司馬遼太郎著「アメリカ素描」の続々編です。此の中で司馬さんが指摘している事柄で、面白いのは、『日本人は、外国から与えられた大きな衝撃的出来事を、情緒的に捉えるが、アメリカ人は、徹底的に実利的に捉える』と言う所です。
つまり 幕末 ペリーが浦賀に来て、脅迫によって開港を迫った事、或いは第二次大戦で負けて、マッカーサー元帥が占領軍を率いて来た事、等を見ても、ペリーを「開国の恩人」と言い、マッカーサーにも民主化日本の恩人と言います。
其れは 言うなれば日本人の勝手な思い込みで、肝心のアメリカ人にして見れば、飛んだ勘違いで、彼等は只「目的を達成する為の行為」をしたに過ぎないのです。ペリーは捕鯨船の補給基地として日本の開港をさせただけですし、マッカーサーは連合戦勝国として、敗戦国日本の自暴自棄的暴発を鎮めて、ソフトランディングをせしめる目的で占領・戦後処理をしたのです。
ところが 戦後の日本国民は、マッカーサーを日本再建の恩人と捉え、10万通を超える手紙をマッカーサーに寄せ、其の内容は殆どが「閣下は 日本再建の大恩人で、閣下の採決は、些かも誤る処が無く、日本がこんにち有るのは、将に閣下の御英慮、御英断に依るものであります」で有ったと言われます。さぞかしマッカーサーも苦笑を禁じ得なかったでしょう。戦争で命を奪った憎むべき相手に対して、此の「お追従」をして来る日本国民は、いったい底抜けの馬鹿じゃないか!?!其れとも何かアメリカ人の考え付かない程の「恐れしい魂胆」があるのか?と不気味なもの」を感じたではないでしょうか。
何しろ アメリカと言う国の成り立ちからして、殺し合い、騙し合いでしたから。先住民が平和に暮して居た所へ、喰うに困った難民達が無理矢理割り込んで来て、略奪・殺人の限りを尽くして打ち立てた国なのです。だから 今でも他国を信用しません。日本も勿論警戒されてます。
然し今では そんな魂胆が無いと判って、完全に舐められちゃって居ます。政権が短期でクルクル代わるし、自動車はリコールの連続だし、其の所為で国民までが馬鹿にされて居ます。
司馬遼太郎のアメリカ素描の続き
『文化とは、 基本的には大勢の人間が他人と共に暮らす為の行儀や、規範の事で、母親の子宮内では養われず、出生後の家庭教育や村内での教育に依ります。此れを井上ひさし氏は、他の哺乳類が持たない<第二の子宮>と見事な表現で、此れを煮詰めて言えば此れこそ文化である。』
以下は私の意見です・・・
アメリカでは、他民族の貧困層の不法流入が続き、此の頃では此の第二の子宮を経験して居ない者達が多くなり、益々増えつつある様です。第一不法流入した民達は、食べる事が出来なくなり、生き残るには他に道が無くてアメリカに不法侵入して来たのですから、行儀とか規範、モラルなんて言ってる場合じゃ有りません。だから 押し並べてアメリカ人のモラルの低下は甚だしく、此の国が世界一の軍事力を有して居る、そして個人としては、銃を以って我が身を守るのが正当な道だと信じて居るなんて恐ろしい限りです。アメリカは、人口の5%に満たない極僅かなセレブな人達が政治と経済の実権を握って居る超格差社会です。其の格差は益々広がって居ます。其れが国内中のストレスとなって溜まって居ます。間も無く其の飽和点に達すると爆発しますが、アメリカ社会は全て自己責任で始末を付ける国ですから、爆発が連鎖的になり、収集が付かなくなるでしょう。
私は 此のアメリカを敢えて「野蛮国」と呼びます。此の「野蛮国」と<安全保障条約>を締結して居る日本も、政治家が間抜けですから「野蛮国」の煽りを喰らわないか?と心配します。
大仏様が、お盆を迎える為に綺麗に洗って貰ってます。
奈良の大仏様(盧舎那仏)は西暦758年 聖武天皇が幼くして亡くなった皇子の菩提を弔う発願で建立されました。其れの為に要した費用は莫大で、当時の民衆の疲弊ぶりは想像を絶するものが有ったと言われます。其の為に食べ物に有り付け無くて餓死者は出るし、絶えられなくて逃散する者も出るし、弱者の人民達は塗炭の苦しみに見舞われたのです。
