「富士山 世界遺産登録!!」 昨日は一日中此のニュースで持ちきりでした。そして何より嬉しかったのは、三保の松原も登録に含める と言う事です。地元ではもう欣喜雀躍 手の舞 足の踏む所を知らず と言う具合の喜び様でした。
三保ノ松原は、一時 ゴミの捨て場になって仕舞い名所の名前が泣く状態でした。そして 其れを地元の有志の皆さんの涙ぐましい努力で、ゴミを拾い 松の手入れと大変な作業をしてこんにち迄来ました。
然し 三保ノ松原を除外すると伝えられた時も、諦めずに清掃活動を続けて来られた其の執念が見事報われたのです。
皆さんよく頑張りました!!おめでとう御座います。!!
「修二会」奈良東大寺二月堂のお水取り最大の法会、籠松明が昨夜行われました。北河原公敬別当は、放送で「北日本大震災の被害者に、自分の出来る事は力を尽くしてさい」と言いました。
長さ8メートル重さ70キログラムの籠松明に灯を燈して、担いだ童子が、二月堂一杯に駆け回りますと、二万五千人の観衆達からドッと歓声が挙がりました。
此の修二会は西暦752年に始まり、今年で1,262回になり、其の間度重なる戦乱や、天災にも、只の一度も途絶える事無く続いて来た歴史的行事です。
昔から 此の「お水取り」が済むと春が来ると言う風に言われて居まして、寒い冬をジッと我慢して来た人達が待ち焦がれた風物詩です。
人類の不祥事を懺悔・悔悟して、今年の平穏無事を祈願する法会です。どうか今年は大災害が起きません様にお祈りします。
間も無く3.11大震災から2年になります。テレビを始め、マスコミは此の災害を忘れない と 特集番組を流して大騒ぎです。
勿論 忘れてはいけない事は充分承知して居ます。然し 日本人としてもっと忘れてはいけない大被害を蒙った「3.10東京大空襲」があります。
1945年 3月10日 午前0時7分 アメリカ空軍 B29爆撃機279機が、1,300発の高性能焼夷弾を1,783トン満載して東京上空に来襲しました。
1発で6トンと言う破壊力のある焼夷弾を、高度10,000メートルの上空から、高性能レーダーに依る正確な爆撃攻撃で、都心の密集地に1,300発が無駄なく投下されたのです。
0時7分の爆撃開始から2時37分の終了まで、2時間30分の間に東京の街は殆どが焦土と化しました。
後に残ったのは、死屍累々たる屍の山で、正確には数える事さえで出来無くて、凡そ10万人とも、15万人とも言われて居ます。其の人達は、まったく無抵抗の民間人・女、子供、老人達でした。
3.11大震災の犠牲者は12,000人と言われます。が此れは天災に依るものです。然し 東京大空襲の犠牲者は、其の10倍に登るものです。然も これは天災ではなく、<人間に依る、明らかな殺意を持った、無抵抗な人間に対する大量殺人>です。
此の事に対して 戦後の日本の歴代政府は、一言の抗議も、何もして居ません。此れでは日本がアメリカ人に舐められても当然です。以前 アメリカ人から言われました。「何故 日本の政府は、此の大空襲に対して、何も言わないのだ。不思議でしょうがない。中国も、韓国も言うべき事は言って居るのに・・・」まさに其の通りです。みんな忘れてしまったのでしょうか?
