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不老愚 助光 れいん坊

嘘、誤魔化し、怠慢を憤り、愛情、親切、思いやり、を喜び感動を記事にしています。

狭衣物語

2011-07-19 11:43:36 | 文学・歴史

 <日本文学概論 11> 今日の静岡大学 岡崎先生の講義は「源氏物語」以後の作品「狭衣物語」に就いてでした。
 「狭衣物語(さごろも ものがたり)」は 「源氏物語」の凡そ60年後に書かれた物語で、作者は 後朱雀天皇の皇女 六条斉院内親王です。彼女は 明らかに紫式部の作品に影響されて居て、其の多くの登場人物は、「源氏物語」に登場する人物を連想させるものが有ります。
 ただ 主人公の登場の仕方が、「源氏物語」や 其れ以前の「今昔物語」の様に、物語の冒頭の時代設定を<いづれの御時にか・・・>とか<今は昔 ○○の男ありけり・・・>と言った形式で有ったものを、此の「狭衣物語」では その形式を無視して、いきなり主人公の<狭衣>を登場させ、漢文調の美しい文章で、恋に悩み苦しむ姿を表現して居ます。これが当時の読者達に大いに受けまして、「源氏物語」以来の名作として高い評価を得たので有ります。然し 矢張り「源氏物語」のパロディらしき部分が有ります。其れに就いては来週勉強する予定です。


源氏と萬葉集

2011-07-05 15:07:00 | 文学・歴史

 今日の静大岡崎先生の講義は「萬葉集」から「源氏物語」にどの様に繋がって行ったのかと言う論拠に就いてでした。
 「源氏物語」の浮舟から、先週の「大和物語」の摂津に住む菟原処女(うなひおとめ)の悲劇を詠んだ「萬葉集」にまで遡り、田辺福麻呂、高橋虫麻呂、大伴家持と言う歌人が菟原処女と、その彼女に想いを寄せた男二人に成りきって悲劇を詠んだ詩を照会して頂きました。
 「萬葉集」以前から既にあった物語を、紫式部が「源時物語」の浮舟の巻に引用したと、後世言われて居有る訳です。
 然し 「大和物語」の主人公の三人はみんな死んで仕舞いましたが、浮舟は死ぬつもりで宇治川に身を投げても、助けられて死なずに済みましたし、浮舟に想いを寄せた二人の男、薫と匂宮は死ぬ積もりは全然無くて、其の後 どの様に過ごしたかは分かりません。その辺りは作者の紫式部は平安貴族のドライで自分勝手な生き様に嫌気がさして居たのでしょうか 同じようなシチュエーションでも、物語作家の明らかな意図が見えます。


日本文学概論10

2011-06-28 13:42:05 | 文学・歴史

 「日本文学概論 其の10」今日の静岡大学 岡崎先生の講義は源氏物語にも影響を与えたと思われている「大和物語」に就いてでした。
 「大和物語」は源氏物語以前のものですが、ストーリーはシンプルで
 『むかし 津の国にすむ女ありけり。それをよばふ男ふたりなむありける。(昔 摂津の国に住む女がいました。それに想いを寄せる男が二人いました。)』と言う書き出しで始まりまして、二人の男は年頃も同じ、人品骨柄も同じ位で、心ざしのほども、ただ同じようなりで、女はどちらの男にしようかと思い悩む訳です。そして父親に「どうしましょう?」と相談します。
 其処で 女の父親が、二人に男に提案します。
 「あの水鳥を射てみよ。命中させた方に娘を呉れてやる」其れは良い方法だと二人は弓を持って矢を射ました。一人の矢は水鳥の頭に当たり、もう一人の矢は尻尾に当たり、此れでは決着が付きません。困り果て女は 思い余って死を決意して川に身を投げて仕舞います。其れを見た男二人も女を追って身を投げ、とうとう三人とも死んで仕舞いました。
 「大和物語」では斯様に三人の死と言う結末が明確に書かれて居ますが、「源氏物語」の浮舟は身を投げても助けられ、その後はどうなったか分かりません。此の様に紫式部は結末を暈して、あとは読者に想像させる・・・と言う手法をとって居ます。


