻の巻」 此処は 亡くなった紫の上の事を想い、光源氏が一年中嘆き悲しんで居る暦です。季節を追い、時に臨んで長恨歌の一節を引用して居ます。
 「夕殿蛍飛思悄然、 <夜を知る 蛍を見ても悲しきは 時をともなき 思ひなりけり」
 「大空を かよふ幻 夢にだに 見えこぬ魂の 行方たずねよ」 此の<かよふ幻>が此の巻の標題になっています。 
 然し 日本人の情緒たっぷりな解釈と表現はチト執拗な感じがしますけど・・・


源氏物語 その九

2009-12-10 18:28:35 | 文学・歴史

今日の静大・岡崎先生の講義は『漢文の長恨歌と其れを解釈した平安時代時代の日本人』です。
 「長恨歌」は九世紀の漢(中国)の詩人「白楽天」の作った漢文の詩です。 此の詩が西暦844年「白氏文集」として留学僧 恵萼に依って持ち込まれた67編の中に在り、たちまち当時の平安文化人達に大人気となったそうですから、其の時から日本人の文化レベルは相当高かったと言えます。
 ただ 其の解釈の仕方が如何にも日本独特の叙情的で、主人公の感情を大きく膨らませています。
 1.例えば 原文 『養在深窓人未識 (養われて深窓に在れば人未だ知らず)』を 平安人が解釈して和歌に詠めば  源 道済『玉垂の 簾も透かぬ 閨の内に 君ましけりと 人に知らすな (大切に育てられて 深窓の奥深くに居る姫の事を余り他人に知らせるなよ)』
 2.原文 『三千寵愛在一身 (三千の寵愛一身に在り)』
和歌に詠めば 源 道済『ももしきの 君が朝寝の 移り香は 浸みにけらしな 妹が沙衣(帝が朝起きたく無くて朝寝坊して居ると 妃の香が移って浸みついてしまった)』
 此の様に 中国の漢詩は、発生した出来事を余り感情を込めず淡々と書いて居ます。其れに対して日本の和歌は、まるで漢詩の主人公になり切ったが如くに、情緒タップリに想いを膨らませて詠い上げて、謂わば情緒過剰とも言えるのが、平安期からこんにち迄綿々と続く民族性ではないでしょうか?
 でも 此れこそが日本民族の美点であり、此れ有らばこそ美しい「源氏物語」をはじめ数々の日本文学が生まれたのでしょう。


源氏物語 その八

2009-12-03 14:13:30 | 文学・歴史

 今日の静大 岡崎先生の講義は「源氏物語・藤壺の巻」に書かれた「長恨歌と和歌」の関係に就いてでした。
 『平安時代、源氏物語が書かれる前に長恨歌を詠んだ和歌は有った。
 伊勢(宇多天皇の七条の后に仕えた女流歌人)の歌集「伊勢集」の中に
 長恨歌の屏風を、亭子院のみかど(宇多天皇)書かせたまいて、その所所よませたまいける。
 <みかどの御心になして>・・・と詞がきして五首、<これはきさきの御歌にて>・・・と題して五首ある。
 つまり 「長恨歌の物語を絵に描いて屏風にしろ」と宇多天皇が絵師に命じて場面毎の絵を描かせた屏風を見て和歌を詠むのです。その歌に其の時代の人々の発想が読み取れたり、其の歌の詠み手個人のキャラクターが滲み出ている。そして それは当時(平安時代)の貴族達の感性が伺い知れる。
 其の内の一首 帝の御心にになして 
  「もみじ葉に 色見え分かず 散るものは もの思う秋の 涙なりけり」』
 漢文の長恨歌を解釈して、絵を描く能力と、其の絵を見て和歌を詠む能力を考える時、平安時代の人達の芸術的能力の凄さを思わざるを得ません。我々現代に生きる人間として、その国語力の浅薄な事は、悲し過ぎるくらいです。