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鶴屋南北の傑作「東海道四谷怪談」、そして日本一有名な幽霊のお岩さん。そのお岩さんを祀った神社が、「お岩稲荷」こと「於岩稲荷・田宮神社」です。このところの四谷怪談づくしで、ならばその現場をと小春日和の心地よい日、四谷にある於岩稲荷・田宮神社をぶらりと訪れました。
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お岩さんですがその伝説は諸説あるそうです。この田宮神社に伝わるのは、所謂怪談話のイメージと違いお岩さん=貞女伝説であります。つまり実在したお岩さんは、歌舞伎や映画のように顔面が崩壊し恨みを残して死んでいったということはなく、家(田宮家)の再興に尽くした貞女であったそうです。それにあやかりたいと、江戸の女性たちはお岩さんを篤く信仰したのがこのお岩稲荷の始まりといいます。
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それから200年後、鶴屋南北がお岩人気に目をつけて戯作化したのが、その真相と言い伝えております。200年後というのが、すごいです。そんな期間もの貞女として信仰を集めたお岩さんはよっぽどできた女性であったのでしょう。そしてそのイメージをひっくり返したのが南北。これまた、作品の力がどれほどの影響力を持っていたのかを物語っています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/79/aa/927f2af689eee1bcc54d767562c1e8e4.jpg)
神社には、その辺りの経緯を書いたペーパーが置いてありました。それを読むとお岩さん伝説の成り立ちがよくわかります。以下は、そのペーパーの全文引用です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/2c/44f3b67583a3ef3d48d77068ed4ac87c.jpg)
“この神社の「於岩」というのは「お岩」という江戸時代の初期、江戸の四谷左門町で健気な一生を送った女性のことである。その女性の美徳を祀っているいるのが、この神社である。ところが、その「お岩」さんの死後二百年近く経ってから、図らずも芝居の主人公になった。「四谷怪談」である。しかし福を招き、商売繁盛のご利益があり、芸能の成功、興業の成功にはことさら霊験あらたか。さらに最近では交通安全、入学試験にも功徳がある、と言う。怨霊と「お岩」さんの関係は、いったいどうなっているのか。
脚色された於岩
第一幕
時は江戸初期。所は四谷左門町の武家屋敷の一角。お岩は徳川家の御家人の田宮又左衛門の娘で、夫の田宮伊右衛門とは人も羨む仲のいい夫婦だった。 ところが30俵3人扶持というから、年の棒給は16石足らず。台所はいつも火の車だった。 そこでお岩夫婦は家計を支えるため商家に奉公に出た。お岩が日頃から田宮家の庭にある屋敷社を信仰していた おかげで、夫婦の蓄えも増え、田宮家はかつての盛んな時代に戻ることができた。
お岩稲荷
信仰のおかげで田宮家は復活した、と言う話はたちまち評判になった。そして、近隣の人々はお岩の幸運にあやかろうとして、屋敷社を「お岩稲荷」と呼んで信仰するようになった。評判が高くなるにつれ、田宮家でも屋敷社のかたわらに小さな祠を造り、「お岩稲荷」と名付けて家中の者も信仰するようになった。そればかりでなく、毎日のように参拝に来る人々の要望を断り切れず、とうとう参拝も許可することになった。それからは「於岩稲荷」「四谷稲荷」「左門町稲荷」などいろいろに呼ばれたが、家内安全、無病息災、商売繁盛、開運、さらに悪事や災難除けの神としてますます江戸の人気を集めるようになった。お岩という女性に怨霊のかけらもない。
第二幕
時は江戸後期。所は、歌舞伎の作者。鶴屋南北の部屋。 鶴屋南北はかねてから、「於岩稲荷」のことを聞いていた。お岩という女性が死んでからもう200年がたっている。それなのに今でも江戸で根強い人気かあることに注目した。人気のある「お岩」という名前を使って歌舞伎にすれば、大当たりは間違いない、と見当を つけた南北は台本書きに入った。お岩があんな善人では面白くない。刺激の強い江戸の人間を呼ぶにはどぎついまでの脚色が必要だ。南北は「お岩稲荷」からは「お岩」の名前だけを拝借して、江戸で評判になったいろいろな事件を組み込んだ。密通のため戸板に釘付けされた男女の死体が神田川に浮かんだことがある。よし、これを使おう。主人殺しの罪で処刑された事件もあった。あれも使える。姦通の相手にはめられて殺された俳優がいた。それも入れよう。四谷左門町の田宮家には怨霊がいたことにしよう。江戸の人間なら、だれでも記憶にある事件を作家の空想力で操り、脚本はできた。しかし、四谷が舞台では露骨すぎる。「お岩」の名前だけ借りれば十分だ。南北が付けた題名は「東海道四谷怪談」。四谷の於岩稲荷の事実とは無関係な創作であることを示すことにした。天才的な劇作家が虚実取り混ぜて創作したのが、お岩の怨霊劇だった。
