□44『岡山の今昔』江戸時代の三国(中期の経済)

2016-12-21 09:36:51 | Weblog

44『岡山(美作・備前・備中)の今昔』江戸時代の三国(中期の経済)

 では、田沼期から寛政改革期にかけての諸藩では、どのような治政が行われていたのであろうか。
 備前については、岡山藩がどっしりとその地理の大方を占めていた。その岡山藩では、1741年(寛保元年)には、鴻池が蔵屋敷で蔵物の売却出納の事務を扱う「蔵元(くらもと)」に就任している。そればかりか、1747年(延享4年)になると、売却代銀の出納と管理にあたる「銀掛屋(ぎんかけや)」までも鴻池(こうのいけ、鴻池善右衛門)が担っている。鴻池は、1676年(延宝4年)から岡山からの米穀輸送も請け負っていたので、まさしく藩の財政丸抱えになっている感がある。これら生産にたいしては寄生的なといえる高利貸資本(こうりがししほん)などは、また鉱山や農村に進出して、農民の階層分化を促進させていく。

 もちろん、改革についていけた一部の農民にとっては、生活向上に役立った面もある。けれども全体的には、商品経済の浸透に伴い、農村の疲弊はむしろ進んでいった。とりわけ深刻なのが、農村の人口減であった。松平定信により1786年の全国規模での戸口調査の結果が紹介されており、「(天明)午(うま)のとし、諸国人別改られしに、まへの子(ね)のとし(1780年(安永8年))よりは諸国にて百四十万人減じぬ。この減じたる人みな死(しに)うせしにはあらず」(松平定信の自叙伝『宇下人言』)とある。
 ところが、その西隣の備中は、新見、松山(高梁)、成羽、足守、浅尾、生坂、岡田、庭瀬、鴨方の各藩があった。同地域には天領や藩外大名の飛地などもあって、互いに境界が入り組んでいた。ここでは、その中から倉敷を取り上げたい。この地は、1600年(慶長5年)の幕府発足のおり、幕府直轄の、いわゆる「天領」に組み入れられた。備中代官所が幕府支配の出先として置かれた。その翌年、代官、小堀正次(こぼりまさつぐ)による検地が行われる。1617年(元和3年)からは、天領から備中松山藩所領に配置換えとなる。ところが、1642年(寛永19年)に再び天領に戻る。領地を巡る紆余曲折、有為転変とはこのことなのであろうか。彼の地は、その後も一時大名領となったこともあるものの、以後明治までの大方の期間は幕府の天領として過ごすことになる。
 倉敷では、江戸初期以来の「門閥商人」にかわって、「新禄商人」が歴史の表舞台に登場してくる。2015年夏を迎えた現在では、倉敷川に沿って白漆喰になまこ壁の土蔵や商家など蔵屋敷が建ち並んでいることから、倉敷市の「美観地区」に指定されている。この辺りは、かつては海に浮かぶ小島と漁村であった、といわれる。地質年代的には、高梁川の土砂沖積作用による陸地化作用がある。そこに加え、江戸時代になってからの新田開発の干拓事業によって埋め立ての陸地はどんどん拡大してきた。南は現在の下津井(しもつい)にいたるまで、かなり大きな半島状の陸地が形成されている。
 ここに商業は、商品生産物を生産者から得て販売する機能をいう。商人たちが扱う品目について領主などによる封建的搾取がなければ、本来その販売は生産者なのである。したがって、そこでは生産者に属していた販売機能が彼らの権能から分離して、商業(商人)資本によって独立して営まれることになっている。それは、中世の経済構造の中でしだいに成長してきた、「前期的な資本形態」(カール・マルクス)だと言える。そのかぎりでは、商業資本が得る所得は商品の購入者の所得からの控除ではなく、その源泉は生産者の所得から直接的に再分配されるべきものだ。ところが、農業生産物に封建的搾取が行われている社会においては、搾取者である武士階級などがこの関係に介在している。そのため、この仕組み本来の機能が見えなくなってしまっている。そこで、独立生産者(イギリスではかれらを「独立自営農民」と呼んだ)としての本来の機能行使からは、年貢や専売の対象になっている生産物を除いた、生産者の裁量で自由に処分できることになっている。
 そこで商業が成り立つためには、売買差益(商業マージン)が確保できなければならず、そのためには、いまその商品が価値どおりに販売されることを前提すると、商人は当該の生産物を生産者からその価値より安い価値で仕入れ、それを価値どおりに消費者に販売することで某かの利益を得ることができる。これを生産者視点からみると、自ら生産した付加価値のうちの費用を差し引いた部分を削って価値以下で商人に販売していると考えられてよいだろう。とはいえ、その農業生産者は自分が市場で買い手を探して販売するのに比べ、その販売を商人に委ねる見返りに自らの取り分を削った以上の利益が見込まれることになるのだ。
 16世紀頃までには、宇喜多による埋め立てにより、倉敷の村には陸地が広がっていく。高梁川の流す土砂の沖積作用によっても、鶴形山の周辺は急速に陸地化していく。それまでの鶴形山は瀬戸内海に浮かぶ小島であったらしい。この山の南麓に漁師や水夫の住む集落ができていた。干潟に残された水脈は干拓地を貫く水路となって海へと流れていた。この水路というのが、現在倉敷美観地区に始まって、児島湖に注いでいる倉敷川なのである。