<怨念>と言うものが本当に有るのでしょうか? 御近所にお住まいのAさんは、四年ほど前に家を新築されて引っ越して来られました。その前にその土地は別の人が立派な家を構えて、かなり派手な生活をして居られましたが、其の家の御主人が不幸にも病気で亡くなりますと、後は坂道を転がり落ちて行くが如くで、御主人の経営して居た会社は倒産、そして其の奥様も病気で亡くなり、息子夫婦も何処かに行って仕舞いました。風の便りに 夜逃げをして東京へ行ったとか聞きましたが、其の広い土地・屋敷は銀行の手に亘り、間も無く解体されて整地されて仕舞いました。
其の跡地をAさんが購入して家を新築されて入居して来たのです。そして其れから暫くすると、其の家のお爺ちゃんが病気で亡くなりました。更に お嫁さんが病気になり、余りにも不幸が続きますので色んな噂が立ちまして、御近所の奥様達の口づてに、あの家の前の住人の<怨念>が祟って居るとか、その前の住人の<怨念>が・・・と 他人の口に戸は建てられませんから、段々エスカレートして行きました。
そもそも此の地域には 鎌倉時代 幕府創建の立役者 梶原景時が、仲間の讒訴に逢い、この土地で無念の最期をむかえた と言う話が伝えられて居ます。 だから 梶原景時の<怨念>まで話が言って仕舞いました。偶然とは言え恐ろしい話です。
中国 西安にある阿倍仲麻呂の碑がペンキで汚されました。其の事を悔やんだ中国の知識人の皆さん達が、「もっと理性的な行動を・・・」と 中国民に呼べかけて居ます。其の中心になって居るのは、ジャーナリストの崔衛平氏、胡佳氏、賀衛方氏、各地医師達、報道関係者、其れに多くの学生達です。
中国の人達は 本来は冷静で、個人的には本当に暖かい心の持ち主です。それが <領土問題>とか言う<政治的問題>として政治家が介入して議論をすると、ややこしくなって纏らないのです。
阿倍仲麻呂(698~770)と言う 奈良時代の遣唐留学生は、中国で時の皇帝玄宗に其の優秀さを愛され、また 李白・王維と言う当時の中国の有名な詩人たちとも交友が有り、その名を今日に残しました。其の偉人を記念した碑を汚した行為を、中国人自身が恥ずかしく思って 自制を求める発言が挙がったのは、まことに嬉しい事です。 必ず日中関係は穏やかに治まるでしょう。
「尖閣諸島」 石原都知事が買い取ると発言してから、都の募金箱には毎日 数千万円単位の募金が有り増して、既に総計で四億円に登るお金が集まったそうです。日本人はお金持ちが大勢いるんですねぇ~
東日本大震災の援助募金と言い、先だっての竜巻被害の救援金も短時間で沢山集まって喜ばしい事ですが、皆さんは本当に、お金に余裕が有って募金なさっているのでしょうか?
其れなら宜しいのですが、余計な事ですが、本当の所はなけなしのお金を叩いて募金をなさって居るとしたら、いったい何故なんでしょうか? と心配して仕舞います。アメリカの短編小説 O・ヘンリーの「貧者の一灯」の様に、自分の身を削る様な募金をして居る人が沢山居るとしたら、此れは政治問題ですよ!
1885年に工事が始まったと言われる「琵琶湖疏水」の工事跡に残る、インクラインの桜です。京都には神社仏閣が多く有り、観光の目玉になって居ますが、私は個人的に此の「琵琶湖疏水」こそが京都の最高の観光スポットだと確信して居ます。
京都の街は 明治維新前後「禁門の変」や 東京への遷都、廃仏毀釈で寂れ切って人口も減り、此の侭では廃都になる、と危機感を持った第三代京都府知事 北垣国道が、灌がい・上水道・水運・水力発電を目的として、約25年の歳月を費やして完成させた大事業です。
琵琶湖に始まり、京都の鴨川に合流して、淀川を経て大阪湾にそそぐ此の大きな構想を立てた北垣知事の偉大さを改めて尊敬します。 特に南禅寺の辺りの疏水の情景は、とても日本のものとは思えない、まるでイタリアのゴシック調を連想させる趣が有りまして、私にとりまして忘れ得ぬスポットであります。