第三幕
時は、文政八年(1825)。江戸文化が最も華やかで、文化爛熟といわれた時代。寛政から始まった幽霊物の読み本が最盛期を迎えていた。果たせるかな、歌舞伎は大当たりした。お岩は三代目尾上菊五郎、伊右衛門は七代目市川団十郎の「東海道四谷怪談」は江戸中の話題をさらい、依頼、お岩の役は尾上家の「お家芸」になったほどだった。歌舞伎がますます於岩稲荷に人気を煽った。あまりの人気ぶりに幕府も当惑し、四谷塩町の名主・茂八郎に命じて町内の様子や出来事をまとめさせ、奉行に提出させている。歌舞伎の初演から二年目のことだった。
第四幕
時は、その後。所は四谷左門町の於岩稲荷神社。この歌舞伎の影響力は大きかった。最初は出演した役者がもっぱら参拝していた。そのうち上演前に参拝しないと役者が病気になる、事故が起こるといった話にまで発展するようになった。祟りがある、という声もあったが、事故の原因はほかにあった。なにしろ怪談である。トリックを懲り、道具だても複雑になり、多くなる。おまけに怪談だから、どうしても照明は暗い。また天井からの吊し物も多い。そんな中で芝居することになるので怪我が多かった、ということだろう。それが怪談にからめて「祟り」と結びついたのである。
第五幕
時は、明治以降。所は中央区新川。
「東海道四谷怪談」を手掛けては天下一品といわれた市川左団次から、「四谷まで毎度出かけていくのでは遠すぎる。是非とも新富座などの芝居小屋のそばに移転してほしい」という要望もあり、明治12年(1879)の四谷左門町の火事で社殿が焼失したのを機会に、隅田川の畔にあった田宮家の屋敷内に移転した。それが現在の中央区新川にある於岩稲荷神社で、四谷の於岩稲荷とまったく同体の神社だ。その新川の社殿は昭和二十年(1945)の戦災で焼失したが、戦後、四谷の於岩稲荷ともども復活して、現在は二つの於岩稲荷がある。”
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7d/2d/aaf92c00395ebea9ae67de62d04ee38c.jpg)
お岩さんの墓(西巣鴨・妙行寺)は昨年の8月に記事としてアップしたことがあります。←よろしければそちらもご覧ください。
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お岩さんですがその伝説は諸説あるそうです。この田宮神社に伝わるのは、所謂怪談話のイメージと違いお岩さん=貞女伝説であります。つまり実在したお岩さんは、歌舞伎や映画のように顔面が崩壊し恨みを残して死んでいったということはなく、家(田宮家)の再興に尽くした貞女であったそうです。それにあやかりたいと、江戸の女性たちはお岩さんを篤く信仰したのがこのお岩稲荷の始まりといいます。
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それから200年後、鶴屋南北がお岩人気に目をつけて戯作化したのが、その真相と言い伝えております。200年後というのが、すごいです。そんな期間もの貞女として信仰を集めたお岩さんはよっぽどできた女性であったのでしょう。そしてそのイメージをひっくり返したのが南北。これまた、作品の力がどれほどの影響力を持っていたのかを物語っています。
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神社には、その辺りの経緯を書いたペーパーが置いてありました。それを読むとお岩さん伝説の成り立ちがよくわかります。以下は、そのペーパーの全文引用です。
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“この神社の「於岩」というのは「お岩」という江戸時代の初期、江戸の四谷左門町で健気な一生を送った女性のことである。その女性の美徳を祀っているいるのが、この神社である。ところが、その「お岩」さんの死後二百年近く経ってから、図らずも芝居の主人公になった。「四谷怪談」である。しかし福を招き、商売繁盛のご利益があり、芸能の成功、興業の成功にはことさら霊験あらたか。さらに最近では交通安全、入学試験にも功徳がある、と言う。怨霊と「お岩」さんの関係は、いったいどうなっているのか。
