植物園「 槐松亭 」

バラと蘭とその他もろもろの植物に囲まれ、メダカと野鳥と甲斐犬すみれと暮らす

雨は嫌い 府内城跡・杵築城でのひと時

2022年05月14日 | 旅行
言いたくないけど雨ばかり。
こんなに天気が悪いのは記憶にない。いい季節になるはずの4月も一日おきくらいに雨降り、5月になっても晴天は続かず「五月晴れ」も数日あったかどうか。そして、このところでは「梅雨前線北上中!」の報道も出ております、なんなのこの天気。

昨日の続き「大分への旅の記録」であります。大分も雨でした。中学校の同級生が「草むしりが出来ない」と嘆いていました。ワタシの菜園も草が伸び放し、サルナシ・柑橘の授粉、スイカの生育などにも支障が出ているのです。

さて旅行二日目の夜に中学校の同級生の仲間が、急遽集まって「同窓会」を開いたのです。中学校を卒業してから、ほとんどの友とは40年ほど全く交流もなく音信不通でありました。神奈川県にかれこれ50年近く住んでいるワタシは、帰省することも少なく、連絡を取ることも無かったのです。しかし10年数年前から「里心」が出て、ちょいちょい帰るようになりました。何人かの友とも再会を果たし、還暦を祝う公式な会にも出席することが出来ました。同級生とは会った瞬間「時空を超えて」あの頃に戻ったのです。


上の写真は、大分城址公園であります。大分市はかつての天領で、府内城が中心にありました。 天守閣・本丸などは焼失して再建されていません。周辺にいくつかの櫓が残され、石垣やお濠は美しく、市民の憩いの場所になっているようです。今回の食事会のレストランは、大分市の官公庁街の中心にあるこの城址公園のほとりにある会館でした。みんなもコロナのせいで飲み会が無く、欲求不満であったようです。あっという間に過ぎる楽しいひと時でありました。篆刻印を彫ってあげる約束をして、女性陣とは別れうらぶれたスナックに二次会という流れですが、もう歌を歌う元気はありません。

翌日は夕方の便を予約して帰るのです。朝から本降りで、散歩も出来ません。疲れた体をせめてほぐしてもらおうと、郊外のリラクゼーションの店に参りました。帰路の道すがら、必ず寄る場所があります。大分空港から近い杵築市の城下町であります。ここには内湾・河口に向かって突き出た断崖の上に「杵築城」があり、小さいながらも守りに強い天然の要害の出城であったようです。

杵築城に連なる高台に、藩の武家たちが屋敷を構え、いつでも参内できるようにしていたのですね。この武家屋敷群が往時のまま保存現存しており、日本有数の武家屋敷・城下町として有名です。その佇まいや環境の良さから、もしワタシが神奈川県を離れて田舎暮らしをするなら、この周辺に物件を探そうと本気で思っています。景色が良く魚がおいしい、空港も近いという絶好のロケーションであります。
高台が二つ並んでおります。一度坂を下り、その向こうを上るとまた高台に武家屋敷が連なっています。この坂を下ったところに南北に走る道沿いが商家のエリアになっていて、酒屋・味噌屋・和菓子屋などの老舗が立ち並んでいるのです。ここらを散策するのはとても楽しいものなのです。
土塀なども補修を繰り返しながら保存していて、数百年前に建設された武家屋敷がそのままタイムスリップしているようです。

ここもあいにくの雨、ゆっくり見て歩く状況ではありませんでした。早々にここを後にして、お土産に田舎饅頭を買って空港に向かいました。雨は嫌い。

すると、羽田への便が飛ぶかどうかわからない、というのです。雨で視界不良、東京から大分へ向かってくる飛行機が着陸できなければ、必然的に帰りの飛行機もありません、最悪欠航を覚悟し、キャッシュコーナーでお金をおろしました。しかし、台風ならともかく雨が降るたび欠航になるか?そんなことはふつうありませんね。

ともかく、無事に飛行機は降りてきて、何事も無かったように折り返し東京国際空港へ向かったのであります。

今回の旅行は、「旅慣れた」はずのワタシにとって心外と思うほどトラブル・心配が続きました。バーコードの書類を忘れ、空港行のバスは事故渋滞で遅延してやきもきしました。搭乗口では、懐中物をすべて出し、上着まで脱がされました。

会う目的で出かけたのに兄には結局会えず、実家に戻る道を間違え、先祖の墓を探し回り、行く先々で雨に打たれました。朝ごはんもお昼ご飯も、一人でおにぎりやあんパンと缶コーヒー(´;ω;`)。最後は帰りの飛行機に乗れるかどうかやきもきいたしました。正直こんな不本意で気疲れした旅は初めてかもしれません。

