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不老愚 助光 れいん坊

嘘、誤魔化し、怠慢を憤り、愛情、親切、思いやり、を喜び感動を記事にしています。

萬葉集 2

2011-04-19 15:17:01 | 文学・歴史

 今日の静岡大学 岡崎先生の講義は、「萬葉集の冒頭に収録されている詩の第一番と第二番の就いてでした。萬葉集は、七世紀の半ばから、八世紀の半ばまでの約百年間に及ぶ年月の内に詠まれた詩凡そ四千五百首を二十巻の本に纏めた日本最古の詩集です。此の膨大な詩集は、老若男女・身分は天皇から名も無い平民の作品を集めて居て、一体誰が此の大変な編纂作業をしたのかは分かって居りません。問題はこの詩集の冒頭に誰の詩をを持って来るかと言う事で、其れに依ってこの詩集の編纂者の意図する所が判ります。
 扨 第一番は雄略天皇(在位457~479)の詩です。
「籠もよ み籠持ち ふくしもよ・・・」(美しい籠と美しいヘラを持って菜を摘んで居る娘さん あなたの家と名前を教えて下さい。私は 此の大和のくにを支配して居ます。私の名も家も教えましょう)
 此の当時は 男が女に「名前を聞く」と言う行為は「求婚」を意味して居て、女が其れに応えて名前を教えるのは「求婚を受け入れる」と言う重大な事になります。つまり此の詩は雄略天皇が菜摘をしている娘に求婚をした詩です。そして求婚が成立すればその娘と親と親戚一同を自分の支配下に入れ、勢力の拡大を図るのです。
 源氏物語の光源氏が滅多矢鱈に女を口説き捲り、手を付け捲るのには其の当時の勢力拡大活動と言う男子たる者の悲しい(?)宿命があったのですねぇ~
 扨 第二番は舒明天皇(593~641)の詩です。
「大和には 群山あれど とりよろう 天の香具山 登り立ち・・・」
 舒明天皇が天の香具山に登って国見(国内情勢を視察)した時の詩です。大和には多くの山があるけれどとり分け美しい天の香具山、その頂上に立って国見をすると国原にはあちこちに竈の煙が立って素晴らしい国だ。舒明天皇は天智天皇と天武天皇の父親で、未だ壬申の乱の前の平和な時代でした。


萬葉集

2011-04-12 15:33:18 | 文学・歴史

 今日からまた静岡大学の「市民開放講座」平成23年度が始まりました。私は矢張り日本の古典文学が好きですので、今回も岡崎真紀子先生の「日本文学概論1」を受講する事に致しました。
 静岡大学は久能山麓の小山の上に在りまして、急な坂道を延々と登って然も一番上に私の目指す<人文学部>の講義室が有ります。私は特別に車での入場許可を貰って居ますが、通常の徒歩ですと一番下の正門から20分位はかかるでしょう。元気な学生さんでも15分では無理じゃないかと思う位です。いったい誰がこんな所に大学を作ったのでしょう?
 今日は初日の授業と言う事で、授業内容の説明がありました。授業内容は 
1.「奈良時代から平安末期(八世紀~十世紀)までの日本文学史を、次の二つのテーマから概観する講義形式。」
(1)『萬葉集』から『古今集』へ
(2)平安時代の物語史~『源氏物語』以前、『源氏物語』、『源氏物語』以後。
2.「日本古典文学研究の基本的な方法を学ぶ」
 基礎文献・用例の収集、先行研究の比較検討等。
 そして今日は「萬葉集」と言うテーマに就いての特別な話が有りました。「萬葉集」は現代に残っている最も古い歌集で、3,500余の歌を集めてタイトルを付けた歌集で有るが、そのタイトルの「萬葉集」とは何を意味するのか? 其れには以下の二説が有る。
1、鎌倉時代の学僧 仙覚の注釈書<やまとうたは 人の心をたねとして よろずのことのはの こととなりける> (正しくは万葉集では無くて萬葉集と書く)
2、江戸時代の学者契沖の萬葉代匠記には<此の集 万世までも伝わるべしと祝い名付けた>
 此のいずれも定説として<広辞苑>にも双方が載せて有る。
 成程 此れは面白そうだと最初から興味津津です。
 


