飾釦

飾釦(かざりぼたん)とは意匠を施されたお洒落な釦。生活に飾釦をと、もがきつつも綴るブログです。

僕は知らない寺山修司NO.132⇒映画「上海異人娼館 チャイナドール」

2009-07-15 | 寺山修司
■製作年:1981年
■製作:日・仏
■監督:寺山修司
■出演:イザベル・イリエ、クラウス・キンスキー、ピーター、山口小夜子、高橋ひとみ、新高けい子、他

鶴屋南北作、コクーン歌舞伎「桜姫」のインパクトが抜けないところなんですが、先週の土曜日に見た青蛾館による「上海異人娼館」のお芝居に合わせるように、それの元になった寺山修司が海外資本で監督した映画「上海異人娼館」を公演の前に見ました。本日はその感想です。

映画は、当時いわれたハードコア作品(つまり映画のセックスシーンで本番行為が行われること)となっています。公開時ボクは寺山に興味がありませんでしたから、そんなことがあるものとは露も知りませんでした。今でこそアダルトビデオが過激な描写を惜しげもなく、そして節操もなく見せているのですが、まだハードコアなんてめずらしい時代でありましたから、寺山はチャレンジャーであったわけです。

寺山の映像は土俗的な素材を扱いながらも、どこかデザインされたというか、記号を配置したというか、意図的というかそうしたイメージをボクは持っているのですが、この本番映像が挿入されるととたんに生々しくなる印象を得ました。クラウス・キンスキーの動物的で荒々しい腰遣いが別次元なわけです。同じように舞台となっている娼館に繰り広げられる男と女の変態チックなその行為の描写は、演技の過激性はあるもののどこか風景になじんでしまっているのですが(作為的という意味で)、それがキンスキーの場面になるや否や本能的に行為する人間という生々しさが前面に出てきてしまっています。

それがこちらとしては、現実を虚構が浸蝕するのではなく、虚構を現実が凌駕するような印象を受けてしまうのです。つまり虚構の部分が薄くなってしまい幻想性で売る本来の効果を充分発揮できていないのではないかと。その点だけから見れば、この映画はわざわざハードコアで撮影する必要がなかったんじゃないかと思いました。たとえば、キンスキーがドアを開けると向こう側に海が広がっているという寺山お得意の演出も、当のドアの開けた本人のあの(何度も言いますが)性的行為における生々しい腰の動きの印象が強く残ってしまっていて、もしかしてそれが一番アバンギャルドかも?とばかり思考は揺れ、その映像のインパクトが欠けてしまっていました。本番の導入により演出の冴えが半減しているのではないかとも感じさせてしまうマイナスの側面があったような気がしました。(当時はハードコアが珍しかっのでスタッフ一同が緊張で気負いすぎたのかも知れません)

それと寺山修司は演劇や映画などの活動において“母と息子”のテーマを必ずいっていいほど盛り込んでいて、それも愛憎のコンプレックスからなのか母親をコテンパンに侮辱するのですが、この映画では反転した関係“父と娘”になっています。それだからなのかどうかわからないのですが、イマイチ寺山本来の持っているよさを生かしきっていないように思いました。映画はキンスキー演じるステファン卿とO嬢の間には精神的な繋がりがあって、その絆を他者を介在させる快楽行為を通して感じるという設定になっているのですがそれを見てとるには、もっていきかたにまず説得性が欠けていたように感じました。ですから枠の中の少女といった象徴的な描写を用意して、最終的に父性からの自立を想起させる展開になっていてもそこには心に残るようなものは感じられませんでした。母親の場合はコテンパンに、父親の場合は常識的にというのはちょっとつまらない。初期の寺山のようにもっとはじけた部分を押面もなくだしたとしたら凄い作品になったんだろうなと…。寺山修司を贔屓目で見たい自分としても物足りなさを感じた作品でありました。

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