日本の政治は菅総理に決まった。しかし、彼では、普天間問題、円高対応など山積する問題に何一つ手を打てず、結局は政治空白を引き伸ばすだけの結果になるだろう。彼は民主党議員「412人内閣」を作るという。全員参加の政治を目指すという。民主主義として聞こえはいいが、それはリーダーシップを取れない総理としての器がないことを意味している。そのことは今回の代表選の演説を通じてよく現われていた。小沢氏が「地方にひもつきなしの一括交付金を」と言えば「私もそう思う」と、自説を変節して横にいる小沢氏をびっくりさせ、「一命を賭けて」と小沢氏が言えば彼も「命を賭け」といい、小沢氏が「私には夢がある」と言えば、「私にも夢がある」と、小沢氏が決死の思いで放った言葉をすべて横取りしていた。これは財務官僚に洗脳され消費税値上げを言ったことと同じように、菅氏には自らの「展望」や「思い」がなく、風見鶏のように目先のいい話に順応するだけの場当たり的な器であることを露呈させていた。こういうリーダーシップなき人間に日本を引っ張れという日本国民も所詮烏合の衆である。自民・検察・マスコミのトライアングルで「政治とカネ」というでっちあげられた「推定有罪」を鵜呑みにしている国民はなんとおめでたいことか。連戦連勝と戦時中、マスコミが国民を煽りたて、原子爆弾を投下されるまで戦争を続けたのと同じように、検察が200名も動員し、小沢氏の家宅捜査を行い、1年も掛けて調べあげても起訴できる証拠が出なかったものを、マスコミは未だに「有罪」として「政治とカネ、小沢悪」として国民を洗脳してきた。法治国家なのに、証拠もなき推定有罪がまかり通り、烏合の衆の国民はそのまま鵜呑みにしているのである。企業や国家、その他すべての組織には、リーダーというものが必要である。勿論、ヒットラーやスターリンのようなリーダーでは困るが、組織というものはリーダーの手腕・器・決断力に大きく左右されるものである。誰でもリーダーになれるというのが民主主義であり、412人皆でやりましょうというのは民主主義のはき違えである。企業でも「ボトムアップ」と「トップダウン」経営がよく比較される。しかし混迷時には「トップダウン」のリーダーシップでなければ道を切り拓くことは出来ない。小沢氏には日本を導く展望と強いリーダーシップがある。来年3月頃、何一つ手を打てない菅政権は支持率10%台になり、小沢氏にバトンタッチするだろう。日本の改革は遅くなるが、それまで待つしかない。