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今日の朝日新聞を見ていると日本を感動の渦に巻き込んだ「なでしこジャパン」の記事が一面にあって、それに押されてほとんど読み飛ばされてしまうかのように、文化欄に情報誌の「ぴあ」の首都圏版が休刊になるとの記事がありました。それを見た私はある感慨とともに、インターネットで気軽に情報が収集できる今、文化消費の仕方が変わったのだという象徴的な出来事に感じました。1980年代に学生であった私の場合、当時は京都にいたので「ぴあ」はその地では発刊されておらす、変わって「プレイガイドジャーナル(=通称・ぷがじゃ)とか「シティロード」が街の情報誌としてありました。今は2誌とも既になくなってしまっていますが、当時、私は隅から隅まで見て、見たい映画などをチェックしたりしたものでした。そうした行為は首都圏の学生でも同じだったのだと思います。
まず、情報誌を買ってきたらラインマーカー片手に見たい映画や美術などをチェックします。毎月それらが出るのが楽しみでした。何度も見返すうちに作家の名前や監督の名前も自然と覚えてしまいます。そして、これはと思うもの、たとえば伝説の映画の上映や名監督の作品の連続上映など、があれば少し遠出してでもわざわざ電車に乗ってそれを見に行くのです。何かそうした行為がすごく知的に感じたものでした。映画館で上映が終了後、拍手が起こった(「太陽を盗んだ男」と「青春の殺人者」の映画を見たとき)という経験をしたもの、そうした情報誌でチェックして名画座に行った時でした。
今はインターネットで気軽に情報を集めることができる時代、おそらく「ぴあ」が創刊された時は、情報があちこちにあり、ほとんど目につかない状態にあったものをキーワードで整理したことにより、与えたインパクトは画期的だったんじゃないかと思います。今思うとこの情報社会において情報を収集するという作業をわりと苦なくやれ、情報が読んで字の如く『情けに報いる』のもだと教えられたのは「ぴあ」のような情報誌のおかげだったと思うのです。私が社会人になり、とあるイベントホールを担当するようになると、仕事で「ぴあ」に情報を毎月のように送ったり、「ぴあ」に行くとサブカルチャーの一端を支えているのは彼等なんだと眩しく思えたものです。
ある時代、情報産業の象徴的な存在であった「ぴあ」の休刊は、まさに情報の発信手段が紙媒体からネットのバーチャル空間に移行したという、政権交代なのか世代交代なのかわかりませんが、それはひとつの事件としてとらえることのできる現象と、私など1980年代に学生時代を過ごしたものには感じてしまうのです。つまりどこよりも文化情報にあふれ消費されているであろう首都圏において「ぴあ」の提示した方法論は時代に合わなくなったということなのだから。サンキュー!「ぴあ」。「ぴあ」がなければ私が京都で親しんだ「プレイガイドジャーナル」も「シティーロード」もなかったのでしょう。社会人になってからも仕事で接点がありいろいろとお世話になったことがあります。休刊を期に、これから「ぴあ」が何処に向かっていくのかわかりませんが、文化情報の輝ける殿堂として媒体は違えども光を放ち続けてほしいと思うのであります。
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ぴあ [最終号] |
ぴあ | |
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僕も学生の頃、ぴあを愛読していました。
電車に乗っていた女子高生が「あの雑誌いいよね、ぷあ、だっけ?」と言っていたのを今でも覚えています。時代は本当に大きく変わりました。人間がテクノロジーに本当に追いついているのか。というか、人間が歩いている道はこれでいいのかなどなど、思うことは尽きないです。いずれにしても、この時代で僕たちは生きている、生きる。ということですね。
それにしても「ぷあ」は笑えますね。でもそれも、あの時代を象徴しているような・・・。