 それからほぼ一世紀余りが流れて行く。この間にも、岡山藩などにより埋め立ては続いていく。高梁川からの土砂も下流へ、下流へと沖積していくのであった。1768年(明和5年)の頃には、ここは、備中における物流の動脈である高梁川があり、そこから引き込まれた倉敷川をはじめとする水路や運河に囲まれていた。また、1746年からは、それまで笠岡にあった代官所が倉敷の地に移された。備中、美作、讃岐の三国に散在する天領約60万石を支配する幕府の代官所が置かれ、年貢米などの物資の一大集地として今に残る蔵が建ち並ぶようになっていた。
 この間、倉敷村の村高としては、1601年(慶長6年)が619石であったのが、1630年(寛永7年)には1385石になっていた。それからまた年が経過して1772年(安永元年)に1834石になっていた。江戸初期の干拓によって石高が飛躍的に増えたのであろう。ところが、人口は1601年(慶長6年)に800人程度と推定される。それが1672年(寛文12年)になると2536人、1733年(享保18年)には5392人、さらに1770年(明和7年)にf6835人、それからも1838年(天保9年)に7989人^と増加していったと観られている。この人口増加こそが、倉敷への商業資本の蓄積、商人たちの集積を意味していた。
 このような環境変化に見舞われるくらい倉敷(村)であったのだが、この町の江戸初期から中期までは「古禄」と呼ばれる、13軒の地主的な性格ももつ、「門閥商人」たちが幅を効かせていた。しかも、この特権商人たちはその地位を世襲していた。13軒の中では豪農から転じた者が多かったのではないか。主な商人としては、紀国屋(小野家)、俵屋(岡家)、宮崎屋(井上家)などの名が伝わる。彼らは、その古くからの土着で培われた集団の力によって、庄屋、年寄り、百姓代などの村役人を世襲したのはもちろん、木綿問屋、米穀問屋、質屋などから始めた商売の網を此の地にめぐらしていく。
 そこへ、江戸期も中期、後半に入る頃になると、今度は、新たに干拓による農地の拡大、人口増加によって「新禄商人」と呼ばれる別の流れの商人たちが台頭してくる。彼らは、はじめは「綿仲買」で綿つくりの農民と結び付いたり、干鰯(ほしか)、干鰊(ほしにしん)売り、油売りなどの商いを賄いながら経済力を蓄えていく。いまも残る、美観地区に立ち並ぶ白壁の蔵屋敷群は、そうした新興商人らの富と権力(金によるものであって、武力によるものではなかったが)の象徴なのである。その具体的な姿の例としては、江戸中期頃より、綿作の発展によって新たに財を蓄積していく者が出てくる。これらの人たちは児島などの近郊から倉敷にやって来た者が多かったのではないか、とも言われる。彼ら25軒くらいは、彼らなりの団結を固めていく。そんな中、中心となったのは、児島屋(大原家)、中島屋(大橋家)、浜田屋(小山家)、吉井屋(原家)、日野屋(木山家)などの面々であった。やがて彼ら新興の勢力は、村役なども含め、あれやこれやで名実を要求するようになっていく。つごう、1790年(寛政2年)から1828(文政11年)にかけて勢力争いを繰り広げた結果、大方ことでは新録派の勝利に終わったのだとされる。
 念のため、かくも急速な発展を助けたのは、倉敷村の置かれていた土地の利便さなのであった。ここに「倉敷」というのは、当初から小さな運河があって、これがだんだんに発展させられてゆくに従い、運河による運送の便が整えられていくのであった。では、品物としては、どこから運んできたものが、ここを経由してどこへと運ばれていったのだろうか。これの全体の流れについては、ここに集積された品々は舟運でもって瀬戸内海に面した下津井などの湊へと運ばれ、そこから大坂や江戸などの大消費地に搬出させていた。
 果たして、その湊の一つであった下津井には、早くから備前や備中の産物、それに加えて北国産の金肥(干鰯や干鰊)を扱う大問屋の蔵や倉庫(「鰊倉」(にしんぐら)とか呼ばれていた)がずらりとを並んでいるのであった。ここに「北国産の金肥(干鰯や干鰊)」とあるのは、当時の北前船のブームにのって、北海道や東北の海産物が日本海を南下し、下関を回って大坂方面へ盛んに運ばれていたことがある。これには次、城山三郎の論考「銭屋五兵衛」にみられるように「巨利」がついていた。いわく、「北前船業者は、ただ物資を運ぶだけの海運業者ではない。運賃のもうけも大きいが、それ以上に、商品の価格差でもうけることが大きい。北海道の海産物などを関西に持ってくると、仕入値の三倍から五倍に熟れることも珍しくなかった」(「幕藩制の動揺」日本歴史シリーズ16、世界文化社、1970)とある。
 それが、1790年(寛政2年)の村方騒動では、このあたりの農民たちと新興商人とが結び付いて、従来の経費の村割りに村民が参加することを要求するに至り、村役人の罷免と選挙制の実施へと動いていく。それに応じて、古い制度と結び付いていた特権商人の問屋の経済力を削いでいくことが目指された。ついには、「新禄派」と呼ばれた25軒の振興商人たちが「古禄派」による独占支配の撤廃を幕府へ訴え、長い闘争の末に勝利していくことにもなっていく。

(続く)

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