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不老愚 助光 れいん坊

嘘、誤魔化し、怠慢を憤り、愛情、親切、思いやり、を喜び感動を記事にしています。

源氏物語 その7

2009-11-26 14:38:11 | 文学・歴史

今日の岡崎先生の講義は、先週の「長恨歌」と「源氏物語・桐壺の巻」の繋がりと言うか、「長恨歌」が此の物語の下敷きになって居る要旨の説明でした。
 白楽天の「長恨歌」は七言百二十行に及ぶものですが、八世紀 中国の絶世の美女「楊貴妃」と玄宗皇帝の、愛と悲劇の物語を詩にしたものです。 其の展開は 
 1.楊貴妃が玄宗皇帝に見出されて寵愛を受け始める。
 2.皇帝が後宮に3,000人も居た美女の中で、楊貴妃一人を溺愛した。
 3.そして皇帝が政務を疎かにして、来る日も来る日も楊貴妃に溺れた。
 4.挙句に、楊貴妃一族を諸侯に取り立てて沢山の領地を与えて厚遇した。
 5.其の為に、全土に不満が溢れ遂に反乱が起きた。
 6.反乱軍に楊貴妃が殺される。
 7.宮殿に帰った皇帝は、宮殿が楊貴妃の居た時と変わらぬ様子に、更に深い悲しみに浸る。
 8.皇帝は楊貴妃の事が忘れられず、方士(幻術を使って霊界に行ったりする人)に楊貴妃を探させた。
 9.方士は楊貴妃に出会い、楊貴妃は皇帝に形見の釵(かんざし)をたくした。
 10.そして皇帝と楊貴妃だけしか知らない詩を託した。其の詩とは長恨歌の最も有名な一節・・・
 『在天願作比翼鳥 (天にありては願わくば比翼の鳥たらむ)
  在地願為連理枝 (地に在りては願わくば連理の枝たらむ)
  天長地久有時尽 (天の長く地の久しき時に尽くること有りとも)
  此恨綿綿無絶期 (此の恨みは綿々として絶ゆるとき無けむ)』
 此の詩はこの「長恨歌」の最後の一節です。最終行に有る「恨」の一文字を取って「長恨歌」と謂われるそうです。此の物語の展開が、「源氏物語の桐壺の巻」の下敷きになっている、と言われますと納得してしまいます。「長恨歌」も「源氏物語」も底知れぬ奥深さを感じました。


源氏物語 其の6

2009-11-19 15:03:25 | 文学・歴史

今日の岡崎先生講義は「源氏物語と長恨歌の関係」でした。
 長恨歌は 昔の中国・唐の時代の詩人「白楽天」が、玄宗皇帝が楊貴妃の魅力に溺れ、政治を疎かにした為に、国が乱れ反乱が起きた故事を詠った漢詩です。
 桐壺の巻で、帝が桐壺の更衣を溺愛する余り、<楊貴妃のためしも、ひきいでつべくなりゆくに・・・>と、「源氏物語」の冒頭に此の「長恨歌」を引用して、何やら悲劇的で不穏な導入部を展開します。
 当時の女性は、ひらがなの読み書きは普通に出来たのですが、漢字は男性しか学んで居ませんでしたから、女性が漢詩の読み書きはおろか、その内容を著作の中に引用するなんてとても出来る芸当ではありませんでした。だから紫式部は特異な存在でした。彼女の父親の藤原為時は漢学者で、息子に漢文を教えて居ると、傍で聞いて居た彼女の方が先に覚えてしまい、「此の子が男だったら・・・」と父がため息をついたと言う逸話が残って居る程の才女でした。
 長恨歌は 七言、百二十行からなる大作で、玄宗皇帝が美女を求めて国中を探した事。そして楊貴妃と言う絶世のを見つけて、其の魅力に溺れ、政務を執ることを怠るようになた事。昼も夜も四六時中楊貴妃を傍らに侍らせて、後宮の美しい官女は三千人にも及ぶが、其の三千人に分け与えられる皇帝の寵愛も、楊貴妃一人に集中して仕舞った事。そして 楊貴妃の一族はお陰で沢山の領土を賜り、諸侯の待遇を受けて、我が世の春を謳歌して居ました。 が 当然 後宮の官女達をはじめ、世間から羨望の反感をかって、反乱軍の為に楊貴妃は討たれてあえない最期と遂げたと言う物語が長恨歌です。
 皇帝が楊貴妃を溺愛した悲劇と、藤壺帝が藤壺の更衣を溺愛した悲劇が相通じるものが有りまして、紫式部は其処にヒントを得て「源氏物語」を書いたのではないでしょうか?


