13『岡山の今昔』倭の時代の吉備(吉備の実力、~7世紀頃)
これらのうち、最大規模のものが岡山市吉備津にある茶臼山中山古墳(ちゃうすやま中山こふん)であり、墳長は約120メートル、後円部の直径は約80メートル、後円部の高さ約12メートル、前方部の長さは約400メートルもある。
こちらは、古墳時代前期の3世紀後半から4世紀前半にかけての造営とも云われる。ただし、岡山市のホームページにおいては、「本墳の時期を決めるのは、現状の資料だけからでは困難であるが、もし最古の前方後円墳でなかった場合、足守川流域では最古の前方後円墳が少なく、かつ貧弱だったということになる。
弥生時代後期の備前、足守川流域では、多くの集落遺跡や墳丘墓を築いており、一大勢力を形成していたと考えられる。最古の大形前方後円墳が存在しないとすれば、そこに大きな歴史的意味があるといえる」(2016年6月にアクセス)と述べられる。このことから、纏向(まきむく)古墳(現在の奈良県桜井市)に類する型の前方後円墳と決めてかかるのは時期尚早とも考えられる。
現在も、大吉備津彦命(きびつひこのみこと)という伝説上の人物の墓ということから宮内庁の管理下にあり、立ち入ることができないことになっているとのことだ。しかしながら、倭(その中の大和、中国語読みではウォの第1声、やがて統一されての国家の名前が「日本」となるのは中国の唐(同、タン第2声)の時代)の時代の大王陵墓でないのなら、管理を岡山県に移してもよいのではないか。
彼らは、これ以後の律令政治への展開の中にだんだんと組み込まれていく。後の日本になってからの「日本書紀」などに従えば、6世紀中頃の5年(欽明大王16年)、吉備の五郡に白猪屯倉(しらいみやけ)を置いた。翌556年(欽明大王17年)には、後の大和朝廷が大臣(おおおみ)の蘇我稲目(そがいなめ)を同地に派遣して、備前国児島郡に児島屯倉(こじまみやけ)を設けることを承諾させ、葛城山田直瑞子(かずらきのやまだのあたいみずこ)を田令として派遣した。
こちらは、古墳時代前期の3世紀後半から4世紀前半にかけての造営とも云われる。ただし、岡山市のホームページにおいては、「本墳の時期を決めるのは、現状の資料だけからでは困難であるが、もし最古の前方後円墳でなかった場合、足守川流域では最古の前方後円墳が少なく、かつ貧弱だったということになる。
弥生時代後期の備前、足守川流域では、多くの集落遺跡や墳丘墓を築いており、一大勢力を形成していたと考えられる。最古の大形前方後円墳が存在しないとすれば、そこに大きな歴史的意味があるといえる」(2016年6月にアクセス)と述べられる。このことから、纏向(まきむく)古墳(現在の奈良県桜井市)に類する型の前方後円墳と決めてかかるのは時期尚早とも考えられる。
現在も、大吉備津彦命(きびつひこのみこと)という伝説上の人物の墓ということから宮内庁の管理下にあり、立ち入ることができないことになっているとのことだ。しかしながら、倭(その中の大和、中国語読みではウォの第1声、やがて統一されての国家の名前が「日本」となるのは中国の唐(同、タン第2声)の時代)の時代の大王陵墓でないのなら、管理を岡山県に移してもよいのではないか。
彼らは、これ以後の律令政治への展開の中にだんだんと組み込まれていく。後の日本になってからの「日本書紀」などに従えば、6世紀中頃の5年(欽明大王16年)、吉備の五郡に白猪屯倉(しらいみやけ)を置いた。翌556年(欽明大王17年)には、後の大和朝廷が大臣(おおおみ)の蘇我稲目(そがいなめ)を同地に派遣して、備前国児島郡に児島屯倉(こじまみやけ)を設けることを承諾させ、葛城山田直瑞子(かずらきのやまだのあたいみずこ)を田令として派遣した。
ここに屯倉とは、「御」を表す「ミ」と、「宅」ないし「家」を表す「ヤケ」の組み合わせた直轄地のことで、地方豪族の所領の中にヤマト朝廷への貢納・奉仕の拠点と、これに附属する耕田を手に入れた。朝廷への貢納と奉仕を負わされた「部」の制度とともに、それからの民衆支配の根幹をなすものとして全国規模でおかれ、進行していった。
この政策を朝廷(欽明大王の下)で推進した中心人物としては、蘇我稲目(そがいなめ、彼が政治の表舞台に登場するのは6世紀前半のことであり、没年は570年)が知られる。
これらのことを踏まえてか、故郷の『津山高校百年史』(下巻)での筆者は、これらのことから「五世紀後半の吉備への大王家の対応を想像するならば、南部の中枢にいた大首長に対しては軍事的な圧力によって、周辺の中小首長に対しては吉備中枢に対する自立を促す形で積極的に大王家の官僚組織に取り込むことによって、大王家にとって脅威であった吉備というまとまりの分断、弱体化を謀っていったものと考えられる」(岡山県津山高等学校創立百周年記念事業実行委員会百年史編纂委員会『津山高校百年史』(下巻)、1995)との、大胆な見解が提出されている。
一方、美作の久米・大庭・勝田(かつまだ)、江見の辺りを治めていた豪族達は、大友皇子(おおとものおうじ、天智大王の長男にして太政大臣)の進める中央集権化の政治に反発してであろうか、はやばや吉野方の大海人皇子(おおあまのおうじ、後の天武天皇)に加勢した。美作の豪族、地侍たちは、当時吉備の国からも圧迫を受けていた。とすれば、吉野方に加勢すれば美作の国としての旗挙げができる、いまがその潮時だと意気込んだのかもしれない。
(続く)
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