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風そよぐ部屋

ウォーキングと映画の無味感想ノート

沖縄4日間の旅 3

2010年03月14日 | 国内旅行
四日目/3月9日
9時半のゆっくり出発だったが強風とかなりの雨であった。ホテルの部屋から


首里城
守礼門
    
歓会門                                瑞泉門
 
漏刻門                                広福門
 
正殿
 
  
                                                      傘の自動販売機があった
  
強風と強い雨で、他の興味深いスポットを見ることもじっくり撮影するゆとりもなかった。

平和記念公園                          平和のくさび[がま=(洞窟)のイメージ]、後ろ方向は摩文仁の丘
 
平和の碑[三角錐の所が沖縄で、そこから平和の波が世界に広がるイメージという、日本が侵略した地域も描かれている]
 
平和の礎(いしじ)
 
 
平和記念資料館 (時間がなく私は入ることができなかった。)
 
韓国人慰霊塔[平和の礎には韓国人の一部しか載っていないという] 矢印の方向は韓国なのか。[ここは、平和記念資料館の後方にある]
 

ひめゆりの塔
 
  
ひめゆりの塔資料館                         女神の像(左)とひめゆりの石像
 
赤心之塔                               井伊文子(琉球国王の子孫)の歌碑
 

琉球ガラス村
昼食[沖縄そばセット、ニヘベビールを飲んだ]
 
 
 

那覇市内国際通り
依然と強い雨が降っているので県庁前駅から牧志駅までモノレールで行きそこから歩いた。
  
初乗り200円は安くはない。沖縄は人口の数よりバイクを含めた車の台数が多いそうだ。
さて、沖縄にモノレールはさらに普及するだろうか。
平和通り[市場街]
 
牧志公設市場
 
 
 
メンピ[豚の皮、クラゲの食感に似てしこしこしている]
                        
  
牧志公設市場では、二階のレストランで好みの魚を調理して、食することが出来るそうである。
市場全体は広くはない。
ベトナムや台北でいろいろな物を見ているので驚きはなかった。
かえって、沖縄の食への拘りというか豊富さと中国の影響を強く感じた。

空港で食べた、沖縄そばの夕食。

そばと言うが、そば粉は使わず小麦粉だけの太めの麺、具はかまぼこ・厚揚げ・昆布・豚の角煮。
スープは、一般的に鰹節と豚骨と言われ、こくはあるがどぎつさはなく、塩味である。
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那覇空港19時発のボーイング747-400で帰ってきた。
この飛行機は二階もあって、座席数は569だそうだ、席はほぼ満席であった。
約2時間半のフライトである。
低気圧の影響で時々揺れたが、安全運行には影響がないと言うが本当であろうか。
羽田に着くと雪であった。空港のトイレで冬支度をした。
東京では分厚いオーバーを着ている人がいて驚いた。

沖縄が日本に「復帰」したのは、1972年5月15日である。
それ以前、沖縄はアメリカの占領下にあり、沖縄に行くには日本のパスポートが必要であった。
沖縄の歴史はよく知らないが、薩摩の琉球支配以前は日本とは別個の王国であったようだ。
薩摩は沖縄、沖縄を通じての東南アジアとの貿易で益を上げ、後の明治維新の原動力を得た。
中国の沖縄への文化の影響は計り知れないほど大きいと感じる。
沖縄の言語はおそらく日本の言語とは同一とは言えない別個の物だろう。
沖縄は、気候的にも、言語的にも、文化・食的にも、そして何より宗教的に日本とは別個・異質の独立性を持っている。
日本米が取れない沖縄は、米は輸入である。沖縄の酒・泡盛はタイ米を原料にする。
また、仏教の影響はほとんどなく、土着宗教・アニメズムの色彩が強くそれはポリネシア海洋民族のようだ。
この事情の為だろうか墓の形状は日本とは全く異質で台北のそれによく似ている。
音楽、踊りも日本とは異なる沖縄独特のようで、中国の影響の方が強いと思う。
また、顔つきは男も女も本土人よりホリが深く、髭も濃い人が多いようだ。
沖縄の気候は亜熱帯に近く、多くの果物やサトウキビなどが自生できるようだ。
沖縄の自然はもともと自然の恵みが豊かなのだと思う。
サトウキビは植えるだけで自然に成長するので男は一生懸命働く必要がない、などと言われたそうである。
それは事実ではなく、きちんと仕事した。
だが、夏の日中は農作業をするには厳しすぎるので、朝早く、夕方に仕事をしたのだ。
これは東南アジアでも良く言われることでもある。
この地では、昼下がり、人々が昼寝をしたり、木陰でお茶やおしゃべりをする光景をよく見かける。
暑い日射しの中、動き回っているのは観光客である。
かつてカンボジア・アンコールワットのツアーに参加した時は、昼食後ホテルで休憩があった。

日本の米軍専用施設の74.7%が沖縄に集中し、沖縄の10.4%をアメリカが占領している。
しかも人口の多い、県南・中央に集中している。
だが、その多くは戦前、日本軍が占有していた軍事基地であり、米軍はそっくりそれらを引き継いだのだ。
那覇市のメインストリートはかつては中央分離帯がなかった。
「有事」の時戦闘機が離着陸出来るようにするためである。
同様のことがソウルの道路でも行われていたと聞く。
太平洋戦争下、日本で唯一の戦場となった沖縄であったが、米アメリカ占領下の沖縄の人々は日本への復帰を望んだ。
ベトナム反戦運動が高揚した1960年代後半から1970年年代初頭にかけて、沖縄の"祖国復帰"の運動は大きく盛り上がった。
だが、"沖縄独立"や"沖縄の自主自立"を唱えたのは少数であった。
現在、60年安保・70年安保自動延長・沖縄の復帰に関わって、日米政府の間に数々の重大な『密約』があったことが報道されている。
この密約は、ありふれている汚職や失言とは桁外れに大きい問題である。
当時これらの事実が明らかであれば、日米安保の更新も、沖縄の日本復帰も現在とは大きく変わっていただろう。
広大な米軍基地を無償で提供するだけでなく、多額の現金を供与し、さらに核の持ち込みを認めたのである。
知らぬ顔を決め込んでいる自民党、政治家も高級官僚の責任は計り知れないほど大きい。
佐藤栄作はノーベル平和賞を受賞したが、こうした事実が明らかになってその取り消しはないのであろうか。
これほど重大な裏切りと国民愚弄の事実が明らかになっているのに、日本国民は無関心・平静だ。

沖縄の人は、独立や自治を主張する権利と同時に日本政府と本土人に対し損害賠償を求める権利を有していると私は思う。

家族で沖縄を訪れたのは子ども達が小学生の春休みであったろうか。
当時はまだモノレールも、海洋博公園も、平和の礎もなかった。
米軍基地のいくつかが日本に返還されたが、米軍基地の支配が重くのしかかる沖縄の戦後と怒りは少しも変わってはいないと思った。

バスガイドが、反戦歌・"沖縄を返せ"を歌った。
それは、懐かしくもあり、また全く違和感がない自然さであった。
この旅の目的は観光だが、今日の沖縄と日本を少し考える旅ともなった。 【終わり】




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