○○356『自然と人間の歴史・日本篇』復金融資の顛末

2018-09-27 08:12:53 | Weblog

356『自然と人間の歴史・日本篇』復金融資の顛末

 そこで、これについては、ドッジGHQ経済顧問が、価格差補給金と復金融資という竹馬の2本足切りを日本国へ勧告したからたまらない。この勧告に政府は従わざるをえなかったから、同公庫は1952年(昭和27年)1月には解散を余儀なくされていく。ちなみに、1949年(昭和24年)3月末で測った全ての金融機関の設備投資残高と、それに占める復興金融公庫の融資比率を見ると、つぎのような高率となっていた。

 石炭は338億7700万円のうち334億2400万円で98.1%、鉄鋼は28億2100万円のうち20億7100万円で73.4%、肥料は71億1300万円のうち45億5500万円で64.0%、電力は205億8000万円のうち191億2500万円で92.9%、海運は155億6900万円のうち130億7900万円で84.0%、繊維110億8800万円のうち49億7500万円で44.9%の計910億4800万円のうち772億2900万円で84.5%。以上の融資総計は1273億8000万円のうち943億4100万円で74.1%となっていた(出所は、宮下武平「財閥の再建」及び御園生等「日本の独占」至誠堂、1958より)。
 もっともこれは全額ではなく、設備投資資金以外も入れると、1949年3月の復興金融公庫の資金融資打ち切り時の融資残高は1319億円にものぼっていた。実にここまでやるか、の感想を拭えない。そのからくりについて、復興金融公庫はせっせと復金債権を発行し、日本銀行はこれをどんどん買い入れる。融資された企業はどんどん投資し、生産し、それをどんどん売ってもうけを殖やしてきた訳だ。しかも見過ごすことができないのは、このころから政界と官界と財界の癒着が本格化したことにある。室伏哲郎氏の著書に、こうある。
 「この復金融資を牛耳っていたのは、政治家と高級官僚だった。復金の最下部には事務局審査部があり、その上に復金役員会がある。だが、役員会をパスした融資申し込みも、さらに大蔵省銀行局長(事件当初は福田赳夫)を議長とする復金幹事会、およびその上の大臣クラスの委員会を通過しなければならなかった。一見民主的にお膳立てされた組織だが、じつは5000万円以上の「政治融資」には蔵相を委員長とする委員会の決定が必要で、その実質的な決定権は、その下の高級官僚で固めた幹事会にあり、ここが当然ながら、暗い取引の場となったのだった。49年3月までの復金融資残高は1319億円だが、その融資総額の80%以上はこの5000万円以上の大口だったのである。」(室伏哲郎「腐職の構造」岩波新書、1981」より)

(続く)

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