本能寺の変

2011-02-08 13:32:00 | 文学・歴史

 去る二月六日(日)NHKの大河ドラマで「本能寺の変」を放送して居ました。御存知の通り 明智光秀が織田信長を京都の本能寺に攻め殺した場面です。<下剋上><謀反>等歴史上いろんな言われ方をされて居ますが、あのまま明智光秀が羽柴秀吉に打ち取られて居なければ、天下人になり、<謀反人>の汚名を被る事もなかったでしょう。只 あの事変には今尚大きな謎があります。
 其の1 織田信長ともあろう特別に用心深い男が、無防備な京都・本能寺にたった百人ばかりの手勢で投宿した事です。たとえ光秀で無くとも、野武士・盗賊の類でも襲って来たら危険だ、とは考えなかったのでしょうか? 結局は自信過剰に依る油断だったのでしょうか?
 其の2 徳川家康の行動です。家康は信長に対しては堪え難い怨念が有ります。最も愛し、頼りにして居た長男信康を、謀反の疑いに依って自刃させられ、妻築山殿も殺されて居ます。其れは信康の妻徳姫(織田信長の娘)の讒言に依るもので、家康としては残念の余り晩年になっても「信康が生きて居れば・・・」と口惜しがったと言われて居ます。余程織田信長に対する恨みが深かったのでしょう。
 そこで家康は、光秀と密約・煽動し、本能寺に信長を襲わせたのじゃないか と言いますのは、本能寺の変の一報を堺の茶人今井宗久から一番早く受け取った、と言われるのは家康ですし、<伊賀越え>と言って伊賀忍者の護衛のもといち早く三河に帰った事と言い、余りにも手回しが良過ぎるのです。まるで 本能寺の変を事前に察知して準備して居たかの様です。
 所が 家康の大きな誤算は、光秀があっけなく秀吉に討たれて仕舞った事です。家康としては、もっと光秀が頑張って、秀吉や、柴田勝家等の織田軍団の武将達が同志打ちをして、戦力疲弊をした所を狙って自分が美味い処を頂こうと言う魂胆だったのでしょう。だから 一旦三河に帰った家康は、急がず京都に向けて緩々と軍を進めて居ましたが、「光秀が負けた!」の報に接するとガッカリしてさっさと三河に帰って仕舞って居ます。
 私は 此の<徳川家康陰謀説>を、戦国史の大家の静岡大学名誉教授小和田先生に直接質問した事があります。すると先生は「其れは無いでしょう」とアッサリかたづけられて仕舞いました。


貧者の一灯

2011-01-14 13:43:08 | 文学・歴史

 1875年同志社大学を創立した新島襄が、アメリカに留学中にキリスト教の教会で、牧師さんの説話を聞いて感動して「私は日本に帰ったら、キリスト教の学校を作ります」と演説をしました。忽ち其処で寄付が集まりまして、中にはポケットに有ったなけなしの2ドルを寄付した人が居ました。其の人は其処から50kmも離れた所から来て、其の2ドルは家に帰る為の汽車賃だったのです。其の人は新島襄の演説に共鳴、自分は歩いて帰る覚悟をして寄付をしたのです。此れこそ「貧者の一灯」です。新島襄は約束通り日本に帰り、京都に教員2人、生徒8人から始まるこんにちの同志社大学の前身を創立をしました。今でも同志社大学には其の精神が受け継がれていると言われます。
 お釈迦様の言葉にも「富者の万灯よりも、貧者の一灯」とあります。今度のタイガーマスクの善意行動が其の「貧者の一灯」だといいな!と思います。