昨日の静大 湯の上教授の講義は「真言律宗」の話でした。この宗派は奈良西大寺流律宗の総本山として、こんにちの静岡県藤枝市に、765年称徳天皇の勅願により建立された「奇岩寺」として此の地域に広まった宗派でしたが、度々の火災に依って衰退していました。
14世紀になり 叡尊と言う人が寺を再興するのに尽力し、其の弟子の忍性と言う人の代に大いに栄えこんにちに至ったとされています。
昨日の話で 特筆すべきは、この「忍性」と言う坊さんの偉い事です。忍性さんは 理解力がやや弱く、お師匠さんの叡尊さんに「私は頭が悪く、お師匠様のお話を何べん聞いても理解出来ません。私は もう 修行を辞めた方がいいのでしょうか?」と聞きました。するとお師匠さんの叡尊さんは「お前は確かに頭が悪い。しかし実行力が有る。修行を続けなさい」と言われました。
忍性さんは 困っている人達を助ける事を<無私>の心で全力投球しました。昔風の言い方で人別帳にも載せられない<餞民>の人達を救う活動をしたり、<ライ病患者>を救う為に自分の背中に背負って運んでやったりしたそうです。昔の、<ライ病>は傍に寄るだけで伝染し、一旦感染したら不治の病として恐れられて居まして、人里離れた山奥などに捨てられて死を待つと言われました。その様な人を、自分の背中に背負うなどと言う事をする勇気・度胸・慈悲深いこころを持った偉いお坊さんだったのです。
あぁ こんな偉い政治家が今の日本に居たらなぁ~・・・と慨嘆するものであります。
アメリカのフイルムやカメラの最大手コダック社が破産を申請しました。 嘗て ロシヤ革命を成し遂げた ウラジミール・レーニンは、「資本家は 自分の首を絞める縄までも売って居る」と皮肉を言いましたが、アメリカのコダック社が破産した事象は、まさにこの典型と言えるでしょう。
コダック社と言えば、フイルム業界では超独占企業で、日本の富士フィルムや、小西六などは足元にも及ばないマンモス企業でした。
其れが皮肉な事に、コダック社の技術員が開発した、フィルム不要のデジタルカメラが実用化になると、其れまでコダックの後塵をはいして来た世界中のカメラメーカーが、一斉にデジタルカメラにシフトしたのです。
コダック社は 其れまでの業界でのポジションが、余りにも優位で有り過ぎたが為に、ついデジタルカメラへの商品の切り替えが遅れました。今まで見下し目線で相手して居たライバル達に負けて仕舞ったのです。デジタルカメラは<自分の首を絞める縄>だったのです。大河ドラマじゃありませんが「奢れる平家は久しからず」です。
昨日の静岡大学 湯の上教授の講義は「日蓮宗」の二回目でした。宗祖日蓮聖人の厳しい教えと、人に優しい教えは良く分かりました。
ただ 我が地元の富士宮であった創価学会の事件を想う時、日蓮宗の末端の出来事とは言え、余りにも酷い事だと呆れて仕舞いました。創価学会は、日蓮宗の支流の又支流の新興宗教団です。勿論 久遠の本佛の釈尊を根源として、絶対的「信」を持って「法華経」を信仰する日蓮聖人を崇拝する教団です。
毎年 日蓮上人の慰霊塔が有る大石寺(富士宮市)を、全国の信者達が団体で、毎年一回お参りに訪れるのが恒例になって居りましたが、1991年 大石寺から創価学会に対し<破門>を宣告され其の恒例行事は取り止めになりました。
街の人達の噂では 破門になった理由は 創価学会側は<教義の違いから来る論争>と言って居ますが、実は そうでは無くて信者達と坊主達のご乱行だったと、地元富士宮街の住民が証言して居ます。
