新型コロナウイルスについて
今日は、私のブログのテーマではないことを承知の上、新型コロナウイルスについての妄想気味的考えを記します。
私は、ちょっと前私のブログで、
す。おそらく少し長い目で見ればそれはそうだと思います。しかし、人類の歴史は感染症との闘いの歴史と言っても良い
側面を持つとも言えます。人の死に関する考え方は様々です。病気になっても何の治療もしないであるがままに任せる
という考えも一つの考えですし、どんな犠牲を払っても「不老不死」を手に入れたいとの考えもあるようです。しかしそ
れは個々人が自らの死をどうとらえるかという極めて個人的死生観・宗教的考えです。今問題とするのは、そうした個
人的生死の問題的ではなく、人間集団、多くの人々の生死にかかわる病・感染症の問題です。
コロナウイルス禍、多くの専門家がテレビで発言しています。未知のウイルスですから「わからない」、「わかるまではと
にかく感染者と接触しないことしかない」と正直に言えばよいというのが私の思いです。福島原発メルトダウン時、専門
家と言われる人々がほとんど無策・無力でした。福島原発メルトダウンと正しく指摘したのは、小出裕章さんらほんの少
数者でした。
-------------------------
以下、私の妄想的思いです。
ウイルスと資本の類似性
ウイルスはそれ自身では生存できず、他の生物に寄生してしてしか生存できないそうです。新型コロナウイルスはとて
も進化していて感染しても発症させず長い潜伏期間をもって他に徐々に感染させ自分たちの繁栄をもたらすように工夫
しているそうな。資本とウイルスはとても似ているのではないかという思いです。ここでは、資本をデジタル大辞泉によ
る「新たな生産のために投入される、過去の生産活動が生みだした生産物のストックで資本制生産では剰余価値を生む
ことによって自己増殖を行う価値の運動体」との一般的意味で使います。
私としては、資本もウイルスも他者に依存・宿主なしに生存・増殖できない、つまり、宿主する他者を絶滅させることを
目的とはしません。まさに資本は、自分の価値を増殖するために労働力商品つまり労働者を殺さず生かし、徹底的に搾取
し、自己拡大を目指します。労働力が再生産できればある程度の労働者が死んでも構いません。効率的にもうけを増やす
ために労働条件を悪くし、賃金を下げようとします。その今日的現れの顕著が「性差別、非正規労働者と一定の失業者、パ
ワハラ」です。
この両者の格闘は、ある日、「恐慌」として現れます。大量の失業者と資本自身の崩壊です。ウイルスのパンデミックは
まさにこの「恐慌」にそっくりです。この危機の克服は、かつて労働者階級が生産の主人公になって資本制秩序をわがも
のにすることによって克服できると言われましたが、それは未だ成功できず、資本制秩序はその包摂力によってその危機
を乗り越えて勝利してきました。
妄想の第二は、物があまり余りっている現代の日本ですが、マスクも医療用看護用衣服や消毒薬、消毒用ウエットティ
ッシュがないというのです。資本制秩序は、効率よい儲けが第一義的です。余計な在庫は一切なくし、すべてが効率よく
作用するサプライチェーンは特に有名です。病院・医療も同様です。高い機械はフル稼働してこそ価値があるので日常稼
働しない余剰の備蓄しません。高度医療機器や病院システムもその例です。
生産性至上主義・効率主義も同様です。生産性の低い分野、その仕事は徹底して過小評価されます。例えば、清掃、看護師、
保育士、介護そして「障がい者」などは労働生産性が低いとされ、非正規、低賃金、厳しい労働条件が強いられます。
妄想の第三は、日本の社内留保は500兆円と言われその額は日本のGDP(国内総生産)の1年分に匹敵する額と言われます。
多くの企業で赤字が言われますが、複数年で見れば決して赤字ではありません。大企業は、雇用助成金で税金を手にするこ
とが出来るのです。大企業は、この巨大な社内留保金を苦しむ下請け企業や関連企業や医療従事者に回すことはしません。
妄想の第四は、今回の新型コロナウイルスとの戦いに成功しているのは、中国・台湾・韓国モデルと言われていることに関
