新243◻️『岡山の今昔』倉敷(玉島・船穂エリア)

2021-06-27 21:17:19 | Weblog
新243◻️『岡山の今昔』倉敷(玉島・船穂エリア)

 その昔、玉島・船穂エリアの辺りの大方は、浅海であったろう。景観よろしく、かつて瀬戸内海に点在する小さな島々であったことが、各種史料などから読み取れよう。
 それが、江戸時代になると、備中松山藩が新田開発を繁く行う。ちなみに、このエリアには、干拓工事成功を祈願した羽黒神社がある。具体的には、この地に入った水谷氏(水谷勝隆、勝宗)の治世において、主なものだけでも合わせて約700町歩もの新田開発がなされた(詳しくは、森脇正之「玉島風土記」岡山文庫169、日本文教出版、1988)。


 ところで、元々この地は、海運の便利もあって、江戸時代、玉島は備中松山藩の港町として、千石クラスの船が出入りし活況を呈していた。特に元禄時代には北前船と高瀬舟の水運により、玉島は港町として大いに栄える。


 前述の羽黒神社の西側には、かつて問屋街として栄えた新町がある。かくて、瀬戸内海の浅瀬に面して、潮止堤防の上に築かれたこの町は、江戸時代の初期、この堤防上に西日本有数の港の賑わいを見せていたという。

 そんな玉島港も、元禄年間を最盛期として、衰退へ向かっていく。1702年(元禄15年)以後、天領の阿賀崎新田村の新町、備中松山藩の玉島港町、丹波亀山藩領の玉島村町分と三分割されてしまう。備中産綿花の品質にも陰りが出てくる。19世紀に入ると、西の浦、寄島の港も開かれ、綿花などの取り扱いの一部を奪われていく。

 それからはや300年余り、今では閑散ながらも、虫籠窓や格子、漆喰窓やなまこ壁を持つ本瓦葺きの商家や土蔵が数多く残されて、往時を偲ばせている。


 現在は、玉島ハーバーアイランドが建設されており、国際物流の重要拠点として整備されつつある。

 この近く、かつては酒造、醸造などの伝統の地場産業の場所柄であったところを、国際物流の重要拠点として、玉島港の沖合に造られた、その願いを込めて、総面積約245ヘクタールを誇る人口島だ。
 その後、水島国際コンテナターミナルが設けられ、ガントリークーレンが2基活躍する。また、特定重要港湾にも指定され、国際海上輸送網の拠点としても有望株だという。

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 一方、船穂地区は、これまた、昔は海辺、もしくはその浅瀬に、多くの部分があった。それから幾歳月、この地域は、21世紀に入っての大合併の際に、倉敷市へ編入合併した。合併前の船穂町時代の大字には「船穂」それに「水江」と、水辺を思わせる地名が付いている。関連して、この辺りは元々、運河として賑わっていた地域で、現在でも水位を調整するための一ノ口水門、二ノ水門といった水門が、残る。
 近年になり、陸路による運送が発達していることで、人流も様変わりし、以降は果物の栽培などの農業で賑わうようになっている。

 通常の景色としては、丘陵の斜面にたくさんのビニールハウスが目に映る。明治時代の途中からは、ブドウが有名だ。全国の先駆けの一つでもある。最近では、スイートピーの生産でも、岡山県はスイートピーの出荷生産量全国第3位である。これには、船穂地区の生産量は県下の8割を占めて日中は温暖で、朝晩の温度差が預かって、大きい。

(続く)


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