♦️33『自然と人間の歴史・世界篇』ホモサピエンスは全大陸へ

2018-03-02 08:43:55 | Weblog

33『自然と人間の歴史・世界篇』ホモサピエンスは全大陸へ

 故郷のアフリカを出発してかれらは、現在のインドの西部に辺りから、北と南に二つのルートで東アジアに入ったのではないか、ともいわれる。今からおよそ7万年前には、インドネシアで火山の大噴火があり、当時の人類の相当部分が滅んだとされている。しかし、そのことについて、うってつけの証拠資料は見つかってない。とはいえ、おそらくは、生き残った人々は互いに助け合って、集団での生活を立て直していくのであった。
そうしておいて、約15万年~10万年前に第一次、そして約5~6万年前に第二次という具合に、アフリカ大陸から出たといわれるホモ・サピエンスの一部は、その後長い、長い時間を経て日本列島にも到達したのであろう。そのかれらの日本列島への最初の渡来時期は、地質学でいう新生代第4紀更新世(約258万年~約1万1700年前)の最後の氷河期(最終氷期、約7万年前に始まって約1万1700年前に終了した一番新しい氷期)の終わり、新生代第四紀「更新世後期」の4区分(ジェラシアン、カラブリアン、中期及び後期)のうちの一番後の「後期」なのではないかと考えられるが、考えるだけでわくわくするような一大叙事詩を垣間見ているような気持ちがしてくるではないか。
 一方、ヨーロッパでは、1991年9月19日、考古学上の偉大な発見があった。この日、海抜3千200メートルのフィナイル峰からイタリアに下山するルートの途上で、ある登山家夫妻が氷から頭部と肩が突き出た、凍った人間の遺体を発見した。その辺りのチロル地方は、ヨーロッパ・アルプスの東側の地域一帯を指し、スイス、オーストリア、ドイツ、イタリアにまたがっている。非常に風光明美な所だという。見つかった遺体は、ヘリコプターでインスブルックの法医学研究所に運ばれ、それから色々と調査をしたところ、驚くべき事実が判明した。
 というのは、放射性炭素法による年代測定で遺体は少なくとも5000年以上も前の人間である事実を示していた。この方法は、炭素14の半減期がわかり、元々の大気の元素組成(割合)がわかったいることから、それからどのくらいその炭素14が減ったかで、経過の年数を割り出す技術のことをいう。遺体部分を4か国の研究所に依頼し、測定したところ、ほぼ同じ解答であった。4つの研究所の平均値を取ると、紀元前3300年から3200年あたりということになったのである。なにしろ、5300年ほども昔の人体が完全な姿で見つかったのは、20世紀最大級の発見だといえる。
 その後のマスコミによって、この遺体は「エッツィ」(エッツ峡谷の雪男の意)、アイスマン(氷河人)の名で呼ばれるようになっていく。もちろん、エジプトにおいても、ピラミッドは一つも建設されていなかった時代の事である。メソポタミアは今から7千年前の土器が見つかっているが、人体そのものは見つかっていない。この遺体が持っていた銅の道具は、石器にまじって銅を使った簡単な道具が使われ始めていたことを裏付けた。
 そもそも、アフリカで発生した現人類の祖先が、どのようなきっかけで外部への道を辿ることになったかは、詳しいことはわかっていない。そこには、新天地(フロンティア)を求めての事もありえたであろうし、そこでは増え続ける人口を食べさせていけなくなったから、とも考えられる。特に、飢餓は人々に移動を流す効果がある。生物地学では、「混み合い度」もそうしたときの一つの尺度になる、その場合、生物社会の基本ルールは人間によってねじ曲げられることになりかねない。
 これらの出アフリカの人々が数あるうち、中東、南アジアに達したグループから東アジア、次にその一部である中国へ、さらに朝鮮半島に進んできた人々、グループがあった。陸路では、氷河時代には、ある程度、橇に乗ったり、歩いて渡って来れたのではないか。また、風の向きを見計らって、大陸東岸から直接船で黄海(こうかい、ファンヘ)を渡ってきたことも考えられる。しかし、後のコースを取って、氷河期が去って後の大海を大勢の人が渡れる距離では到底なかった、とも考えられる。

(続く)

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♦️32『自然と人間の歴史・世界篇』現生人類へ(5万年前~、ホモサピエンスの2回目の出アフリカ)

2018-03-02 08:42:30 | Weblog

32『自然と人間の歴史・世界篇』現生人類へ(5万年前~、ホモサピエンスの2回目の出アフリカ)

