30『岡山(美作・備前・備中)の今昔』江戸時代の三国(交通など)
さて、幕府が江戸に移されてからのこの三国であるが、政治向きの関心は上方と江戸間に移った。とはいえ、『大日本五道中屏風図』にもあるように、江戸の「五街道」(東海道、中山道、甲州街道、日光街道及び奥州街道の五つが道路奉行の管轄下におかれた))の一つとして、経済的にはなお大きな役割を果たしていく。その道筋としては、大坂より出でて、明石付近で畿内と別れて播磨へ立ち入り、それから瀬戸内海沿いを備前、備中を通過し、福山、尾道へ、そこからさらに西に向かって進み、三原、下関へと至る。
明治に入ると、1891年(明治24年)3月18日に山陽鉄道が岡山まで開通する。それからは、この鉄道と幹線道路を使って、飛躍的に交通と運輸が伸びていく。東海道新幹線に続き、山陽新幹線が開通すると、岡山駅は山陽路の玄関にもなっていく。そういう意味では、この岡山、倉敷を起点とする交通網が、現在の岡山県を他地域と結んでいる主要な道筋であるというのは頷ける。
しかし、今日の岡山県の中部と北部、とくに美作は小高い山や峠が続く。昔から交通網の整備は緩慢にしか進んでこなかった。そのため、物資の流通にはいろいろな制約がつきまとっていたのは否めない。そんな美作の人々が代々描く夢、その大きな願い事こそ、美作を発着する鉄道を初め、交通網の整備であった。ここでは、近世における美作の地理を出発点にして、それからの交通網の発達を考えてみたい。その当時の美作周辺の主要道路と宿駅を、『岡山県史近世2』が伝えている、それにはめ込まれている図によると、美作の中心地である津山(つやま)に入ったり、そこから出て主要な目的地に向かうには、大まかに次の六つの路があったのではないか。
その一つ目の道は、姫路を出発して、出雲街道(いずもかいどう)を概ね西へとたどって津山へと到る。大和に朝廷が置かれてからは、通常の行き来にはこの道が使われた。また、江戸時代においては、西国諸大名の江戸への参勤交代のルートでもあった。といっても、この道は、東海道や中山道のように数々の歌に詠まれているのに比べ、やや寂しく、取り立てて雅(みやび)な気持ちになる訳でもあるまい。美作との往来の二つ目は、備前から美作へと旭川沿いを北上したり、その逆に南下したりする道である。
美作と繋がる三つめの往来は、備前から吉井川沿いを北へたどり、又は美作からこの吉井川を南下りする。江戸期までは、これを「西大寺道」と呼んでいた。四つ目の道としては、出雲を出発して、津山へ至る、もしくはその逆の道である。美作とをつなぐ五つ目の道は、因幡(鳥取)とつなぐ道である。この道は、江戸期までは「因幡道(往来)」又は「鳥取街道」と呼ばれてきた。この往来が開かれたのは、遠く平安期に遡る。江戸期に入ってから整備され、鳥取藩の参勤交代の航路にも用いられた。もともとの全体の行程は、姫路から鳥取までであり、14の宿がつないでいた。さらにに津山とをつなぐ六つめの道としては、津山城下町からそのまま北上して倉吉方面へ向かう道などが通っていたのではないだろうか。
(続く)
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