□62『岡山の今昔』大正・昭和(戦前)時代の岡山(経済)

2016-12-19 21:27:22 | Weblog

62『岡山(美作・備前・備中)の今昔』大正・昭和(戦前)時代の岡山(経済)

 昭和の恐慌と不況の中での商品価格は、貿易の花形であった生糸相場を中心に大暴落となってゆく。また、世界恐慌の影響を受けて、同年をピークに生糸の輸出が減り出した。輸出に大きく依存する繊維産業については、地方の組合や中小の製糸業は減産を余儀なくされていく。
 この間の生糸及び繭をみると、1934(昭和9年)~1935年(昭和10年)を100とする生糸の輸出価格指数は、1929年(昭和4年)222.3であったのが、1930(昭和5年)には145.1、1931年(昭和6年)に104.6に下げ、その後はやや盛り返して1932年(昭和7年)11.5、1933年(昭和8年)132.3となっている(「長期経済統計・物価」より)。

 1934(昭和9年)~1935年(昭和10年)を100とする繭(j8)価格指数についても、1929年(昭和4年)170.6であったのが、1930(昭和5年)には76.0、1931年(昭和6年)に75.5に下げ、その後はやや盛り返して1932年(昭和7年)88.1、1933年(昭和8年)131.5となっている(「長期経済統計・物価」より)。
 年平均の農家所得も、1929年(昭和4年)には1326円であったものが、2年後の1931年(昭和6年)になると650円に半減した(中村隆英「昭和経済史」岩波セミナーブックス)。
 美作においても、真庭製糸は休業で従業員を大量解雇、井原町中備製糸は経営困難となって工場設備を競売に付された。勝間田製糸は鐘紡に、備作製糸は片倉へと吸収合併される。これで、岡山県下の製糸業は、郡是(京都府が本拠)、片倉、そして鐘紡の傘下に入ることで、資本の集中が進んだ。ここで郡是について説明しておくと、この会社は1916年(大正5年)には郡是(グンゼ、京都府何鹿郡(いるかぐん)で、現在の綾部市が本拠、操業開始は1886年(明治19年)、創業者は波多野鶴吉)の津山工場が営業を始めた。
 この新たな生産体制の下で、個々の養蚕農家など小生産者は、大企業相手の従属的特約取引に入らざるをえなくなっていく。そのことによって、農家からの納入価格は抑制されてゆく。また、輸出価格を下げて国際競争力を高めるべく、大企業が種蚕を原料価格の安い沖縄、台湾、中国などからの輸入、交配させた新品種を特約農家に生産させるようになったのである。
 1930年(昭和5年)、倉敷紡績万寿工場で女工621人が参加してのストライキが始まった。寄宿舎に住む女子労働者たちを中心に、賃金の2割の引上げと8時間労働の要求をはじめ、体の弱い者をねらっての解雇に反対するとともに、生理休暇が取得できるような保障や、寄宿舎の食費の値下げなどの要求も掲げていた。その後の成り行きについては、「ただちにスト参加者のたてこもる寄宿舎と外部の連絡は遮断され、倉敷警察署と県特高課が出勤してきた。結成後間もない倉敷一般労働組合がビラまきやビラ張りなどを行って支援した。10日間にわたる全工場のストライキも、会社側が切り崩しの一方で要求の一部をのみ、退職手当を支給するとの回答を引き出したが、警察の弾圧もあって、ついに争議を集結した」(岡山女性史研究会編「岡山の女性と暮らしー「戦前・戦中」の歩み」山陽新聞社、2000)とある。
 1930年(昭和5年)、農業では、農産物価格が下がるということになった。日本市場には満州米、朝鮮米、台湾米といった外米が沢山入ってきていて、供給過剰を起こした。これを「農業恐慌」と呼んでいる。国内の農家の生産する米が不作になると、米は穫れない、売り渡しの値段は下がるで、農家の採算は悪化した。その後、東北地方の例外などによる不作、凶作が続いて、1938年(昭和13年)には、主食である米の国家管理を目的とする食糧管理法が制定された。
 日本からブラジルへの移民は、日本政府の渡航費補助の開始により、1932年(昭和8年)に2万3389人のピークを記録した。これは同年の日本からの移民総数の85%に当たっていた。2014年秋現在、106年前に始まった日本人のブラジル移民により、今では同国の日系ブラジル人の総数は一切で約160万人だと言われる。これより先の1930年(昭和5年)、ブラジルではジェトゥリオ・ヴァルガスらによる革命が起き、臨時政府は同年12月「外国移民入国制限及失業者救済法」を制定して、農業移民を除く移民の入国を制限した。日本は、農業移民としてブラジルに行くということで、この措置の適用を免れる形で引き続き移民を奨励した。
 それからは、年間移民数を、過去50年間の移民実積総数の2%までに制限したり、日本人医師の開業を禁止したり、国籍取得も制限するなど、厳しい移民政策になっていった。岡山県からのブラジル移民は1910年(明治43年)の31家族、119名が最初であった。それから1934年(昭和3年)まで移民はしだいに大きな流れとなってゆく。県内で移民の多い地域は、吉備郡、都窪郡、児島郡、御津郡、浅口郡などであり、吉備郡阿曽村にある民間団体、海外興業株式会社出張所などが移住の斡旋を行ったことになっている。

(続く)

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