まさおっちの眼

生きている「今」をどう見るか。まさおっちの発言集です。

雨宿り

2008-10-17 | 小説
 都立病院の玄関を出ると、雪に変わりそうな冷たい雨が降っていた。三月も末だというのに今年の春は遅い。こんなに寒いなかを見舞いに来てやったのに、ベッドの上でまで怒ることはない。ぼくは、哀しかった。哀しかったけれど、社長にしてみれば相変わらずの事だし、ま、傘を挿して、とぼとぼ、歩いた。「きさまアッ、ボーズだとおッ、何年この仕事やってるんだあッ」。六人部屋だというのに、あれはないぜ、でかい声で。みんなカーテン閉めてたじゃねえか。寒いなか、ありがとうぐらい言えねえのかよう、貧しいぜ、哀しいぜ。
 公園の前に自動販売機がみえたので、ぼくはコーヒーを買った。温かいのを買ったはずなのに、ガタンときたのは冷たいやつ。おまえまで俺を舐めてんのかッ。コーヒーにやつ当たりして、道路に力一杯投げ捨てた。ヘコんで雨に打たれているカンを横目で見ながら、再びコインを入れて、ホットを確認してボタンを押した。そうよ、俺が全部悪いことはわかっているよッ、人間じゃあねえか、パーフェクトにゃいかねえよッ。
 歩いて飲むコーヒーの温かさが、やけに有り難かった。一日に五万歩は歩くセールスの後だ、コーヒーぐらいどこかに座って飲みたかった。公園の隅に軒のあるベンチが二つ見えた。先客が二人いたが、その間にぼくは座った。冷めかかったコーヒーをひとくち飲んで、ふううっと長い溜め息をつくと、少し身体が和らいだ。
「だんなさん、政治がわるいよね、政治がわるいんだよね」
 突然、右にいた浮浪者風の男が話しかけてくる。頭に毛糸の帽子を耳まで被り、汚れたマフラーを首に巻きつけ、膝には毛布を掛けている。ここで寝ているのだろうか。足元には所帯道具か、紙袋がふたつある。ぼくは、今、誰とも話をしたくない、疲れてるんだ。ぼくは、無視して、コーヒーを飲んだ。
「ま、そうだね。……しかし、……しかし、私の人生は……うまくいった」
 左の恰幅のある老人が、浮浪者に応える。あ、そうか、二人で話してたところに、どうも俺は割り込んで座ってしまったらしい。
「うまくいきましたか。そうですか、うまくいきましたか」
「……これ、わしの家じゃよ、わしの」
 老人が指さしたベンチの後ろの金網の向こうには、大きな立派な家が見えた。
 しばらく、沈黙が流れた。ぴしゃぴしゃと雨垂れが石畳を打つ。寒さと、夕暮れの暗さによけい気がめいる。木の下で一匹の鳩が羽を逆毛にして蹲っている。
「都会のひとは冷たいですよ、都会のひとはね」。また、浮浪者が、ぽつんと喋る。
「田舎にね、田舎に帰ろうと思っても、もう、帰れないとですよ。どうしても……」
 浮浪者の言葉尻が弱くなって、雨音に打ち消されていく。
 また、沈黙が流れる。さあ、ぼちぼち社に戻って、今度は専務の罵声を聞く時間だ。立ち上がろうとした時、金網の向こうから、女のかなきり声が聞こえてきた。
「じいちゃんッ、こんなに寒いのに、またそんな所にいてッ。今度倒れたら知らないからねッ、まったく、手間がかかるんだからッ」 老人は大きく鼻を鳴らした。
「人生、すべてうまくいったよ。嫁とこの脚のほかはね……」。そう言って老人が先に立上がり、よろよろと金網の近くに行った時だった。かざしていた傘をほうり投げて、下に屈み込み「うおおー」と大声をあげた。
「あ、あんたら、こ、これを見なさい」
ぼくと浮浪者は老人の指差すもとに駆けつけた。そこには、堅いアスファルトが一か所盛り上がり、その頂点からアスファルトを破って、五センチほどの草花の萠芽がつきん出ている。
「これはわしのヒヤシンスじゃ。去年、球根を嫁が捨てたもんじゃ。こうして上からアスファルトで堅められても、春になって、突き破って、出てきよったんじゃ。しかも、蕾まで持っておるぞ」
 浮浪者も興奮している。
「だんなさん、こんなことあるんだねェ。こんなこと、あるんだねェ」
 ぼくも老人に傘を挿しながら、初めて口を開いた。「なんで、ですかねェ。こんなに堅いのに、どうして、こんな柔らかいものが出てこれるんですかねェ」
 それは全く不思議な光景だった。生命のエネルギーには理解しがたいほど凄いものがあると感じざるを得ない光景だった。
「だんなさん、こんなこと、あるんだねェ。こんなこと、あるんだねェ」
 浮浪者は涙ぐみながら、何度も呟いた。
 三人はひとつになって、雨の夕暮れのなかを、何度も呟いた。


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