○110『岡山の今昔』高野、勝北、日本原から奈義の風景

2017-04-17 17:52:04 | Weblog

110『岡山(美作・備前・備中)の今昔』高野、勝北、日本原から奈義の風景


 今では、津山から私の生家に到るには、二つの交通機関を使う。その一つは、因美線のディーゼル機関車に乗って津山駅を出発し、東津山、高野と北東にたどり、そこからは森と加茂川渓谷を分け入り次の美作滝尾駅で降りる。ここは加茂川に沿って開けた農業と林業の山あいの村で僕の好きな風景がある。短いが鉄橋が架かっている。緑と水の醸し出す叙情的風景がそこには広がっている。そこから加茂川に沿って南東の方角へ下り、さらには加茂川を離れて東へ4キロメートルばかり歩いたところに私の生まれ育った家がある。
 もう一つの公共交通としては、津山駅から中国鉄道バスに乗っていく。乗るのは、行方、馬桑方面行き、自衛隊方面行き、そして日本原行きである。このバスに乗って同じく北東方面に進んでいく。高野まで鉄道で行って、そこからバスに乗り込むルートもある。バス旅は津山から川崎を通って東津山に出る。このあたりで吉井川とは別れ、私たちが乗り合いしたバスは、支流の一つである加茂川沿いの道をたどり始める。私たち勝北(しょうぼく)の者は、河辺で加茂川を渡り押入へと北上する。高野本郷(たかのほんごう)や高野山西(たかのやまにし)のあたりは「高野田圃」(たかのたんぼ)といって、昔から美作の有数な水田地帯なのである。
 ここの鎮守には、高野神社がある。創建年代は不詳ながら、地域の守護神として建てられたのだろう。ここの古くの祭神は鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)のみであったのが、鎌倉時代に八幡神の応神天皇・神功皇后が加えられた。国家神道において格式というものが定められていて、平安時代前期の864年(貞観6年)に従五位に叙せられ、さらに875年(貞観17年)には正五位下に昇進している。これと同じ名前の神社が、津山の西、二宮にもあって、そちらの高野神社の二宮の格式に比べると、下位に分類される。こちらは高野本郷地区の郷社の扱いなので、近隣の豪族などからの土地寄進などは、封建社会の中で限られていたのではないか。
 参考までに、美作国十一社のうち首位の中山神社に次いで2番目、「二宮」としての高野神社については、祀っているのは、彦波限武鵜葺不合尊(ひこなぎさうがやぶきあえずのみこと)と長い名前だ。その人物は、伝説上の神武天皇の父である、とされる。ところが、傍らの相殿に美作の国の「一宮」、中山神社主祭神の鏡作神(かがみつくりのかみ)祀っていることから、元々この二つの社は一体となって活動していたとの推測もなされてきた。
 かの『今昔物語』には、「美作国に中参(中山神社の古名、引用者)・高野と申す神在(おわし)ます。其神の体は、中参は猿、高野は蛇にてぞ在ましける」とあるからだ。猿や蛇を祀っているというのは、いかにも突飛なことだから、さしずめ間をとって「神の使い」か「神の召使い」といったところか。参考までに、この他に「天石門別神社」(英田郡宮地村)、佐波良神社、形部神社、いち栗神社、大佐佐神社、横見神社、久刀神社、菟上(とがみ)神社、長田神社(以上八社は当時の大庭郡、現在の真庭郡湯原町社という狭い処に寄り合いしている)があり、野村十左衛門英至(倉敷)作の『山陽道美作国図』(1816~19年刊行)余白にもそのことが記されている。
 今のJR高野駅を過ぎると野村(津山市)で、それから北東に進路をとって楢(なら)というところで加茂川を渡る。さらに数キロメートル行ったところにある上村の停留所で降りる。そこから北へ歩いて約2キロメートルのところに私の生家はある。西下の北端、天王山(てんのうざん、西下にあって標高は291メートル)という丘陵状の山懐に抱かれた傾斜の地に人々がへばりつくようにして住み始めたのは、少なくとも江戸初期にまで遡る。この地には、西粟倉村(英田郡)ほどのたおやかで、森閑たるたたづまいとはいえないまでも、ゆったりとした森と大小の棚田と溜池がある。狐尾池は1922年(大正11年)に構築された。当時のこのあたりは湿地帯であったのかもしれない。この一帯はいわゆる名所旧跡の類が見られる珍しい場所ではない。
 私の家の辺りは西下の最北端にある。どう贔屓目(ひいきめ)に見ても、取り立てて風光明媚な場所ではない。子供の頃には国道53号線から帰る方向を仰ぎ見て、小学校の高学年ともなると、ときには「あんなとこまで帰るのか」と道中の長いのを恨んだこともあった。その人家のありよう、たたずまいは山間の僻地とまではいかないものの、それにかなり近い。でも、生まれて半世紀近く経ったいまも、私のたった一つの故郷であることに変わりはない。