業平橋

2011-01-07 15:35:35 | 文学・歴史

 今朝の朝日新聞「声」欄に墨田区の松本順子さんの御意見が投稿されて居ました。誠に御尤もで大いに共感出来ますのでご紹介します。
 「東武鉄道が 2012年の東京スカイツリーの開業に合わせて、伊勢崎線の<業平橋駅>の駅名を<とうきょうスカイツリー駅>に改称するという。<業平橋>は知名度が低いので、此の際スカイツリーの宣伝力に肖ろうと言う商魂丸見えの事で、<業平の地>を愛する人々の意を全く無視したもので、是非考え直してほしい」
 在原業平(825~888)と言えば平安の歌人で、平城天皇の孫。何と言っても眉目秀麗で女性にモテ過ぎて、嫉妬したモテナイ男共に関東に流されたと言う人です。当時は人家も無く一面の葦原湿地帯だった業平橋付近(勿論橋も無く寂しい所)に佇んで詠んだ歌
 「名にしおはば いざ言とはむ都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと」都に在る時には、多くの美女達に囲まれて、「業平さま」「業平さま」とモテモテで、「あぁ~女の居ない国に行きたい」なんて言って居た自分が、今では全く寂しい文化果てる所(今の東京)に来させられて、情けない寂しいと嘆き悲しんだ場所だと言われた所です。
 だから そんな羨ましいと言うか、ザマぁ見ろと言うか、業平の名前を駅名として残して置くのも一興じゃと思うのであります。


忠臣蔵

2010-12-14 11:47:50 | 文学・歴史

 今日12月14日は赤穂浪士47人が、吉良上野介邸に討ち入り「殿の仇」として討ち取った日だと言われて居ます。
 1702年12月14日 本所松坂町の吉良低には、赤穂浪士の襲撃を想定して清水一学・小林平八郎など手だれの用心棒を雇い、警護を怠り無かったのですが、大石内蔵助をを中心とするメンバーのチームワークの見事さに本懐を遂げられて仕舞ったのです。
 当時の民衆は四十七士に大喝采、忽ち大ヒーロー達になって仕舞いました。昔から日本は「判官贔屓」・「勧善懲悪」大好き人間の国ですから無理も有りません。
 困ったのは将軍綱吉です。殿中で刃傷沙汰に及んだ浅野内匠頭に対して自分が「切腹・お家断絶」の裁定を下したものの、其の家来達の快挙がこれ程の大人気を呼ぶとは「想定外」だったのです。
 仕方なく「有識者達」を集めて会議を開きました。すると 四十七士の助命嘆願が圧倒的でした。綱吉クン個人的には民衆の声を採用して<支持率>の上昇をはかりたい、然し そうすれば自分が下した裁定が誤りであったと認める事になって仕舞います。「困った困ったボクチャン悩んじゃう」と綱吉クンが悩んでいる所へ、国学者<荻生徂徠>先生が登場して「断固切腹を命ずるべし! 恐れ多くも 幕府のお膝元で徒党を組み、大名屋敷に討ち入るとは言語道断、断じて許せません!!」と言う正論を唱えたのです。
 其れでも綱吉クンは「人気回復」に未練が有ったらしく、上野寛永寺の門跡 公弁法親王を訪ねて四十七士の処分方法を伺って居ます。
 法親王が仰るには「確かに 四十七士を助命すれば今の民衆の賛同は得られるでしょう。然し 将来 其の内の一人でも堕落して身を持ち崩す者が現れたら、残り全員の栄誉が駄目になって仕舞います。此処はこの時点で全員に切腹を命じてやるのが彼等の為になるでしょう」と言う事で、悩める綱吉クンも遂に切腹の命令を出したそうです。


室町時代?

