□30『岡山の今昔』江戸時代の三国(交通など)

2016-12-11 22:55:04 | Weblog

30『岡山(美作・備前・備中)の今昔』江戸時代の三国(交通など)

 さて、幕府が江戸に移されてからのこの三国であるが、政治向きの関心は上方と江戸間に移った。とはいえ、『大日本五道中屏風図』にもあるように、江戸の「五街道」(東海道、中山道、甲州街道、日光街道及び奥州街道の五つが道路奉行の管轄下におかれた))の一つとして、経済的にはなお大きな役割を果たしていく。その道筋としては、大坂より出でて、明石付近で畿内と別れて播磨へ立ち入り、それから瀬戸内海沿いを備前、備中を通過し、福山、尾道へ、そこからさらに西に向かって進み、三原、下関へと至る。
 明治に入ると、1891年(明治24年)3月18日に山陽鉄道が岡山まで開通する。それからは、この鉄道と幹線道路を使って、飛躍的に交通と運輸が伸びていく。東海道新幹線に続き、山陽新幹線が開通すると、岡山駅は山陽路の玄関にもなっていく。そういう意味では、この岡山、倉敷を起点とする交通網が、現在の岡山県を他地域と結んでいる主要な道筋であるというのは頷ける。
 しかし、今日の岡山県の中部と北部、とくに美作は小高い山や峠が続く。昔から交通網の整備は緩慢にしか進んでこなかった。そのため、物資の流通にはいろいろな制約がつきまとっていたのは否めない。そんな美作の人々が代々描く夢、その大きな願い事こそ、美作を発着する鉄道を初め、交通網の整備であった。ここでは、近世における美作の地理を出発点にして、それからの交通網の発達を考えてみたい。その当時の美作周辺の主要道路と宿駅を、『岡山県史近世2』が伝えている、それにはめ込まれている図によると、美作の中心地である津山(つやま)に入ったり、そこから出て主要な目的地に向かうには、大まかに次の六つの路があったのではないか。
 その一つ目の道は、姫路を出発して、出雲街道(いずもかいどう)を概ね西へとたどって津山へと到る。大和に朝廷が置かれてからは、通常の行き来にはこの道が使われた。また、江戸時代においては、西国諸大名の江戸への参勤交代のルートでもあった。といっても、この道は、東海道や中山道のように数々の歌に詠まれているのに比べ、やや寂しく、取り立てて雅(みやび)な気持ちになる訳でもあるまい。美作との往来の二つ目は、備前から美作へと旭川沿いを北上したり、その逆に南下したりする道である。

 美作と繋がる三つめの往来は、備前から吉井川沿いを北へたどり、又は美作からこの吉井川を南下りする。江戸期までは、これを「西大寺道」と呼んでいた。四つ目の道としては、出雲を出発して、津山へ至る、もしくはその逆の道である。美作とをつなぐ五つ目の道は、因幡(鳥取)とつなぐ道である。この道は、江戸期までは「因幡道(往来)」又は「鳥取街道」と呼ばれてきた。この往来が開かれたのは、遠く平安期に遡る。江戸期に入ってから整備され、鳥取藩の参勤交代の航路にも用いられた。もともとの全体の行程は、姫路から鳥取までであり、14の宿がつないでいた。さらにに津山とをつなぐ六つめの道としては、津山城下町からそのまま北上して倉吉方面へ向かう道などが通っていたのではないだろうか。

(続く)

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□17『岡山の今昔』律令国家の成立前後から平安時代の吉備

