まさおっちの眼

生きている「今」をどう見るか。まさおっちの発言集です。

ぼくの脱皮!

2014-02-17 | 随筆
村上春樹の最新作の短編「イエスタディ」を読んだ。田園調布に生まれ育ったくせに徹底的に関西弁を使う20才の浪人生と、芦屋生まれのくせに東京の大学に入ると一切関西弁を使わなくなった「ぼく」との心の交流を描いた作品だ。
その作品に「あれ?」っと思う一節があった。
主人公の「ぼく」が関西弁を使わなくなった理由だ。
彼は、18年間の人生を振り返ってみると、「僕の身に起こったことの大部分は、実に恥ずかしいことばかりだった。思い出したくもないようなみっともないことばかりだった。考えれば考えるほど、自分であることがつくづくいやになった」。そして、「とにかくすべてをちゃらにし、まっさらの人間として、東京で新しい生活を始めたかった。そして関西弁を捨てることは、そのための実際的な、象徴的な、手段だった」。
この一節が俺の青春時代を、ふっと、よみがえらせた。

生まれてこの方、小さな頃から、俺はどもりで苦労した。
皆から嘲笑されて生きてきた。
幼いころは、近所の子供たちから「わーい、ちかづくな、どもりがうつるー」と石を投げられた。
また、高校生の時、ガールフレンドの前で教科書の朗読を当てられ、一行も読めない恥辱もあった。
死のうと考えた時すらあった。
それこそ村上春樹の小説のように「思い出したくないようなみっともないことばかりだった」。

高校を卒業し、どうしても大学の哲学科に入りたかった。
生きるためには強くなるしかなかったからだ。
しかし、鉄工所勤めの父には俺を大学に行かす金はなかった。
で、俺は、新聞の三行広告をみて、入学金を稼ぐために、軽自動車でたこ焼き屋を始めた。
暴力団ともつながる「テキ屋」稼業だとも知らず、一生懸命働いた。
たこ焼き屋は20人位いたが、全国から流れきた人たちが多かったし、関東弁も飛び交っていたように思う。
この時から、いつしか俺も「ヘンな関東弁」を使うようになった。
兄貴には「コラッ、京都に生まれ育ったくせに、ヘンな関東弁使うな」とよく怒られたが、不思議と、関西弁を使うより、関東弁で喋ったほうが、どもらなかったのである。

俺はますます関西弁を喋らなくなり、京都にいながら関東弁を喋ることによって「自己の脱皮」を図っていったように思う。
自分の本性というものは変わりようがない。
しかし、役者のように、「関東弁」を流暢に喋る新たな自分を演じることで、次第にどもらなくなっていった。

京都に居場所がなくなり、やがて東京に出て、雑誌記者35年を送ったが、俺にとっても青春期のそんな「関東弁」は、それまでの自己否定と、新たな自己形成のための「脱皮」へのツールだったのかも知れない。