紫式部

2009-11-08 19:16:00 | 文学・歴史


静岡大学の岡崎真紀子先生の教えで、源氏物語の事が少し分かって来た様な気がします。 以前には源氏物語と言うと、光源氏と言う「女たらし」が身分と権力に物を言わせて、偶々美しい容姿に生まれついた事をいい事に、で次々に女をものにする「とんでもないワル」の物語だと思って居ました。そして 其の物語を書いたと言う 紫式部とは 女の癖に「何と言う助平で、慎みの無い人間だろう?」と思い込んでいました。
 所が 今度 岡崎先生の授業を受けまして、色んな本を読んで勉強してみましたら、源氏物語が、奥の深い含蓄の有る物語であると思う様になりまして、 紫式部と言う人の事も これは「ただ者では無い」と思える様になりました。
 生年は973年、没年は1014年と推定され、父は藤原為時で漢学者、兄弟は兄(弟とも言われて居る)と妹だと言われて居ます。「紫式部日記」に依れば、司馬遷の「史記」を父に教えられて居た兄よりも、傍で聞いて居た彼女の方が先に覚えて仕舞い、父は「此の子が男であったら・・・」と言ったという話が残って居ます。当時の女性としては珍しく漢学を本格的に学んだ様で、此の事が源氏物語を他の物語と違ったものにし、後世まで読み継がれる一因だったのでしょう。
 其の才女振りが認められて、当時の絶対的独裁者藤原家長の娘(彰子)が、一条天皇に入内した時、其の女房として宮廷に勤める幸運に恵まれたのです。つまり 紫式部は、当時の女性としては超エリートで、藤原家長と言う歴史に残る強力なスポンサーの援助の元で情報の収集とか、資材(用紙など 当時としては貴重品)を心置きなく使って あの 偉大で膨大な源氏物語の作成が可能だったのです。
 やはり 紫式部は歴史的天才だったんですね。


源氏物語其の5

2009-11-05 15:19:48 | 文学・歴史

今日の静大の岡崎先生の講義は「源氏物語における時間表現について」でした。
 古典文学では、物語の進行時間軸は大体「一定のリズム」で書かれて居るものです。「源氏物語」が其れまでの文学の中で異彩を放っているのは、此の時間軸が変幻自在と言うか、緩急が物語の内容で違う処が有り、其れがアクセントとなって居て、読者にものがたりの魅力を感じさせているのです。
 例えば 一行で三年の時間経過を書いてある所⇒この御子三つになりたまふ年(桐壺)。 逆に 一夜の出来事を長々と数ページにわたり書いてある部分もあります。例えば⇒桐壺の更衣が亡くなり、帝が「ゆげいの命婦」を桐壺の更衣の母にお悔みに遣わした時、其の母と命婦との会話とか、其の命婦が帝に復命するシーンには、其の日の夕暮時から、次の日の夜明けまでの会話や出来事を事細やかに、本のページで10ページに亘って書かれています。他には 大体に於いて男女の濃密な会話が交わされる場面が此のページ数を多く費やされています。其処が源氏ファンには堪らない所になって居る訳です。紫式部の雅で柔らかい言葉遣いが千年後の今も我々の心を痺れさせるのです。日本の平安文学っていいですねぇ~