世界遺産 平泉

2011-06-26 15:13:50 | 文学・歴史


 平泉がユネスコの世界遺産に登録される事になりました。一度落選して地元の人々を落胆させていただけに、今回の当選は喜びもひとしおでしょう。更に 今年は未曽有の大震災に遭遇しただけに、<復興>への何よりの励みになります。
 凡そ1000年の昔 都の京都から遥かに離れた平泉で、藤原三代の遺産が、源頼朝の殲滅作戦にもめげず、良くぞこんにち迄残ったと感心します。恐らく此の地で果てた源義経も、武蔵坊弁慶も遥か天空の彼方で喜んでいるでしょう。 此の遺産を後世に残す為の1000年にも及ぶ世々代々の人々の弛まぬ努力に敬意を払います。
 今後も 何十年、何百年と末永く守られて行く事でしょう。お目出度う御座います


 


源氏物語 浮舟2

2011-06-21 15:46:50 | 文学・歴史

 今日の静大の岡崎先生の講義は、先週に続いて「源氏物語 宇治十帖」「浮舟」の続きでした。
 紫式部と言う作者は独特の癖が有りまして、此の物語には明らかにモデルと思える人が居ますが、其れを承知して居ながら、敢えて明らかにしません。
 例えば「桐壺帝」は源氏物語の書かれた凡そ百年ほど前の、第六十代醍醐天皇がモデルだと言われて居ます。勿論 紫式部はそれをよく承知しながら、実名を明らかにするのを憚られる理由が有ったのでしょう。
 或いは 時の超々実力者であり、パトロンでもあった藤原家長の指示があったのかも知れません。何しろあの長大な物語を書くには、其れなりの情報を集めなければなりませんし、当時としては大変な貴重品であった紙をふんだんに入手するには一介の女流作家では出来ません。矢張り其処には藤原家長と言う協力者が居た事は疑う余地がありません。藤原家長は 権力をフルに活用して、物語に必要な情報を集めさせ、用紙を沢山提供した と 思われます。其処で紫式部は藤原家長の意向に沿い皇室を傷付けない様に配慮したのです。
 それで 源氏物語の書き出しが「いづれの御時にか・・・」となる訳です。
 そして 光源氏が亡くなる時 第43帖「雲隠れ」の巻では ハッキリと光源氏が亡くなったとは書いて居ません。あとの成り行きを読んで亡くなった事を知るのです。
 「浮舟」でも 薫と匂宮の二人の男性から想いを寄せられて、進退極まった浮舟が宇治川に身を投げる事になって居ますが、その身投げのシーンは書かれて無くて、川下で水に浮かんでいる浮舟が助けられたと、書かれて居ますが、其の後 浮舟がどうなったのかは分かりません。
 此の様に 紫式部の作品は、肝心な部分を書かないで、読者に想像させる、と言う形態的な特徴があります。
 


日本人を殺した

2011-06-20 13:47:20 | 文学・歴史

 「日本人を殺した」と言う物騒な題名のドキュメンタリーを昨夜見ました。NHKで午後9時からの番組で、見ながら「見るんじゃ無かった!」とか「此れは意外な発見だ!」などと万感交々の思いをしました。
 あらすじは 先年86歳で亡くなった、元太平洋戦争の沖縄上陸作戦に参加させられた、米軍海兵隊員を父に持つ男性のドキュメンタリーです。
 その父親が 戦後の六十余年間 <後悔と自責の念>に苦しみ続けて亡くなったのは何故だろうと言う疑問に対する答えを探して沖縄を訪ねるのです。
 その父が 沖縄の戦場から持ち帰って永年大切に保管して居た、日本兵の遺品をもとに父親を苦しめたものを探して行くのです。<父が 夜中に突然大声を出して喚いたり、泣き叫んだり>するのは<何か深い訳があるに違いない>然し<父は固く口を閉ざして絶対に話そうとはしない>。此れが彼をして沖縄に行く事の動機になりました。
 先ず彼は アメリカに住む元海兵隊員で、父と同じ部隊に居た人で現存の人達を一人一人丹念に訪ねて、当時の模様を訪ねますが、殆どの人が面会を拒否され、辛抱強く説得してやっと何人かに面会が叶うのです。其の人達の話に共通する事は、<英雄的な自慢話>では無く、<余りにも悲惨で、話したくない>と言う事でした。「やむを得ず女子供まで殺した」「真っ暗な闇夜に突然子供が襲って来た」「恐怖の余り機関銃を滅多矢鱈と打ち捲った」と言った酸鼻を極める話ばかりでした。
 彼は もしかして父は沖縄で、女子供を虐殺して、その自責の念に責め苛まれて居たのか?と考え遺品を持って沖縄に行きました。
 其処では更に衝撃的な事実に直面します。「沖縄では民間人でも 捕虜となって恥辱を受けるなら死ね」と骨の髄まで叩き込まれて居て、各自に自決用の手榴弾を渡されて居た事。十四歳の少年まで兵隊に召集されて其の殆どが戦死して居た事。読谷村の丘に横穴を掘って日本軍の基地にして、最初は民間人の女子供も一緒に隠れて居ましたが、食料が無くなると、日本兵は民間人を穴から追い出したのです。アメリカ軍にビッシリ包囲された中へ、手榴弾を一個づつ持たされて。其処で元海兵隊員が<話したくない>事柄が起きたのでしょう。其処には累々と女子供の屍が横たわって居たのでしょう。
 彼は 父が夜な夜な魘された訳を納得がいったのです。アメリカ人があの戦争で、<自責の念に苛まれる>なんて事は全く無い、と 私は今迄思って居ました。然し こんな人達が居たのです。其れも六十有余年経ったこんにちまで。昨夜は新しい発見をしました。