脚色された於岩
第一幕
時は江戸初期。所は四谷左門町の武家屋敷の一角。お岩は徳川家の御家人の田宮又左衛門の娘で、夫の田宮伊右衛門とは人も羨む仲のいい夫婦だった。 ところが30俵3人扶持というから、年の棒給は16石足らず。台所はいつも火の車だった。 そこでお岩夫婦は家計を支えるため商家に奉公に出た。お岩が日頃から田宮家の庭にある屋敷社を信仰していた おかげで、夫婦の蓄えも増え、田宮家はかつての盛んな時代に戻ることができた。
お岩稲荷
信仰のおかげで田宮家は復活した、と言う話はたちまち評判になった。そして、近隣の人々はお岩の幸運にあやかろうとして、屋敷社を「お岩稲荷」と呼んで信仰するようになった。評判が高くなるにつれ、田宮家でも屋敷社のかたわらに小さな祠を造り、「お岩稲荷」と名付けて家中の者も信仰するようになった。そればかりでなく、毎日のように参拝に来る人々の要望を断り切れず、とうとう参拝も許可することになった。それからは「於岩稲荷」「四谷稲荷」「左門町稲荷」などいろいろに呼ばれたが、家内安全、無病息災、商売繁盛、開運、さらに悪事や災難除けの神としてますます江戸の人気を集めるようになった。お岩という女性に怨霊のかけらもない。
第二幕
時は江戸後期。所は、歌舞伎の作者。鶴屋南北の部屋。 鶴屋南北はかねてから、「於岩稲荷」のことを聞いていた。お岩という女性が死んでからもう200年がたっている。それなのに今でも江戸で根強い人気かあることに注目した。人気のある「お岩」という名前を使って歌舞伎にすれば、大当たりは間違いない、と見当を つけた南北は台本書きに入った。お岩があんな善人では面白くない。刺激の強い江戸の人間を呼ぶにはどぎついまでの脚色が必要だ。南北は「お岩稲荷」からは「お岩」の名前だけを拝借して、江戸で評判になったいろいろな事件を組み込んだ。密通のため戸板に釘付けされた男女の死体が神田川に浮かんだことがある。よし、これを使おう。主人殺しの罪で処刑された事件もあった。あれも使える。姦通の相手にはめられて殺された俳優がいた。それも入れよう。四谷左門町の田宮家には怨霊がいたことにしよう。江戸の人間なら、だれでも記憶にある事件を作家の空想力で操り、脚本はできた。しかし、四谷が舞台では露骨すぎる。「お岩」の名前だけ借りれば十分だ。南北が付けた題名は「東海道四谷怪談」。四谷の於岩稲荷の事実とは無関係な創作であることを示すことにした。天才的な劇作家が虚実取り混ぜて創作したのが、お岩の怨霊劇だった。
第三幕
時は、文政八年(1825)。江戸文化が最も華やかで、文化爛熟といわれた時代。寛政から始まった幽霊物の読み本が最盛期を迎えていた。果たせるかな、歌舞伎は大当たりした。お岩は三代目尾上菊五郎、伊右衛門は七代目市川団十郎の「東海道四谷怪談」は江戸中の話題をさらい、依頼、お岩の役は尾上家の「お家芸」になったほどだった。歌舞伎がますます於岩稲荷に人気を煽った。あまりの人気ぶりに幕府も当惑し、四谷塩町の名主・茂八郎に命じて町内の様子や出来事をまとめさせ、奉行に提出させている。歌舞伎の初演から二年目のことだった。
第四幕
時は、その後。所は四谷左門町の於岩稲荷神社。この歌舞伎の影響力は大きかった。最初は出演した役者がもっぱら参拝していた。そのうち上演前に参拝しないと役者が病気になる、事故が起こるといった話にまで発展するようになった。祟りがある、という声もあったが、事故の原因はほかにあった。なにしろ怪談である。トリックを懲り、道具だても複雑になり、多くなる。おまけに怪談だから、どうしても照明は暗い。また天井からの吊し物も多い。そんな中で芝居することになるので怪我が多かった、ということだろう。それが怪談にからめて「祟り」と結びついたのである。
第五幕
時は、明治以降。所は中央区新川。
「東海道四谷怪談」を手掛けては天下一品といわれた市川左団次から、「四谷まで毎度出かけていくのでは遠すぎる。是非とも新富座などの芝居小屋のそばに移転してほしい」という要望もあり、明治12年(1879)の四谷左門町の火事で社殿が焼失したのを機会に、隅田川の畔にあった田宮家の屋敷内に移転した。それが現在の中央区新川にある於岩稲荷神社で、四谷の於岩稲荷とまったく同体の神社だ。その新川の社殿は昭和二十年(1945)の戦災で焼失したが、戦後、四谷の於岩稲荷ともども復活して、現在は二つの於岩稲荷がある。”
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お岩さんの墓(西巣鴨・妙行寺)は昨年の8月に記事としてアップしたことがあります。←よろしければそちらもご覧ください。
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