♦️204『自然と人間の歴史・世界篇』資本の本源的蓄積(イギリス)

2018-10-07 09:19:06 | Weblog

204『自然と人間の歴史・世界篇』資本の本源的蓄積(イギリス)

 資本制(資本主義的生産様式)にいたるには、マルクスによって「本源的蓄積」となづけられる前段の歴史的過程があった。それは、封建制の中で培われていった。その創造劇だが、期間でいうと、数世紀にも跨る。ここではまず、イギリスを舞台にそのことがどういう段階を遂げていったかを俯瞰したい。
 まず封建社会の経済構造の中核をなすものは農民であって、14世紀終わり頃のイギリス農村での彼らは、農奴制から最終的な離脱の時期を迎えていた。15世紀に入ると、イギリス農村人口の大多数は自由な自由農民(「独立自由農民」という)に成り代わっていた。もっとも、社会の上部構造としては封建領主の権力があり、その下に家臣団がおり、さらにその下に家臣団の数に相応の農民たちがいて、上にいる非労働階級を支えていたのである。
 労働者という階級(彼らは「プロレタリアート」とも言い慣わされる)の創出を引き起こす農村変革の序曲は、15世紀の最後の3分の1期及び16世紀の最初の20~30年にかけて起こった。一つは、15世紀の60~70年代から16世紀初めにかけて封建家臣団の中からこぼれ落ちるものたちが出てくる。これを、「封建家臣団の解体」と呼ぶ。これを促したのは、絶対権力の確立を目指す王権であった。
 二つは、羊毛マニュファクチュア(工場制手工業)の台頭により、これを営む封建貴族たちが農民の共同地を奪っていく。その背景には、フランドル地方を中心とする毛織物工業の繁栄による羊毛価格の騰貴があった。これに刺激された地主(ランドロード)たちが、王権や議会と頑強に対立して、それぞれの農地に領主と並ぶ封建的権利を有していた農民から暴力的にそれらの土地を奪い、また共同地を橫奪することにも血道をあげるのであった。後者の性格については、農民たちの養う家畜の放牧場であるとともに、彼らに燃料たる薪や泥炭などをも提供したものだ。
 この頃のイギリスに、こんな逸話が伝わる。政治家であり、また文筆家であったトーマス・モア(モーア)(1478~1535、後に王朝の高級官吏となるも、ヘンリー8世の離婚問題に端を発し、ローマ教皇側に配慮し王に従わなかった罪で死刑に処せられる)は、この模様をみて、著書の中でこう述べる。

「イギリスの羊です。以前は大変おとなしい、小食の動物だったそうですが、この頃では、なんでも途方もない大食いで、そのうえ荒々しくなったそうで、そのため人間さえもさかんに喰い殺しているとのことです」(トーマス・モア著、平井正穂訳「ユートピア」岩波文庫、1956)。

この比喩の後で、彼はこう続ける。
 「おかげで、国内いたるところの田地も家屋も都会も、みな喰い潰されて、見るもむざんな荒廃ぶりです。もし国内のどこかで非常に良質の、したがって高価な羊毛がとれるというところがありますと、代々の祖先や前任者の懐にはいっていた年収や所得では満足できず、また悠々と安楽な生活を送ることにも満足できない。
 その土地の貴族や紳士や、その上自他ともに許した聖職者である修道院長までが、国家の為になるどころか、とんでもない大きな害悪を及ぼすのもかまわないで、百姓たちの耕作地をとりあげてしまい、牧場としてすっかり囲ってしまうからです。」(同)
 こうした「牧羊囲い込み運動」は、もちろんのこと「美しくもめずらしい物語」などではなく、イギリスにおいて、16世紀になっても延々と続く。それというのも、ヘンリー7世による1489年の条例以来ほぼ150年に及ぶこ囲い込み禁止令の発布も、この動きの前では無力にされていったのだから。
 二つ目の過程は、16世紀における宗教改革からは、イギリスにおける旧教会領(土地)の相当部分が没収されていく。そこに居住していた者(いわゆる「世襲的小作人」)たちは、かかる土地から追い出され、無産労働大衆(プロレタリアート)の中に投げ出される。旧教会領は、王の寵臣や有力貴族、投機的な生活をあわせもつ借地農業者や都市ブルジョアジーの面々であった。さらに、教会の10分の1税の分配にあずかっていた貧しい農民たちも、かかる土地収奪の過程で蹴散らされ、はじき出されていった。
 こうした事態にもかかわらず、17世紀の最後の数十年間にはまだ、独立自営農民の数は、彼らに置き換わった借地農業者の数を少し上まわっていたのではないか。クロムウェルがその権力掌握に当たって最大の拠り所にしていたのは、その独立自営農民であったし、農村にみられた賃金労働者の中にも、共同地の共有者の地位を保ち続ける者も相当数いたのではないか。
 だが、こうしたイギリス農村の土地所有にみるまだら模様も、18世紀の最後の数十年間に、農村に残っていた共有地のほぼ全体が奪われていく。これに力のあったのが、名誉革命によるスチュアート王朝復興のさいの、法律による封建的な土地所有制度の廃止であった。国有地になった土地の相当部分は、ウィリアム3世と彼に従う地主や資本家たちが牛耳るものとなっていく。
 これら両者を関連づけていうならば、彼らは国有地を合法的に横領するとともに、その同じ国家権力によって、古代ゲルマン的な土地制度に淵源をもつ共同地をも没収することに成功したのである。すべからくこの過程は、一方において農民や農村部民を工業プロレタリアートとして土地から遊離するとともに、他方では資本借地農場とか商人借地農場と呼ばれる大借地農場を展開させるのである、

(続く)

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