応仁の乱

2011-06-15 15:19:07 | 文学・歴史

 今日の朝日新聞「記者有論」に政治グループ君島 浩次長の意見が「瞑想政局 明治維新?応仁の乱?」と言う見出しで載って居ます。以下その要旨です。
 『民主党が政権を取った時に、菅総理は明治維新の時活躍した高杉晋作に肖り、<奇兵隊内閣>と言いました。今度ポスト菅の有力候補の野田佳彦氏は、坂本龍馬に肖り<にっぽん丸洗い>をキャッチフレーズにして居ます。所詮は安易なパクリです
 確かに 現在の日本が、明治維新、第二次大戦に続く変革期と言われて久しい。然し 正確に日本史に例えるならば、迷走する今の政局は、戦国時代の争乱の幕を開けた{応仁の乱}1467~1577)の方に余程近いのではないか?と案じて仕舞う。
 明治維新では <四民平等><廃藩置県><文明開化><殖産興業>を成し遂げた。然し 政権交替で民主党が掲げた「税金の無駄遣いを無くし、天下りの根絶、子育て、年金・医療・介護の心配は無くす」と言う社会の実現は幻想に終って居る。
 だから 此の政権交代劇は、むしろ 鎌倉幕府から室町幕府に移行しただけで、指導層が北条氏から足利氏に代わっただけで、政治はかえって不安定になった。』
 と 言われる通り 今は室町時代かもし知れません。これ程政府・政治家が無力で、その癖<私利私欲>剥き出しのガリガリ亡者ばかりの状態にして仕舞った責任は我々国民に有るのですが、まるで 芥川龍之介の「羅生門」の世界です。私達は あのおぞましい時代の様な辛酸を此れから嘗めさせられるのでしょうか


源氏物語 浮舟

2011-06-14 18:51:25 | 文学・歴史

 今日の静岡大学の岡崎先生の講義は、「源氏物語」五十一帖の「浮舟」の巻に出て来る<宇治の川音>に就いてでした。
 登場人物は、浮舟、薫、匂宮、大君、中の君、その母、弁の尼など。光源氏が亡くなった後 その一族の物語で、相変らず男女の情愛の縺れや、不義密通、三角関係とか、平安貴族の男女の生々しい物語です。当時も今も身分の貴賎を問わず人間の本能は変わりませんが、当時の貴族階級の人々は、暇を持て余し、ほかにする事も無かったから男女とも、体脂を煮詰める様な生臭い日常を過ごして居たのではないかと想像されます。
 紫式部も その様な周囲のあり様を物語にして、ある種 痛烈な批判文学を書いてやろうと思い立ち、此の長大な作品を執筆したのではないかと 思うのであります。


古代物語概論

2011-06-07 11:41:05 | 文学・歴史

 「古代物語概論」今日の静大岡崎先生の講義は、「萬葉集」「古今集」を終って、「物語」の話になりました。
 「物語」には 「源氏物語」以前から「源氏物語」、そして「源氏物語」以後があります。今日はその「源氏物語」以前から「源氏物語」までを講義して頂きました。
 先ず「竹取物語」そして「うつほ物語」と「落窪物語」が有りまして、「源氏物語」と進んで行く訳です。
 これ等の物語は 全て<語り手>が居て、其れが物語を読者に語って聞かせると言う形式を採って居ます。その為にこれ等の語り手の<語り始め>には共通するものが有り、「源氏物語」以外は
 「今は昔 何処其処に何某 と言う人物ありけり」と言う形で、主役の登場人物の親が紹介され、次に 其処に生まれた子供(竹取物語は竹の中から生まれる)が物語の主役で、様々な物語が展開される訳です。
 ところが「源氏物語」は、「いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらいける中に、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまうありけり。・・・」と有名な<語り始め>で書き出されています。作者の紫式部は「いづれの御時にか・・・」とわざと恍けて居ますが、実はどの帝の時代か知って居たのだろうと思われます。ただ あからさまに書けば何かと差しさわりが有ったので、暈した表現をしたのか、或いは紫式部は時の絶対権力者藤原道長の庇護のもとに在りましたので、其の意向が反映されたのかも知れません。千年以上も前の話ですが興味深いですね。