今では観光客や、修学旅行の生徒達に「ウワァ~大きい!」「スゴォ~イ!」などと言って感動を与えて居ますが、今から1252年前に建立された時には、強制労働させられるは、重い租税を取られるはで、人民は悲惨な目に遭ったんですね。此れは聖武天皇と、光明皇后と言う独裁者の甚だしい公私混同です。大昔はこんな事が有ったのですが、今でもどこぞの国でやってる奴が居るのでしょう。
広島に65回目の原爆投下記念日が来ました。今尚 其の時の後遺症で苦しみ続け、死亡する人達が絶えません。死亡者の数は、延べ二十七万人になります。
こんな酷い目に遭わせたアメリカは、呆れた事に、此の時 原爆を投下した爆撃機G-29を、スミソニアン博物館の野外展示場に展示して、事もあろうに「アメリカが広島と長崎に原爆を投下した事に依って、戦争を早く終結出来て、多くのアメリカ人の命が救われた」なんて、とんでもない碑文を掲げています。此れに就いて日本政府は、一言の抗議もして居ません。また マスコミもこの事実を只ニュースとして報道しただけで、何も抗議めいた記事を出して居ません。
アメリカでは、此の爆撃機の機長を英雄として扱い、爆撃機の名前を<エノラ・ゲイ>と機長の母親の名前を付けて、まったく二十七万人の命をなんと心得て居るのでしょう? 尤も この名前は<悪魔の名前>として永遠に後世に残るでしょう。
アメリカ人は、9.11テロの時に、三軍を総動員してアフガニスタン全土を焦土にした、あの愚か極まりない報復攻撃をした、いや未だ続けている事に、省みて 広島や、長崎の多くの犠牲者の無念で、言葉に出来ない悲しみを思い至らないのでしょうか?
何かと言えば<報復攻撃>しか思いつかないアメリカ人の情けなさ、愚かさ、銃でしか身の安全を保持出来ないと思い込んでいる馬鹿さ加減を思い知らしめるには、オバマさんでは無理でしょう。
日米安全保障条約と言う条約が有ります。これは日本が外国から攻撃を受けて、存亡の危機になった時は、アメリカが日本を守って呉れる、筈だと言う条約です。此れは1951年サンフランシスコ講和条約締結の時、まるでドサクサに紛れて締結させられたものです。アメリカとしては、「講和条約締結」でアメリカの占領下に有った日本の独立を認めてやる代わりに、此の「安保条約」を飲め!と迫られたのです。日本は占領国アメリカの蹂躙から逃れて独立を一刻も早く獲得したい一心でした。其の弱みに付け込まれたのです。
其の時の首席全権 吉田茂はこの条約の文言を見て、「此れは占領国に依る不平等条約だ」と直感して、同行の重光葵に「これはあとで問題になるから、私一人がサインする。君はサインをするな」と言ったそうです。
最大の問題点は、アメリカ軍の駐留を、日本から希望する事。そして外国からの教唆・干渉に依る内乱・争乱が起きた場合のアメリカの援助は、内政干渉に当たらない。またアメリカ以外の第三国への基地使用を認めない事。そしてアメリカ軍基地内は日本のあらゆる権利・権限は認めない事。また 日本のアメリカ軍基地から、他の国への出動は(ベトナム・アフガニスタン等)自由であること。 その他諸々の占領国としての優先権があり、それが今尚、沖縄を始め日本中の基地の街を苦しめて居ます。然も 「いざという時にはアメリカ様が守って下さる」と言う未だ一度もその証拠を見せて貰って無い約束にしがみ付いて居る、日本政府は、他国からは「何と言うオバカな政府だ!」と大笑いをされているでしょう。吉田茂が心配した通りになりました。そしてあれから60年経たこんにちでも、此の不平等条約を、日本政府は<改正>或いは<破棄>と言う動きを全くしません。つまり日本政府は未だにアメリカの精神的占領下にあります。「日本人は、大声で一発恫喝すれば直ぐ引き下がる」と言われます。
