まさおっちの眼

生きている「今」をどう見るか。まさおっちの発言集です。

元A少年(酒鬼薔薇聖斗)、自己存在確認の重き十字架!

2015-09-14 | 小説
スーパーでカミさんがレジで並んでいる間、週刊誌をサラッと立ち読みした。週間新潮も週刊文春も元A少年から送られてきた手紙をトップヘージで大きく取り上げている。週間ポストは、顔写真も実名も取り上げているらしい。
ザラッとしか見なかったが、気分が悪くなり、ヘドが出そうだった。
元A少年は週刊誌に大きく取り上げられて、たぶん拍手喝采したに違いない。

彼の名は、東慎一郎といい、今は西岡真というらしい。

明らかに「どんな形であっても世間に認めてもらいたい」病という、一種の人格障害である。

おばあちゃんに育てられ、そのおばあちゃんが亡くなって以来、猫を殺し、15歳の時に、酒鬼薔薇聖斗と名乗って、子供を殺し、その首を校門に晒す残虐な行為をして世間を騒がした。

その後7年、医療少年院に入ったが、人格障害は治っていなかったようだ。

33才の今、被害者の家族に詫びるどころか、「絶歌」という自叙伝を出版し、何千万という多額の印税を手に入れ、さらに今回、全週刊誌に手紙までだし、「存在の耐えられない透明さ」というブログまで立ち上げた。

その行動に一貫して言えることは、自らブログのタイトルにしているように、自分の存在感に、透明だと耐えられないのである。

勿論、文学的視点からみると、その心情はわからないわけではない。

人間というものは、誰かに認めてもらいたいという願望を誰でも持っている。それは自己存在の確認とも言えるものだ。

たとえばパチンコに行ってると、大当たりした時、おばちゃんが台をよく撫でている。パチンコに来ている人の多くは孤独感を抱えており、大当たりした時、「台が自分を認めてくれた」と錯覚するのである。

多くの人は、さみしくっても、その程度で治まっている。

しかし、彼の存在感は、日常の現実社会で達成できなければ、他人を殺してでも達成したいという非日常世界にまで入り込んでいく。

1億2700万人のみんなが注目してくれなければ、彼の「透明感」は収まりがつかないのである。

文学的に言えば、自己存在の希薄さに気付かされた時、人間は、自虐的になって太宰治のように自殺するか、元A少年のように、世間にどんな形であれ、打って出るか、である。

今は自叙伝と週刊誌で騒がれて、彼は満足しているだろう。

しかし、人のうわさは75日、世間が彼を忘れてしまう頃、彼は再び「存在の希薄さ」に耐えられなくなり、再び何らかの「事件」を起こすだろう。

太宰治が今の時代に生きていたら、同じ根にありながら両極端に走っている元A少年を太宰はどう描くだろうか。

非日常世界を現実化するには、小説家になって、小説の世界で満足させるのが限度である。

ところが、人格障害の彼は、非日常性を日常の現実世界で達成しなければ収まりがつかないのである。

必ず、再び彼は「事件」を起こすだろう。



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