連します。まさに5Gを先取りした町中至る所の監視カメラ、「スマートシティ」、スマートフォンの位置情報の追跡やアプリ
などで人々を相互監視です。それはかつてのナチスの密告社会、ソ連のKGBやアメリカのCIA、イスラエルのモサドなどを
思い出させます。蛇足ですが、私はスマホは持っていません。
妄想の第五は、長期の学校閉鎖による子どもへの影響です。大人の社会の、家庭内の暴力性は必ず子どもたちに反映します。
学校が再開されて、子どもたちの学力の差、子ども間の暴力、いじめ、ゲーム依存、「引きこもり」、「不登校」などが大きな問題
になることを私は恐れます。これらの根底の一つには、家庭の生活の格差、貧困ですが、それらは、子どもの個々の努力のよっ
てどうにかなる、克服できる問題ではありません。
最後の妄想は、こうした新型コロナウイルスパンデミックがもたらす危機をだれが、どのようにして克服できるか、につ
いてです。私の妄想は、人々が資本制秩序と利害を越えた社会的構想力を持つことが出来るかどうか、です。これに失敗すれ
ば資本制秩序が手を変え品を変え生き残ります。悲しいかな資本制的秩序に人々は勝てないだろうと私は思っています。で
も、少しは人々の抵抗の力でより良い改良ができることを希望します。
[これに関連するだろう、パンデミック後の労働・生活環境についての変貌の妄想は、後日とします。]
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
昨日は、憲法記念日でした。
『毎日新聞』すてきな特集、”スポーツと人種差別、五輪に刻む人権闘争”を組んでいました。”[記事は、ノーマンさん
のことを歌にした、フォーク歌手の中川五郎さん(70)がギターをかき鳴らし、話しかけた「ピーター・ノーマンを知っている
かい?彼の話を聞いておくれ」です。] 【以下は、毎日新聞の修正的要約です。】
ピーター・ノーマン(オーストラリア)さんは、1968年メキシコ五輪の陸上男子200メートルで銀メダルを獲得した白人選
手。表彰式で、優勝したトミー・スミスさん、3位のジョン・カルロスさんは、米国選手で黒人の2人は、うつむき、互いに分け
合った黒い手袋をはめた拳を高く突き上げました。「ブラックパワー・サリュート」と呼ばれる無言の抗議でした。米国内で
広がっていた人種差別撤廃を求める公民権運動の象徴でした。白人のノーマンさんは拳こそ上げなかったものの、左胸には
賛同を示すバッジをつけました。レース後、2人から表彰式で抗議行動に出ることを知らされ、協力を申し出たそうです。米
国オリンピック委員会は、2人を追放処分にし、帰国後の2人は、白人至上主義者らから殺害の脅迫を受け、職も失いました。
一方、ノーマンさんも、白人優遇の「白豪主義」を貫く母国で裏切り者扱いされ、72年ミュンヘン五輪は参加標準記録を13
回も突破しながら、代表に選ばれず、選手生命を絶たれ、高校の体育教師や肉屋など仕事を転々、アルコール依存症となり、
2000年シドニー五輪に招待されることなく、2006年に64歳で亡くなりました。彼の葬儀には米国からスミスさんとカルロ
スさんの2人が駆け付け、先頭でひつぎを担いだそうです。
スミスさんとカルロスさんは2019年やっと名誉を回復し、米国オリンピック・パラリンピック委員会の殿堂入りを果た
しました。ノーマンさんも、オーストラリア・オリンピック委員会がメルボルンの国立スポーツ博物館で功績を表彰した
そうです。実に半世紀ぶりの名誉回復でした。フォーク歌手の中川五郎さんは、このエピソードを24番、20分を超える物語
歌にしたそうです。私は、ノーマンさんは知りませんでした。
この毎日新聞の記事は、スポーツと人種差別、五輪に刻む人権闘争 で見ることが出来ます。 【おわり】
今日は、私のブログのテーマではないことを承知の上、新型コロナウイルスについての妄想気味的考えを記します。
私は、ちょっと前私のブログで、
「有史以来、感染症は人間にとってすこぶる深刻、重大でした。多くの文明が感染症で滅んだともいわれます。イン
カ文明、ラパヌイ(イースター島)の人々、北米大陸の先住民(ネイティブアメリカン)、南米の最南端にまで達したグレ
