♦170の3『自然と人間の歴史・世界篇』百年戦争(1339~1453でのジャンヌ・ダルク)

2018-12-17 09:52:53 | Weblog

170の3『自然と人間の歴史・世界篇』百年戦争(1339~1453でのジャンヌ・ダルク) 

 もう一度、この間を振り返ろう。ブルゴーニュ派は、ここで策を巡らすにいたる。なんと、敵である筈のイギリスと結び、シャルル6世を担いでその娘とヘンリ5世と結婚させ、その間に生まれたヘンリ6世が1422年に英仏両国の王として即位するにいたる。これに対し、オルレアン・アルマニャック派はシャルル6世の子のシャルル王太子をシャルル7世として即位させて対抗し、フランス王位はここに分裂の時を迎える。

 この祖国のフランスの「危機」の場でに、救世主であるかのように出てくるのがジャンヌ・ダルクその人である。フランスには国民的統合の気運が高まり、彼女自身は国民の愛国心の象徴になっていく。1428年、イギリス軍がオルレアン・アルマニャック派と合流して、シャルル7世の拠点オルレアンに対する総攻撃を始める。イギリスにとって、敵の敵は味方ということであったろうか。

 そのことで、フランスのシャルル7世は包囲されるという危機に陥った。これを「オルレアンの戦い」といい、この時、彼女は17歳であった。1429年3月に、彼女はシノン城に向かい、シャルル7世にあって自分が神託により戦うことを命じられたという。自分の使命を明かし、フランスの窮地を救うのだという。

 そして、いよいよその時が始まる。ジャンヌは敵軍に包囲されたオルレアンの糧食補給隊約15名の隊長に任命され、4月末には味方への食糧搬入に成功する。そのかいあってか、フランス軍が反撃に転じ、イギリス軍はいったん撤退する。

 次いでの1430年5月、コンピエーニュに入った時の任務だが、300~400名を指揮する騎士隊長に昇格しており、「そのうち百名は騎士で、68名が弓兵ないし弩手(どしゅ)で、2名がラッパである」(近山金次「西洋史概説1」慶応義塾大学通信教育教材、1972)という。

 その活躍たるや、すさまじいとされるまでになっていた。オルレアンを解放、シャルル7世もフランスで戴冠式を行った。ついでジャンヌ・ダルクが加わってのフランス軍は、パリ攻略に向かう。

 その後のジャンヌについては、五月末のコンピエーニュでブルゴーニュ派と戦ってその兵士に捕らえられ、イギリス軍に引き渡される。つまりは、売り渡された。そして、1431年1月9日~3月26日での宗教裁判にかけられて、「魔女」の判決を受け、火あぶりの刑に処せられる。

 その時の調書においては、彼女は助かろうとは思っていなかったようだ。その一部には、こう記されている。

 「お前は旗と剣とどちらが大事か」(前掲書、以下この部分は同じ)

 「剣より旗の方がどんなにか、40倍も大事です。・・・・・人殺しをしないために、敵に立ち向かうときは私は自分で旗をもちました。だから私は誰も殺したことがありません。」 

 「お前の最終目的は何か」

 「声が私に命じます。何でもすすんでやれ、殉教にもしりごみしてはいけない。やがて天国に行くのです」

 ここに同時にあるのは、「偽らざること岩の如し」の感を覚えさせる、英雄的にふるまう、堅固な女性キリスト教者の姿であったろう。

 その後も戦いは続くのだが、シャルル7世は1435年にはブルゴーニュ派とアラスの和約で講和し、それによってブルゴーニュ派とイギリスの同盟は破棄され百年戦争終結の前提となった。フランスは一致して反撃に転じ、1436年にはリシュモン元帥率いるフランス軍がパリに入城、1450年にはノルマンディを奪回し、1453年にはイギリス領のギエンヌ地方の中心地ボルドーを占領した。これによってカレーを除いてほぼフランス王国内のイギリス王領はカレーを残して消滅することで、百年戦争は終結の時を迎える。
 この時を境に、現在のイギリスとフランスとの国境線がほぼ定まり、それぞれの国民という概念がよりはっきりしてくるのであったろう。

(続く)


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