源氏物語 番外

2009-10-30 11:43:50 | 文学・歴史

今日の朝日新聞に『光源氏に別の顔』と題する記事が載って居ました。
 「大沢本」の<花宴巻>に 20歳の「光源氏」が、恋心を寄せる「朧月夜」に車越しに歌を詠みかけると、歌が返って来たが、其の事を「かろかろしとてやみにけるとや」との記述が有りました。「軽薄な女性だと思って其れ以上動こうとしなかった」と言う意味に取れます。当時は身分のある女性は、男からのアプローチに対しては、直ぐに返歌を出さず、然も直接の返歌もせず、付き人が代わって行動するのが通常でしたので、「光源氏」は、其の女性の余りにもダイレクトな行動にビックリして、引いて仕舞ったとという意味の様です。
 「源氏物語」は「紫式部」か書いた原本は平安・鎌倉・室町と時代の戦乱で焼失したものと思われて、現在では残って居ません。又 当時は 印刷機はありませんから原本を多くの人達が<書写>を繰り返して来ましたので、<誤写>も有りますし、意図的に改竄された部分もあるでしょう。
 そこで 此の原作から200年程のち、「藤原定家」と言う和歌の達人が、、色々散逸した資料を集めて編纂した本が「定家本」と言われ、今日では最も信頼できる本とされています。それに青い表紙が付けて有ったので「青表紙本}とも言います。
 其の「定家本」には記載されて無い文章が「大沢本」に載って居たと言うので大ニュースになったのです。此の 「大沢本」と言うのは、奈良県下の大沢家に伝得られて来た写本で、豊臣秀吉から下された、との伝承が有るそうです。
 未だ未だ未発見の「源氏物語の写本」が何処かの旧家で発見されたりして、又 新事実が出て来たりすると楽しみです。
 


源氏物語其4

2009-10-29 16:43:15 | 文学・歴史
先週の授業で、宿題が出て居ました。それは「源氏物語の桐壺の巻」に、此の物語のモデルとなった人物と思われる人が、二か所出て来る。其の場所を来週までに調べて来なさい。其の時『指します』からみんなの前で答えて貰います。」というものでした。
 これは大変だぁ!~と思いましたが、幸い答えは分かって居ましたけど、今日は指されませんでした。後部の方の席に座って居た女子学生が指されたのですが、チャンと正解を答えて居ました。
 正解は、一か所目。桐壺帝が、桐壺の更衣の亡くなった悲しみに浸り、『明け暮れ御覧ずる長恨歌の御絵、亭子院の書かせ給いて、伊勢貫之によませ給える・・・』の部分に有る、「亭子院」と言うのが宇多天皇の事。伊勢は宇多天皇の七条の后に仕えた女流歌人。貫之は古今集の撰者です。
 正解のもう一か所目。高麗から高名の人相見が来まして幼少の光源氏の将来を占うべく、皇居に呼び寄せようと思いましたが、『宇多のみかどの御いましめあれば』とあります。これは宇多天皇が皇太子(後の醍醐天皇)に譲位するにあたって「寛平御遺戒」と言うものを遺して、外国人を宮中に入れてはならない。と戒めたのです。
 此の様に「源氏物語」に実在の人物が実名で出てまいります。此れに依って「源氏物語」が「歴史」を「準拠」 していると言って居る研究者が大勢居ます。其の内 四辻善成と言う人が「河海抄」と言う本の中で、59代宇多天皇ー60代醍醐天皇ー其の息子が3人居て、長男=61代朱雀天皇、二男=62代村上天皇、三男=臣籍降下して源高明となった。そして 源高明は、眉目秀麗、頭脳明晰で当時の実権の運営者の藤原家にとって「煙たい存在」であった。其の為に讒言に遭い九州の太宰府に流刑されました。この辺が、光源氏が臣籍降下して「源」の姓を貰ったのと、須磨・明石に流された事件と「準拠」されて居る、と言う根拠だと言うのであります。