 勝北の東部から奈義へと至るには、それからも国道53号線を通って横仙の山並みを左に仰ぎながら、東へ、東へと進んでいく。この道を辿って昔の人々がどのように往来していたかを伝えるものとしては、次の話が伝わっている。18世紀も末葉に近くなる頃、勝田郡真殿村(現在の勝田軍勝田町真殿)に三次郎という農民が暮らしていた。彼は4反ばかりの田んぼで稲を作っている、自作農といっても貧しい農民だった。同村に同じ農民の清助という者がいて、その娘の名を「くに」といった。その「くに」が16歳になった時、彼女は三次郎のもとに嫁入りする。嫁入り先には三次郎の父と母がいて、4人による新生活が始まる。それだけなら話はここで終わるのだが、三次郎は体が弱く、舅姑(しゅうとしゅうとめ)もまた病気がちであって、彼女にとっては新婚の頃から労働の汗のしたたる日々が続いた。
 そして迎えた1795年(寛政7年)、この地方は大洪水に見舞われ、この辺りの村々の田畑という田畑は水浸しになり、それからは不作の年が続いた。一家の困窮をなんとかしたい彼女は、老父母に、山の雑木を切って炭焼きを行い、それでできた炭を牛に背負わせて津山城府までの途中にある新野(にいの、現在の津山市勝北新野地区)に炭の中継ぎ問屋があるのを幸いに、そこまでの往復8里の道のりを日帰りで売りに行きたいと願い出たところ、舅はそれは男仕事であるので彼女で大丈夫かと心配したらしい。しかし、結局は許したものとみえ、彼女はその仕事で一家の生活を懸命に立て直していく。これが美談として伝えられ、彼は当時の藩から表彰されたことになっている(詳しくは、吉岡三平「吉備の女性」日本文教出版の岡山文庫1969年刊)。
 その沿線にて、二つ目の話を紹介しよう。1889年6月の市町村制施行でそれまで「勝北郡滝本村野」(現在は勝田郡奈義町滝本)と呼ばれてきた滝本村ほかの四か村が合併し「北吉野村」となっていた。その頃、この滝本からは「年の暮れが近づくと、村では津山の待ちへ米を売りに行く。荷車に二~三俵積み、そり代金が節季の支払いにあてられる、そんなある日、近所の小父さんに「今日はまちへ米を売りにいくけん、(津山で働いている)兄さんにあいたければつれていってやろうか」と声をかけられた。母のないマツ(後の芦田マツ)は快諾し、津山まで片道四里の道程を元気に歩いてついていったという。二ツ坂、油坂、福万寺の急坂を越え最後の楢坂を下ると、加茂川上流の船着場、川べりに灯ろうが立ち、土手の桜並木のたもとに茶屋があり、「いけやまん頭」ののぼりがはためいていた。この五厘饅頭は大きく、砂糖が多いのが評判で、蒸籠が甘い香りの除ヶが立ちのぼる」(永瀬清子・ひろたまさき監修、岡山女性史研究会「近代岡山の女たち」三省堂、1987年)とある。その通りであれば、はるばる滝本の村から津山まで一日をかけて往復したのなら、都合8里(32キロメートル)にもなり、小父さんの荷車を牛が引いていたとしても、その後について少女が全行程を歩き通すには相当の健脚でなければならなかったし、せめて返り道で楢坂にさしかかったときには、その美味しい饅頭を食べることができたのだろうか。
 さらにその先の河辺(かわなべ、津山市)は、戦前までは文字通り「河の辺り」の湿地帯であって、作物の栽培には大して向いていなかったようだ。ここに女医布上喜代免は、1924年(大正13年)に、故郷に帰って医院を開業した。それまでの彼女の足跡を辿ると、1917年(大正6年)に当時の女性としては珍しい医師免状を得てからは、大阪府庁の保健課主事として忙しく働いていた。それが故郷が貧しく、無医村であったことに触発されたのだという。それからの彼女は戦前、戦中、戦後を通じて地域医療に力を尽くした。その地域にとどまって命をつないでいくしかない、当時の多くの貧しい人達を医療面からどう支え、助けていくか、それを本当に担うのは自分であるとの自覚から数十年を働き、1981年、その仕事をやり終えて86歳で永眠したという(岡山女性史研究会「岡山の女性と暮らしー戦後の歩み」山陽新聞社刊、1993に詳細あり)。ちなみに、1959年時点の厚生省調査による日本人の平均寿命は、男が65歳、女が69.6歳とされている。

(続く)

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