2010-11-21 10:07:11 | 文学・歴史

 もしかして 現代は「室町時代」に逆戻りして居るのじゃないか?と言う錯覚をして仕舞います。室町時代(1338~1568)は、日本史上で最も文化の華が栄えた時代ではないか、と言われています。「華道」「茶道」「能・狂言」「絵画」「庭園」その他諸々の芸術等が、殆ど此の時代に隆興しました。そして その反対に、最も政治家(幕府)が無気力であった時代とも言われて居ます。
 銀閣寺を建立した第八代将軍の足利義政(在位1449~1473)などは、政治には全く無関心で、<詫び・寂び>の世界にのめり込み、世の乱れを放置して、やがては「応仁の乱」へと雪崩れ込んで民衆に塗炭の苦しみを味あわせて仕舞いました。
 さてこんにちの日本を見るにつけ、政治家の無気力ぶりは、まるで室町時代の様な不安を感じます。此の侭いったい何処まで沈んで行って仕舞うのか?何処まで駄目になって仕舞うのか?此の雪崩の様な国の崩れを誰が歯止めをかけて呉れるのか?そんな人が何時か出て来るのか?
 こんな事を本気で心配して居ます。総理大臣は逃げ捲り、大臣達は失言ばかり、一方の野党は<負け犬の遠吠え>で非難・揚げ足取りしか出来ず、口ばっかりで体を張った行動はやろうとしません。
 室町時代も斯様だったでしょうか?<応仁の乱>がやって来るのでしょうか?


鉄の功罪

2010-11-08 09:36:45 | 文学・歴史

 司馬遼太郎のエッセイ「この国のかたち」の中から、<鉄>と言うテーマの興味深い文章です。この作家の独特の捉え方で、鉄が人間に与えた功罪を考察しています。功罪と言っても人間の勝手な利用の仕方で<功>になり、<罪>にもなるのですが・・・
 まず <功>から、鉄の或る程度の規模で始まったのは、紀元前2000年頃と思われます。中央アジアのヒッタイト人が、製鉄ををしたと言われて居ます。それが1500年と言う永い時間をかけて西はヨーロッパ、東は中国へ伝えられたと考えられて居ます。
 それぞれに伝わった鉄は、先ず農機具の改良に役立ちました。短冊状に作られた鉄片を、薄板にして鍬や,鋤の刃先に嵌め込んで使ったのです(鉄鋌)。此れに依って畑の土を深く掘り起こす出来るようになり、農業生産力が飛躍的に向上しました。即ち 食料の増産が出来て、人口が爆発的に増え、更に農業生産が発展した、と言う訳です。
そして 好奇心旺盛な人間は、此の鉄を使って色々な道具を発明して、其れが文明となり、各種の工業生産も発展して高度な機械を作り、船や飛行機と言った輸送機械を作って21世紀迄止む事無き発展をして来ました。此れは全て<鉄>のお陰です。
 一方で <罪>の方は、 愚かな人間は<戦争>を始めました。最初は潤沢に採れた他国の食料を略奪しようと言う素朴な悪だくみでしたが、武器に<鉄>を使う事を考えると、其の殺傷能力が格段と上がり、戦争の規模も恐ろしいばかりに拡大して行ったのです。其の武器の開発競争も止まる所を知らず、とうとう核兵器まで作って仕舞いました。
 鉄を使う事の<功と罪>、何だか<罪>の方が比べ物にならない程大きい様に思います。人間は何と言う愚かな生き物でしょう。この先 どう言う恐ろしい物を発明するのでしょう?