まぁいいか、友達に合えたから。


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急流と共に流れ消えてゆく温泉場 湯平温泉

2022年05月14日 | 旅行
JALを利用して飛行機に乗りました。羽田空港もちょっと見ない間に(笑)拡幅して広く、縦横に滑走路が走っているように見えました。飛行機の中も、客室乗務員がゴーグルとマスク、音楽を聴くためのヘッドフォンも無いし、ちょっとみすぼらしくなったような、気のせいかな。変わらないのはJALの機内誌で、浅田次郎さんのエッセイが秀逸なのでそれは楽しみにしています。

さて、昔年中旅行に行っていたバブルの時代、HPを立ち上げて旅行日記・紀行文などを掲載しようと思いましたが、まぁ面倒くささが先に出て実現しませんでした。今回たまの旅行でしたから、ちょっと紹介いたします。コロナの時代に高いお金を払って遠出をするのだから、GOTOトラベルの恩恵があるといいのですが、何もありません。お上のやることはだいたいそんなものですね。

今回出かけたのは九州大分であります。一人旅かつワタシの故郷なので、事前に何か準備したり調べたりすることも無く、ただレンタカーとホテルだけ予約したのみでした。

まずコレ。機中から見下ろす富士山。いつも飛行機の中で眠っているのでこんなアングルから見たのは初めてでありました。だいたい富士山は仰ぎ見るか、はるか遠くから拝むもの、それを眼下に見るのはなんとも不思議で新鮮でした。

大分空港はどんよりとした曇り、軽自動車を借りて大分市内へ、ちょっと実家に立ち寄りましたが、あまりに久しぶりなので道に迷いました(笑)。墓参りにいくも、菩提寺の場所にすぐたどり着けず、両親のお墓の位置も忘れておりました。不信心者はこれだから困る。

翌日は、日中やることがないので、お決まりのコース、大分市から日田市・熊本に抜ける国道210号線を西に向けて車を走らせます。久大線とほぼ並行して続くこの道がワタシの生誕から、高校卒業までの18年間を辿る道でもあります。目当ては、幼少期過ごした「湯平温泉」で、乾燥シイタケを買うことでした。湯平温泉は、湯布院の手前にある鄙びた(寂れた)温泉街です。細く急な石畳の坂の両脇に温泉などが立ち並び、閑静ながらも人気のある観光地です。昔フーテンの寅さんでも舞台になった温泉場で、寅さんやジュリーと田中裕子さんがここでロケをしたのです。

その坂道に並行して下り落ちるのが花合野川(かごのがわ) であります。かなりの水量が急流になっていて、間断なくザァーという水音がいたします。夜、旅館の布団に入るとその音がなんとも心地よく、ぐっすりと休めるのです。
まだ幼稚園児だったワタシは、この橋を渡り、この坂を一人で歩いて当園していたのです。

随分前に旅館の主人に聞いたときは、上流で開発や木の伐採によって水量が減ったとのことでした。しかし今から6、7年ほど前には、この川が集中豪雨で氾濫し、下流域に廃校になった湯平小学校沿道に、居住していた家族が家ごと流され、濁流に消えていったと聞きました。その何人かは本流大分川の下流、ワタシの実家のある賀来まで流され見つかったそうです。

そして、今回訪れた時、その廃校のそばの道路の一部片側が陥没し崩落して工事中でありました。1年半前に再び洪水が発生し、避難していた一家が流されたそうです。シイタケ農家の主人が経営する土産物屋さんの奥さんが「線状降水帯」のせいで水害が毎年のように起きると語っていました。お客さんが来ないので店を閉めたいと以前言っていましたね。

湯平温泉は、湯布院温泉のブームに乗っかって、手作りの町おこしをし、配食配膳の合理化や外国人労働者を雇うことで経営合理化したと聞いていました。しかし、その後長引く不況、地震・水害などの自然災害が続き、更にコロナ禍によって壊滅的なダメージを受けています。最盛期では60軒もあった温泉宿も今では17軒までに減ったそうです。

ワタシの心のふるさと、湯平温泉には思い出がいっぱいあります。花合野川の川の縁を歩くと、辺りが明るくなるほどの無数の蛍が群舞していたのを今でも思い出します。ワタシの人生の原風景でもあります。

 しかしあの頃の記憶もだんだんと薄れ消えていくようです。あの時ワタシ達4人の家族のうち両親は既に他界し、兄も重い病に侵されております。この温泉場がいずれ廃れて消えていくのではないか、と思うと言いようもない寂しさを感じるのでありました。
湯平温泉の源泉がある場所に設えられた祠、古い木像が祀られております。消えて無くならないよう、施錠したらいいのに。
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