源氏物語其の3

2009-10-22 14:38:07 | 文学・歴史

今日の岡崎先生の講義は「源氏物語」の書かれた時代背景を詳しく説明するものでした。それも 只 平安貴族の生活ぶりとか言ったのもではなく、今から1000年前、当時の天皇(一条天皇)・宮中を中心とした勢力争いと、それに大きく翻弄された女達の恐ろしい葛藤ぶりを教えて頂きました。
 当時 藤原道長と言う人が居ました。此の人の権勢たるや並ぶ者無きで、此の人に「彰子」と言う娘が居ました。其の彰子を一条天皇の女御として宮中に入れました。勿論 藤原道長の権力に依ってです。
 然し 一条天皇には既に「定子」と言う先口の女御が居て、其の時定子淳康親王と言う天皇の第一皇子を出産したのです。だから当然定子は皇太子の母として揺るがぬ地位を得たと思いきや、其処へ割り込んで来た彰子が父親の権力をカサにきて、定子と並び立ち、凌ぐ勢いを見せたのです。
 それと言うのは、定子の父の親の藤原道隆が亡くなって後ろ盾が無くなり、藤原道隆の弟、道長が権力を握ってから宮中の采配を思う様に振る舞い、気の毒な定子は不遇な境遇へと追いやられて仕舞ったのです。因みに定子の女房(世話役)として仕えて居たのが「清少納言」でした。
 そして 勢いに乗る藤原道長の娘 彰子は宮中の最高位=中宮となり、一条天皇の皇子 敦成親王を出産、益々不動の地位を築いたのです。此の彰子に女房として仕えたのが紫式部です。
 ところで 「源氏物語」の冒頭 
 『いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらいける中に、…』とありますが、宮中には 天皇のおそばには 多くの女御・更衣と言う女性が居て、我こそは天皇のご寵愛を得んものと美を争っていました。其々の個人の魅力だけで無く、其々の父親の地位・身分の高さも争う要因になるのです。そして その中から天皇のご寵愛が目覚ましいたった一人だけが、「中宮」と言う最高位に就けるのです。でありますから 其の争いの凄さ、激しさ、恐ろしさはこんにちの我々には想像を絶するものだったでしょう。まして 女同士の戦いですから、さぞ陰惨な事極まりないでしょう。
 そんな中へ「源氏物語」の冒頭の主人公「桐壺の更衣」が居て、自分の父親の身分はそれ程高く無くて、それなのに飛びぬけて天皇のご寵愛を受けて居ましたから、他の女御・更衣達は収まりません。悔し紛れの猛烈な苛め攻撃に遭いまして、可哀想に病気になり、死んで仕舞います。
 こう言うところから「源氏物語」の書き出しが始まるのです。岡崎先生から詳細な時代背景を伺ってから、此の登場人物達の生き様とか悩み苦しみが良く分かります。1000年も前に女性に依って書かれた作品が如何に大作であるかが分かり始めました。