もしも 日本が何処かの国から攻撃されて、「アメリカ様!お助け下さい!」と言っても、アメリカは自国の防衛に精一杯です。とても日本を守るなんて余裕はありませんし、元々そんな気は無いのです。アメリカは日本列島を、アメリカ本土の防衛前線と認識して居るだけです。其れでも国民の税金を何千億円とアメリカの為に遣って居る日本政府は何と言うオバカでしょう。「日米安全保障条約」なんて破棄すればいいのです。それでもアメリカは何も出来ませんし、今までと何も変わりません。沖縄の問題も、全部片付きます。其の時 初めて世界から日本が独立国として認められるのです。
1945年8月15日 日本は連合国軍に対して、ポツダム宣言を受け入れ、<無条件降伏>をしました。そして 其の13日後の8月28日、僅か150名からなる占領軍先遣隊が無血上陸しました。連合国最高司令官マッカーサー元帥が厚木飛行場に降り立ったのは、其の2日後の8月30日でした。そして 9月27日、敗戦国元首たる天皇は、マッカーサー元帥を訪問しました。此れは天皇の方から「マッカーサーに会いたい」と言われたからです。此の会見は前後11回に亘りました。
其の会見の様子は、1955年の記者会見で、マッカーサーは回顧して居ます。重要なのは最高権力者マッカーサーが、少なくとも初対面の天皇に<鮮烈なる好印象>を抱いた事です。天皇から<自己弁護の言葉>を聞かされるとばかり思って居たマッカーサーの前で、天皇はこう述べたと言います。
「私は、戦争遂行の過程で発生した全ての事態に全責任を負う。私は、日本の全指揮官と、全政治家の行動にも責任を負う。私の運命に関する貴下の判断がどの様なものにせよ、其れを下して頂きたい。私は 全責任を負うものである。」
マッカーサーは此の天皇の言明に感動し、「私は 彼にキスしたい気持ちだった」と述懐して居ます。
此の時点のアメリカの世論は、77%が<処刑を含む処罰要求及び天皇制廃止>でしたが、マッカーサーの尽力で<象徴天皇として、天皇制>が存続されたのです。
<昭和天皇の人柄>が当時のアメリカ人の心を動かして、危うく2600年の伝統が絶たれるそうになったのを<自己弁護をせず><許しを乞わず>自然体で守ったのです。
私は 昭和天皇は只の飾りだったのかな?と思って居ました。然し この原彬久の本を読みまして、改めて其の偉大な人柄を知らされました。
永野護の「敗戦真相記」と言う著書に依れば、『日本軍部が、近代戦の実態を知らず、いたずらに我が民族の精神力なるものを過大評価すると言う、<宿命的な独断>に有って、某将軍の如きは「竹槍と握り飯とを以って米国を撃滅で来る。」と本気になって全国に演説してまわった。一方 米国側は、「いやしくも近代戦の何たるかを少しでもわきまえていれば、此の計算を知って居るに違いないから、戦争は起きる筈は無いと思い込んでいた』更に 『近代戦の勝敗は、「化学兵器」の威力とマネージメントの効率性で決まる。「化学兵器」の日米格差は言うに及ばず、マネージメントの彼我の隔たりは「化学兵器」の其れよりも深刻であった。例えば、工場に欠かせない熟練技術者を兵隊に出して仕舞って、<馬を洗わせたり、壕を掘らせたり>させる一方で、工場の能率が落ちたとなれば、今度は<壕堀りのうまい古参兵を工場に送って来る、と言う逆手を打つ、と言う此の手の事は枚挙にいとまが無い。そして更に<軍部の縄張り争い>だ。戦争資材の奪い合い、必要で有る・無しに拘わらず先陣争いで我がものにして仕舞う。機械部品は全て陸軍・海軍で共用出来ない仕組みになって居た。何故なら 陸軍が右ネジにすれば、海軍は左ネジにする、と言った具合で、実に下らない縄張り争いの齎した最低レベルの状態で、日本は戦争に負けるべくして負けたのだ』
こんな酷い軍人達に、国の命運を任せて戦争をさせて仕舞ったのです。其の結果、東京、広島、長崎、沖縄で、何十万人もの犠牲者を出し、其の他でも多大な犠牲者が出て、正確な数字すら未だに把握出来ないのです。その未だ浮かばれない600万超の霊魂に向かって、どの様にすれば良いのでしょう。
