□103『岡山の今昔』岡山から総社・倉敷へ(室町時代)

2017-04-11 10:17:32 | Weblog

103『岡山(美作・備前・備中)の今昔』岡山から総社・倉敷へ(室町時代)

 さて、総社に、宝福寺という禅寺がある。創立年代は不明にして、天台宗の古刺であった。それを、鎌倉時代の1232年(貞永元年)に住職の鈍庵和尚がこの地に新しく伽藍を建立した。鈍庵和尚は備中真壁(現総社市真壁)の生まれ。依頼、この寺は臨済宗東福寺派の中本山で、西国布教の一拠点となっていく。
 ここは三重塔が有名で、国の重要文化財となっている。この塔だが、1376年(永和2年)に建立された。これが分かったのは戦後の解体修理で発見された銘文であり、それまでは寺に伝わる話で北条時頼が諸国巡遊した際の寄進だとされていたのが覆されのであった。1575年(天正3年)の備中兵乱によって宝福寺の大半の建物が焼失した。戦火のなか三重塔だけは無事に残った。室町時代の塔が残っているのは、珍しい。
 この寺で幼少期の一時を過ごしたのが、雪舟(1420?~1506?)である。彼は、備中国赤浜(現在の岡山県総社市)に生まれた、というのが大方の見方だ。俗姓は小田氏といった。幼い頃、近くの宝福寺に入り、雑事をこなしていたのだろうか。さて、幼い頃の雪舟の有名な逸話がある。彼が絵ばかり好んで経を読もうとしないので、住職の春林周藤は彼を仏堂に縛りつけてしまった。しかし床に落ちた涙を足の親指につけ、床に鼠を描いた。これを見つけた住職はいたく感心し、彼が絵を描くことを許した。(この話は、江戸時代に狩野永納が編纂した「本朝画史」(1693年刊)に載っているものの、定かではない)。
 それから10歳を幾らか過ぎた頃らしいが、京都の相国寺に移った。そこで、春林周藤に師事して禅の修行を積むとともに、水墨画の画技を天章周文に学んだ。後に、守護大名大内氏の庇護の下で、中国の明に渡り水墨画の技法を学んだ。帰国後、豊後(大分市)においてアトリエを営み、山口の雲谷庵では画作に精を出す。また、日本各地を旅し、80代後半で没するまでの間、精力的に制作活動を行った。生涯の作品は、あまたある。「四季山水図」、「悪可断管図」、「山水長巻」、「天橋立図」など、傑作揃いだとされる。在来の水墨画にない、激しい筆致等により、安土桃山時代の画家に大きな影響を与えたことから、江戸時代の画家からは「画聖」とも呼ばれる。たしか2000年の国宝展で出品されていた「四季山水図」からは、何故か孤独、風雪というものを感じた。

(続く)

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