源氏物語其の2

2009-10-15 19:59:41 | 文学・歴史

今日は 静大 岡崎先生の第二回講義「源氏物語」がありました。本当は第三回なのですが、先週は台風18号の来襲で、休講になりましたので、今日が第二回になりました。
 今日の題目は「源氏物語」より以前の作品と、以後の作品にどの様に共通した部分があるのか?と言う事についてでした。
 先ず物語の冒頭部分の書き出しは、<物語の時代>=「源氏」以前は=「昔」と言う漠然とした時代。例えば「竹取物語」では「いまはむかし」と言ったもの。そして<登場人物に関わる人物の紹介>=「たけとりの翁というものありけり」と言う極ありふれた人物。それが「源氏物語」になると、<物語の時代>=いづれの御時にか、女御、更衣、あまたさぶらいたまいける中に、いとやんごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまうありけり。はじめより我はと思いあがりたまへる御方々、めざましきものにおとしめそねみたまふ。・・・」=つまり 物語の冒頭、主人公の成長に伴う様々な伏線を微に入り細に入り説明をして、物語の進展を大きく期待させるものになって居ます。次から次へと光る源氏の周辺に現れる女性が、まるで光源氏を翻弄して居るか、の如く読めるのですが、勿論 光源氏は希代の「女たらし」ですが、其の周辺に登場する女性達のキャラクターは言うなれば「好色な女性」である事は否定出来ません。だからこそ あの膨大な長編物語が出来て、1000年を経たこんにちも尚読み続けられて居るのでしょう。
 つまり 此の物語の書き出しは、其れまでの時代に書かれた物語の形を破った斬新なものであったという事で、此の「源氏物語」以後50年程後に書かれた、「夜わの寝覚」、「狭衣物語」などに明らかに「源氏物語」の影響が如何に大きかったか!!を 伺う事が出来ます。
 と言うのが 本日の岡崎先生の講義でありました。


有明の月

2009-09-07 13:28:28 | 文学・歴史


今朝 散歩をしていましたら まんまるい有明の月がぽっかりと浮かんでいました。私は詩心が有る訳でも無いのですが、ふと 呟いてしまいました。


「ほととぎす 鳴きつる方を ながむれば ただ有明の 月ぞ残れる」 後徳大寺左大臣


ほととぎすは鳴いて居ませんでしたが、秋の虫達が大合唱をしてました。此の様な心を持つ事が出来るのは静岡大学の岡崎真紀子先生のお陰です。


もう秋です

2009-08-29 11:28:28 | 文学・歴史


夏が行ってしまいました。大好きな夏がぁ・・・お~い夏よぉ~戻って来てぇ~ それは無理かぁ~  秋は夕暮れ、夕陽のさして 山の端いと近うなりたるに、烏の寝どころへ行くとて 三つ四つ、二つ三つなど飛び急ぐさへあわれなり。まいて 雁などのつらねたる、いと小さくみゆるはいとおかし。 日の入り果てて、風の音、虫の音はた言うべきにあらず。と 清少納言は「枕草子」に書きました。


しみじみ と 此の美しい言葉が身に沁みる季節になりました。写真は朝の富士山ですが、まるで夕焼けに見えます。


 


方丈記

2009-08-28 16:15:41 | 文学・歴史
鴨長明の随筆です。日本三大随筆に数えられる名作で、清少納言の「枕草子」、吉田兼好の「徒然草」、そして此の「方丈記」を言うそうです。
 「あさはあけぼの・・・」の枕草子は平安時代の言葉遣いが現代とかなりかけ離れて居て難解な部分が有りまして、私の理解力では苦労をします。
 「徒然なるままに・・・」の徒然草は其れに比べれば優しい言葉遣いで分かり易いと思いますが、やや宗教的の匂いがします。
 「方丈記」は鴨長明が「人とすみかの無常なる世間を逃れて、日野山の方丈の庵の生活に於いて獲得した、わが心のの安楽さと、その否定。」を主題として、書いたもので、其の文章は平易で私の様な者でも注釈無しで読めます。書かれた時代が鎌倉時代と少し現代に近いからでしょうか?其の冒頭の処
 『行く河のの流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。』は、世の無常を水の流れに例えてますが、此れは、のちに作られた「平家物語」の冒頭「祇園精舎の鐘の声。諸行無常の響きあり。奢れるもの久しからず・・・盛者必衰のことわりをあらわす」の名文句に繋がって行きます。
 鴨長明は 下賀茂神社の禰宜になるのが望みでしたが、其れが後鳥羽上皇の思し召しで実現しかかった時に、惣官の祐兼が反対して実現しませんでした。其の蹉跌に依って 出家・遁世してしまいました。
 そこで 大原 方丈の地に庵を構え隠遁生活を送り、「方丈記」を編んだと伝えられています。