ートジャーニーの末裔と呼ばれるネイティブパタゴニアの人々の死と文明の多くは、当時先進国と言われたヨーロ
ッパの植民地主義がもたらした感染症と言われています。」と書きました。
ある感染症に対して多くの人が免疫を持つと免疫を持たない人に感染が及ばなくなるという集団免疫の考えがありまカ文明、ラパヌイ(イースター島)の人々、北米大陸の先住民(ネイティブアメリカン)、南米の最南端にまで達したグレ
ートジャーニーの末裔と呼ばれるネイティブパタゴニアの人々の死と文明の多くは、当時先進国と言われたヨーロ
ッパの植民地主義がもたらした感染症と言われています。」と書きました。
す。おそらく少し長い目で見ればそれはそうだと思います。しかし、人類の歴史は感染症との闘いの歴史と言っても良い
側面を持つとも言えます。人の死に関する考え方は様々です。病気になっても何の治療もしないであるがままに任せる
という考えも一つの考えですし、どんな犠牲を払っても「不老不死」を手に入れたいとの考えもあるようです。しかしそ
れは個々人が自らの死をどうとらえるかという極めて個人的死生観・宗教的考えです。今問題とするのは、そうした個
人的生死の問題的ではなく、人間集団、多くの人々の生死にかかわる病・感染症の問題です。
コロナウイルス禍、多くの専門家がテレビで発言しています。未知のウイルスですから「わからない」、「わかるまではと
にかく感染者と接触しないことしかない」と正直に言えばよいというのが私の思いです。福島原発メルトダウン時、専門
家と言われる人々がほとんど無策・無力でした。福島原発メルトダウンと正しく指摘したのは、小出裕章さんらほんの少
数者でした。
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以下、私の妄想的思いです。
ウイルスと資本の類似性
ウイルスはそれ自身では生存できず、他の生物に寄生してしてしか生存できないそうです。新型コロナウイルスはとて
も進化していて感染しても発症させず長い潜伏期間をもって他に徐々に感染させ自分たちの繁栄をもたらすように工夫
しているそうな。資本とウイルスはとても似ているのではないかという思いです。ここでは、資本をデジタル大辞泉によ
る「新たな生産のために投入される、過去の生産活動が生みだした生産物のストックで資本制生産では剰余価値を生む
ことによって自己増殖を行う価値の運動体」との一般的意味で使います。
私としては、資本もウイルスも他者に依存・宿主なしに生存・増殖できない、つまり、宿主する他者を絶滅させることを
目的とはしません。まさに資本は、自分の価値を増殖するために労働力商品つまり労働者を殺さず生かし、徹底的に搾取
し、自己拡大を目指します。労働力が再生産できればある程度の労働者が死んでも構いません。効率的にもうけを増やす
ために労働条件を悪くし、賃金を下げようとします。その今日的現れの顕著が「性差別、非正規労働者と一定の失業者、パ
ワハラ」です。
この両者の格闘は、ある日、「恐慌」として現れます。大量の失業者と資本自身の崩壊です。ウイルスのパンデミックは
まさにこの「恐慌」にそっくりです。この危機の克服は、かつて労働者階級が生産の主人公になって資本制秩序をわがも
のにすることによって克服できると言われましたが、それは未だ成功できず、資本制秩序はその包摂力によってその危機
を乗り越えて勝利してきました。
妄想の第二は、物があまり余りっている現代の日本ですが、マスクも医療用看護用衣服や消毒薬、消毒用ウエットティ
ッシュがないというのです。資本制秩序は、効率よい儲けが第一義的です。余計な在庫は一切なくし、すべてが効率よく
作用するサプライチェーンは特に有名です。病院・医療も同様です。高い機械はフル稼働してこそ価値があるので日常稼
働しない余剰の備蓄しません。高度医療機器や病院システムもその例です。
生産性至上主義・効率主義も同様です。生産性の低い分野、その仕事は徹底して過小評価されます。例えば、清掃、看護師、
保育士、介護そして「障がい者」などは労働生産性が低いとされ、非正規、低賃金、厳しい労働条件が強いられます。
妄想の第三は、日本の社内留保は500兆円と言われその額は日本のGDP(国内総生産)の1年分に匹敵する額と言われます。