高杉晋作

2010-10-24 09:39:25 | 文学・歴史


 高杉晋作と言えば坂本龍馬と並ぶ明治維新の英雄です。長州(山口県)で奇兵隊を組織して、長州藩の正規軍を破ってクーデターを成し遂げた人でした。彼は惜しくも二十八歳の若さで夭折しましたが、彼の死後 伊藤博文が「動けば雷電の如く発すれば風の如し。衆目は駭然、敢えて正視する者なし」と彼の偉大さを讃えています。
 こんにちでも 彼の緯業を忍んで地元の東行庵では、毎年の命日五月十七日に「東行忌」が行われて居ます(上の写真)。「東行」と言うのは彼の歌号で、平安時代の歌人「西行」をもじったそうです。
 今の総理の菅さんは 此の高杉晋作の大フアンで、其れにあやかりたいとばかり、自らの内閣を「奇兵隊内閣」と呼んで居ますが、高杉晋作が聞いたら激怒するでしょう。管さんは高杉晋作には程遠く、赤禰武人でしょう。赤禰は 最初は高杉達と一緒に奇兵隊設立に参加しましたが、徳川幕府が<長州征伐>をする事になると、サッサと幕府側に寝返り、<幕府派遣のスパイ>になって長州に潜入しましたが、捉えられて処刑されてた男です。つまり 土壇場になると自己の利益の為には平気で味方を裏切る奴なのです。
 菅さんの行動は 「敵前逃亡」「逃げの菅さん」の異名に相応しく逃げ捲って居ます。だから 菅さんは「高杉晋作」じゃ無くて「赤禰武人」です。


久能山東照宮

2010-10-17 14:46:44 | 文学・歴史


 静岡久能山東照宮が国宝に指定されました。此のニュースを聞いた時に私は「アレッ!?!」と思いました。と言いますのは、久能山東照宮はもうとっくに国宝になって居るものだと思って居ましたから、「今更何故だろう?」と正直なところの思いでした。
 徳川家康が没した時遺言をして、「徳川幕府を倒すものは必ず西からやって来る。其れを私が防ぐから、私が死んだら遺骸に甲冑を着せて、西に向かって埋葬せよ」と言う有名な話が有ります。
 その遺言どおり 討幕の薩長軍が西からやって来た訳ですが、流石の<東照大権現家康>も防ぎ切れず、遂に徳川幕府も260年の歴史に幕を降ろしたのです。
 家康は 元和二年四月十七年74歳で、鯛の天麩羅にあたって死んだ、と俗に言われて居ますが、実は、鯛の天麩羅を食べたのは一月二十四日の夕食です。そして亡くなったのが四月十七日ですから、食あたりにしては時間が掛かり過ぎです。だから家康の死因に就いては諸説が有ります。「謀殺説」「胃癌死説」「事故死説」などが未だに有りますが、地元には其れを裏付ける文書は残って居ません。無類の大食漢で、女好きの家康ですから、いずれも可能性が有りますが、胃癌が死因と言うのが穏当な所でしょう。
 さて この久能山東照宮ですが、地元静岡市の宣伝下手の所為で、やっと国宝に指定されました。


不屈のドイツ

2010-10-05 09:57:33 | 文学・歴史


 ドイツは第一次世界大戦で負けました。其の時の賠償金(ペナルティー)が未だ残って居たのですね。其れをコツコツと92年掛かって此の程目出度く完済した、と言う凄い話です。そもそも此の賠償金なるものは、戦勝国が、敗戦国から無理矢理取り上げる理不尽とも言えるものです。イギリス・フランス等、戦勝国は、ドイツにその支払い能力が全く無いのに強引に支払いを迫ったのです。其の為 ドイツ国民は塗炭の苦しみのどん底に陥れられました。余りの苦しさの中から生まれて来たのが、ヒットラーを中心としたナチスでした。そして又々第二次大戦を始めて仕舞い、又負けたのです。だから 第二次大戦は、ドイツの周辺諸国がドイツを苛斂誅求なまでに苛め過ぎた事が要因と言われてます。
『ドイツ政府は3日、第1次世界大戦(1914~18年)の後始末を決めたベルサイユ条約でドイツが科された賠償金のうち、最後まで残っていた7000万ユーロ(約80億円)の支払いを終えた。
 大戦終結から92年後の完済は、第2次大戦後の分断を克服した東西ドイツ統一から20周年の記念日に行われることになった。
 DPA通信によると、支払われたのは、ベルサイユ条約発効後に、賠償額の軽減を定めたドーズ案(24年)とヤング案(30年)に基づく公債の利子分。
 33年に発足したナチス政権が賠償支払いを拒んだことと、第2次大戦後も分断国家となり、ロンドン協定(53年)で、ドイツ統一までは支払いを猶予することが定められたため、一部は返済されないままになっていた。』
 この例を見るまでも無く、いま アメリカなどが、アフガニスタンとか、北朝鮮とかを苛めて居ますが、「窮鼠猫を噛む」の例えもあります。何処か一方に逃げ道を与えてやりましょう。