なにしろ 当時は何十台もの観光バスを連ねて大石寺へ来ます。そして参詣が済んだ夜はお楽しみの自由行動です。タクシーに分乗した信者達は富士宮のネオン街へと繰り出します。さぁそれから夜を徹した「呑や歌えのドンチャン騒ぎ」で、街中が創価学会の貸し切り状態です。
最初の内は 信者達の宴会騒ぎで、街としても経済的な潤いは測り知れず有り難がって居ました。が 其の内 信者だけの騒ぎで収まらず、大石寺のお坊さん迄が参加する様になり、全国からは暴力団までが入り込んで、富士宮の街はさながら無法地帯になって仕舞いました。犯罪事件も頻発するようになり、街の住民から悲鳴があがりました。
遂に堪りかねた富士宮市から、大石寺に自粛のお願いをしたのです。大石寺としても、寺への寄進・街への経済貢献を考えて、堪え難きを堪えて<教義論争>を口実に創価学会を<破門>にしました。それから富士宮の街は灯が消えて仕舞いまして、今やまるでゴーストタウンです。
宗祖 日蓮聖人がこの話を聞いたらどう思うでしょうねぇ~
浄土真宗の開祖 親鸞聖人は<他力本願>を説きました。此れは「善人」は極楽往生をするけれども、「悪人」極楽往生出来ないのか?と言う疑問に対して応えた言葉です。
人間は 一生 <清く正しい行い>だけで生き続ける事は出来ません。例えば生きる為に魚を殺し続け無くてならない漁師、動物を殺さなくては生活出来ない猟師など、様々な生業の人達が、親鸞上人に「どうすれば自分達が救われるのでしょうか?」と必死に救いを求めた事に対して応えました。
<他力本願>阿弥陀如来をひたすら信じ、「南無阿弥陀仏」と心の底から唱えれば、善人も悪人も救われて極楽往生出来る。つまり 阿弥陀如来の<力>=他力 を信じて願えば=<本願>が叶えられる と言う事です。
最近では此の<他力本願>と言う言葉が誤って解釈されまして、<他人の力ばかりに任せて、自分じゃ何もしない事>を言うマスコミ報道も見られますが、本来の意味は違います。其の所為か 昨今の政治家は、何かと<他力本願(間違った意味の)>を振り回して困ります。
今日の静岡大学 湯の上教授の講義は「日蓮宗」のお話でした。日蓮宗は日蓮上人を開祖とする「南無妙法蓮華経」を唱える宗派です。
日蓮上人は1222年今の千葉県の生まれで、最初は天台宗の比叡山延暦寺に学びましたが、直ぐに「法華経」こそが唯一の仏陀の教えである、と確信し、1253年三十一歳のときに「日蓮宗」を立宗宣言をしました。
そして 時の幕府のお膝元である鎌倉で、辻説法をしたり、民衆を救うのは「法華経」だけである。と言う建白書を幕府に提出したり、と 激しい布教活動をしたので有ります。
日蓮上人は激しい性格の人で、弁舌さわやかで舌鋒鋭く宗論をすれば、反論する相手を完膚なきまでに説き伏せて仕舞うと言う、容赦無き戦いをしましたので、鎌倉幕府に警戒されまして、伊豆に流されて、さらに佐渡に流される迫害を受けたのです。
一方で 日蓮上人の教えは民衆に受け入れられまして、鎌倉末期から戦国時代にかけて爆発的に信者を増やしていきました。其のポイントは「無妙法蓮華経」を唱えれば厳しい修行をしなくても誰でも救われる、また「女性も救われる」、「おとこの所業は全ておんなの力なり」と言う民衆に分かり易く、女性に喜ばれる教えを説いて行ったからです。
12月13は中国に於ける旧日本軍が起こした「南京大虐殺事件」から74年になる、として中国で祈念式典が行われました。
此の事件は 1937年南京を占領した旧日本軍が、中国兵と南京の一般市民を、戦闘行為だけでなく、正当な理由も無く大量に殺害した、と言われている事件です。
中国側の言い分では 兵士と民間人を併せて33万人と言って居ますが、当時の南京の人口は20万人ですから、これは嘘です。当時 第3者の調査機関の作成した、スマイス報告書に依れば其の実数は33,470人となって居ます。然し未だに其の時の中国人犠牲者数を33万人と中国側は主張して居まして、酷いのは一千万人以上とは報道して居るメディアも有ります。俗に言う中国の「白髪三千丈」と言うヤツです。