高貴なお姫様

2009-07-31 16:27:36 | 文学・歴史

昨日は静大・岡崎先生の「百人一首」最後の講義でした。
題詠 「忍ぶ恋」
 八十九番 式子内親王  「玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらえば 忍ぶることの よわりもぞする」
意訳<わが命よ絶えてしまうのなら絶えてしまえ。このまま生き長えていたならば、堪え忍ぶ心が弱まって、人目につくようにでもなったら困るから>
 命が絶えるなら絶えてしまえ!此の激情!何と言う激しい情念でしょう? 問題は式子内親王と言う高貴な御身分の女性が、こんなに激しい「忍ぶ恋」をなさるチャンスがあるのでしょうか?と言う素朴な疑問を持って真面目に研究をした人が居ます。
 確かに内親王といえば天皇の皇女ですから、(実際に後白河天皇の第三皇女)高貴中の高貴なお嬢様ですから、宮中の奥深い所におわしますので、外部の若い男性の姿を見るチャンスも殆ど無いのでは・・・そして 此処は私の愚考で有りますが、こんな高貴な神々しいお姫様がこの様な「忍ぶ恋」などと激しく、狂おしく、生臭い事に身を焦がすなんて有ってはならない、と言うよりそんな事をして欲しく無いのでありますが、其処は高貴なお姫様と言えども人間でありますから、あっても仕方がないのでしょう。
 そこで 渡部泰明さんと言う研究家は、「此の歌は、式子内親王が、男になったつもりで男の激しい「忍ぶ恋」の悶々たる耐え難い気持ちを詠ったのだ」と、研究結果を発表してますが、私の個人的願望としては、やっぱり式子内親王が有りの侭のお姫様として、苦しく、耐え難い胸の内を詠んでしまって「おお恥ずかしや」と頬を赤らめて居る姿を想像すると楽しいではありませんか!!
 


女 恐ろしや~

2009-07-29 16:04:00 | 文学・歴史

今は昔・・・で始まる今昔物語 其処に「安珍と清姫」の凄まじいばかりの原話が有ります。
 「巻 第十四 紀伊の国の道成寺の僧、法花を写して蛇を救える語 第三」
 今は昔 熊野に参る二人の僧有りけり。一人は年老いたり。一人は年若くして形貞美麗なり。此の若い僧が「安珍」です。途中の村に来て日が暮れたので、人家に宿を借りたのであります。
 其の家の主が独り者の若い女「清姫」でした。(原作には、安珍の名前も清姫の名前も有りません。名前が出て来るのは近世の作になってからです。)此の家主の女 若き僧の美麗なるを見て深く愛欲の心を発してしまったのです。
 夜に入りて僧共既に寝ぬる時に、ひそかに此の若き僧の寝足る処に這い至り、衣を打ち覆いて並び寝て僧を驚かす。僧 驚き醒めて恐れ迷う。女の曰く「我が家には今迄人を泊めた事は無かった。然るに今宵あなたを泊めたのは、昼間貴方を見始めつる時より夫にせむと思う心深し。然れば 貴方を泊めて本意を遂げむ」と言って体をピタリと寄せて来ました。 イーヒッヒッヒとばかり私ならば大喜びですが。(コラ コラァ
 安珍君、大馬鹿者です「愚僧は修行中の身です。どうかご勘弁を・・・」と言って赦しを乞いますが、女はシッカリ抱きついて離れません。仕方なく安珍は「此れから高野山に上り、御明(みあかし)御幣(みてぐら)を奉って帰りに寄ります。其の時 貴女の言う通りにしましよう」と言ってその場を逃れますが、それは飽く迄もその場凌ぎの言い逃れでした。
 清姫は安珍の言葉を信じて、安珍の帰りを待ちました。 が 待てど暮らせど安珍は来ません。堪らず清姫は熊野まで出かけて行き、安珍の消息を探します。 行きかう人を捕まえて聞きますとどうやら安珍は既に帰ったらしい・・・騙された!!と知った清姫は怒り狂って大蛇になり安珍を鐘の中で焼き殺す訳です「おそろしやぁ~」
 


