□72『岡山の今昔』出雲街道(姫路~津山)

2017-04-08 19:21:27 | Weblog

72『岡山の今昔』出雲街道(姫路~津山)


 さて、JRに戻って、岡山県に入ったところの「土居」(どい)、さらに「美作江見」(みまさかえみ)、「楢原」(ならはら)を過ぎて後、列車は林野駅へと滑り込む。この駅で降りて、タクシーを頼んで北の方角に向かっていくと、平賀元義が「あがた川 暁月に名のりつつ 川上とおく行く ほととぎす」と詠んだ英田阿(あがたがわ)が見えてくる。木村毅(つよし)によると、この河を「一里ものぼると山はようやく深く、嵐気をふくんで車窓にせまる。田舎の舗装もせぬでこぼこの道だが、一時間余りにして宮本村に達する」とある。
 近隣の名所は他にもあって、もう一度林野市街に戻り、再びタクシーを頼んで15分ほど行くと湯郷(ゆのごう)温泉がある。ここは、美作江見から勝間田への順路から少しばずれている。とはいえ、京阪神の温泉好きな人達の間では、豊かな自然の中でほっと一息つける湯処としてかなり知られている。湯郷温泉街の風景は、名湯・城崎温泉のたたずまいとやや似ているのではないか。ところが、こちらは城之崎のような海風も吹かないし立ち並ぶ旅館やホテルの範囲も小さい。山間の鄙(ひな)びた温泉場という呼び方が似つかわしい。いつの頃からか奥津温泉、湯原温泉と並んで「美作三湯」に数えられている。湯の郷は石楠花(しゃくなげ)の花が咲くことで知られている。また、女子サッカーを盛り上げてきたことでも知られる、スポーツに理解のある土地柄でもある。
 津山への入口ともいえる勝間田の地には、この時期に医業で多くの人材が輩出している。その中で、小林令助の働きがあり。彼の活躍は杉田玄白とも関係する。玄白といえば、語学に堪能な前野良沢と協働してして、ドイツ人の著書を翻訳しての『解体新書』を発行した人物だ。その玄白の門人として、親交があったのが小林令助であった。令助は、美作国勝南郡岡村(現在の勝田郡勝央町)に生まれる。それなりの富裕な家に生まれたおかげであろうか、江戸に遊学して、玄白のもとで外科を学んだ。また、京都では吉益南涯に内科を学んだ後、郷里に帰り、医院を開業した。令助の名は玄白の門人帳には見当たらない。それでも、玄白の日記の1790年(寛政2年)年2月17日条」に「送帰令助之作州」という詩が見える。同様の主旨の詩が、同年3月4日条にも「業成才子作州帰」という題で残る。これから、玄白が令助に相当に目をかけていたことが窺える。中でも、1805年(文化2年)年11月14日付け、玄白が73歳のときに令助に宛てた手紙が、津山洋楽資料館に残っており、紹介されている。こちらの手紙の体裁としては、前年に玄白は将軍にお目見えをしており、令助がそれに対して述べた祝賀への返礼である。ソッピルマート(塩化第二水銀、消毒用劇薬、当時は梅毒治療に用いられた)の製法などに関する問合わせへの回答、令助が仕官の斡旋を依頼したことに対しての回答などが記されている。後の彼は、但馬国出石藩(現在の兵庫県豊岡市)の藩医に取り立てられた。
 ここで話を戻して、江戸期の出雲街道を姫路方面から西へとやってくる、歩いての旅に戻ろう。東からやってきた旅人が、蕩々たる流れに膨らんでいる吉井川に至る。今の旧兼田橋のたもとには、江戸期の石造りの道標が立っていて、「播州ひめぢ二十一里、信州善光寺百五十五里」と掘ってある。ここに善光寺とは、江戸期には伊勢神宮と並んで、一生に一度は行ってみたいと願う人々が多くいたらしい。その本尊は、「生身(しょうしん)の阿弥陀如来」(中国流にいうと「無量寿仏」)といって、552年(「欽明大王十三年」に百済の聖明王から送られたものだと伝承される。こちら旧兼田橋の道標にある「信州善光寺百五十五里」とあるのは、京からは中山道洗馬宿まで行き、そこから善光寺西街道に入って、松本の城下町を抜け、篠ノ井の追分で善光寺街道に合流し、その道を十八里余り進んで善光寺仁王門に至るルートであったのではないかと推測している。ついでにいうと、天才絵師の葛飾北斎は、83歳から89歳までの間に江戸から長野の小布施町までを4回も徒歩で往復したというから、驚きだ。江戸からは中山道を歩き、追分で北国街道に入る。さらに更埴(現在の千曲市)からは、谷街道を使って千曲川右岸(東側)を北上していく。その谷街道は、越後に通ずる通商の道でもあり、その沿道にある小布施が旅の目的地となっていたのだと伝わっているから、かれこれ200キロメートル以上を歩いてパトロンのいる小布施に出掛けていたことになるのだろう。
 吉井川を東から西に渡ってからは、城下町津山の古い町並みが残る。その途中の道筋には、森藩の時代からは江戸期を通じて、東の城下町があった。時代が明治に入ってからは、町屋の雰囲気が伸してきた。狭い街道の両脇には、下駄屋とか鍛冶屋とか、主として雑貨などの手工業品を作る小規模の町工場や商店などが所狭しと軒を連ね、庶民がごった返しで大変な賑わいをみせ。それは、昭和の初期まで続いた。具体的な道筋を西へ辿ると、兼田橋を過ぎて川崎に入ると、そこははやもう、うねうね、かくかくの道筋となっている。それから西へは東新町、西新町と来て、中之町(なかのちょう)に到達する。その中之町で北方一曲の大曲をしてからは、勝間田町(かつまたまち)、林田町(はいだちょう)、橋本町(はしもとまち)と西進していく。その橋本町にも大曲があって、ここで進路を南に一区切りしてから、津山大橋へと向かうのだ。