萬葉集から古今集へ

2011-06-01 07:04:36 | 文学・歴史

 「萬葉集から古今集へ」昨日の岡崎先生の講義は、愈々萬葉集から古今集へと時代が移ります。萬葉時代から凡そ150年を経て、平安時代に古今集の時代になると、決定的な変化が現れます。仮名文字が発明されて、文章の表現技法が飛躍的に発達します。萬葉時代は全部漢字で書き表わされて居ましたが、漢字は表意文字です。其の為に表現出来る事象に制限されて、此れは作者も読み手も誠に不便でした。
 それ故にこそ仮名と言う文字が発明されたのですが、仮名は表音文字です。だから文章の表現技法が飛躍的に発達しました。そして和歌のみならず、源氏物語、枕草子と言った文学の分野も生まれて来ました。つまり 延喜五年(西暦905)に生まれたと言われる「古今集」は、仮名文字の発明と、文章の表現技法の発達を言う意味で画期的な歴史と言えるでしょう。
 ところが 明治の文豪 正岡子規は、「古今集は下らない!」として、特に其の編纂の中心人物の紀貫之は誠に駄目な詩詠みである と 決めつけて居ます。それは 萬葉時代の詩には無かった<見立て><掛け言葉><縁語>と言う技巧に奔りすぎて、本来の詩の姿を失って居る、と言うのです。
 確かに 現代でも、新しい言葉(IT語など)がドンドン遣われて来まして、従来の和歌とは違うニュアンスの詩が詠まれて居ます。本来の日本語の美しさを大切に思う人から見れば着いて行けない気持ちになるでしょう。
 萬葉時代の人が、古今集を見てガッカリした様に、正岡子規が古今集にガッカリして、現代人は現代語や横文字の氾濫ににガッカリして・・・段々日本の美しい言葉が壊れて行く見たいです。


萬葉集 其の六

2011-05-24 19:44:44 | 文学・歴史

 「萬葉集 其の六」
 今日の岡崎先生の講義は 「萬葉集から古今集に至る其の過程」の話でした。
「萬葉集」は西暦750年代の奈良時代に成立しました。大伴家持を中心とする、所謂専門知識人達に依って編纂されたと伝えられて居ります。
 当時は全部漢字で書かれたものでした。
 それから約150年後 醍醐天皇の勅命に依って、紀貫之等が「古今和歌集」を編纂しました。此の時には仮名文字が使われています。
 「萬葉集」にも「古今和歌集」にも、詩の形式で「見立て」と言うものが有ります。其れは 梅の花が満開で一面真っ白になると、此れを雪に「見立て」て詩を読む、つまり「花」と「雪」の「見立て」です。
 「萬葉集」では「花」は梅の花でした。処がが「古今和歌集」の「花」は桜の花になりました。理由は何故かよく分かりません。奈良時代の「万葉集」は春の花は梅で、平安時代の「古今和歌集」の春の花は桜と言う事は、平安時代の世相文化が豪華絢爛なものであったからかも知れませんが、此の移り変わり様が興味を覚える処です。
 来週から愈々平安時代の「古今和歌集」の勉強に入ります。


萬葉集 其の五

2011-05-17 14:07:40 | 文学・歴史

 「萬葉集 其の五」
 今日の岡崎先生の講義は、萬葉集の中から
◎大伴旅人 「酒を誉める詩」に就いて・・・酒を飲んだ事を詩にしたものは収録が少ない。
◎防人(さきもり)の詩 今の福岡県に、外的(朝鮮半島、中国大陸から侵略に来る)を防ぐ目的で、東国(浜名湖以東)の人達を徴兵して派遣した。その派遣された人達が、故郷恋しさの余り詠んだ詩、また 其の留守を守る妻や恋人達の防人恋しさの切実な詩。
◎大伴家持 心物対応構造の詩。例「うらうらに 照れる春日に 雲雀あがり」此処までが情景「心悲しも ひとりし思へば」そして此処までが心情。と言う具合に、前段の五七五が自然の情景をを詠い、後段の七七で詠み手の心情を詠う。此の様に 自然の情景と、詠み手の心情を対比させる形で詩にしたものを「心物対応構造」の詩と言い、此れは中国の漢詩からの影響だ。
 今日は こんな所を勉強しました。


