○○213『自然と人間の歴史・日本篇』18世紀前半の飢饉・天災(復興の功労者、伊奈半左衛門 )

2017-09-06 21:36:05 | Weblog

213『自然と人間の歴史・日本篇』18世紀前半の飢饉・天災(復興の功労者、伊奈半左衛門)

 1707年(宝暦4年)から2週間ばかり続いた富士の噴火に直面して切歯扼腕(せっしやくわん)して、農民たちの救済に尽力した武士に、伊奈半左衛門(いなはんざえもん、本名は忠順(ただのぶ)ともいう、生年不詳~1712)がいた。彼は、関東郡代・伊奈忠常の次男に生まれた。この半左衛門、その後稲葉正篤の養子になる。兄・忠篤の死後は、その兄の養子となり、代々の関東郡代職と武蔵国赤山(現在の埼玉県川口市赤山)の赤山城の遺領を継いだ。知行4千石というから、その通りなら幕臣の中でも相当なクラスであったのではないか。
 さて、富士噴火で被害に遭った関東地域住民の救済を目的に、幕府は全国の大名領や天領に対し献金(石高100石に対し金2両かともいわれる)を命じた。江戸幕府が全国的課税を行ったのはこの時が初めてであったという。ところが、将軍綱吉の次の代家宣の相談役であった新井白石の『折たく柴の記』に従えば、集められた40万両のうち被災地救済に当てられたのは16万両に過ぎず、残りは幕府の財政に流用されてしまう。もっとも、1708年(宝永5年)中に集まったのは金48万8770両余、銀1貫870目余ともいわれ、おまけに被災地救済に支出されたのは6万2500両余とするる史料(『蠧余一得』)も伝わっているところだ。
 おりしも、関東郡代を仰せつかっている半左衛門としては、この大噴火で被害に遭った地域を担当していたのであるから、その被害に対処する立場であったことはいうまでもない。それからの彼の事績については、必ずしもきちんとした史料が残っている訳ではないらしい。そんな中でも、山岳小説家で知られる新田次郎の小説『怒るの富士』」にかなり詳しい。史料を駆使しての作家のあとがきには、こうある。
 「私(新田次郎)は、富士山山頂観測所の勤務で、昭和7年から昭和12年まで、年に3か月か4か月富士山で暮らした。
 宝永噴火と代官伊奈半左衛門の話は、強力(ごうりき)たちの口を通して最初に耳にした。宝永噴火のため田畑が砂に埋まり、農民が餓死に瀕しているとき代官伊奈半左衛門は、駿府にある幕府の米蔵を開けて飢民を助けたが、その咎を受けて幕府に捕えられ、江戸に送られて、死罪になったという話に私は感動した。
 私は「富士山頂」「芙蓉の人」など富士山頂と関係のある小説を書いたが、もっと大きなスケールで富士山を書きたいと思った。
 私は伊奈半左衛門忠順の人物から調査を始めた。関東郡代としての業績はかなりはっきりしているが、駿府の米蔵を開けて飢民を救ったという記録は何処にもなかった。
 しかし、駿東郡内を調査していると伊奈半左衛門の伝説は、伝説というよりも固定観念として根強く残っていることにまず驚いた。江戸時代から伊奈半左衛門を祭った小祠があちこちにあったが幕府の眼をおそれて例祭日を設けなかったなどという話は、伊奈半左衛門の死がなにか異常であったことを思わせた。
 伊奈半左衛門が切腹したという記録はないが、調べて行けば行くほど、その死が尋常なものではなかったように思われて来た。小説『怒る富士』は資料倒れするほと資料を集めた。そしてその引用を明らかにするよう努めた。
 私としては今までになく気張った小説であった。小説としての興味よりも、真実のとしての興味に、何時の間にか引張りこまれていた。いい仕事をしたという満足感はあった。」
 かさねて、この小説には、幕府が、駿東郡59か村を「亡所」にするという場面が出てくるので、半左衛門の粉骨砕身の仕事ぶりをもう少し付け加えたい。