百人一首 99~100

2009-07-27 18:41:50 | 文学・歴史

今日の静大 岡崎先生の講義は「承久の乱」に絡んだ百人一首九十九番と百番の、後鳥羽院、順徳院の作歌の話でした。
 第九十九番 後鳥羽院 人もをし 人も恨めし あじきなく 世を思うゆえに もの思う身は
 第百番    順徳院  ももしきや 古き軒端の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり
いずれも 侭ならぬ思いに「恨み、辛み」を詠み込んで、昔を懐かしむ「述懐歌」です。
 頼朝を中心に武家の政権が台頭して来た「誠に厄介な鎌倉幕府」の為に、京都の朝廷の荘園を奪ったり貴族の財産を掠奪したりの、武士の専横に悩まされ、昔の醍醐帝、村上帝の治政が理想として聖代とされて居て、優れた帝が自ら優れた政治をして居たと言う時代を懐かしみ、「昔は良かった!昔に帰りたい!」と嘆き悲しんで居るのです。
 此の後 鎌倉幕府は三代将軍実朝が、いとこの公卿に殺される事件が有り、そのドサクサに乗じて後鳥羽院が討幕の旗を挙げました。息子の順徳院も渋々ながら父に従ったと言われています。後鳥羽院の見込みでは、 朝廷側は圧倒的に味方して来る兵が多くて、勝利間違いなし!!でしたが、いざ蓋を開けてみると此れが大誤算で鎌倉側に味方する兵力が信じられない程の数に成り、朝廷側の大敗北に終わりました。そして後鳥羽院は壱岐へ、順徳院は佐渡へ流罪となり、其処で生涯を終えました。
 時代の流れが、朝廷や貴族達ばかりにいい思いをさせる世の中に武士たち民衆がもう厭気が挿して居たのでしょう。
 そして 民衆に裏切られた後鳥羽院の歌、昔にいい時代を懐かしむ順徳院の歌が斯様に詠われたのですが、13世紀の初頭、日本では早くも貴族階級の没落が始まって居たのです。
 今日は 岡崎先生の一言で目から鱗が落ちました「和歌は 一人称の文学だから・・・」 成る程和歌というものが何となく解った気がしました。


聖徳太子 自殺?

2009-07-15 16:32:55 | 文学・歴史

聖徳太子は自殺だったのでしょうか?
 用明天皇の長男として生まれ、幼少の時から聡明にして、母が懐妊する時夢に金色の僧が現れて「我は救世の菩薩なり、暫くその胎に宿らむ」と言って胎に入ったと言われて居ます。 
 日本に仏教を始めて公式宗教として取り入れ、法隆寺や四天王寺を建立してこんにちでも其れが残る偉人です。
 仏教の教えを尊び、其れを邪魔しようとした有力者(時の大臣達)の妨害にも負けず、多くの人民を疫病や災厄から救いました。
 太子には三つの名前がおくられています。
一つ目は 「厩戸の皇子」厩で生れたとの伝説から、
二つ目は 「八耳の皇子」数人が一度に言った言葉を良く聴いて、一言も漏らさず裁いたと言われている事から、
三つ目は 「聖徳太子」教えを広め人を良く導いたから、とこんにち尚言い伝えられて居ます。
 其の聖徳太子が49歳の時、突然 「我 今夜 世を去りなむとす」と言い、沐浴し洗頭して、浄き衣を来て、妃と床を並べて臥し、翌朝は起床して来られなかったと言います。原因は謎です。何しろ1387も前の事ですから、色々言われて居るようですが、時の豪族(例えば蘇我氏)の陰謀とか有ったのでしょう。 矢張り 追い詰められて自殺したのでしょう。