草薙神社

2010-09-21 11:22:30 | 文学・歴史


 九月二十日は草薙神社の祭礼の日です。 草薙神社は、今から凡そ1860年前の、第十二代景行天皇の第二皇子、日本武尊(やまとたけるのみこと)が祀られて居る神社です。
 日本武尊は、景行天皇の命令で、夷討伐の為東征の途中、騙し打ちに遭い、草原に誘き出されて火を放たれたのですが、帯刀の剣で草を薙ぎ払って命拾いをした、との故事に由来して建立されたと言われて居ます。然し その時の剣(草薙の剣)は名古屋の熱田院宮に収められているそうですし、神社は徳川家康が命令して建立したと伝えられて居ます。日本武尊は、父の景行天皇から、先に九州の熊襲征伐を命じられまして、其れを成し遂げると休む間もなく今度は関東の東戎(あずまえびす)征伐を命じられました。彼は其の時、「父上の景行天皇は、きっと自分の事を疎まれて居られるのだ。だから 自分を遠ざけて仕舞われているのだ。だけど 大和が恋しい」と詠んだ詩が残って居ます
 『やまとは くにの まほろば たたなずくあおがき やまごもれる やまとし うるわし』此の日本武尊の切ない気持ちを偲んで徳川家康が神社を建てた、と伝えられてます。
 この草薙神社が、毎年九月二十日に農業の五穀豊穣を祈願して祭礼をします。メインイベントは、「大竜勢」で、一種のロケット花火です。
 ただ 此れも仲々費用が掛かりまして、地元の町内で寄付を集めるのですが、地元に住む人達は殆どが農業に関係の無い、又他の地区から移り住んで来た人達ばかりですから、地元の伝統や歴史には余り関心が有りません。然も 地元の清水区役所も、静岡と合併されてからは、全く援助資金が出無いそうです。其れで 祭礼保存会の人達の御苦労は大変な様です。


斉明天皇陵

2010-09-11 14:38:11 | 文学・歴史


 奈良県明日香村教育委員会の発掘調査で八角形の古墳と分かり、大化の改新で知られる中大兄皇子(天智天皇)の母、斉明天皇(594~661年)の墓と有力視される牽牛子塚(けんごしづか)古墳(7世紀後半)で、従来の斉明天皇陵として宮内庁が管理して来た陵は、どうも斉明天皇陵ではない可能性が出て来ました。然し宮内庁は其の事を相変わらず簡単に認めようとしません。
 第37代斉明天皇(594~661)は第35代皇極天皇と同一人物の女帝で、第34代舒明天皇の妻です。一人で二度も天皇の位に就いた(重祚)女帝で、天智天皇と天武天皇を生んだ母親です。
 当時の皇族の於かれた環境は、蘇我氏を始めとする豪族たちが勢力を誇り、天皇家に取って代わろうと虎視眈々と狙われて居た時代でした。
 その中で 天皇家の血筋を守ろうと夫と、我が子達を体を張って守った女として孤軍奮闘した烈女の姿が偲ばれます。
 そして 息子の中大兄皇子(天智天皇)が、母の悲願の大化の改新を成し遂げたのです。