事件の発端は 中国側のゲリラ作戦です。「便衣兵」と称する非正規兵(ゲリラ)が南京市民に紛れて日本兵を襲う作戦に出たのです。彼等は軍服を脱ぎ、市民と同じ服装で突然攻撃して来る訳ですから日本兵は、其の攻防に忙殺されて大混乱になったと言われます。
其処で 中国兵と民間人の区別がつかないので、日本兵は自分の身を守る為に、怪しき中国人を攻撃したのです。然も 日本兵が南京に入った時、夥しい数の中国軍服が街中に脱ぎ捨てられて居ました。此れが日本兵の警戒心を煽りました。
斯様な条件の下で発生した南京事件です。其れを正しく報道されない侭こんにちに至って居ますし、日本政府の外務省は何故中国の過剰報道に抗議しないのでしょう? 兼ねてより日本の全ての外交が、弱腰・工夫不足と言われるのは、此の様に相手国の間違いを正すべき努力を怠って居るからです。
今日は播州赤穂の浪人が、江戸本所の吉良上野介邸に討ち入り、見事 吉良上野介の首を討ち取った日と謂われて居ます。元禄十五年(1702年)十二月十四日(現在の暦では1702年2月10日未明)漸く夜の明け始めるころやっと吉良を発見、首を取り主君の無念を晴らしたと言うドラマチックな話は、其れから300年以上経ったこんにちでも色褪せる事無く語り継がれて居ます。
此の話は 元禄時代と言う平和で退廃的な時代で、徳川幕府の政治に対する庶民の不満・ストレスが溜まった処に発生した集団テロ事件だったのです。
だから幕府としても此れを利用して庶民の不満のガス抜きにしたのです。時の幕府の最高実力者 老中 柳沢吉保は彼等テロリスト達の動向を早くから把握して居り、大石内蔵助を始めとする主要メンバーが、江戸に集結して着々と準備をして居る事を、手に取る様に知って居たと思われるふしが有ります。と言うよりわざと討ち入りをし易い様に、吉良の屋敷を警戒厳重な江戸城近くから、警戒が手薄な本所松坂町に移住させて居ます。
ですから「打ち入り成功!」の一報を聞いた時、柳沢吉保は「快哉なり!」と 手を打ったと伝えられて居ます。ガス抜き成功です。
勿論 江戸庶民達の喝采・喜びは物凄く、赤穂浪士を英雄として讃える声は大変なものであったでしょう。幕府内からもかなり「助命嘆願」も有りましたが、然し 天下の御法度で「集団テロ事件」「凶器準備集合罪」で全員切腹になりました。
昨日の静大 湯の上教授の講義は「禅宗」に就いてで、大変面白く拝聴しました。
禅宗が日本に渡来したのは平安時代の初期と言われて居ます。そして日本から多くの僧が勉強・修行の為に中国に渡りました。
十三世紀になると逆に中国から日本への渡来僧が、記録に残っているだけで29名も居ます。恰も十三世紀は渡来僧の世紀と言える程頻繁に禅僧が来ました。そして 様々な文化(良い事も、良くない事も)伝えて呉れたのです。
禅宗には厳しい戒律が有ります。<魚>などの生き物を殺して食べてはいけない。<酒>を飲んではいけない。と 言われて居まして、犯せば<破戒行為>として<破門>と言う罰則が有ります。
処が 中国の禅僧達は其処に抜け道を作りました。
魚===水咲花
酒===般若湯
と言う隠語を作りまして、白昼堂々と飲み喰らって居ました。
其れを日本から、真面目に禅宗の修行に遥々海を渡って行った純真無垢な少年達が見て、度肝を抜かれる思いだったでしょう。
「悪歌は良歌を制す」で悪い風習は忽ち世に広まります。が然し 日本に帰国した留学生たちは、中国での其の「悪習」に染まる事無く、まじめに修行をして来たと言いますから(なかには多少染まって来た奴も居たでしょうが)、当時の日本人は真面目だったんでしょうね。エライ!エライ!