 それが約5万年前になると、寒く乾燥した大地にいることに危機感を抱いたホモ・サピエンスたちが、かなりの人数で「出アフリカ」を敢行するに至る。ここに「かなりの人数」とは、約150人位を一単位と考えると、それが運命共同体として最適の規模だという説が出されている。西アジアに出て数を増やし、それからユーラシア大陸の東西へ拡散を始めたものと思われる。南アジアからは海を渡ってオセアニアへの移住が起こる。
 この集団は、4万5000年前頃に同大陸に到達した。一説によると、日本人の祖先も3万8000年前に初めて日本列島に到達した。さらにおよそ2万1000年前からおよそ1万4000年前にかけて地球の寒冷化があった。こうなると、海面が低下し、その分陸地が干上がってくる。海水面の後退は、大きいところでは現在の水面から百メートルにもなっていたのではないかとも考えられている。ユーラシア大陸を東進したホモ・サピエンスの集団は、その寒冷化で陸地になっているベーリング海峡を渡り、北アメリカ大陸に、そして約1万年前には南アメリカ大陸にも渡っていく。こうした移住の結果、人類は地球上に広く行き渡り、その各地で多様な歩みを大地に刻んでいくのであった。
 ここに、「ホモ・サピエンス」(2009年の定義)というのは、「ホモ」がラテン語で「人」、サピエンスは「賢い」という、したがって「賢い人」という意味である。これは、原始的亜種である「ホモ・サピエンス・イダルトゥ(ヘルト人)」と、基亜種としての「ホモ・サピエンス・サピエンス(現生人類)」の総称していう。このうちホモ・サピエンス・イダルトゥの化石は、約19万5000年前のエチオピアはミドルアワシュ峡谷の中から発見された。彼らの脳容量は1400立方センチの大きさであった。発見された地層は更新世末期のリス氷期中、考古学上の区分でいうと中期旧石器時代中期頃に生きた人びとの化石だと推測されることから、これをとって、私たち原生人類の直接の祖先は、少なくともおよそ20万年前に出現したというのが通説となっている。彼らは通称「ヘルト人」と呼ばれる。
 過去から現在へ、その流れの中で地球上のあらゆる生物は、環境変化に適応すべく進化を遂げてきた。現生人類の起源を巡っては、国際的な捉え方の外、「猿人」、「原人」のみならず、「旧人」と「新人」などの日本独特の区分けも重なっていて、ややこしい。そのことを覗わせる最初の関門こそ、進化のシナリオの中で「原人」とは何であり、どのような位置を占めるのか、という命題であった。
 そもそも19世紀に、人類学者によって初の人類とおぼしき化石が欧州で発掘された。それ以降、アフリカにまで発掘を広げて、地道な発掘作業が続いた。20世紀になると、生物学の発展により、遺伝学的な探索が徐々に可能となっていく。
 さて、化石となって発見された現世人類であるホモ・サピエンス、その代表格といえるのが「クロマニョン人」だ。この種の発見は、1868年、フランスのドルトーニュ県にあるクロマニョンの岩陰から、鉄道工事中の工夫が人骨5体(頭骨を含む)を発見したのを嚆矢(こうし)とする。その岩陰は、あのラスコーの壁画(約2万年前)で知られる洞窟から約10キロメートルの場所にある。
 その後、ヨーロッパ各地の洪積世地層から同様の化石人骨が発見され、現生人類に属する化石人類として「ホモ・サピエンス)」と言われるようになった。ともあれ、かれらこそは、私たちの直接の祖先である、ホモ・サピエンスにほかならないことがわかった。彼らがこの地上に現れ、生きた時代としては、約700万年もの人類の全進化史の中ではごく最近にあたる一時期、約4万5000年前から約1万5000年前くらい(石器年代でいうと、後期旧石器時代)をヨーロッパ大陸の一角に生きた地域的集団であると推定されている頃だ。人々は、石や動物の角などを利用し、さまざまなやりの先や、弓矢の鏃(やじり)、ナイフなどを製作、毛皮の加工もしていた痕跡が残っている。
 これに関連して、旧石器時代のクロマニョン人が活動していた範囲で広く洞穴絵画が残されている。ところで興味深いのは、かれらの骨の発見には、洞窟の壁画の発見が絡んでいたことだ。というのは、1879年、スペインのアルタミラ洞窟で、この地の領主であり法律家でありアマチュアの考古学者でもあるマルセリーノ・デ・サウトゥオラ侯爵の12歳の娘マリアによって発見された。同侯爵による発表の当時は世間に見向きもされなかった。後にこの壁画は、先史ヨーロッパ時代の区分でソリュトレ期に属する約1万8500年前頃のものと、同マドレーヌ期前期頃の約1万6500年前~1万4000年前頃のものだと分かった。壁画が描かれた後に落盤があったらしく、外界と遮蔽され、そのことが幸いして画が失われずに残ったのだという。その洞窟には、旧石器時代末期に描かれた野牛、イノシシ、馬、トナカイなどの動物が、狩りの対象として描かれていた。
 続いて1940年、今度はフランスの西南部ドルドーニュ県、ヴェゼール渓谷のモンティニャック村にあるラスコー洞窟近くで遊んでいた子供たちによって、これまた偶然に発見された。アルタミラ洞窟に勝るとも劣らない、すばらしい彩色のものであった。こちらの狩りを描いた壁画は、光がほとんど届かない洞窟の奥深くにあったことから、保存状態が極めて良かったとされる。これらの壁画がなぜ描かれたかについて、どんな思いを込めて描いていたのかについては、古代の呪供師(きょうじゅつし)が洞窟にこもって儀式を行っていたのではないかとか(クリストファー・ロイド著・野中香方子訳「137億年の物語ー宇宙が始まってから今日までの全歴史」文藝春秋、2012)、どのような状況の下でそれらの獲物を捕らえたかを記憶にとどめようとしたとか、さまざまに推測されているようだ。

(続く)

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