太平洋戦争が開戦されて仕舞っても、吉田茂は戦争の早期終結の為に努力をして居ます。其の最初の切っ掛けは、開戦の翌年 昭和17年2月のシンガポール陥落でした。緒戦以来赫々たる戦果を挙げて来た日本軍は、イギリスのアジア生命線とも言うべきシンガポールを攻略しました。其処で吉田は此の時こそ好機と考え、天皇側近の一人 松平康昌(内大臣秘書官長)を通じて木戸(内大臣)に和平工作の計画を上申しました。木戸内大臣の意中は、「シンガポールが陥落した今こそ、和平工作の好機ととらえるべきである。」と言うものでした。其処で吉田は計画を立て、近衛公をスイスに派遣して和平工作を進める事を考えたのです。吉田からこの計画を聞いた近衛公は驚いた風でしたが、吉田は更に説きました。「海空からは甚だ危険ですが、朝鮮・満州からシベリヤ鉄道を利用すれば多少の困難はあっても、スイス迄行けない事は有りません。貴方はジュネーブで釣りでもして居て下さればいいのです。イギリス・オランダ・アメリカ各国との交渉は、私が奔り回ります」
かくして吉田は近衛公の希望で、木戸内大臣に話を通す事になりました。そして 吉田は、近衛公をスイスに派遣する計画書を木戸内大臣に提出しました。然し 木戸内大臣は東条英機首相を恐れる余り、此の計画書を握り潰して仕舞ったのです。それで 吉田の折角の計画も敢え無く頓挫しました。
しかし 吉田は諦めません! 次は戦争末期、今度は自分が命懸けでスイスに和平工作に行こうと言うものでした。つまり 敵軍の目に止まらぬ様に、潜水艦で吉田をスイスに運び和平工作をやろうと言う、奇抜と言うか杜撰と言うか凡そ用意周到とは言い難い計画でしたが、吉田は凄く乗り気で、「危険過ぎるから」と止める人が有りましたが、「死んだっていいじゃないか!!」と本気で言ったそうです。でも 潜水艦の手配が出来ず、此れも不発に終わりました。
凄いですね!! 今時の政治家達に「国の為に死んだっていいじゃないか!」と本気で言える者が一人だって居ますか?選挙の票勘定ばっかりしている肝っ玉の小さい輩に、此の万分の一の気骨が有ればと思って仕舞います。
まもなく65回目の8月15日敗戦記念日を迎えます。
太平洋戦争の開戦前夜、日本の国内では「欧米討つべし!」一色に染まって居た訳では無かった様です。軍部が武力による脅迫的手段で、新聞・ラジオのメディアを利用したプロパガンダで、無智蒙昧な国民を戦争へと誘導したのです。
然し 其の中に在って<何とか戦争を回避したい!>と願って居る人が居ました。それは 先ず昭和天皇です。其の時総理大臣になったばかりの東条英機に大命を下すにあたって「9月6日の御前会議(対米英開戦の決議)の決定を白紙に戻して、平和になる様、極力尽力せよ」と東条に伝えて居ます。然し「開戦」へと走る東条は、其れを無視しました。
次に 吉田茂です。吉田は、東条内閣の外相東郷茂徳に、アメリカが提示して来た「ハル・ノート」が、まるで日本に対する最後通牒であるかの如く解釈されるが、其れは決してそうでは無い!彼の得意の英語で判り易く解読して東郷に示し、此のノートの左上には注釈が有り、其れには<交渉の基礎であり、決定的なものでは無い>と記されている、と説明して、東郷外相を説得するとともに、その足で米国駐日大使グルーと会いました。グルーは此れを聞いて「卓を叩いて語調も荒く」こう捲し立てました。「日本政府あれを最後通牒なりと解釈し、日米外交の決裂と吹聴しているが、大きな間違いである!!」
吉田はグルーの申し入れを受けて「グルー・東郷会談」を東郷に迫りますが、東郷は言葉を濁してグルーに会いませんでした。結局 東郷には東条英機首相の圧力が効いて居て、吉田茂の「開戦回避運動」は空しく終り、12月8日「真珠湾攻撃」と言うルビコン川を渡って仕舞ったのです。そして哀れな日本国民は、何も分からず何も出来ず、600万人もの貴い命を奪われて仕舞ったのです。