アメリカのビジネス

2010-09-03 11:37:45 | 文学・歴史


 1990年頃 当時 野村証券の専務で、アメリカ法人の社長をして居られた寺沢芳男氏が、アメリカのウオール街の正直な姿を話して居られます。此の事は例の司馬遼太郎著「アメリカ素描」で、司馬さんが、現に寺沢氏を訪ねて直に聞いた話として載って居ます。
 『日本では、昔から<投資>と<投機>とを分けて考えます。伝統的に<投資>を正しいとし、<投機>をいかがわしいとするのです。
 アメリカでは、<投資家>は10%位しかいません。あとの90%は<投機家>です。此れがウオール街の実態です。<投機家>は、主として<先物売買>をして、其処で得た利益で生活をしたり、蓄財をするのです。勿論 此れはリスクの有る博打です。其れが為に博打で損をしない様に、確実に儲かる仕組み(プログラム)を持った<投機会社>にお金を預けて、資金の運用をさせるのです。此れを現代のアメリカではビジネスというのです。』
 然し<投機会社>が失敗したら全財産がパーです。先頃の「リーマンブラザーズ」の破綻がその例で、全米どころか全世界のお金落ちが大損害を蒙り、未だ其れから立ち直って居ません。その影響で、世界の景気が仲々回復しません。何しろ<先物売買>は実態とは関係ない<思惑>が支配して居る「虚像の世界」です。更に虚像の上に又虚像を上塗りして出来上がると言う、今流行りの<女性の化粧>見たいに「剥がして見れば全く別人」と言う恐ろしいモノです。此れに踊らされて居る世界の<守銭奴達>(主にアメリカ人=ユダヤ人25%、ワスプ75%⇒ワスプとは、白人・アングロサクソン・プロテスタントで、アメリカの富の95%を支配して居ると言われる人達)の姿の哀れさよ。お陰でドルの値打ちは下がる一方だし・・・だから・・・また何処かで、戦争を始めます。イラクが終って、次の所を探して居ます。戦争をしないと、<先物売買>で儲かりません。じゃないと此の<守銭奴達>がオバマさんの首を斬るでしょう。ビジネスの為です。情け容赦をしません。其れがアメリカなのです。


アメリカ素描 其の3

2010-08-23 14:41:18 | 文学・歴史

  司馬遼太郎の「アメリカ素描」から 未だ書き足りない処が有りまして、続きを書きます。何と言っても司馬さんは、アメリカに就いてこれ程辛辣に、然も臆する事なく書きこんで居るのには、アメリカに対して「好き」とか「嫌い」と言うのじゃ無くて、アメリカと言う人工的に作られた文明国の非文化的な部分を、単刀直入・自然現象的に曝け出そうと言う意途が有る様に、文面から窺えて、それが面白くて堪らないのです。其の主な処・・・
 『アメリカは、大統領が就任時に国民に対して「貴方を必ず儲けさせます」と言う約束をします。つまり 此の約束(マニュフェスト)がアメリカ国民の全てで、其の目的を達成する為に<戦争でも、侵略でも何でもやれ!!>と大統領を攻め立てるのです。』それで大統領は国民との約束の為に、『意に反して居ても仕方なくヴェトナムやイラクやアフガニスタンで戦争をするのです。そして空しく多くの人命が失われ、肉親・家族を失って不幸のどん底に突き落とされた人達を踏み台にしてアメリカ国民を儲けさせようとするのです。』
 そして『アメリカは、1776年7月に独立するまでイギリスの植民地でした。植民地の時は、イギリスから迫害・弾圧の限りを尽くされました。例えば 製鉄をする事を禁じられて<馬蹄の釘一本>すら作る事を許さないのであった。其の植民地時代にイギリスから散々辛酸を嘗めさせられて居ながら、ハワイを植民地にし、フィリピンも植民地化したのです。』
 日本に就いては『日本がましな国だったのは、日露戦争までだった。あとは・・・特に大正七年のシベリヤ出兵からは・・・キツネに酒を飲ませて馬に乗せたような国になり、太平洋戦争で負けてキツネの幻想は潰えた』キツネに酒を飲ませるとどうなるのか?判りませんが、兎に角ムチャクチャ馬鹿狂いをしたと言う比喩でしょう。
 司馬さんの文章には、読み手である私に一々頷ける説得力が有り、ユーモアがあります。