2016-12-11 09:01:34 | Weblog

17『岡山(美作・備前・備中)の今昔』律令国家の成立前後から平安時代の吉備

 6世紀末ないしは7世紀初頭になると、日本列島の首長たちは前方後円墳に一斉に決別し、方墳や円墳を築くようになる。きっかけは、有力豪族の蘇我氏が中国から方墳を持ち込んだともいわれるが、確かなところはわかっていない。政治的な背景として、蘇我氏が大層のさばって来て、天皇家にたてつこうとしてきたことを挙げる向きもあるが、果たしてどこまでが本当なのだろうか。7世紀の早早の造営も伝わるところから、最近の日本考古学では、これまでこの時代も含めて後期古墳時代と呼んでいたものを、前方後円墳の終焉の時期をもって古墳時代の後期と終末期とに細区分する考えが出されているとのことだ。
 律令国家となってからは、備前岡山や備中倉敷を通る山陽道は、この国最大の幹線として知られる。江戸期になるまでは、九州の太宰府と京の都をつなげ、大陸からの文化がこの国に入ってくる際の主たる通り道であった。そこで、これら3つの地域割になってから江戸時代に入る前までの、この地域の歴史を簡単にたどってみよう。
 まず美作の名の由来は、これまで、初めの「み(美)」と「ま(真)」は美称であり、その後の「さか(坂)」が加わることで「坂のある国」と言われてきた。他にも、「キカラ(大加羅)がキカラ→ミカラ→ミカ→ミマと変わったミマに、サキ(城)の転訛サカがついの国名だ」とするか、「水間坂」という地形にちなんだ呼び名としたり、「うまさか」(味酒)にことかけて良い酒の産地とするなど、多様な説が出されている。この地が北から時計まわりに、伯耆(ほうき)、因幡(いなば)、播磨(はりま)、そして備前(びぜん)及び備中(びっちゅう)に囲まれた「海なき地」であることを考えると、どの名が一番しっくりいくのだろうか。
 『続日本記』(しょくにほんぎ)の713年(和銅6年)4月乙未条の処には、吉備国が三分割された後の同年、備前の国の英多(あいだ)・勝田(かつた)・苫田(とまだ)・久米(くめ)・大庭(おおにわ)・真島(まじま)の北部6郡を割いて美作の国府が置かれたことが記してあり、これが「美作国」(国の等級は「上国」)の始まりとされる。これは、2014年(平成26年)夏現在の岡山県北部10市町村、すなわち津山市、真庭市、美作市、新庄村、鏡野町、勝田郡勝央町、勝田郡奈義町、西粟倉村、久米南町、美咲町)の地域とほぼ重なる。みまさかの「建国」は、壬申(じんしん)の乱のあった672年(弘文2年)から数えて41年後のことである。
 この決定に基づき、同年の713年(和銅6年)中には、大和朝廷の命を受け、上毛野堅身(かみつけぬのかたみ)が苫東郡(今日の津山市総社(そうじゃ))の地に国司として赴任してくる。彼は地方豪族を郡司(ぐんじ)に任命して、統治の基盤を整えていった。天智天皇の死後の熾烈な権力闘争を勝ち抜いた天武政権にとっては、壬申の乱(じんしんのらん)において大海人皇子(おおあまのおうじ)側の友党とはいえ、瀬戸内海側でなお往年の勢力を保っている吉備氏(きびし)を牽制する必要があったのだろう。
美作、備前、備中なども、その戦略の中に確実に組み込まれていく。
 728年(神亀5年)4月、美作国の大庭郡、真嶋郡の二郡から行われた太政官への奏上及びその許可の記述が『続日本記』(しょくにほんぎ)に残っている。それによると、年間の庸米860石余を都まで運ぶのは難儀であるとして、重量のある米に代わる綿、鉄は軽いものに換えて納税させてほしいとの奏上をした結果、太政官の許しをもらえたことになっている。また、この時代の土中から木簡から美作のものが発見されている。天平一八年(746年)の年号で「美作国勝田郡新野郷庸米六斗」と、また延暦三年(784年)の年号で「美作国勝田郡加茂郷米五斗」と墨で書かれているのであって、これが勝北町(現在は津山市)内の加茂郷、新野郷として貢納地を指し示していることは明らかである。
 ここにいう美作には、奈良期(710~784年)から平安期(794年(延暦13年)~1191年)にかけて、概ね全7郡65郷があった。その内訳は、英多郡(12)、勝田郡(14)、苫東郡(8)、苫西郡(7)、久米郡(7)、大庭郡(6)、真島郡(10)となっていた。これらのうち苫東郡と苫西郡の2つは、平安年間の863年(貞観5年)に、それまでの苫田郡を二つに分けたものである。ここに勝田郡の郡府(現在の勝間田に在)に属していたのは、勝田郷、吉野郷、植月郷、鷹取郷、和気郷、加美郷、飯岡郷、塩湯郷、広岡郷、豊国郷、新野郷、加茂郷、広野郷及び河辺郷の14郷であった。
 その65郷のひとつに、勝田郡内の新野郷があり、その頃には封建的な農村共同体が村と単位で、家族レベルでは家父長制が成熟していたであろう。新野郷の地理的な中心は、市場のあたりで、地内の北東から南西に向かって吉井川支流の一つ、広戸川が流れている。新野郷に属するとしては、南西の方角から進んできて、西下、西中及び日本原、山形、西上と北上していく。全国には「新野」(にいの)という地名がところどころある(例えば、天竜川上流)。新野については、奈良時代にはやくも足跡が記されている。「美作三野」の中でも広野や高野よりも後に開墾された。その名のとおり、高野方面から進出していった人々が新たに開墾した土地という謂われがある。
 9世紀に入ってからの美作については、『古今和歌集』」第20巻の「御神遊びのうた」の中に、つぎの歌が編纂されている。
 「美作や 久米の佐良山 さらさらに わが名はたてじ よろずよまでにや」
 ここに「わが名はたてじ」とは随分とへりくだったものだ。清和天皇の即位式・大嘗祭(おおにえのまつり、在位は858年(天安2年)から876年(貞観18年)までとされる)をとりおこなったときに献上した和歌とされる。この頃になると、天皇家や貴族などの特権階級を頂点として、その下に勤労階級の人民を置き、下からの税や労役などに依って彼ら上層の人々の栄華な生活を賄うという、中国の唐(タン)王朝にも似た階級社会の構造が、奈良・飛鳥の時を経て定まったといえる。

(続く)

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