今日の静大 滝沢先生の「考古学 第15回」は、今年前期の最終講義でした。それで今回は、今迄の講義に就いて、生徒達からの質問事項に対して先生が答える、と言うものでした。先週の抗議の際に、質問票の形で提出されたものを巧く纏めて、其れに答えながらの講義する、と言うさすが大学の先生だけあって、上手に纏められて居ました。
其の中でも、特に面白かった質問は「一般人が<遺跡・遺物>を発見したら、何がしかの報酬が貰えますか?」と言うものでした。
先生の答えは「残念ながら何も貰えません!また 発見した遺物は自動的に国や、地方自治体の物になります。もし 発見した土地が自分個人の所有で有っても、それは矢張り国や地方自治体の所有物になります。以前 テレビの番組で、<徳川幕府の埋蔵金発掘>と言うのが有りましたが、あれも、もし発見出来たとしても、国の所有物になります。それを『俺が見つけたから』と言って<ネコババ>すると<遺失物隠匿罪>と言う犯罪になります。」でした。
余計な事ですが、もし埋蔵金が見つかったらどうなって居たでしょうね!?!
初めから勝つ見込みの全くない、そして始め想像した以上に無残な結果をもたらした戦争を、「無条件降伏」して以来65年経った今、私達は重大な忘れ物に気が付いて居ません! つまり 敗戦国家として、「あの戦争の総括を未だにして居ないのです!」確かに連合国に依る極東軍事裁判で、A級戦犯を始めとする戦犯達の処刑・処罰をされましたが、其れを以って我が国の政治家達も、有識者達も、マスコミも、国民達も「あの戦争の総括」が終った、と思って仕舞ったのです。そして其の後 個々には戦後の総括を取り上げた人達は居ましたが、国家的なものとしての総括を未だに為されて居ないのです。
だから 今尚 中国や韓国、東南アジア諸国から、日本が何時また戦争を始めるか分からない!不気味な国としてのイメージを払拭出来ないと疑われて居るのです。何しろ日本は<勝てる見込みの無い相手に戦争を仕掛ける>と言う馬鹿な国ですから・・・巣年前 北朝鮮系出身の在日の人に衝撃的な事を言われて、非常に驚きました。「金正日が恐ろしいとか、北朝鮮が恐ろしいとか言いますが、日本の方がよっぽど恐ろしい!何しろあの馬鹿な戦争を国民一丸でやって仕舞ったのだから。そして其の事を、なし崩し的に時間と共に風化させようしているのだから・・・再発防止策も無く、其の為の総括もせず!」
其の<馬鹿な国>になって仕舞った要因をトコトン総括する事が、また其れを正しく認識する事が国家として重要な事であり、其の認識が有る事を、内外に公称する事が対外的な信頼を得る道ではないでしょうか! 近隣諸国から見れば、日本には未だ「大和魂」と言う悪臭漂うゾンビが潜んでいると思われて居るのです。
昨日は 静大・滝沢先生の考古学の講義第14回が有りました。今年度上期の授業は此れで来週の一回で終了です。其の跡は愈々学生諸君にには地獄のテスト週間が待って居ます。暑い中 諸君!頑張りたまえ!!
扨 今回のテーマは
1.遺物の整理と保管。
2.遺跡の保存と活用。
3.整理の方法。
4.今後の課題。
以上の4点でした。此の内 遺物の整理と保管に就いては人海戦術に依る、大変な時間と費用を要する事では有りますが、此れは後世の為に誰かが辛抱強く遣らなければなりません。人類の先輩達からのメッセージを地道に拾い集めて整理して行く作業です。
此れはいい考えだと思ったのは、明治大学の安蒜(あんびる)教授の考えで、遺跡を「花畑」にする、というものです。遺跡を只発屈して囲いをして、<立ち入り禁止>にして置いても、雑草が生えたり、ゴミが溜まったりします。そこで 遺跡の周りに綺麗な花を植えて、<お花畑>にして自由に入れる様にすると、花に誘われて人が集まって来て、雑草を採ったり、ゴミを拾ったりする様になって、遺跡の保存と活用になる、というものです。埼玉県の<さきたま公園>などで成功例があるそうです。成程 行政の発想では、保存と言うと何でも<立ち入り禁止>みたいに、禁じる事ばかり考えて、<活用する事>は思いつきません。この辺はさすが大学の先生の発想で、仲々いい考えでは有りませんか!!