 町家や民家が支配的であった、城東の6ケ町の北側背後、丹後山南麓により近い高所は上之町(うえのちょう)といい、江戸期には武家屋敷が連なっていた。2015年10月に見学かたがた頂戴した津山市発行によるパンフレット『城東むかし町家ー旧梶村家住宅』
においては、武家屋敷の配置をこう回顧している。
 「東西に細長く延びており下級武士や足軽・中間の居留地である。中央のやや北側を東西に東下りの道がとおり、出雲街道と13本の小路でつながれている。この南北に延びる南下りの坂のある小路には西から西美濃屋小路、美須屋小路、国信小路、関貫小路、栴檀小路(せんだんこうじ)、長柄小路、松木小路、福田屋小路、藺田(いだこうじ)小路、札場小路、大隅小路、東美濃屋小路、瓦屋小路と言った通りの名がつけられている。この武家地は享保12年(1727年)からは松平氏の石高が5万石となったため大半が明屋敷となった。しかし、文政元年(1818年)10万石に復帰したことにより家臣数は再び増加し、明屋敷は少なくなった。」
 森藩による城普請に際しては、城を固めるための寺院や神社が数多く建立されており、それらの伽藍は往時を偲ばせる。寺院については、西へ向けて順番に妙浄寺、蓮光寺、千光寺、浄円寺、本蓮寺、大信寺が並ぶ。ここでは、その中から西新町に鎮座する大隅神社を紹介しよう。2015年10月19日に訪れた時の神社の装いは、あくまで小ぶりの伽藍で、かつ閑かな空間であった。その説明書きの看板には、こう書いてある。
 「御祭神。大己貴命(おおなむちのみこと)、小彦名命(すくなひこなのみこと)
 由緒:当社は、和銅年間以前より祀られており、この地の山澤、原野を開拓し國造りの化身と崇められた信仰無類の「豊手」という異人が出雲の國日隅宮(今の出雲大社)を勧請し、大隅宮と称したのが鎮座の起源と伝えられている。
 当社の縁起・古證文等は、天文年中尼子晴久乱の折、更に永禄年中凶徒の災によって紛失し、又宇喜田直家は当国を領したとき刀剣・甲冑・筒丸を奉納したと伝えられている。
 元は六百メートル東の地に祀られていたが、美作国守森忠政公が鶴山に築城し城下町が賑わってきた元和六年(一六二〇年)三月現在地に遷され、以来大橋以東の産土神として崇敬されている。
 当社は、鶴山城鬼門守護として代々国主の崇敬厚く、社領の寄進、社殿の造営・修理が行われた。現在の御本殿は、貞享三年(一六八〇年)に再建されたものである。
祭日。歳旦祭一月一日、節分祭二月節分日、夏越祭七月十八日、秋季大祭十月第三日曜日、月次祭毎月一日」
 この社の建立以来、この町の人々は、この社に集い、寄り添い、何を夢見てきたのだろうか。折しも、前日とこの日、秋季大祭が開かれていて、11台ものだんじりが狭い往来を行き来していた。だんじりは、津山城東の通り」を通る。神社を中心にして、西に向かっては宮川に架かる大橋のたもとまで、東に向かっては吉井川に架かる兼田橋までの、ゆうに3キロメートルはありそうだ。「練り歩くというよりは、淡々と、ゆっくり進むのだ。そのだんじりを引っ張る紅白の綱を手にしているのは、まさしく老若男女といって良い、普段はごく普通の生活をしている人々でないか。だんじりの屋台の上では、「ちびっこ」たちが陣取っている。台上の子供達と車を引く大人衆が「そーやれ」というかけ声を発するや、子供太鼓が「トントントン」とたたかれる。あとはその繰り返しでだんじりが進んでいく。歩き方は、概して緩い。時折、ゆっくりペースがだく足ペースに切り替わったりする。その時は、「ウァーッ」とかの歓声が上がる。夕方の5時ともなれば、陽はとっぷり暮れてきている。周囲は相当な暗さになり、商店街の人達などが通りに出ている。そこかしこに明かりが灯される。普段は街灯くらいなのだが、ろうそくのはいった灯ろう明かりがつく。そんな幻想的な風景が広がる中で、往来に並んでだんじり行列を見ている人達は、私もその一人であったが、普段とは違った安らぎの表情に染まっていた。
 さて、話を戻して津山城東地区を西に進んできた旅人は、この城東の、細いながらもめぬき通りを通って西へ西へと宮川に架かる大橋のたもとまでやって来る。すると、そこは江戸期の「東の大番所」があった処であって、南を臨むと宮川が吉井川に合流するところである。明治の何時頃までであったか。津山駅(現在の津山口駅)ができ列車が走るようになってからは、高瀬舟は鉄道にその座を明け渡すことになっていく。このあたりの物流の中心であった「高瀬舟」の船が、おそらくは船頭のかけ声とともに行き交っていたのが、徐々に後景へと退いていく。大橋のたもと、宮川の向こうには津山城の険しい城垣がもう目の前に迫ってきている。その威容に圧迫されるというか、昔からの旅人は、独特の風情を感じ景観を右手に拝みつつ、その橋を渡って津山の中心部へと歩を進めていったのであろう。

(続く)

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