多くの企業で赤字が言われますが、複数年で見れば決して赤字ではありません。大企業は、雇用助成金で税金を手にするこ
とが出来るのです。大企業は、この巨大な社内留保金を苦しむ下請け企業や関連企業や医療従事者に回すことはしません。
妄想の第四は、今回の新型コロナウイルスとの戦いに成功しているのは、中国・台湾・韓国モデルと言われていることに関
連します。まさに5Gを先取りした町中至る所の監視カメラ、「スマートシティ」、スマートフォンの位置情報の追跡やアプリ
などで人々を相互監視です。それはかつてのナチスの密告社会、ソ連のKGBやアメリカのCIA、イスラエルのモサドなどを
思い出させます。蛇足ですが、私はスマホは持っていません。
妄想の第五は、長期の学校閉鎖による子どもへの影響です。大人の社会の、家庭内の暴力性は必ず子どもたちに反映します。
学校が再開されて、子どもたちの学力の差、子ども間の暴力、いじめ、ゲーム依存、「引きこもり」、「不登校」などが大きな問題
になることを私は恐れます。これらの根底の一つには、家庭の生活の格差、貧困ですが、それらは、子どもの個々の努力のよっ
てどうにかなる、克服できる問題ではありません。
最後の妄想は、こうした新型コロナウイルスパンデミックがもたらす危機をだれが、どのようにして克服できるか、につ
いてです。私の妄想は、人々が資本制秩序と利害を越えた社会的構想力を持つことが出来るかどうか、です。これに失敗すれ
ば資本制秩序が手を変え品を変え生き残ります。悲しいかな資本制的秩序に人々は勝てないだろうと私は思っています。で
も、少しは人々の抵抗の力でより良い改良ができることを希望します。
[これに関連するだろう、パンデミック後の労働・生活環境についての変貌の妄想は、後日とします。]
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
昨日は、憲法記念日でした。
『毎日新聞』すてきな特集、”スポーツと人種差別、五輪に刻む人権闘争”を組んでいました。”[記事は、ノーマンさん
のことを歌にした、フォーク歌手の中川五郎さん(70)がギターをかき鳴らし、話しかけた「ピーター・ノーマンを知っている
かい?彼の話を聞いておくれ」です。] 【以下は、毎日新聞の修正的要約です。】
ピーター・ノーマン(オーストラリア)さんは、1968年メキシコ五輪の陸上男子200メートルで銀メダルを獲得した白人選
手。表彰式で、優勝したトミー・スミスさん、3位のジョン・カルロスさんは、米国選手で黒人の2人は、うつむき、互いに分け
合った黒い手袋をはめた拳を高く突き上げました。「ブラックパワー・サリュート」と呼ばれる無言の抗議でした。米国内で
広がっていた人種差別撤廃を求める公民権運動の象徴でした。白人のノーマンさんは拳こそ上げなかったものの、左胸には
賛同を示すバッジをつけました。レース後、2人から表彰式で抗議行動に出ることを知らされ、協力を申し出たそうです。米
国オリンピック委員会は、2人を追放処分にし、帰国後の2人は、白人至上主義者らから殺害の脅迫を受け、職も失いました。
一方、ノーマンさんも、白人優遇の「白豪主義」を貫く母国で裏切り者扱いされ、72年ミュンヘン五輪は参加標準記録を13
回も突破しながら、代表に選ばれず、選手生命を絶たれ、高校の体育教師や肉屋など仕事を転々、アルコール依存症となり、
2000年シドニー五輪に招待されることなく、2006年に64歳で亡くなりました。彼の葬儀には米国からスミスさんとカルロ
スさんの2人が駆け付け、先頭でひつぎを担いだそうです。
スミスさんとカルロスさんは2019年やっと名誉を回復し、米国オリンピック・パラリンピック委員会の殿堂入りを果た
しました。ノーマンさんも、オーストラリア・オリンピック委員会がメルボルンの国立スポーツ博物館で功績を表彰した
そうです。実に半世紀ぶりの名誉回復でした。フォーク歌手の中川五郎さんは、このエピソードを24番、20分を超える物語
歌にしたそうです。私は、ノーマンさんは知りませんでした。
この毎日新聞の記事は、スポーツと人種差別、五輪に刻む人権闘争 で見ることが出来ます。 【おわり】