百人一首 第二番 持統天皇の御歌 「春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ
天の香具山」
やっと梅雨が明けました。あの嫌なジメジメこっこの梅雨が太平洋高気圧に追いやられて、漸く重い腰を持ち上げて日本列島から離れて呉れました。それにしても毎年繰り返される豪雨の被害はどうにもならないのでしょうか? 気象庁は、「激しい雨に依る河川の増水、土砂崩れには、厳重に注意して下さい」と言うだけで、別に何もしてくれません。
「厳重に注意しろ、と言われたって、何をどうしたらいいのか分かりませんし、無力な我々一般市民にはどうする事も出来ないのです。そして 只 ウロウロする内に土砂崩れが起きたり、洪水が来たりして、貴い命が失われたり、大事な財産が水没したりして、悲劇が毎度の様に繰り返されるのです。
奈良時代 持統天皇が、平城宮から香具山に白い衣がイッパイ干してある様子を御覧になって、「あぁ 夏が来たのだなぁ~」と詠みました。今ならさしずめ民家のアパートのベランダに、やっと訪れた晴れ間を待ち兼ねたとばかりに、Tシャツが処狭しと干されて居る様子でしょう。私の大好きな夏です!!
我が国の最古の現存文献と言うのは、「古事記」と「日本書紀」で、凡そ八世紀頃の物です。其れ以前、5~7世紀の物は残念ながら残って居ません。七世紀に聖徳太子が作らせたと言われる文献も有ったと言われて居ますが、残って居ません。結局古代の6~7世紀の歴史考古学は、断片的に残っている資料・遺跡を拾い集めて紡いで行くしかないのです。其の遺跡には、古代~近代まで、次の様な様々に分類される沢山のものが有ります。
・政治遺跡 都城、官衙、城館、城下町
・宗教遺跡 寺院、神社、経塚、磐座
・住居遺跡 一般集落、港町、城下町、門前町、宿場町
・埋葬遺跡 火葬墓、中世墓、近世墓
・生産遺跡 水田跡、窯業跡、製鉄跡、製塩跡、鉱山跡
・交通遺跡 駅家跡、道路跡、港湾跡、鉄道跡、戦争遺跡、戦場跡、防空壕跡、特攻基 地跡
これ等膨大な資料・文献から、古代人~近代人のメッセージを読み取って行く作業は大変な努力を必要とする訳です。其処に考古学の楽しさ・苦しさが有るのでしょう。



『◎其の1<個人の百年は国家の一年> 個人の百年は、国家の一年位に当たるものだ。それゆえに、個人の短い了見を以って国家の事を急ぎたてるのは良くない。
◎其の2<古今の差なく東西の別なし> 人間は始終同じ事を繰り返して居る。今から古(いにしえ)を見るのは、古から今を見るのと少しも変わりは無いさ。
◎其の3<今の大臣は先輩の尻馬> 今の大臣(政治家)達は理屈ばかりが巧くなって、実際に剣光砲火の下を潜って心胆を練り上げた者は居ない。だから 少し異論を出されると直ぐ様変節する。つまり先輩の尻馬に乗って居るだけで、自分独自の信念を持って居ないのだ。
◎其の4<改革は公平に>行政改革というものは、よく気を付けないと弱い者虐めになる。そして大きい者から初めて、小さい者は跡にするのが良い。言い換えれば改革者が一番に自分を改革するのだ。』
今から 凡そ100年前に 勝海舟が此の様に考えて居たのです。今の政治家たちの無能振りを鋭く言い当てて居ます。何と人間は進歩も成長も無いのでしょう!!と言うよりあの鳩山さんや、菅さんを見て居ると、其の100年前の人達よりも退歩して居るのじゃないか!?と さえ思っちゃいます。
