古代には吉備王国なる勢力が存在した。倉敷市の楯築遺跡は弥生時代後期(2世紀後半ー3世紀)のもので、吉備王国の首長の墳丘墓と考えられる。全長は約72mと云われ、弥生期の墳丘墓としては規模が大きい存在である。墳頂には円形を描くように大立石が立ち並んでいる。そのほぼ中央に石祠が存在し、内部には御神体と伝えられてきた『弧帯文石』があった。この弧帯文は特殊器台と同じ文様である。
吉備と云えば特殊器台である。この特殊器台は吉備のみならず出雲でも出土する。
写真は倉敷市真備町出土の特殊器台である。吉備の備前から備中・備後・出雲へと分布していく。その過程を以下ご覧頂きたい。
(備中・新見市哲西町西江遺跡)
(備後・三次市矢谷墳丘墓)
(出雲・矢野遺跡)
(出雲弥生の森博物館展示パネル)
この吉備と出雲でみる特殊器台の共通性はどのように理解すべきか。
弥生の一時期、強大な勢力を誇った古代出雲王国に吉備は親交を結んだのではないか・・・との空想が頭を過ぎる。その弥生期のできごとの後、『日本書紀』崇神天皇60年条、出雲の飯入根は兄の出雲振根が筑紫に出向いている間に、大和の使者である武諸隅に出雲の神宝貢いでしまった。これを怒った出雲振根は、弟を騙して殺害した。これに対し大和朝廷は、吉備津彦と武渟河別を遣わし、彼らによって出雲振根は誅殺された。
つまり出雲勢力は後退し、吉備勢力も弱体化するなかで、吉備が大和王権に帰順した姿が浮かぶ。大和王権は、かつて出雲と親交を結んだ吉備の武力を用いて出雲を討ったのではないか。吉備津彦は出雲への侵攻ルートを熟知していたのではないか・・・と思われる。
弥生期から古墳時代に至った吉備。岡山市の造山古墳(5世紀前半・古墳時代中期)は全長約350mと如何にも巨大である。その勢力の富の源泉は製塩と製鉄であろう。製塩は弥生時代中期に始まった。それにより巨大前方後円墳を築造できる富を蓄積したのである。この時期に至って吉備は巨大化し、出雲との親交の必要性はなくなり、独立王国を謳歌したものと思われる。
製塩は弥生中期からのようで、富の蓄積は長期に及んだようである。製塩の為の底の尖った尖底土器は、師楽式土器と呼ぶようで古墳時代より古いと云われているが、専門家でもないので適否の判断はできない。
一方の製鉄はどうであろうか。備前・備中は鉄鉱石による製鉄が行われていた。時代はいつまで遡るのか、遺跡の出土状況から6世紀後半の古墳時代後期と云われている。検証なしながら個人的には、もっと遡る可能性を考えている。何時までも朝鮮半島産の鉄材を輸入していたとは考えにくいことによる。しかし乍ら造山古墳築造年代まで遡るのは、やや無理がありそうだ。
この頃に大和王権の覇権が吉備に及んだものと考えられる。記紀によれば、12代・景行天皇の妃の出自は吉備氏であり、息子の倭建命(やまとたけるのみこと)の妃も吉備氏である。更に15代・応神天皇の妃は吉備氏の兄媛であり、16代・仁徳天皇も吉備氏の黒日売を娶っている。更に倭建命の東征説話、命の母や奥方は吉備氏であることは既に触れたが、東征の副将軍も吉備氏であった。これは大和が吉備を取り込んでからのことであろう。其の後の吉備は、出雲とどうように歴史の表舞台から去ることになった・・・というようなことを吉備の遺跡と関連施設を回って考えた。
<了>