飾釦

飾釦(かざりぼたん)とは意匠を施されたお洒落な釦。生活に飾釦をと、もがきつつも綴るブログです。

「妖怪談義」(柳田國男)を読む

2013-09-18 | ワンダーゾーンの世界

「遠野物語」で有名な民俗学の大家・柳田國男の「妖怪談義」を読みました。先日の私のブログに書かせていただいた小松和彦氏の本でも柳田のこの本は妖怪研究のひとつのエポックなものとして取り上げられていたものです。ここでは柳田は妖怪と幽霊について区別しています。それは妖怪は場所に、幽霊は人につくのだという分類です。この区分けはとてもわかりやすいのですが、現在の研究によると柳田の区分け道理にはいかないということらしいですね。私は研究者ではありませんのでなるほどね、と読書している瞬間に思えればそれでいいのですが。何はともあれ、妖怪と幽霊の区分けに言及している柳田の文章は読書という行為から見ると面白いので以下にそこの部分を引用してみました。

 

“誰にも気のつくようなかなり明瞭な差別がオバケと幽霊との間にはあったのである。第一に前者は、出現する場処がたいていは定まっていた。避けてそのあたりを通らぬことにすれば、一生出くわさずにすますこともできたのである。これに反して幽霊の方は、足がないという説もあるにもかかわらず、てくてくと向こうからやって来た。かれらに狙われたら、百里も遠くへ逃げていても追い掛けられる。そんな言葉先化け物には絶対にないと言ってよろしい。第二には化け物は相手をえらばず、むしろ平々凡々の多数に向かって、交渉を開こうとしていたかに見えるに反して、一方はただこれぞと思う者だけに思いを知らせようとする。従うて平心掛けが殊勝で、何等やましい所のないわれわれには、聴けば恐ろしかったろうと同情はするものの、前以て心配しなければならぬような問題ではないので、たまたま真っ暗な野路などをあるいて、出やしないかなどとびくびくする人は、もしも恨まれるような事をした覚えがないとすれば、それはやはり二種の名称を混同しているのである。最後にもう一つ、これも肝要な区別は時刻であるが、幽霊は丑みつの鐘が陰にこもって響く頃などに、そろそろ戸をたたいたり屏風に掻きのけたりするというに反して、一方は他にもいろいろの折がある。器量のある化け物なら、白昼でも四辺を暗くして出て来るが、先ず都合のよさそうなのは宵と暁の薄明かりであった。” ※“”部分「妖怪談義」柳田國男(講談社学術文庫)から引用

 

ここで宵の薄明かりとあるのですが、妖怪が出現しやすくなるような暗くなってくる時間を、昔はカハタレとかタソガレドキと言っていたのは(電灯などあるはずのない時代なので)言葉の意味として妖怪に対する警戒心が含まれているというのです。つまりカハタレとは「彼は誰」であり、タソガレドキとは「誰ぞ彼」の固定した形であるというのだそうだそうでう。太陽も山の向こうに沈みつつある薄明かりの路地において、そこですれ違う人がよく知る顔見知りなのか、他所から来たよそ者なのか、はたまた妖怪なのかというのは、電気のない時代を考えイマジネーションを働かせれば用意に警戒心と結びついてくることはわかります。それこそある地方においてはその時分をマジマジゴロ、メソメソジブン、ウソウソ、ケソケソという所もあるようで、いずれも人の顔がはっきりしないことを意味しているそうだ。ウソウソとケソケソとか意味深ですよね。そしてそうした微妙な表現こそが、一方で得体の知れないものを指していると同義なのだろうし、その発想はまさしく妖怪を生むきっかけになっているのかな~と思うのでした。ちなみに、黄昏時にすれ違う人同士が声をかけあうというのは並の礼儀ではなかったそうで、自分が妖怪でないことをアピールしなくてはならない。たとえば、美濃では誰じゃと声をかけるとオネダと答える、オレダということができないので化けの皮がはがれる、正体は狸であるとなるのだそうです。言葉って意外とすごいんですね。

妖怪談義 (講談社学術文庫 135)
柳田 國男
講談社
新訂 妖怪談義 (角川ソフィア文庫)
柳田 国男
角川学芸出版

 

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