□111『岡山の今昔』水島工業地帯(石油化学コンビナート、公害)

2019-02-26 19:05:35 | Weblog

111『岡山(美作・備前・備中)の今昔』水島工業地帯(石油化学コンビナート、公害)

   1964年には、水島を中心とした岡山県南地区は、国の産産業都市の指定を受けた。そうした中、同年6月から試験操業を始めた化成水島の煙突から炎が上がる。それからは、関係各社の工場の煙突が増えていく。昼も夜も炎と白煙がのぼり、煙が天高くたなびく風景となる。それに応じて、生産活動がどんどん伸びていく。そして迎えた1974年(昭和49年)12月18日、三菱石油水島製油所で重油流出事故が起きた。水島港に流出した重油は、港を油びだしにしていく。

 その流出元は、そこで三菱石油の原油を備蓄していた屋外タンク(高さ24メートル、直径52メートル)なのだが、その中にそれぞれ約容量5万キロリットルの重油を備蓄していたらしい。

 ところが、同月18日にこの中の一つの底部が裂け、重油が噴出した。この勢いでタンクの直立階段が飛ばされてしまう。防油堤もあったらしいが、これも破壊されてしまう。それからはもう遮るものとてなく、かかる重油は水島港へと流出していった。

 この原油流出は、直ぐには止まらなかったことから、瀬戸内海東部一帯のかなり広い海洋を汚染した。瀬戸内海に流れ出た重油の量は、ざっと見積もって1万7000キロリットル位もあったのではないか、と推測されている。海に流れ込むと大変なことになると、集まった消防隊員が必死で土のう積みをしたのも、タンクから流れ出たのがドラム缶で約21万5000本分、約4万2888キロリットルだったとも言われるので、大して効き目はなかったのではないか。
 かかる重油の除去作業については、それからもまだ続きがあった。そんなこともあろうかと、万一にそなえて設置されていたオイルフェンスは、冬の強風と引潮で押し寄せて来る油の波頭を堰き止めることができずに、軽々と越えてゆかれるのを許した。ために、重油は海流に乗って香川県坂出市から高松市、さらには鳴門海峡までの西へと広がっていった。重油汚染の拡大を止めようとする作業には、沿岸の瀬戸内海一帯の漁師が総出で回収作業で参加した。

 しかしながら、人手で船の上から吸着マットで吸い取ったり、ひしゃくで油をすくうのでは、大変な手間がかかる。それからも妙案が浮かばないままに、当該の作業は、厳戒態勢の中で結局、翌年の10月まで続けられるのであった。その間、大きな被害を受けたのは、のりやはまちを始とする瀬戸内海沿岸に展開していた養殖漁業の数々であった。

 これらを中心に、漁業への被害額は、後の補償費に直して約536億円にもふくれあがった。将に、「今や臨海における重化学工業都市の功罪が資本主義のそれと共に問われ始めている」(藤岡謙二郎「五訂・人文地理学」第二改訂版、大明堂、1988)とも言われる大事態を現出したのであった。この事故の後の1975年(昭和50年)には、石油コンビナート等災害防止法が制定され、その中で石油タンクの周りに油が流れ出すのを防ぐ堤(つつみ)を設けることが義務付けられた。

(続く)

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