萬葉集 4

2011-05-10 15:03:36 | 文学・歴史
 「萬葉集其の4」今日の岡崎先生の講義は、萬葉集に収録された三千五百余首の詩には、長歌、短歌、旋頭歌があり、その説明をして頂きました。
 長歌は 五七五七・・・延々と連ねて行き、最期を五七五七七で締める。何故五音と七音かと言うのは良く分からないが、日本語には二音の名詞と三音の名詞が殆どで、それに助詞、助動詞、接続詞、形容詞などを繋ぐと五音、七音になる。其れが韻律的に馴染み易く、こんにちまで残っている理由だろうと思われる。
 短歌は 其の最短の形式で五七五七七となった。旋頭歌は 五七七を繰り返し、二句対の六句からなり、二人の間でやり取りをする最も心情の伝わり易い詩と言われて居る。
 今日は柿本人麻呂の長歌<妻の死にし後に泣血哀慟して作れる詩>を詳しく説明して頂きました。
『軽の里(藤原京内の地名)は 愛しい人の里だけど 余り頻繁に訪ねると 他人の目につくので 逢いたいのを我慢して居たら 愛しい人が死んで仕舞った。 あまりの悲しさに耐えかねて 軽の里を訪ねて 若しかしたら 愛しい人に似た人に会えないだろうかと行って見たが 無情な現実を確かめさせられて仕舞った。』と言う悲しい物語の詩です。
 柿本人麻呂が 愛しい人の面影を求めて藤原京の街を彷徨い歩く姿を想像させられます。

栄枯盛衰 無常

2011-05-05 14:59:18 | 文学・歴史


 五月三日 山口県下関市で安徳天皇の御霊を弔う「先帝祭」が行われました。源平合戦の最後の決戦壇ノ浦の戦いで、敗れた平家の公達と共に海中に身を投げた安徳天皇は其の時満七歳でした。
 安徳天皇は、最期を覚悟した祖母の二位尼に抱きかかえられた時「尼ぜ わたしを何処へ連れて行くのか」聞きました。二位尼は「この世は辛い事ばかりで御座います。極楽浄土と言う有り難い所へ行くので御座います。この波の下にも御所がございます」と言って海中に天皇を抱えて飛び込んだと伝えられる故事に因んだ慰霊祭です。
 平清盛が元気な時には「平家に有らずんば人に有らず」と言って専横を極めた平家は、<奢るものは久しからず ひとえに風の前の塵の如し>と 哀れにも滅んで行きました。
 人間社会の栄枯盛衰は諸行無常です。綾なす縄の様に悪い事も良い事も何時までも続きません。


萬葉集 3

2011-04-26 15:23:08 | 文学・歴史

 今日の静大岡崎先生の第三回講義は、{「萬葉集」の表記と訓読}に就いてでした。千二百年前の日本には、現在の私達が使って居る仮名文字が有りませんでした。其処で当時の人達は、中国から伝えられた漢字の「音」と「訓」を組み合わせてなんとか言葉を表記しようと努力しました。
 萬葉集の原本は現存しません。鎌倉時代に写本されたと思われる「西本願寺本 萬葉集 二十巻」が写本として伝わる最古のもので、全部漢字ばかりで書いてあります。
 例えば 萬葉集巻第一 第一番 雄略天皇の御製歌
 「籠(こ)もよ み籠(こ)持ち ふくしもよ・・・」(漢字と仮名の表記)
 「籠毛與 美籠母乳 布久思毛與・・・」(漢字だけの表記)
 以上の様に Aは私達にも読む事が出来る現代文表記。Bは西本願寺本の表記で、一音ずつを漢字で表記したもので、萬葉集の原本に最も近いとされているものです。此のBを千年もの時間をかけて研究者達は、現代文に訳して来た訳ですが、其れには大変な努力が偲ばれる訳です。又」写本自体も、誤写があったり、文字の欠落があったりすると考えられるので、其れ等を考察して現代文に翻訳する苦労は並大抵のものではないのです。
 今日の講義の要点は、漢字表記の原文が、学者の解釈に依って少しづつ違うし、其の違う理由を話して頂きました。其処に萬葉集を読む事の奥深さ、面白さを教えて頂きました。