 「山野が一面火山灰に覆われていて、復興開発ができないから、住民たちは何処にでも勝手に離散して生活しろと幕府の奉行はいう。しかし、百姓は、どこの国にいく方便もなく、ただただ餓死を待つばかりとなった。こうした無為の救済策をとることに関東郡代・伊奈忠順は納得しません。現にそこに住んでいる人がいる限りそれを救済しようとするのです。そのため、適法でないやり方で、駿府の米蔵を開かせるのでした。米蔵を開くということは百姓を救済することであり、幕府の「亡所」という施策に対する抵抗となります。」
 このくだりが、史実に基づいてのものであるかどうかを知らない。とはいうものの、まんざら作りあげた虚構の話なのだともいえないところに、死後の彼が神がかりになって民衆の心にしみいっていくことにつながってようである。
 宝暦の富士噴火にちなんで、蛮勇を奮ったことで広く知られる人物から、もう一人取り上げたい。その人の名を田中休愚(たなかきゅうぐ、1662~1729)という。休愚は、甲斐武田旧臣の系譜をひく武蔵国多摩郡平沢村(現・東京都秋川市)の農家、窪島八郎左衛門重冬の次男として生まれた。少年期であるが、農業を手伝いながら絹織物の行商をしていたという。20歳の頃、これより前に武州橘樹郡小向村の田中源左衛門家へも出入りするようになっていた縁によって、東海道川崎宿本陣をあづかる田中兵庫の養子に入ることができた。
 当時の川崎宿だが、六郷川を控え、江戸へ三里位しかないところにあった。今京浜急行の電車に乗ってトロトロと川にさしかかると、昔の「六郷の渡し」が彷彿としてくるではないか、この川崎は、当時は疲弊のどん底にあった。川崎宿には、街道を上下する公用の運送に必要な人出と馬の供出が義務付けられていたからである。
 やがて関東郡代・伊奈半左衛門にその力量を認められた田中は、1704年(宝永元年)には養父の跡をつぎ本陣当主となる。その翌年には宿の問屋役、名主を兼ね、宿運営の全般をみることになった。そこで田中は、かねてから考えていた六郷川船渡権の取得を幕府代官に陳情したのであった。そして1709年(宝永6年)には川崎宿財政の建て直しのために、六郷川渡舟権の取り扱いを関東郡代伊奈忠順に上申して許可された。これの御陰手、川崎塾の人びとは大いに助かったという。
 それからも、田中の精進は続く。1711年(正徳元年)の50歳のとき隠居し、江戸に遊学して荻生徂徠や成島道筑に師事した。これは、人生二度説とどこか似ている、大した心がけだ。允許で自由な時間があったのだろうか、1720年(享保5年)には西国行脚に出る。1721年(享保6年)の60歳のときであった、かれは幕府の農政、交通政策などを論じた『民間省要』を執筆を完成させる。この意見書においては、約40年にわたる川崎宿での体験が下地になったといわれる。かれにとってありがたいことに、この書は1722年(享保7年)、師成島道筑それから町奉行大岡忠相を通じて将軍徳川吉宗に献上された。
 そして迎えた1723年(享保8年)には御普請御用を命じられ、幕臣に取り立てられる。十人扶持が給され、享保期の普請関係の役人として著名な井沢弥惣兵衛の指揮のもとで以降、治山治水の仕事を与えられる。。これらの事績が認められ、大岡忠相の指揮下に入り、宝永の富士山噴火後、水災害に悩む酒匂川(さかわがわ)の治水工事を行うことを命じられる。この工事だが、難工事であった。関東郡代伊奈や小田原藩も手をこまねいていたのを、田中は地元農民の力を巧みに引き出し一応の成果を収めたというから、驚きだ。中でも、火山灰の降り積もった農地に長い溝を掘り、そこにその灰を落とし込んでまともな土を被せて地味を回復させたとある。ほかにも、多摩川、荒川、利根川の治水にあたり、またニケ領用水、六郷用水の改修についても指揮したことになっている。
 幕府は、これらを高く評価した。1729年(享保14年)には、田中を武州多摩川周辺3万石余を支配する代官(勘定支配格(かんじょうしはいかく))に抜擢したのもつかの間、江戸の役宅に没した。

(続く)

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